仏教 こころの言葉

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●今月の言葉(2020年1月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文5


【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類 本文4
 (第十八願の)本願成就の文、大無量寿経下に次のように説かれている。
「すべての衆生は名号のいわれを聞いて信心歓喜するまさにそのとき、浄土往生を願う衆生は如来の回向により、その願いを成就され不退転のくらいに至るのである。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」
◎『無量寿如来会 下』にも説かれている。「他の諸仏の国にある衆生も含めてすべての国の生あるものは、無量寿如来の名号のいわれを聞いた、その瞬間に浄らかな信を回向せしめられて歓喜愛楽し、無量寿国に往生したいと願えば、その願いに随って、みな往生し、不退転のくらいとなって無上のさとりを開くことができる。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」

 【読下し古文】
 (ほん)(がん)(じょう)(じゅ)(もん)、『(きょう)』((だい)(きょう)())にのたまはく、「あらゆる(しゅ)(じょう)、その(みょう)(ごう)()きて(しん)(じん)(かん)()せんこと、(ない)()(いち)(ねん)せん。()(しん)()(こう)したまへり。かの(くに)(しょう)ぜんと(がん)ぜば、すなはち(おう)(じょう)()()退(たい)(てん)(じゅう)せん。ただ()(ぎゃく)誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば(のぞ)く」と。(以上)

  『無暈(むりょう)寿(じゅ)如来会(にょらいえ)』(())にのたまはく、菩提流(ぼだいる)()(やく) 「他方(たほう)(ぶっ)(こく)所有(しょう)()(じょう)()(りょう)寿(じゅ)(にょ)(らい)(みょう)(ごう)()きてよく(いち)(ねん)(じょう)(しん)(おこ)して(かん)()せしめ、(しょ)()(ぜん)(ごん)()(こう)したまへるを(あい)(ぎょう)して()(りょう)寿(じゅ)(こく)(しょう)ぜんと(がん)ぜば、(がん)(したが)ひてみな(うま)れ、()退(たい)(てん)(ない)()()(じょう)(しょう)(とう)()(だい)()んと。()()(けん)(しょう)(ぼう)()(ほう)し、および(しょう)(じゃ)(そし)らんをば(のぞ)く」と。(以上)

【HP作成者感想】
◎ 親鸞聖人の大無量寿経「第十八願成就文」の読み方から

 今月は、劈頭にも書きましたように、もう少し、本願成就文を味あわせていただきたいと思い、先に進まずに、親鸞浄土教における成就文の在りよう探ってみたいと思います。まず第十八の本願成就文です。教行信証も、元は漢文ですから、まず漢文で表してみます。
① 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心迴向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法
これを親鸞聖人は訓読で上記【読下し古文】のように読まれます。再記しますと
② あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん、至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。唯(ただ)五逆と誹謗正法とをば除くと。
 ところが、上記①の漢文の読み方について、法然以前は、
③ あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜し、乃至一念、至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。唯(ただ)、五逆と誹謗正法とをば除くと。どうやら、この③の読み方が、漢文として無理のない通常の読み方だといえます。
 ここで、②と③の読み方の大きな違いは、③の法然上人以前の読み方(通常の読み方)が「至心に回向して」と至心に回向するのは、衆生の側であるのに対して
② 「至心に回向せしめたまへり」という親鸞聖人の読み方は「至心に回向するのは如来の側」、すなわち「如来の働き」として回向の意味を受取っていることにならいます。
 このように、法然上人までの、第十八の本願成就文についての通常の読み方(衆生が回向する読み方)に対して、親鸞聖人は、②において回向を如来の働きとして読まれています。これは、漢文の訓読の自由度は大きいとしても、回向の主体を逆転した読み方で、通常の読み方から、いささか、かけ離れた独特の読み方です。なぜここまでして、このような読み方をしなければならなかったのでしょうか。そして、この③と②の場合のように、回向の主体を衆生から如来に変えた読み方は、ここだけではありません。ほかにも沢山あります。たとえば、『無量寿如来会』の第十八願成就文でも
 通常の読み下し文では「他方仏国のあらゆる衆生、無量寿如来の名号を聞きて乃至よく一念の浄信を発し、歓喜愛楽(かんぎあいぎょう)して、あらゆる善根を回向し、無量寿国に生ぜんと願ぜば、・・・・」と歓喜も愛楽も、はじめから衆生の側のはたらきとして読まれているところを、
親鸞聖人は同じ部分を「他方仏国のあらゆる衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信発して歓喜せしめ、あらゆる善根を回向したまえるをして愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば ・・・・」と、歓喜と善根迴向の部分を如来のはたらきとして読んでおられます。
 また、善導の『観経疏』において
 通常の読下し文では「かならず須(すべか)らく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。」と衆生の側で須(すべか)らく真実心のうちになすことになっているところを明かさんと・・・・」となっているところを
親鸞聖人は「かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲す。」と真実心のうちになしうるのは如来の働きであって、衆生はそれを須(もち)ゐんことを明かさんと・・・・と読まれています。
 このほかにも、この現在読み進めている信巻だけでも、漢文で表されている経・論・釈で、普通に読めば衆生のはたらき(回向など))を、如来の他力迴向として読み替えておられるところが、枚挙をいとわず数多く見られます。これはどういう風に受け取ればいいのでしょうか。親鸞聖人のこのような全てを如来の本願力とする読み方を何等の原因もなく、単なる思いつきで読み替えておられるとは思えません。
 かくまでも、徹底的に、経・論・釈に至るまで、通常の読み方を、如来の他力回向の形に読み替えるということは、やはり、ここに親鸞聖人の真実の信心の在り方についての深刻な求道の経緯があったことは明らかです。
 そして、ここで、非難を怖れずに言えば、それは、六角堂での聖徳太子の示現を経て、法然上人の膝下に馳せ参じた親鸞聖人であり、和讃にも、「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」とまで表現されている法然上人の教えでありますが、入門から、自己の流罪にいたる期間の短さからか、法然上人の教えを充分に掴み切れなかった思いはあったのではないでしょうか。法然上人が念仏為本の浄土宗を開く端緒となったのは、私見では大きく三つあると思います。
◎法然と親鸞
(1) 法然聖人の強烈な大乗精神の発露として、いかなる人々も、根源的な宗教的救いの世界に入れるようにしたい。すなわち、富める人々、強烈な修業ができる人々にはできるが、日々の生活に追われて、宗教的生活を送るためのお金なく、時間なく、修行の力もなく、仏の世界を思い描く(観仏)時間もないそのような衆生、すなわち富める人々、修行のできる人々は根源的な宗教的救いの世界にはいれるが、このような、かろうじて生きるために日々の糧を得るために宗教的生活とは無縁に過ごさねばならない人々の救われる道はないのかと模索した。それが、いつでも、どこでも、だれでもが、口で称えるだけで絶対的な宗教的救いにあずかれる念仏為本の宗教であると。
(2) 叡山のみならず、奈良仏教、真言の高僧等、多くの高僧に尋ね、比叡山の経蔵の一切経を5回も読み返し求めたけれども得られなかった答えを、中国の善導大師の『観経疏』の「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の言葉によって、それまでに求め続けた(1)のような宗教的求道に対する心眼が開かれた。
(3) 当然、法然の浄土教に対して、旧仏教からの批判は激しかったが、法然はその批判に対して、念仏為本の教えの根拠を大無量寿経の四十八願、特にその第十八願(念仏往生の願)置いて、これを絶対的な経典のことばとして、諸宗の批判に対処した。そこには、「彼の仏の願に順ずるが故に」という善導のことばがあった。
 以上、鎌倉時代に革命的新仏教の草創に生涯をかけた法然の教えであったが、その膝下で数年を過ごした親鸞が法然の教えから一歩も出ずに生涯を過ごし得たかどうかという事については親鸞の生涯の宗教活動、特に、その著である教行信証を被閲すればわかるように思うのです。すなわち、所依の経典である大無量寿経の読み方を自力的な表現から他力の表現へと読み替えていることです。つまり上記に既に記しいるとおりです。これは親鸞が曇鸞の他力の思想に大きな影響を受けている結果であると一般的にいわれていますが、それでは、何故、他力迴向の思想をはっきりと前面に出して、宗教活動を行なったか、これは単に曇鸞の他力思想に影響を受けたという表面的なところにとどまらず、ここには親鸞の深刻な思想の遍歴があったということではないでしょうか。すなわち、ここでも非難を怖れずに、はっきりといえば、法然の経典絶対主義ともいえる大無量寿経理解に全面的に没入することができなかったのではないか。もっといえば、経典は、伝統的な読み方の理解だけで、それが経典であるという理由のみで、そのまま、有無をいわさず、その記述を信ぜよということに、親鸞の宗教的霊性が没入できなかったのではないか。もっと簡単に言えば、お経の文言を、そのまま親鸞の霊性として受入れ、信じることができなかったのではないかということです。
◎ 「他力本願」としての親鸞浄土教
 ここにいたって親鸞は、曇鸞の弥陀の他力迴向論に没入していきます。このことは、親鸞が自らの在りようが決して自らのものではなく、永劫の過去からの縁起によって、今、ここにこうして在る。自らをここに、こうして在らしめた根源のはたらき、自らの真実の親としてのはたらきとして、経典ではなく、生身の親鸞自身の経験則として弥陀の他力回向への開眼であったと思うのです。これは、自らのありようのみではなく、この世界のありようもすべて弥陀の回向として親鸞には受けとられたのではないでしょうか。親鸞が、かくも経典の言葉を逐一他力迴向の形で読み替え、読み切っていること、これは親鸞にとって「他力回向」ということは、もはや経典に説かれている事柄を超えて、事実として、そのこころに迫ってきたからではないでしょうか。ここに親鸞浄土教が「他力本願」の宗教であること、親鸞教の真髄は、まさに「他力にある」ということではないでしょうか。
◎ さて「本願成就文」にまつわる想いの遍歴は上記のみにとどまらず、さらに二点を加えたいと思います。
(1) 第十九願対象者はなぜ邪定聚なのか
 ① 邪定聚とは『倶舎論』によれば「さとることのない衆生。五無間業をなす衆生。これは最悪の行為で命終後、直ちに必ず無間地獄に堕ちる。」 
 五無間業をなす衆生とは五逆・謗法の徒ということになります。
 ② ところが親鸞浄土教において邪定聚とは「自ら行じた、もろもろの善根によって往生しようとする人々(第十九願の機)。万行万善自力の往生を願う者。」
 ということになります。
  普通に考えて、この二つの邪定聚観を見ますと随分表現が違います。倶舎論の邪定聚が、箸にも棒にもかからぬ五逆謗法の徒であることに対して、親鸞浄土教の邪定聚は、上の②にみられるように、自力とはいえ、もろもろの善根を積んで往生しようとする人々です。世間的に言えば、ある意味では殊勝な面もあるのですが、なぜ邪定聚なのでしょうか。倶舎論の五逆謗法ともいえる邪定聚とは随分違う様に思います。
 私(HP作成者)の私見になりますが、①と②の両者は、やはり同じと見なすべきだと思います。何故なら、②は世間的な眼で見れば雑行雑修の行によってでも往生を得ようとする、一見殊勝な行者のように思いますが、万行、万善、自力の往生を願うということは、ある意味で、如来よりも先に、自らを絶対とする行者であって、これは、親鸞浄土教としてみれば、如来の絶対を疑い、信心以外の雑行に依ろうとする、いわば信心とは無縁の本願力を疑い、信じ切れない衆生ということになります。これは、まさに謗法の徒というしかないのではないでしょうか。とすると、②における第十九願の機というのは①における無間地獄に堕ちる邪定聚ということになるのではないでしょうか。親鸞聖人も、そこを、ちゃんと見抜かれて「第十九願の機」を「邪定聚」とされたのではないでしょうか。
 その後、考えたこと   以上のような倶舎論の邪定聚と、第十九願の邪定聚を一致を書きましたが、その後、このような一致の仕方は親鸞浄土教の真の見方ではないということに気が付きました。それは、『仏性』ということです。すなわち、すべての衆生に『仏性』の種(たね)は与えられている。ということです。
すなわち、親鸞聖人は『唯信抄文意』において、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり」。 つまり、全ての衆生に『仏性』の種(たね)は与えられているということです。なぜなら、「この如来、微塵世界にみちみてたまへり、すなはち一切群生海の心なりというわけですから。しかし、親鸞聖人はこのままで一切の衆生に『仏性』そのものは与えられているとはいっておられません。なぜなら、『唯信抄』、その次の文章、「この心に誓願の信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」 と説いておられます。これは、次のように拝読すればいいでしょう。「この心に誓願の信楽ありて、この信心すなはち仏性なり」。すなわち、この「仏性の種」に誓願の信楽という尊い仏縁をいただいてはじめて、その信心こそ『仏性』といえるのではないでしょうか。われわれ衆生に仏性の種は、有難いことにいただいているでしょう。「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち、一切群生の心なり」ですから。これは、当然そうでしょう。いまここにこうして私たちは存在しているのですから、永劫の過去より無数の因と果によって、ここに、このように、こうしているという不思議だけで、微塵世界に満ちみちておられる如来の心の種をいただいていることになります。しかし、これはあくまでも種(たね)であって、親鸞聖人は、そこに「誓願の信楽」という信心があって、はじめて、「この信心すなはち『仏性』なり」といっておられるものと私は受取りました。
 ところで、倶舎論の邪定聚と第十九願の機である邪定聚との一致です。これは、もはやお分かりいただけると思いますが、倶舎論の無間地獄必定の、はしにも棒にもかからないという邪定聚にも衆生である限り、『仏性』の種は有るはずです。勿論、第十九願の機(人々)にもあるはずです。さすれば、倶舎論の邪定聚も、第十九願の機(人々)である邪定聚にも『仏性』の種は有るのですから、どちらも回心して他力回向の第十八願の機(人々)になれる点で、、まったく一緒です。いわば、この解釈では、倶舎論の邪定聚を、第十九願の邪定聚に近づけて、往生浄土への道が開かれるということになるのではないでしょうか。
それに対して、それまでの私の解釈は第十九願の機(人々)の自力雑行雑修という欠点をもって、倶舎論の五無間業の邪定聚に近づけ、両方の機の往生浄土を遠ざけている解釈であったと反省するところです。みなさまご検証を乞うために、両方の試釈を掲載しました。
(2) 現生正定聚の世界には、現生であるが故に、邪定聚も不定聚もいるのではないか。 
 親鸞聖人は信心の定まった念仏者は現生において正定の聚になるといわれました。そうすると当然のことながら正定聚の人が生きているこの娑婆には、邪聚聚も不定聚もいるわけです。
 一方、第十一願成就文、すなわち必至滅度の願成就文を見ますと、「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。」 となっています。ここで「それ衆生ありて、かの国に生るるもの」の「かの国」とは、勿論「浄土」を指すわけですから、現生の娑婆ではありません。つまり、『大無量寿経』の第十一願成就文での正定聚は浄土に居るのです。そこには邪定聚、不定聚はいない、そこにいるのは正定聚のみというのが第十一願成就文の説くところです。ところが親鸞聖人は「現生正定聚」を説かれました。正定聚は現生において居るわけですから、その現生には邪定聚も、不定聚もいるわけです。
 もともと、大無量寿経では、正定聚は、衆生が往生した浄土に居ることになっているわけですから、第十一願成就文が説くように、そこには邪定聚、不定聚はいません。 そもそも、大無量寿経では、㋐至心信楽、欲生我国、乃至十念の信心の念仏衆生が浄土に往生して正定聚になるのです。そして、清らかな浄土に往生して煩悩に煩わされずに修業し仏になるのが、大無量寿経の筋書きだろうと思います。しかし、親鸞聖人は㋑「信心定まるとき、往生また定まるなり」として、その人は現生において正定聚不退のくらいに住すとされました。この㋐と㋑の関係をどうとらえるべきでしょうか。㋐の正定聚は浄土にいるわけで現生の娑婆にはいません。また、他方㋑の正定聚は現生正定聚ですから、現生の娑婆に居て、浄土にはいません。この矛盾はどう受取ればいいのでしょうか。この段階での、ひとつの解釈として、正定聚は現生であるけれども、現生に在りながら、こころは既に浄土に居すということなのでしょうか。しかし、本願寺出版社発行の註釈版『浄土真宗聖典信巻264頁』の【103】、および、真宗大谷派宗務所発行の『真宗聖典信巻250頁』のはじめに、親鸞聖人は、ご自身の言葉として「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を究むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を究むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と述べておられらます。これによれば、現生正定聚の位にある念仏の衆生は、臨終の一瞬、すなわちいのち終わった瞬間に無上覚位、すなわち正覚の仏となることを、はっきりと述べておられます。となると、現世において既に正定聚となった人の周囲には、自力の雑行に励む邪定聚の人や、自力の念仏からまだ抜けきれない不定聚の人がいることになります。これは、まさに親鸞聖人の現生正定聚の宗教が、大無量寿経の世界を超えたことになります。すなわち、はっきり言えば、あくまでも法然上人を讃仰してやまない親鸞聖人の宗教が、法然上人の宗教を、自然の内に超えたことになります。なんとこれは、言葉では言い尽くせない凄いことというほかはありません。しかも、これは、親鸞聖人が、自己が今、ここに、こうして在ることが永劫の過去からの縁起にもとづくもの、真実の親である南無阿弥陀仏の他力回向のはたらきによるものであるとする、世を超えた他力回向の宗教的開眼による結果というほかはありません。 親鸞は現生において正定聚不退のくらいいただいたのであって、やがていのち終わって往く浄土には邪定聚も、不定聚も、そして正定聚もいません。そこは正覚の仏のみの世界なのです。

今月は以上で終ります。

●今月の言葉(2020年2月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文6

【現代語訳】
(1) また説かれている(大無量寿経・下)
 仏法を見聞して、よくこころに留め、敬い、教えを受けた身を喜ぶ者は、すなわち私(釈迦)の親友である。だから信心をおこすがよい。
(2) また説かれている(無量寿如来会・下)
 このような信心深い人々は仏の勝れた功徳を与えられた人々であり、広大な仏法の中でも特に優れた法門(❶ほうもん)の人々である。
(3) また云われている。
 阿弥陀如来の功徳は仏(釈尊)ご自身のみがよく心得ておられる。従って釈尊だけがそれを説き示すことができるのであり、()・竜・夜叉などの鬼神でさえも遠く及ぶところではない。 ましてや自己の完成のみにとどまって皆共に仏の覚りの世界に進もうとしない声聞・縁覚など二乗()の修行者は言葉も出ず黙り込んでしまうほどである。また、多くの衆生が普賢菩薩()を超えるような修行の結果、 浄土に往生し仏となって、その上で阿弥陀如来の功徳を広く説き述べようとしたところあまりにも多くの時間を要して、その途中で生涯を閉じるようなことがあっても、なお阿弥陀如来の功徳を説き尽くすことができないのである。 だから本願の信に恵まれ、そのいわれを聞き開くことができ、釈尊や高僧がたの導きを得て、このような深妙の仏法を聞くことができれば、まさにもろもろの諸仏は深く喜び、讃えてくださるのだ阿弥陀如来の勝れた智慧、 如来が説かれる真実のことばは全宇宙の隅々にまでいきわたり、教えの内容は弥陀・釈迦二尊のみが悟られているものである。この故に、広く私の説くところを聞いて、あるがままなる法を信じるがよい。 人の身に生まれることは、はなはだ難く、釈尊のような仏が世に出られれるのに遇うこともまた難しい。今ようやく信心の智慧に遇わせていただくことが出来る。だから、仏道にいそしむ者は今こそ精進すべきである。こ のような妙法()を已(すで)に聞くことが出来たなら、諸仏はこころから喜ばれるのである。
〘語釈〙
❶法門:仏の教え
❷天・竜・夜叉:仏教では天の神(梵天、帝釈天)・海の神(竜神)・夜叉(魔力を具えた魔物)は全て阿弥陀仏に仕える存在。絶対者ではない。
❸二乗:声聞や縁覚など、自らの身悟ることのみに満足し、大乗的に他と共に救済されようとする気の無い聖者。
❹普賢菩薩:慈悲の菩薩。釈尊の脇に仕える菩薩。
❺妙法:真実の仏法。

 【読下し古文】
(1) またのたまはく((だい)(きょう)())、「(ほう)()きてよく(わす)れず、(三八み)(うやま)()(おお)きに(よろこ)ばば、すなわちわが善き親友()(しんう)なり。なり。このゆゑにまさに(こころ)(おこ)すべし」と。(以上)
(2) またのたまはく(如来会(にょらいえ)())、「かくのごときらの(るい)大威徳(三九だいいとく)のひとなり。よく広大(四〇こうだい)仏法(ぶっぽう)異門(いもん)(しょう)ぜん」と。(以上)
(3) またのたまはく((どう)())、「(にょ)(らい)()(どく)(ぶつ)のみみづから()ろしめせり。ただ()(そん)ましましてよく(かい)()したまふ。(四一てん)(りゅう)()(しゃ)(およ)ばざるところなり。二乗(にじょう)おのづから(みょう)(ごん)()つ。もし、もろもろの有情(うじょう)()まさに作仏(さぶつ)()して、え、彼岸()って、()敷演(ふえん)()せん。多劫(たこう)()思義逾(こ)えん。この(ちゅうげん)において滅度()(めつど)すとも、勝慧(しょうえ)()はよく(はか)ることなけんこのゆゑに(しん)(もん)およびもろもろの(四三ぜん)()(しょう)(じゅ)()(そく)して、かくのごときの(じん)(みょう)(ほう)()くことを()ば、まさにもろもろの(しょう)(そん)(じゅう)(あい)らるることを()べし。(四四にょ)(らい)(しょう)()(四五へん)()(くう)(しょ)(せつ)()(ごん)は、ただ(ぶつ)のみ(さと)りたまへり。このゆゑに(ひろ)諸智土(四六しょちど)()きて、わが(きょう)如実(にょじつ)(ごん)(しん)ずべし。(四七にん)(しゅ)(しん)()ることはなはだ(かた)し。(にょ)(らい)(しゅっ)()()ふことまた(かた)し。(四八しん)()(おお)(とき)まさにいまし()ん。このゆゑに(しゅ)せんもの(しょう)(じん)すべし。かくのごときの(みょう)(ほう)すでに(ちょう)(もん)せば、つねに(しょ)(ぶつ)をして(よろこ)びを(しょう)ぜしめたてまつるなり」と。(抄出)

〘語釈〙
➏親友(しんう):現代語で親友(しんゆう)のこと。釈尊が衆生の立場に立って、 共に阿弥陀仏のさとりを学ぼうとする姿を表す。
❼有情:衆生のこと。
❽作仏して:仏に成って。
❾彼岸:浄土。これに対して此岸はこの世。
❿一仏:阿弥陀仏のこと。
⓫敷演:説き述べる
⓬多劫:無限の時間。
⓭滅度:この場合は身が亡くなる事、すなわち死滅すること。
⓮勝慧:すぐれた徳


【HP作成者感想】 以下、『大無量寿経』を『無量寿経』、『無量寿如来会』を『如来会』として記述します。
 『無量寿経』と『如来会』の本願成就文の次は信心の行者に対する釈尊の励ましの二つのことばです。
(1)は『無量寿経の中の全部で三行ほどの釈尊のことばです。この中で、わたしの「法を聞きてよく忘れず、見て敬い、得て大きに慶ばば、すなわちわが善き親友()(しんう)なり。」の部分、注目されるのは、「わが善き親友なり」という部分です。釈尊は仏教の創始者であり、現実の歴史上で生きて已(すで)に仏であったと皆が認める存在です。その釈尊が信心の衆生に向かって「わが善き親友なり」といわれる、この釈尊のありようは我々の側にたっておられる釈尊です。大無量寿経における釈尊の有りようは、まさにこの有りようです。仏でありながら、私たちの側に立ち、共に絶対の一仏、阿弥陀如来へと、私たちを導く存在です。大無量寿経ができたのは歴史上の釈尊の入滅から少なくとも500年後と考えれば、象徴的な話になりますが、大無量寿経の世界では釈尊はある時はそのさとりの内容である阿弥陀仏であり、また、ある時は我々の側に立つ正定聚として、浄土とこの世を自在に行き来する存在であり、何よりも、我々から離れた存在ではなく、我々と一体となって、いのち終わって浄土に往生した我々を弥陀(大いなるいのち)との一体へと導く存在であることを強く知らしめるものです。
(2)も(1)と同じ部分の三行ほどの『如来会』からの引文です。この引文で注目されるのは「広大仏法の異門に生ぜん」の部分です。ここで『如来会』が表す「異門」とは単に「特殊な」とか「勝れた」といった一般的で曖昧な表現ではなく「異門」すなわち「異なった法門」の意味が含まれねばなりません。すなわち釈尊が表された八万四千の広大な法門の中での他の並の法門とは異なって際立った法門、そしてその法門の勝れた仏土、すなわち「極楽浄土」を表すのでなければなりません。このような特異な、際立って勝れた仏土である「阿弥陀仏の浄土」に往生することを「広大仏法の異門に生ぜん」と受取るべきでしょう。
(3) その次の(3)でも、注目して読むべき所があります。まず、「(にょ)(らい)()(どく)(ぶつ)のみ、みづから()ろしめせり。ただ()(そん)ましましてよく(かい)( )したまふ。」というところです。ここで、まず「如来の功徳」とは「阿弥陀如来の功徳」 ということでしょう。すなわち「真実」を体としてこの世に顕れたもうた阿弥陀如来の功徳です。その功徳は「仏自ら知ろしめせり」すなわち「阿弥陀仏自らがよく知っておられる」ということでしょう。そして、また、 阿弥陀如来をさとりの本体とされる釈尊自身も、阿弥陀如来と一体であるわけで、如来の功徳は当然知っておられる訳ですから、私たち衆生によく説き示してくださるのです。すなわち、ここでいう「如来」とは「阿弥陀如来」、 「仏」とは、自らということばもありますから阿弥陀仏ご自身、「世尊」とは大聖「釈尊」であると受取らせていただきました。そして、これは、その次の「天・竜・夜叉」、更には二乗である声聞・縁覚も、 仏ではないわけですから、当然、「如来の功徳」という浄土教の根本を説き示すことは出来ないわけです。そして、その次です。「もし、もろもろの有情(うじょう)()まさに 作仏(さぶつ)()して、え、彼岸()って、()敷演(ふえん)()せん。多劫(たこう)()思義逾(こ)えん。この(ちゅうげん)において滅度()(めつど)すとも、勝慧
(しょうえ)()はよく(はか)ることなけん」。 「もろもろの有情」とは私たち衆生のことでしょう。その有情が「作仏」して、すなわち「仏」になって、その行のありさまは普賢菩薩に超え勝れたものでありますが、あにはからんや「彼の浄土に往生して一仏、すなわち無量寿仏(阿弥陀仏)の功徳を説き述べようとしたところあまりにも広大で、無限の時間を要して、その途中で生涯を閉じるようなことがあっても、なお阿弥陀如来の功徳を説き尽くすことができないのである。」という所です。このもろも ろの有情は普賢をこえる修行を全うして「仏」になったのですから、仏のみが知ろしめす無量寿仏の功徳は、よくこころえて、それを博く説き述べようとしたわけです。ところが無量寿仏の無限の功徳を説き述べようとしても、これまた、無限の時間がかかり、 そして、その途中(中間)で生涯をとじるようなことがあっても、なお無量寿仏の勝れた功徳を説き尽くすことが出来ないということであります。問題はここです。この場合、有情は作仏して、立派に仏になったのです。その仏が再び「生涯」を終えることがあるのでしょうか。原文によりますと、この部分は「滅度」になっています。仏はすでに滅度を経て全ての煩悩から解放されているから「仏」なのではないでしょうか。それをもう一度生死を繰り返すことになるのでしょうか。それとも、有情が成仏した「仏」は、もう一度生涯を繰り返さなければならないような、頼りない「仏」なのでしょうか。ところが親鸞聖人はこの信巻の便同弥勒釈(⓯べんどうみろくしゃく)で「まこと知んぬ、弥勒大士(⓰みろくだいじ)は等覚の金剛心を究むるがゆえに、龍華三会(りゅうげさんね)の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超(⓱おうちょう)の金剛心を究むるゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃(⓲だいはつねはん)を超証す。ゆえに便同というなり。」とあります。すなわち、「念仏の衆生は臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証」するのではないのでしょうか。「大般涅槃」を仏教語大辞典で調べてみますと、「大滅度、大入滅息、大円寂入」と漢訳、すぐれて完全なさとりの境地です。すぐ上の「  」内の大般涅槃についての三つの言葉、三つとも分からなくとも最初の「大滅度」ということばを見ても、大般涅槃を超証して仏になった最初に大滅度はおこるので、仏になった後に再び「滅度」になって仏の生涯を終るというのは、どうも矛盾しているのではないでしょうか。このあたりで混乱してしまいます。ただ、次のような考え方もあるかと思います。歴史上の釈尊は、この世に生きて、すでに仏でした。これに異論はないと思います。そして仏の身で入滅されました。仏の身で入滅されたのですから、これを「滅度」といわないのかもしれませんが、いずれにしても、すでにこの世で仏であった釈尊は、この世でいのち終わられました。すなわち歴史上の生涯を終られたのです。行は普賢菩薩を超えて、見事に作仏して仏となった有情は浄土において釈尊と同じ仏になると考えるとどうでしょうか。浄土でもう一度生涯を終えて煩悩を滅するのでしょうか?。しかし、これは思考の遊びになってしまうでしょう。このような思考はここで止めます。しかし私として止めることが出来ない事柄は、先の(A)「念仏の衆生は臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証する。」という親鸞聖人の宗教と、(B)大経・下、最初にある「それ衆生ありて、彼(か)の国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以(ゆえ)は何(いか)ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚(⓳じゃじゅ)および不定聚(⓴ふじょうじゅ)なければなり。」です。(A)で親鸞聖人が云われる「仏」は「現生正定聚」の衆生が、臨終一念の夕べに大般涅槃を超証した「仏」ですから、無量寿仏(阿弥陀仏)と一体となった「仏」であって、上の『如来会』で、有情が作仏してなった仏のように、再び「生涯」をくりかえすような仏とは明らかに違います。この点で(A)の親鸞聖人のこの記述は浄土経典である『如来会』の記述のような再び生涯を繰り返す「仏」とは全くといっていいほど違います。また、(B)のような『大経』の第十一願成就文の正定聚は、彼(か)の国、すなわち浄土に住していることになっていますが、親鸞聖人の(A)の臨終一念の夕べに大般涅槃を超証して「仏」になる正定聚は「現生正定聚」で、浄土ではなく、この世で、すでに正定聚であって、浄土に住しても相変わらず正定聚である 「第十一願成就文」の正定聚とは違います。これはおそらく浄土に往生したのち、煩悩に煩わされない好環境の浄土において、修行して仏になるという『大経』や『如来会』の世界を表しているということでしょう。その意味で、親鸞聖人の宗教は、単に『大経』や『如来会』の漢文を徹底して本願力迴向(他力)の読み方に読み変えて領受している親鸞聖人の革新的宗教をあらわしているのではないでしょうか。
 さて、このような状況にあっても、深遠な仏法、阿弥陀如来の功徳は、仮に仏に生涯があったとしても、その生涯を尽しても説き尽くすことは出来ないのでしょう。丁度それは、現代の科学者が宇宙の仕組みを説き明かそうと人類の歴史をもってしても、なかなか説き尽くせないのと似ています。ことほど左様に、説き尽くせない如来の功徳ですが、信心の念仏者は、その内の一つだけ根本的な如来の功徳を知っているというか、知らされています。それは何かといいますと、その功徳は、我々衆生の絶対的な救いです。他力回向によって生きる生き方、すなわち如来に全てを摂取された一体感です。やがて大いなるいのちと一体となる予感です。そのほか取り上げれば無数にあるようですが、結局は一つです。我々衆生の絶対的な救いです。これ一つで充分です。これが阿弥陀仏の法を聞くということではないでしょうか。だから上記(3)の部分の後半は、そのことが説かれているのでしょう。だから「このような妙法を已(すで)に聞くことが出来たなら、諸仏はこころから喜ばれるのである。」ということではないでしょうか。
〘語釈〙
⓯便同弥勒:弥勒菩薩に同じ。真実の念仏者は他力回向によって現生において正定聚
と成る。このことを必ず仏に成って釈尊のあとを継ぐという弥勒菩薩と同じになるという
こと。
⓰弥勒大士:弥勒菩薩のこと。
⓱横超:聖道の修行者のように厳しい修業を積んで無限の長い時間の末に仏になるの
ではなく、信の一念が定まれば、その瞬間に往生するということ。親鸞聖人のことばに
「信心定まるとき往生また定まるなり」ということばがある。
⓲大般涅槃:仏のさとりの境地。
⓳邪聚(じゃじゅ):ブリタニカ国際大百科事典より
【1】倶舎論の邪定聚:実の父や母を殺すなど五逆の罪を犯し無間地獄に堕ちることが決定的な人々
【2】親鸞浄土教では第十九願の趣旨に則(のっと)って、念仏以外の修行、すなわち、いろいろな善根を仏に回向して(振り向けて)その自力修業の功徳によって浄土に往生しようをする人々。
 以上【1】、【2】の定義について最初は、【2】の自力の修行も、【1】の倶舎論の
地獄落ちの衆生も、結果として浄土に往生できないということで一致するとしていましたが
前回1月の「仏性」の検討から、【1】にも【2】にも仏性があるということから考えると
【1】も【2】も回心すれば第十八願の念仏往生の浄土教徒すなわち正定聚の人になれる
という点で一致する。まことに救われ難い存在である人間が、無量寿の仏になることが
できるという点で、いずれも親鸞浄土教における救済の対象になり得る点で一致すると
いう結論になりました。(令和2、1月のまとめをご参照ください。)
⓴不定聚:仏教語大辞典
【3】正とも邪とも決定されていない人々。さとりの世界に安住することなく、縁次第で迷悟
いずれにでも向かうともがら。
【4】自力の念仏によって往生を願う第二十願の人びと。自力の念仏を仏に回向して
浄土往生を遂げようとする人々。


今月は以上で終ります。
●今月の言葉(2020年3月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文7

【現代語訳】
 曇鸞大師の『往生論註下巻』にいわれている。
天親菩薩の『浄土論』に「阿弥陀如来の御名を称え、その如来の光明というすべてを見そなわす智慧にふさわしく、その名号のいわれにふさわしく、その内実にふさわしく修業し、相応しようと思うからである。」といわれている。「かの如来の御名を称えて」というのは、すなわち無碍光如来の御名を称するのである。「彼の如来の光明の相の如く」というのは、仏の光明は智慧の顕れなのである。この光明は十方世界を照らしてさえぎるものはないのである。したがって、よく十方衆生の迷いの黒闇を除くのであって、日光や月光や宝石の光が穴蔵の闇を無くすごときの限られた有様などくらべものにならないのである。「彼の名号のいわれの如く真実の行に相応する」というのは、彼の無碍光如来の名号は、よく衆生の全ての迷いを打ち砕き、よく衆生の全ての願いを満たし給うということである。ところが、御名をとなえ、こころに念じることがあっても、迷いが、なお残っていて衆生の心からの願いが満たされないのはどうしてかといえば、それは衆生が真実に行を修めず、名号のいわれにかなっていないからである。これは、どういうことかというと如来こそが、真実の実相を覚られた方であり、そのことが、そのまま衆生の救いを全うされる方であることを知らないからである。また、名号のいわれに、相い適わぬ三種の事柄がある。一つには、信心が純粋でなく、疑惑の混じり物があるので、或るときはあるようで、またあるときは、疑いの雲が出て、信心がなくなってしまうという始末だからである。二つには信心が一つでなく、弥陀一仏への信の決定がないからである。また、三つには信心が永続せず、他に心がうつってしまうことである。この三つは転々と関連しあっていて、信心が純粋でないから、決定の信をなく、決定の信がないから、信が永続しない。また、永続しない信であるがゆえに、信が一つに決定しない。また、信が決定しないがゆえに、あれやこれやと心が移って、信心が純一でなくなるのである。このようなことがないのを「如実の修行に相適っている」というのである。このことを天親菩薩は『浄土論』のはじめに「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来」すなわち、「お釈迦さま、私は一心に盡十方無碍光如来に帰命し奉ります。」といわれたのである。
 曇鸞大師が作られた『讃阿弥陀仏偈』に「あらゆる衆生は弥陀の名号を聞信して、信心歓喜するその一念の瞬間も、如来の回向によるものである。如来の他力回向を聞信すれば、みな浄土に往生することができる。ただ五逆と誹謗正法の状態では、それを遂げることができない。その故に、私は如来をかぎりなく讃嘆礼拝し往生を願うのである」といわれている。

 【読下し古文】
 (ろん)(ちゅう)』(()一〇三)にいはく、「〈かの(にょ)(らい)()(しょう)し、かの(にょ)(らい) (こう)(みょう)()(そう)のごとく、かの(みょう)()のごとく、(じつ)のごとく(しゅ)(ぎょう)(そう)(おう)せんと(おも)ふがゆゑに〉((じょう)()(ろん))といへり。〈(しょう)()(にょ)(らい)(みょう)〉といふは、いはく()()(こう)(にょ)(らい)()(しょう)するなり。〈(にょ)()(にょ)(らい)(こう)(みょう)()(そう)〉といふは、(ぶつ)(こう)(みょう)はこれ()()(そう)なり。この光明(こうみょう)(じっ)(ぽう)()(かい)()らすに(しょう)()あることなし。よく(じっ)(ぽう)(しゅ)(じょう)()(みょう)(こく)(あん)(のぞ)く。(にち)(がつ)(しゅ)(こう)のただ(しつ)(けつ)のうちの(あん)()するがごときにはあらざるなり。〈(にょ)()(みょう)()(よく)(にょ)(じつ)(しゅ)(ぎょう)(そう)(おう)〉といふは、かの()()(こう)(にょ)(らい)(みょう)(ごう)は、よく(しゅ)(じょう)(いっ)(さい)()(みょう)()す、よく(しゅ)(じょう) (いっ)(さい)()(がん)()てたまふ。しかるに(しょう)(みょう)(おく)(ねん)することあれども、()(みょう)なほ(そん)して(しょ)(がん)()てざるはいかんとならば、(じつ)のごとく(しゅ)(ぎょう)せざると、(みょう)()(そう)(おう)せざるによるがゆゑなり。いかんが()(にょ)(じつ)(しゅ)(ぎょう)(みょう)()(そう)(おう)せざるとする。いはく、(にょ)(らい)はこれ(じっ)(そう)(しん)なり、これ(もの)のための(しん)なりと()らざるなり。また(さん)(しゅ)()(そう)(おう)あり。(ひと)つには(しん)(じん)(あつ)(じゅん)()(おん)(じゅん)なり、また(こう)(ぼく)なり。(ぼく)()(おん)(ぼく)なり。(くすり)()なり。(じゅん)()()なり。(じょう)(こん)(かおばせ)なり。(かみ)()(おな)じ)からず、(七そん)せるがごとし、(もう)ぜるがごときのゆゑに。(ふた)つには(しん)(じん)(いち)ならず、(けつ)(じょう)なきがゆゑに。()つには(しん)(じん)(そう)(ぞく)せず、()(ねん)(へだ)つるがゆゑに。この(さん)()(てん)(でん)してあひ(じょう)ず。(しん)(じん)(あつ)からざるをもつてのゆゑに(けつ)(じょう)なし、(けつ)(じょう)なきがゆゑに(ねん)(そう)(ぞく)せず。また、(ねん)(そう)(ぞく)せざるがゆゑに(けっ)(じょう)(しん)()ず、(けつ)(じょう)(しん)()ざるがゆゑに(しん)(あつ)からざるべし。これと(そう)()せるを〈(にょ)(じつ)(しゅ)(ぎょう)(そう)(おう)〉と()づく。このゆゑに(ろん)(じゅ)(てん)(じん))、(はじ)めに〈()(いっ)(しん)〉とのたまへり」と。(以上)
 (さん)()()()(ぶつ)()』(一六七)にいはく、(どん)(らん)()(しょう)(ぞう)なり 「あらゆるもの、()()()(とく)(ごう)()きて、(しん)(じん)(かん)()して()くところを(よろこ)ばんこと、いまし(いち)(ねん)(およ)ぶまでせん。()(しん)のひと()(こう)したまへり。(しょう)ぜんと(がん)ずればみな()くことを()しむ。ただ()(ぎゃく)(ほう)(しょう)(ぼう)とをば(のぞ)く。ゆゑにわれ(ちょう)(らい)して(おう)(じょう)(がん)ず」と。(以上)

【HP作成者感想】  親鸞聖人は、ここで曇鸞大師の『浄土論註』の三不信の文を引文として、大信心とは何かを説かれます。 『浄土論註』は天親菩薩の『浄土論』の注釈書ですから、曇鸞大師は、この引文 で、『浄土論』のいくつかの言葉を解説することによって、大信心を讃嘆し思索しています。まず、「かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく 修業し相応せんとおもふがゆえに」と『浄土論』のことばを紹介し、さらに細かく『称彼如来名』という『浄土論』のことばは、いわく無碍光如来の名(みな)を称するなりと、まず、 はっきりとおさえておられます。すなわち『浄土論註』はもとより、その元になった『浄土論』においても、既に称名が浄土教の基本的な行であることが示されていることになります。 そういえば、更に、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の『易行品』において「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において 阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当(まさ)にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること、『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと」 となっていることを見ますと、すでに龍樹菩薩の『易行品』によって、更にはその前の『宝月童子所問経』の時代から、称名念仏は浄土教を報ずるための大切な行であったということです。 後の唐の時代に中国では善導大師が称名念仏中心の浄土教を創始したといわれていますが、これは、彼の著『観無量寿経疏』の『散善義』にあるように「一心に弥陀の名号を専念して、 行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。」として、人は称名念仏のみで救われるのであって、称名以外の礼誦等 に依るのを、「助業」とし、この正助二行を除いた自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づけて疎雑の行(阿弥陀仏と疎遠な自力の行)として、往生浄土のためには、ひとえに称名のみを 「正定の業」としたことに由来しています。随って、称名を行ずることは浄土教の始まりと共にあって、浄土教には欠かすことのできない行であったといえます。
 次に曇鸞大師は『浄土論』の『如彼如来光明智相』という言葉を註して「仏の光明は無限の智慧のあらわれ」であって、十方衆生の無明の黒闇を除く力があることを洞察し、それは日光 ・月光・や宝石の光などとは比べ物にならない、無限の光明であることを強調します。更に、『如彼名義欲如実修行相応』を説明するに、この無碍光如来の名号が衆生の一切の無明を破り、 一切の願いを満たすはたらきがあると讃嘆します。これは、如来の光明には無限の智慧と無限の能力と無限の慈悲があることを示しているのであって、それは衆生が生まれて生きること、 そしていのち終わって死ぬことについて、大いなる納得を与えるものだからです。  そして曇鸞は論釈を次に進めます。そのように如来のはたらきは素晴らしいものであるにもかかわらず、称名憶念しても、無明がまだ残っていて、衆生の志願を満たさないのはなぜかと いうことを究明していきます。いわゆる「三不信」の究明です。そしてまず、このようなことがおこるのは一つには如来が真実の存在であるということ、我々衆生の存在は仮のものであって 真実の存在は阿弥陀仏であること。すなわち聖徳太子のいわれる『世間虚仮、唯仏是真』ということを知らないからだというのです。そして、さらに如来は無限の智慧、無限の能力、 無限の慈悲そのものであることは、如来が物のため、すなわち衆生のため、衆生がその志願を満たすための存在であることを知らないからだといわれます。そして、このように無明がまだ 残っているのは三種の不相応(信心が、淳(あつ)からず、一ならず、相続せず)があるからだと曇鸞大師は説きます。
① 「信心が淳からず」とは信心が純粋ではないことを示しています。すなわち、信心に夾雑物である疑いが混じっていることでしょう。だから、「存ぜるがごとく、亡ぜるがごとし」、 つまり、ある時は弥陀の本願を信じているように思えたり、また別の時には、それを信じる心が失せて、疑いの雲がもくもくと心の中に湧いてくるということでしょう。
② 2番めには「信心が一つでなく決定しない」。たとえば、弥陀一仏を信じ、その本願一つを信ずるだけでは何となく物足りなく、薬師如来など他の仏を信じて信を補強すしようと しますが、これは結局最初の弥陀の本願さえも絶対的に信ずることが出来ないといった疑いに起因することだから不相応というのです。
③ 3番目には「信心が相続しない」。つまり長続きしない。すぐ、疑いの雲が蔓延(はびこ)って弥陀の本願への信楽が亡くなってしまう。
 結局これら三つのことが転々と繰り返されて、①信心淳からざれば②決定心無く、決定心なければ③信心が相続せず、信心が相続しなければ②あれこれと眼が移って、弥陀の本願ひとつ の決定心がなくなり、決定心がなくなれば①信心が純一でなくなるといった繰り返しがおこると、曇鸞大師は指摘します。だから、このようにならないことを「如実修行相応」と名づけ、 『浄土論』において天親菩薩は「我一心」と言われたと『浄土論』の注釈書である『浄土論註』で曇鸞大師は云います。
 私が考えますに、このような「三不信」がおこるのは結局いずれ の場合も煩悩に根付く疑いの雲があることにもとづくものではないでしょうか。三不信の根底に弥陀の本願にたいする根強い疑いがあるからではないでしょうか。「弥陀の本願」という けれども、この世のように確固とした存在認識があるではなく、いわば古いお経に出ている単なる物語ではないかという、この世の存在観の強烈さとは、およそ掛け離れた、空虚 な物語の世界の事柄という感覚がどうしても起ってくる。この疑いということが「三不信」すなわち上にあげた三つの不信に共通した根底にあるのではないかと思う次第です。 しかし、この普通に現世感覚からは存在感の薄い「弥陀の本願」ですが、この今、現実に、ここにこうして在る自分を考えてみますと、まず自然に考えられることは、永劫の 過去から、無数の因と縁によって、ここにこうして在るということです。このような無数の因と縁の根源を大いなるいのちの根源と考え、その根源こそ、今、ここにこうして在る自分 を、ここにこうして在らしめた真実の親と考える。すなわち宗教的には、この真実の親とは、まさに阿弥陀仏、そして、その真実の親の切にして、根本的な願いこそ、我々を大いなる根源的 いのちとして生かしめたいという弥陀の本願であると考えられます。そして、この無数の因と縁によって私をここにこのように在らしめたはたらきという事柄こそ弥陀の他力回向 であると考えますと、『安心決定鈔』にもあるように「我々の身と心、行なうこと、話すこと、思うこと、行住坐臥すべての振舞い、出る息、入る息、も念々みな南無阿弥陀仏、 すなわち他力回向である」ということになります。とすれば、弥陀の本願は、信じまいとおもっても、信じざるを得ない、疑おうとしても疑うことが出来ないことがらではないかと いうことになります。このときこそまさに、「三不信」の元である「疑い」の雲はことごとく晴れ渡り、「信」の世界を拝受する状態になるのではないでしょうか。
 最後に親鸞聖人は、あらためて『無量寿経四十八願』の第十八願成就文に相当する引文を曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から挙げて、頂礼し、讃嘆されます。ここで「至心のひと」とは阿弥陀如来のことを指し、その回向を讃えられます。

今月は以上で終ります。

●今月の言葉(2020年4月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文8

【現代語訳】
 光明寺 善導大師の『([1]かん)(ぎょう)(しょ)([2]じょう)(ぜん)())』にいわれている。
 「〈(にょ)()〉という事柄には 種類の 意 味がある。①つには 衆生 ( こころ)のままにという 意 味で、そのにしたがって、みな、済度される 。②二つには(おんこころ)のままにという意味で、([3])(げん)をもってまどかにらしされ、(むっ)つの(じん)(づう)(りき)自在いて、済度すべきを見通され、一瞬の内に、弥陀のすべてをもって一時に衆生のところへおもむき、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力をもって衆生のいを(くだ)き、衆生それぞれの利益(りやく)与えられる。」
 またのようにいわれている (序分義)( [4]じょぶんぎ)
 「この末法の悲惨な れ、 (しょう)(ろう)、(びょう)、()、や、愛する者との別れなどの苦しみにさいなまれるのは、あらゆる迷いの世界にあることであり、これらの苦しみを受けないものはいない。もし、このような苦しみを受けない者がいるなら、その者は 凡夫(ぼんぶ)ではないのである」
〘語釈〙
[1]観経疏:善導による『観無量寿経』の注釈書。
[2]定善義・散善義:『観無量寿経』では浄土往生を願う人に対する
修行法として 定善義と散善義があると説く。その内
(1)定善義は雑念を払い心を凝らして如来、浄土を観察して浄土往生を遂げる行であり
(2)散善義は人間の心を九種(九品)にわけ、九種それぞれの人間が雑念を凝らすのではなく 平素の心でどのように行ずれば浄土往生できるかを説いたもの。
[3]五眼(ごげん):(1)肉眼(にくげん)→肉身に所有している眼
(2)天眼(てんげん)→天人が所有している眼
(3)慧眼(えげん)→一切は空であると見抜く眼
(4)法眼(ほうげん)→菩薩が一切の衆生を救うために一切の法門を明らかに見る眼
(5)仏眼(ぶつげん)→(1)~(4)までの全部を備えた仏の眼。
[4]序文義:『観経疏』は「玄義分」、「序文義」、「定善義」、
「散善義」からなるが、その内の「序文義」のこと。

 【読下し古文】
  (こう)(みょう)()(ぜん)(どう))の『(かん)(ぎょう)()』((じょう)(ぜん)()四四八)にいはく「〈如意(にょい)〉といふは二種(にしゅ)あり。一つ(ひと)には衆生(しゅじょう)(こころ)のごとし、かの(しん)(ねん)(したが)ひてみなこれを()すべし。(ふた)つには()()()のごとし、()(げん)(まど)かに()らし([5]ろく)(つう)()(ざい)にして、([6])([7])すべきものを()そなはして、(いち)(ねん)のうちに(ぜん)なく()なく(しん)(しん)(ひと)しく(おもむ)き、([8]さん)(りん)(かい)()しておのおの(やく)すること(おな)じからざるなり」と。(以上)
  またいはく(序分(じょぶん)()三九三)、「この([9])(じょく)([10])()(とう)([11]ろく)(どう)(つう)じて()けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに([12]ひつ)(のう)す。もしこの()()けざるものは、すなはち([13]ぼん)(じゅ)(しょう)にあらざるなり」と。(抄出) 〘語釈〙
[5]六通:六つの神通力:六神通ともいう。超人的な六つの能力。
(1)神足通→自由に欲するところに現れる能力。
(2)天眼通→自他の未来のあり方を知る能力。
(3)天耳通→普通人の聞き得ない音を聞く能力。
(4)他心通→他人の考えを知る能力。
(5)宿命通→自他の過去世のあり方を知る能力。
(6)漏尽通→煩悩を取り去る能力。
[6]機:教えを聞く人。
[7]度すべき:済度(救う)すべき。
[8]三輪開悟:仏の身・口・意(三輪)によって悟らせること。
[9]五濁:この世における五つのけがれ。総じて末法の時節を指す。
(1)劫濁(こうじょく)→時代の濁り。
(2)見濁(けんじょく)→思想の乱れ。よこしまな思想がはびこること。
(3)煩悩濁→貪り・怒り・迷い(癡)など煩悩の燃え盛る人間のあさましい姿。
(4)衆生濁→衆生の果報が衰え心が鈍く、身体弱く、苦しみが多い状態。
(5)命濁→衆生の寿命が次第に短くなる。いつまでも生きたいと思う心のこと?
[10]五苦:生・老・病・死・愛別離苦。
[11]六道:衆生が業によって赴くところの世界。
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つをいう。
[12]逼悩:苦しむ。悩む。
[13]凡数:凡夫と数えられるもの。
[14]摂(しょう):含まれる。仲間。身内。

【HP作成者感想】  
 前回は、曇鸞大師が説かれた三不三信(三つの不信と三つの真実の信<淳心、一心、相続心>)について開陳させていただきました。
 親鸞聖人は大無量寿経や如来会などからの引文とともに、前回の曇鸞、今回の善導の説く釈文等を引用することによって、この信巻本文最初に説かれている長生不死の神方をはじめとする大信心のいわれについて説かれています。そして、今回は、その一環として、信巻の大きな部分を占める善導の三心釈(至誠心、深心、迴向発願心によって浄土往生が適う)を自らの信心にもとづいて説かれます。すなわち、この善導の三心釈の引文も、ひとえに、信巻劈頭の「大信心」のいわれを説くためにここに引用されているものと私は考えます。 親鸞聖人は、この「三心釈」の幕がひらかれる序章の文章をまず善導の『観経疏』の「定善義」から引文されます。本日はこの文について聞かせていただくことにします。
 この文章は表面的に読むと、親鸞浄土教的に、いささか、わかりにくいところがあります。それは「〈如意(にょい)〉という事柄には種類の意味がある。①つには衆生(こころ)のままにという意味で、そのにしたがって、みな、済度される。②二つには弥陀(おんこころ)のままにという意味で、()(げん)をもってまどかにらしされ、(むっ)つの(じん)通力(ずうりき)自在いて、済度すべきを見通され、一瞬の内に、弥陀のすべてをもって一時に衆生のところへおもむき、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力をもって衆生のいを(くだ)き、衆生それぞれの利益(りやく)与えられる。」  古文では「①〈如意(にょい)〉といふは二種(にしゅ)あり。一つ(ひと)には衆生(しゅじょう)(こころ)のごとし、かの心念(しんねん)(したが)ひてみなこ度すべし。②二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度す べきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き、三輪開語して、おのおの益すること同じからざるなり。」  この部分です。 すなわち、②の二つにはという部分は衆生の機のありようは 弥陀の回向をすべてとする親鸞浄土教の立ち位置から、大変よくわかるのですが、①の文は、衆生の心にしたがって、如意、すなわち、意のままにみな救われるというのですから。これは、あたかも、自力聖道門の 仏教を奉ずる衆生が、みずからの強固な 意志による修行によって意のままに悟りをうることをあらわすかのように見えるからです。この『観経 定善義』の文を、どう受けとるか。もっとも、 この『観経 定善義』の文は「阿弥陀仏、神通如意にして、十方の国において変幻自在なり」とある中の「如意」という語を善導が註釈 したものだといわれています。 だとすれば「衆生の心念にしたがって皆これを度すべし。」という「度すべし」の主語は阿弥陀仏ということになります。すなわち、 衆生がみずからの如意なる心念にしたがいて自力的に悟りを得ることが可能なように受取るかもしれないけれども、その衆生を最終的に度す(救う)のは阿弥陀仏なのですから、結局、衆生が 自力で悟れたと思っていても、結局は大いなる弥陀のはたらきの結果であったということになるのでしょうか。 ところで、この定善義の文の次に、上記引文最後の部分に、親鸞聖人は『観経疏』の序文義から ③「この (しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死()・愛(あい)(べつ)()()などの苦しみは、あらゆる迷いの世界に通 じることであり、これらの苦しみを受けないものはいない。もし、この苦しみを受けないものがいるなら、そのものは凡夫 (ぼんぶ)ではないのである」
この文章は、まことに私たちの胸を打つ、この世の全ての衆生の有様を映す文章であります。この世の生きとし生ける者、人間のみならず、およそ生あるものの真実を表しています。したがって、ここでは、あらためて、上の③の『序文義』の文章も頭に入れながら、「衆生の如意のごとし」ということと、「阿弥陀仏の神通如意」ということの関係を、善導が三心釈を説こうとしている、その序章ともいうべき、この部分で、どのように、考えているかを、もう少し追求することが必要ではないかと思えるのです。
 そこで、この部分についての「『教行信証を読み解く』の著者 藤場俊基師の読み解き方」と、さらに、古くは金子大栄師の『教行信証講読』にある、 この部分についての「金子師の聞思」を読んでみました。(上の二つの青色のリンクをクリック)。
 いずれも、表面的に一回読むだけでは、なかなか難解な文章です。しかし結局、藤場、金子両師が、この二つのリンクにおける論釈について、言われんとする所をまとめますと、お二人ともに次のようなことを論じておられているのではないでしょうか。
 すなわち、『如来の本願は絶対的真実である。しかし、如何に絶対の真実であっても人間の願生心をはなれては意味をなさない。また逆に人間の存在の事実は如来の本願の絶対的真実がないかぎり、まったく意味をなさない。』 このことを善導の引文は「如意といふは二種あり・・・」という二種の如意として捉えているのだということです。そして善導の場合は衆生の願生心に焦点をあて、それを始点にして、宗教的真実、如来の真実に目ざめていったということを言っているのではないかと思われます。実際に、この後に展開される至誠心、深心、回向発願心の解釈には善導ならではの体験にもとづく強烈な願生心の記述が見られます。いずれにしても金子、藤場のお二人とも、大変高度で、それゆえに一読ではなかなか分かりづらい論を展開しておられますが、簡潔にうけとれば、このようになるのではないでしょうか。
 更に、これに関連して、ここで、もう一つ、気になることがあります。「金子師の聞思」の中に述べられている。「信ずるが故に如来あり、願生するが故に招喚の声あり」ということばです。この言葉は曽我量深師においても、「我、如来を信ずるが故に如来在(まし)ます也」という言葉があります。この二つの言葉は共に、意味の取り方によっては、随分、ご都合主義、合目的的な言葉に受け取られかねません。すなわち、「信ずれば如来がある。信じなければ如来は存在しない。」 まことに人間が自己の願生(浄土往生を願う心)の都合のために造った単なる空虚なことば遊びのように受け取られないでしょうか。現代の碩学と言われる曾我、金子両師のことばとして、私たちは、これをどのように受け取るのか。親鸞浄土教が成り立つ根本問題です。しかも、これは宗教を受取るか受取らないかの、根本的分岐点になる事柄ではないでしょうか。よくよく考えてみると「如来の有無」を、この世を絶対と考え、それを超えた世界には関心がない人には「信ずるが故に如来あり」ということが空虚な事柄に思えるのであって、これは丁度、弥陀の浄土は十万億土のかなたにあるということと同じで、弥陀の浄土を物理的存在として見ようとするから、十万億土というような空虚な言葉をつかわざるを得ないということです。物理的存在は永遠ではありません。時と共に、変化し消えてなくなるものです。このような物理的存在として如来を観ることは間違っています。しかし考えてみますと、前回までも、このページで申し上げていますが、私は今、ここに、こうして生きていますが、これは宇宙開闢以来の永劫の過去からの無数の因と縁によって、いまここに、こうしてあらしめられているわけで、こうなると、どうしても、私という存在をここに、このようにして有らしめた根源のはたらきの不思議を考え、その根源のいのちと一体となっている自分を考えざるを得ず、ここに如来のはたらきを信じざるを得ない心境に立ち至ります。したがって「信ずるが故に如来あり」とはこのようなことであって、如来は信ずる人の心の中に厳然とある。すなわち信ずれば、この世のどこかに如来が物理的に存在するようなことではないということです。物理的存在は、上にも申し上げたように、いつかは、消え失せます。早い話が人間の死によって、その人からは消え失せます。それに対して、信ずる人の中に厳然とある如来は永遠に有ります。なぜなら永遠は時間ではないからです。そして更にもう一つ、この世は何故あるのか、なくてもいいわけで、どうしても有らねばならない理由はどこにもない。しかし、この世は、ここに有る。今、ここに、こうしてある。この個々の物理的存在の変化と生滅をはらみながら、この宇宙(つまりこの時空の世界)が、今、ここに、こうして宇宙開闢以来の永劫の過去から無数の因と縁によってここに厳然と有る。ここに不思議を感ずるのであって、その結果、信ずる者の心に如来は一体となって今、永遠に満ちみちている。そしてその如来はどのような如来か、これは先に申し上げたように永劫の過去から無数の因と縁によって今ここに、こうして私を有らしめた真実の親である。真実の親ならば何よりも子を絶対的に救う存在である。その真実の親の願いが我々衆生を救わずにはおれない誓いとしてあるのが「弥陀の本願」ということになるのではないでしょうか。皆様のご思索と、ご批判を賜るところです。

今月は以上で終ります。



●今月の言葉(2020年5月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文9


【現代語訳(親鸞引文)
 また、いわれている( ([1]さん)( ぜん)( ))。 「『 ( かん)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』の 〈 ([2}なん)()をか (さん)()す〉から 〈()(しょう)ず〉 までは、 ( さん)(しん)(至誠心、深心、迴向発願心の三つ、このあと、この三つの一つ一つについて善導は自説を説明していく。)とは かということを論じ、それこそが 浄土に往生する正しい 基本であると明かされたものである。そこにはつのことがされている。一つは、()(そん)衆生素質じて利益(やく)えられるのであるが、のおこころは深淵でうかがいることができない。そこで、仏、自(みずか)らが 何をもって三心とするのかという問 いを(もう)けて顕(あきら)かにしてくださらなかったなら、衆生には理解 することができないということをかされる。つには ()(そん)(みずか)ら、その(さん)(しん)とはかという いにして、わざわざ、その一つ一つを数えて具体的におえになったことを かすのである。
 ①
その結果 、経に〈つには()(じょう)(しん)〉とかれている。〈()〉とは(しん)であり、〈(じょう)〉とは(じつ)である。すべての衆生(しん)()()三業(さんごう)(身で行う行為、口で話す言葉、心での想いの三つの有りよう)をもって(おさ)める(ぎょう)は、ず、(にょ)(らい)(しん)(じつ)(しん)のうちに(じょう)(じゅ)されたものをいることをらかにしたいと思う。
外面に賢者(けんじゃ)善人らしく(はげ)ような振舞をしてはならない。の中は偽(いつわ)りをいだいて、(むさぼ)り・(いか)り・よこしま・(あざむ)きのえず起って、悪性は止(や)めがたいのであり、それはあたかも(さそり)のようである。そのような心で ( しん)( )()(さん) (ごう)(ぎょう)を起しても、それはのまじったであり、また、いつわりの(ぎょう)というもので、真実(ぎょう)とはいえないのである。もし、このようなで、修行して、たとえ、身心を苦しめ、昼夜うことなく、についた必死(はら)い消すように(けん)(めい)(つと)(はげ)んでも、それらは、すべてのまじったというのである。こののまじつた(ぎょう)を仏に捧げて、 阿弥 陀仏 浄土れようと めても、 してれることはできない。
なぜかというと、まさしく、阿弥陀 仏が法蔵菩薩として修行されたときには、わずか一念一刹那であっても、その(さん)(ごう)(ぎょう)はみな、真実においてなされたことに()る〈仏を()て、仏の行(ぎょう)を行(ぎょう)じて、仏によりしたがって、仏のまことを用いて、ということである〉からである。すべて、このように仏が真(しん)(じつ)の心(こころ)において修(おさ)められた功()(どく)を全て衆生に 施 (ほどこ) してくださるのであり、それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実 なのである。
 また、真実に二種がある。一つには自らの成仏を願う真実、二つには 他者の成仏を願う 真実である。(④のア) (中略)(④のイ) 衆生がおこなう不善の ( さん)(ごう) すなわち真実心のない善は、如来が法蔵菩薩として修行中に、真実の心において捨てられたのであり、 その通りに捨てさせていただくのである。また善の (さん)(ごう)は、必ず如来が真実の心において成(じょう)(じゅ)されたものをいただくのである。聖(しょう)(じゃ)も凡(ぼん)()も智()()ある衆生も愚(おろ)かな衆生も、みな如来の真実をいただくのであるから至誠(しじょう)(しん)というのである。
≪語釈≫
[1]散善義:善導著『観無量寿経疏』(略して『観経疏』)の内の「散善義」のこと。親鸞聖人は大信心の意義を説くために『大無量寿経』、『無量寿如来会』、そして曇鸞大師の『浄土論註』から引文し、4月には善導大師の 『観経疏』から、その内の「定善義」と「序文義」の要決部分を引文されています。『観経疏』は言うまでもなく『観無量寿経』の注釈書です。『観無量寿経』はその本文において「定善」という修行法と「散善」という修行法で 浄土往生が遂げられることを説いてあります。善導の『観経疏』は、この『観無量寿経』の意義を解説するために「玄義分」「序文義」「定善義」「散善義」の四帖(四章)を設けて説いています。今月は、この内で親鸞聖人は、 自身の浄土教の大きな骨格となっている『散善義』からその主要部を引文することによって、大信心の意義を説く糧としているのです。
[2]何等をか三と為す~必ず彼の国に生ず。:左の文章の範囲は東西本願寺に掲載の『観無量寿経』に共にその22章の中にある文章の「何等をか三とする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、 必ずかの国(浄土)に生ず。」とあるのを指す。

 【読下し古文(親鸞引文)】
 またいはく((さん)(ぜん)()四五四)、「〈()(とう)()(さん)〉より(しも)(ひつ)(しょう)()(こく)〉に(いた)るまで、このかたは、まさしく(さん)(しん)(べん)(じょう)(定めて)して、もって(しょう)(いん)とすることを()かす。すなはちそれ(ふた)つあり。(ひと)つには()(そん)()(素質・能力)に(したが)ひて(やく)(あらわ)すこと()(みつ)(深遠)にして()りがたし、(ぶつ)みづから()うてみづから(ちょう)(あきらかに)したまふにあらずは、(さとり)()るに(よし)なき(方法がない)を()かす。(ふた)つに(にょ)(らい)(かえ)(はじめに還って)りてみづから(さき)(さん)(しん)(かず)(こた)へたまふことを()かす。
 『経』((かん)(ぎょう))にのたまはく、〈(いっ)(しゃ)()(じょう)(しん)〉。〈()〉とは(しん)なり、〈(じょう)〉とは(じつ) なり。(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(しん)()()(ごう)(しょ)(しゅ)の(修める所)の()(ぎょう)(信と行)、かならず(しん)(じつ)(しん)のうちになしたまへるを(もち)ゐんことを()かさんと(おも)ふ。(ほか)(けん)(ぜん)(しょう)(じん)(そう)(もっともらしい行者の姿)を(げん)ずることを()ざれ、(うち)()()(いだ)いて、(とん)(じん)(むさぼりと怒り)・(じゃ)()(うそいつわり)・(かん)()(ひゃく)(たん)(いつわり、あざむくこと無数)にして(あく)(しょう)()めがたし、(こと)、 (じゃ)(かつ)(毒蛇・さそり)に(おな)じ。(さん)(ごう)(自らの全てをかけての修行)を(おこ)すといへども、()づけて雑毒(ぞうどく)(ぜん)とす、また虚仮(こけ)(ぎょう)()づく、真実(しんじつ)(ごう)()づけざるなり。もしかくのごとき(あん)(じん)()(ぎょう)(救いを求め・修業)をなすは、たとひ(しん)(しん)()(れい)(苦しめ励ま)して(にち)()十二(じゅうに)()(きゅう)(もと)(きゅう)になして()(ねん)(はら)ふがごとくするものは、すべて(ぞう)(どく)(ぜん)()づく。この(ぞう)(どく)(ぎょう)()してかの(ぶつ)(じょう)()()(しょう)せんと(ほっ)するは、これかならず()()なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの()()()(ぶつ)(いん)(ちゅう)(修行中)に()(さつ)(ぎょう)(ぎょう)じたまひし(とき)[3](ない)()(いち)(ねん)(いち)(せつ)()も、(さん)(ごう)(しょ)(しゅ)みなこれ(しん)(じつ)(しん)のうちにしたまひしに()(([4])()(きょう)なり、(ぎょう)なり、(じゅう)なり、(ゆう)なり)ってなり。おほよそ(ほどこ)したまふところ(しゅ)()をなす、またみな(しん)(じつ)なり。また(しん)(じつ)()(しゅ)あり。(ひと)つには()()(しん)(じつ)(ふた)つには()()(しん)(じつ)なり。(④のア)(乃至)(④のイ) ()(ぜん)(さん)(ごう)はかならず(しん)(じつ)(しん)のうちに捨てたまへるを用ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを(もち)ゐて、内外(ないげ)明闇(みょうあん)(えら)ばず、みな真実(しんじつ)(もち)ゐるがゆゑに()(じょう)(しん)()づく。
≪語釈≫
[3]乃至一念一刹那も:一念、一刹那に至るまでも。
[4](()()(きょう)なり、(ぎょう)なり、(じゅう)なり、(ゆう)なり)について:この部分の漢文は次のようになっています。「由字以周反経也行也従也用也」です。この漢文の意味は 「由の字の反切(読み方)は“以”の発音<い>と“周”(しゅう)の最後の発音<う>の二つの発音<いう>、 これが由の字の発音(読み方)です。私たち日本人はひらがな(カタカナ)文化を持ち、漢字の読みはひらがな 又はカタカナで振り仮名を打つことができますが、漢字だけで仮名を持たない昔の中国では読みの わからない漢字の読みを表すには、 読みのわかりやすい別の二つの漢字の最初の発音と最後の発音で表しました。それが上の由の字の発音を “以()”と“周(しゅ)”で表したもので、以上のような事柄を「反」又は「反切」といいます。次に「経なり、行なり 、従なり、用なり」の部分は“由”の字の意味を表す部分で“経なり”とは、お経の経ではなく、 “経(へ)る”とか“経路”を表す“経”であり、“行なり”の“行”とは修行することであり “修業を経る”という意味に取ればいいでしょう。“従なり”の“従”とは、まさに“由(よ)り従う”という言葉もあるように“従”の字の意味も“由”の意味を持っています。“用なり”の“用”は“用途”ということばもあるように“使いみち”すなわち“経路”つまり“経(みち)”に通じ、従って“由”の字の意味になります。
 以上、本文の途中で、いきなり出現した「(()()(きょう)なり、 (ぎょう)なり、 (じゅう)なり、 (ゆう)なり)」を、どう読み解くかを現代の視点から説明してみました。

  【HP作成者感想】  
 信巻劈頭の「つつしんで、往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は長生不死の神方・・・」から はじまる『大信心』を経論釈(経は仏が書かれた書。論は古代インドの龍樹や天親が書かれた書。釈はそれ 以後の中国や日本の曇鸞・道綽・善導・源信・法然が書かれた文章を指す。)の面からどのように見ていくか。 このことについて、親鸞聖人は『大経』と『如来会(にょらいえ)』から、ついで天親菩薩の『浄土論』を註釈した曇鸞大師の『浄土論註』等から引文し 、そして前回は善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』からの引文によって、いわば信巻劈頭の『大信心』を 七高僧の中の天親、曇鸞、善導たちはどのように考えたかを親鸞聖人は、あらためて論じていかれます。 今回は、序章ともいえる前回の『観経疏』の「定善義」および「序文義」からの文章に続いて、いよいよ本論の 『観無量寿経』が浄土往生を遂げるためにあるべき三心「至誠心、深心、回向発願心」についての善導の解釈、すなわち「散善義」 から、その主要な部分を引文され、親鸞聖人独自の三心に対する解釈を説き進めていかれます。
 まず、善導の釈文は現代語訳で「『(かん)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』の〈 (なん)()をか (さん)()す〉から 〈()(しょう)ず〉 までは、 ( さん)(しん)とは かということを論じ、それこそが 浄土に往生する正しい 基本であると明かされたものである。そこにはつのことがされている。」から始まります。ここにいう「〈(なん)()をか(さん)()す〉から〈(かなら)()(くに)(しょう)ず〉まで」というのは『観無量寿経』で釈尊が阿難と韋提希に「上品上生」を説く部分(東・西真宗聖典で22、【二二】)の中にある[仏、阿難および韋提希に告げたまはく「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする(何等爲三)。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。〉」]の文章のことです。釈尊は、阿難と韋提希にとりあえず上品上生の人々の浄土往生は上記三種の心を発(おこ)すことによって成就されると説かれます。そして善導は、この仏が説かれた「衆生が浄土往生を成就するには、一に「至誠心」、二に「深心」、三に「回向発願心」の三つの心、すなわち三心が正しい因となる」という仏の説き方を二つの見方でとらえています。それは上の【読下し古文】にある次の文です。「すなはちそれ(ふた)つあり。(ひと)つには()(そん)(釈尊)、()(教えを受ける者の素質、能力)に(したが)ひて(やく)(あらわ)すこと()(みつ)(深遠)にして()りがたし、(ぶつ)みづから()うてみづから(ちょう)(あきらかに)したまふにあらずは、(さとり)()るに(よし)なき(方法なき)を()かす。(ふた)つに(にょ)(らい)(かえ)りてみづから(さき)(さん)(しん)(かず)(こた)へたまふことを()かす 」。 この辺りから、表面的に読んでいますと、突然分り難くなります。しかし、要は次のようなことではないでしょうか。すなわち、一つ目は、仏の「衆生を浄土往生させたい」という深いお心は衆生には、とても理解できないから、仏が、あらかじめ「衆生の浄土往生の正因となる三心とは何か(何等爲三)」という問いをおこされて、衆生の注意を喚起されます。そして、二つ目に、その答えも仏自らが『それは「至誠心」、「深心」、「回向発願心」の三つである』と答える形がとられているということです。
 そこで、先ず、「至誠心」についての善導の漢文記述に対する親鸞以前の日本仏教の「伝統的読下し文」の検討からはじめて、次いで、親鸞聖人独自のこの文に対する読み方を読むことにより親鸞浄土教の特色を聞思(考察)したいと思います。親鸞聖人独自の訓読は上の「読下し古文」を参照することとし、下記には、善導が意図したであろう読み方、即ち下の【通常の読下し文(善導『観経疏』)】を表示し、それを聞思し、次いで上記の親鸞の引文、即ち【読下し古文(親鸞引文)】によって親鸞独自の思想を聞思したいと思います。
【通常の読下し文(善導『観経疏』)】
 〔『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心(しじょうしん)」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修(しんくいごうしょしゅ)の()(ぎょう)、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に(けん)(ぜん)精進(しょうじん)の相を現じ、内に虚仮(こけ)を懐くことを得ざれ。貪瞋(とんじん)(じゃ)()奸詐百端(かんさひゃくたん)にして、悪性侵(や)めがたく、事蛇蝎(じゃかつ)に同じきは、三業(さんごう)を起すといへども名づけて雑毒(ざぞうどく)の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の(ごう)と名づけず。もしかくのごとき安心(あんじん)()(ぎょう)をなすものは、たとひ身心を苦励(くれい)して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃(ずねん)(はら)ふがごとくするものも。すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を()して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ()()趣求(しゅぐ)したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。(④のア)自利真実といふは、また二種あり。一には真実心のうちに、自他の諸悪および()(こく)(とう)制捨(せいしゃ)(捨て去る)して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(常)に一切の菩薩の諸悪を制捨したまふに同じく、われもまたかくのごとくならんと想ふなり。二には真実心のうちに、自他(ぼん)(しょう)等の善を(ごん)(じゅ)(勤めはげむ)す。真実心のうちの口業(くごう)(発する言葉)に、かの阿弥陀仏および依正二報(えしょうにほう)(弥陀の過去の修行の報いとして成就された浄土と、同じく、その報いとして成仏された弥陀ご自身)を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報(えしょうにほう)(衆生の過去の輪廻の報いとして現れた苦しみと、同じく、その報いの当事者である衆生自身)の苦悪の事を()(えん)(そしり厭う)す。また一切衆生の三業所為(全身全霊で行う)の善を讃歎す。もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心のうちの身業(しんごう)に、合掌し礼敬(らいきょう)して、四事(しじ)(行者に必要な飲食・衣服・臥具・湯薬の四つ)等をもってかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業(身の行ない)に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢(きょうまん)(軽蔑)し厭捨(えんしゃ)す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ずるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死(しょうじ)三界(さんがい)等の自他の依正二報を軽賤(きょうせん)(いやしむ)し厭捨す。 (④のイ)不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外(ないげ)明闇(みょうあん)(えら)ばず、みなすべからく真実なるべし。ゆゑに()誠心(じょうしん)と名づく。
 以上が『観経』の至誠心に対する善導の『観経疏』における解釈です。
 これを読みますと善導がまことに真摯な態度で、自らの体験を基にしたともいえる筆致で、この『観経』にある「至誠心」を論じています。  次にこの文を同じく現代語訳したものを記します。

【現代語訳(善導『観経疏』)】[往生を願う衆生は「至誠心」を発(おこ)すには必ず”真実心”をもって発(おこ)さねばならない。外面は賢善精進の相を顕(あらわ)してはならない。何故なら心の内は、それとは裏腹に、いつわりの心を懐いているからである。むさぼり、瞋(いか)り、邪(よこしま)な心、嘘偽(うそいつわり)の心で満ちみちており、まるで毒蛇かサソリのようで、このような悪性を懐(いだ)きながら往生を願う行動をしても、これは毒を含んだ願生心であり、嘘いつ わりの願行であって真実心の行とは言えない。もしこのような状態で往生を願う念仏をしても、それがたとえ、一日中、もがき苦しむほど、あくせくと、頭についた火を払うように 念仏起行しても、全て毒の混じった善と名づけられ、このような毒の混じった善を仏に回向して浄土に生まれようと願っても必ず不可である。何故かというと、まさしく彼の阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行されていたとき、一念一刹那の瞬間にいたるまでも身口意のあらゆる振舞いに至るまで、みなすべて真実心の内になされて、衆生を利益(りやく)するための利他、自らの覚(さと)りを求める自利ともに、みな真実心によって成されたからである。
また真実に二種あり、
 一つは自利真実であり、二つには利他真実である。 
 (④のア)自利真実には又二種あり、
 一つには真実心のうちに自分と他人の悪をとどめ、穢れた世を捨てて、行住坐臥に全ての菩薩たちが諸々の悪をとどめ捨て去るのと同じように自分も、そのようになろうと思うのである。
 二つには真実心のうちに自分や他人、凡夫や聖人の善を勤め励むことである。真実心をもって口に阿弥陀仏とその修行による報いとして顕れた浄土を讃嘆する。また真実心をもって口に、この迷いの世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅(阿修羅の略=一種の鬼神)・人間・天(天人のこと[5])と六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)に輪廻(生まれ変わり死に変わりして流転すること)する自分や他人の報いの支配するこの苦海の世を厭(いと)う。また全ての衆生が身口意(しんくい)の業(行為)によって行なう善を讃嘆する。もし、それが善でない業ならば、よく思いはかって、これから遠ざかれ、またこのようなものを有難がって喜ぶな。また真実心による身の行いに対して合掌礼拝し四事(飲食・衣服・臥具・湯薬)などをもって、彼の阿弥陀仏と、その浄土を供養する。また真実心をもって身の行いに、生死するこの世の自他のありようを遠ざかり捨て去る。また真実心をもって意(こゝろ)に彼の阿弥陀仏とその浄土を思いうかべ、よく観察し、絶えず念じて、まるで目の前に現れているように思う。また、真実心をもって意(こゝろ)に、この生死するこの世の自他のありように、かかずらわず、遠ざかり捨て去る。 (④のイ)仏の教えによらない身口意の不善の業はかならず、すべからく真実心のうちに捨て去るべきである。また、仏の教えによる身口意の善業は必ず真実心の内になさねばならない。また、もし仏の教えによる身口意の善業を起こすなら、必ず真実心をもってなさねばならない。真実心の内になせば、聖者と凡夫、智者と愚者をえらばず、皆すべからく仏の御心にかなうのである。故に、これを「至誠心」と名ずけるのである 〕
 以上が善導の『観経疏 散善義』における「至誠心」解釈の通常の訓読を現代語訳したものです。これを読むと、善導の『観経疏』が、『観無量寿経』に説かれている「至誠心」を善導自らの問題として自らの力で体験した上での釈文であるということです。ある意味で自分にも他人にも自力的な厳しい真実心を要求している釈文であるともいえます。その「至誠心」を親鸞聖人はどのように受け取られたか。これは画面上のB【通常の読下し文(善導の「至誠心」)】と【読下し古文(親鸞引文)】とを読み比べてみるとよくわかります。
 先ずそれぞれのの文章においてでは「かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。」となっているところをの親鸞聖人の読み方では「ならず(しん)(じつ)(しん)のうちになしたまへるを(もち)ゐんことを()かさんと(おも)ふ。」となっています。すなわち善導が意図したB【通常の読下し文(善導の「至誠心」)】では「かならずすべからく真実心のうちになす」者は浄土往生を願う衆生の側であるのに対して【読下し古文(親鸞引文)】では「ならず(しん)(じつ)(しん)のうちになしたまへるを(もち)ゐんことを()かさん」というふうに、真実心の内になすことができる者は弥陀であって、一切衆生の身口意の往生行は弥陀が真実心の内に、なし給うた功徳を、そのまま回向していただき須(もち)いさせていただくという受取りかたです。一見、随分むしのよい考え方のようにみえますが、実は決してそうではなく、これは次のの部分を読んでみればわかります。ここで、【通常の読下し文(善導『観経疏』)】では、「 外に(けん)(ぜん)精進(しょうじん)の相を現じ、内に虚仮(こけ)を懐くことを得ざれ。貪瞋(とんじん)(じゃ)()奸詐百端(かんさひゃくたん)にして、悪性侵めがたく、事、蛇蝎(じゃかつ)に同じきは、三業(さんごう)を起すといへども名づけて雑毒(ざぞうどく)の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の(ごう)と名づけず。もしかくのごとき安心(あんじん)()(ぎょう)をなすものは、たとひ身心を苦励(くれい)して、日夜十二時、急に走り急になすこと、頭燃(ずねん)(はら)ふがごとくするものも。すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を()して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり」。やや難解な用語もありますが、それは、B【現代語訳(善導『観経疏』)】のをお読みいたゞくことにして、ここで善導は「(往生を願う衆生は)外に(けん)(ぜん)精進(しょうじん)の相を現じ、内に虚仮(こけ)を懐くことを得ざれ<(往生を願う衆生は)内に虚仮を懐いてはならない>」、さらに、「この雑毒の行を()して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり」、「内に虚仮を懐いてはならない」と往生を願う衆生に厳しい自己規制をかけたり、「この雑毒の善を(仏に)回向して往生を得ようとしても必ず不可だ」と往生を願う衆生の側から雑毒の善を仏に回向しても往生成就は不可であると、衆生の側から仏への回向を想定しています。これは衆生が自己の真実心をもって真実の善を仏に回向すれば衆生の願う往生は成就されるということでもあります。つまり善導は厳しいながらも、まだ衆生自らの力、すなわち衆生が自力の真実心を確立できれば浄土往生は、あり得るとみていることを示しています。それに対して親鸞の教行信証における引文の訓読は大きく違っています。すなわち、において親鸞の引文は衆生が「(ほか)(けん)(ぜん)(しょう)(じん)(そう)(げん)ずることを()ざれ、(うち)()()(いだ)いて、(とん)(じん)(じゃ)()(かん)()(ひゃく)(たん)にして・・・・・この(ぞう)(どく)(ぎょう)()してかの(ぶつ)(じょう)()()(しょう)せんと(ほっ)するは、これかならず()()なり」。 これは長い文章でいろいろ書かれていますが、要は「(ほか)(けん)(ぜん)(しょう)(じん)(そう)(げん)ずることを()ざれ、(うち)()()(いだ)けばなり。」ということでしょう。これを読むと、親鸞は自らを含め、この末法の世に生きる人間というものは真実心など絶対に持てない存在であると、痛切に徹底的に思っていると読めます。それに対して善導はこの「至誠心」の解釈においては、上に書きましたように、往生を願う衆生に対して、厳しい中にも、全部絶望しているわけではなく、どこかに、まだ、往生を願う人間に対して自らの心がけによっては仏と同じような「真実心」を持てるように思っている節があります。ここに「至誠心」に限れば親鸞と善導の大きな違いがあるように思います。この末法の世に生きる人間存在に対する深く底なき絶望の親鸞と、ほとんど絶望しながらも、まだ衆生自らの力に因る「真実心」の確立に、ごく僅かながらも可能性を残す善導です。
 次にです。これはで善導と親鸞が私たち人間において「真実心」による「至誠心」はあり得るか、あり得ないかということについて、善導と親鸞がどのように体験し思索したかをみてきました。そこで、先ず善導は【通常の読下し文(善導『観経疏』)】のにあるように「なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ()()趣求(しゅぐ)したまふところ、またみな真実なるによりてなり。」としています。さて親鸞はどのように読んだでしょうか。親鸞は同じ部分を上の引文ので「なにをもつてのゆゑに、まさしくかの()()()(ぶつ)(いん)(ちゅう)()(さつ)(ぎょう)(ぎょう)じたまひし(とき)(ない)()(いち)(ねん)(いち)(せつ)()も、(さん)(ごう)(しょ)(しゅ)みなこれ(しん)(じつ)(しん)のうちにしたまひしに()(()()(きょう)なり、(ぎょう)なり、(じゅう)なり、(ゆう)なり ってなり。おほよそ(ほどこ)したまふところ(しゅ)()をなす、またみな(しん)(じつ)なり」。と読んでいます。つまり、阿弥陀仏がまだ修行中のときの有様を同じように讃嘆したものですが、ここでも両者の読み方は違っています。すなわち、【通常の読下し文(善導『観経疏』)】で善導は「なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちに」となっており、ここまでは親鸞の引文も同じです。しかしその次から違ってきます。【通常の読下し文(善導『観経疏』)】では、「なしたまひ、おほよそ()()趣求(しゅぐ)したまふところ、またみな真実なるによりてなり。」であるのに対して、親鸞の引文は上の【読下し古文(親鸞引文)】をご覧いただきますと「なしたまひしに()ってなり。おほよそ(ほどこ)したまふところ(しゅ)()をなす、またみな(しん)(じつ)なり。」となっています。これによると【通常の読下し文(善導『観経疏』)】では、施為(他に、ほどこしを与える。即ち利他)も趣求(自身の往生を願うこと。即ち自利) も皆、真実心にもとずく阿弥陀仏ご自身のことととらえています。ところが親鸞の引文における読み方は、その中の「おほよそ(ほどこ)したまふところ(しゅ)()をなす、またみな(しん)(じつ)なり。ここで使われいる「趣求」は善導のように阿弥陀仏が修業中に往生成仏を願われた、いわば修行中の阿弥陀仏(即ち法蔵菩薩)ではなく、弥陀が施為(回向)された衆生の趣求(往生を願う心)であります。つまり「趣求」の主体が善導では仏にあり、親鸞では仏に回向された衆生にあることになります。これはすごいことで、親鸞の読み方では、衆生は趣求(即ち“往生を願うこころ”が起る事さえも、衆生自らの力に由るのではなく、仏の回向によるということです。
 次にです。先ず善導の意図と見られるB【通常の読下し文(善導の「至誠心」)】と【読下し古文(親鸞引文)】の、それぞれのの部分を読み比べてみます。
先ず最初の「また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。」この部分は同じです。その次からでは乃至(中略の意味)として、ずっと後の「不善の三業はかならず・・・・・」という所の手前(④のイ)までが親鸞聖人の引文では「乃至」として省略されています。すなわちの【通常の読下し文(善導『観経疏』)】では親鸞聖人が省略されたこの乃至の部分(④のア)では、例えば「真実心のうちに、自他の諸悪および()(こく)(とう)制捨(せいしゃ)して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に一切の菩薩の諸悪を制捨したまふに同じく、われもまたかくのごとくならんと想ふなり。」とか
 「真実心のうちに、自他(ぼん)(しょう)等の善を(ごん)(しゅ)す。真実心のうちの口業(くごう)に、かの阿弥陀仏および依正二報(えしょうにほう)を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報(えしょうにほう)の苦悪の事を()(えん)す。また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心のうちの身業(しんごう)に、合掌し礼敬(らいきょう)して、四事(しじ)等をもってかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢(きょうまん)厭捨(えんしゃ)す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ずるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死(しょうじ)三界(さんがい)等の自他の依正二報を軽賤(きょうせん)し厭捨す。」 となっています。このように、善導の漢文の各所を通常に訓読すれば、往生を願う人自身の真実心による努力精進を期待し、それを求めている節(ふし)があります。それに対して親鸞は、この部分の引文において
(1) 【通常の読下し文(善導『観経疏』)】の(④のア)から(④のイ)まで、往生を願う人自身の真実心による努力精進(いわゆる自力)を期待している節(ふし)がある部分を親鸞聖人は「乃至(中略)」として、きれいに省略しています。ことほど左様に人間の有限な不定な自力を親鸞聖人は徹底して否定されています。
(2) 次いで(④のイ)以降、最後までの文章にもBで大きな違いがあります。この部分のの文章を現代語訳または古文のいずれかを、お読みいただけばわかりますが、では「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外(ないげ)明闇(みょうあん)(えら)ばず、みなすべからく真実なるべし。ゆゑに()誠心(じょうしん)と名づく。」 これは真実心に基づく「至誠心」の獲得に衆生の側の努力を強く求めているのに対して、親鸞聖人の引文では「()(ぜん)(さん)(ごう)はかならず(しん)(じつ)(しん)のうちに捨てたまへるを用ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを(もち)ゐて、内外(ないげ)明闇(みょうあん)(えら)ばず、みな真実(しんじつ)(もち)ゐるがゆゑに()(じょう)(しん)()づく。 」 の文章にあるように「(しん)(じつ)(しん)のうちに捨てたまへるを用ゐよ。」とか「かならず真実心のうちになしたまひしを(もち)ゐて」など、全て弥陀の回向(他力)を須(もち)いることに委ねています。このことは親鸞聖人の体験に基づいて死ぬまで煩悩を消すことのできない、この世の人間に対する深い自覚にあったのではないでしょうか。
 以上、善導の『観経疏 散善義』の「至誠心釈」における善導の漢文を普通の訓読にした【通常の読下し文(善導『観経疏』)】と、同じ場所の親鸞聖人の引文を比べ、その違いを見てきました。私はこの事から一層、親鸞浄土教という真実教が深く胸に刻みこまれたように思いました。以下に、その事について箇条書きで述べさせていただきます。
(1) 親鸞浄土教の真髄ともいうべき第一の特徴は「弥陀の回向」、則ち「他力回向」が中心であること。これは上の文章で、善導が浄土往生の為には、衆生自らの真実心を求めているのに対して、親鸞はそれらの真実心をもってする行為を、全て弥陀が成仏される前に修行された結果(法蔵菩薩の修行の結果)の功徳を須(もち)いる(委ねる)ことによって全うしようとしています。
(2) これは”他人まかせ”といった安易なことでは勿論なく、師の法然に続いて親鸞自身も体験し思想した、自分たちも含んだ、この世の人間の有りようについての底なき深い絶望、この世にある人間の力では救いようのない絶対的な絶望にもとづくものではないでしょうか。人間として存在することの絶対的不条理というべきもの、つまり、端的な例を挙げれば、この世を絶対としたときの生きる意味、死ぬ意味の絶対的欠如です。そのとき法然、親鸞が必死ですがったのが、即ち大無量寿経にある弥陀の本願であり、その中の第十八願だったと思います。当時、経文に対する信頼度は現代とは比べ物にならないほど強いものだったでしょう。しかし経文だけではなく、法然も親鸞も、それによって自らを包み込む根源であり真実の親としての大いなるいのちに出会い、その真実の親としての願いである本願に、たどり着くべくして、たどり着いたのではないでしょうか。随って仏の本願は、単なる経文の中の言葉ではなく、それを超えた真実の親の願いを顕わしているのではないでしょうか。
(3) このように【通常の読下し文(善導『観経疏』)】即ち、善導の漢文の通常の読み方による訓読と、同じ部分を引文とした親鸞の読み方の違いを考えると、親鸞の引文は、元の善導の文章と同じとは考えられず、親鸞による引文は善導の文章を下敷きにした、親鸞独自の文章、いやそれどころか、親鸞自身の思想をストレートに述べた文章といえるのであって、これは、今、学んでいる『教行信証』全体の引文についても云えるのではないかと思います。
 以上、今回は『教行信証 信巻』の「至誠心釈」について学ばせていただきました。
〘語釈〙
[5]天人:仏典には、仏のはたらきを喜び、天楽を奏し、天華を降らせ、天香を薫じて、瓔珞(ようらく=ひらひら) をなびかせて虚空を飛行する。(仏教語大辞典)。したがって仏ではなく、仏の下位にあり人間に近い有情と 考えられる架空の存在。

今月は以上で終ります。



●今月の言葉(2020年6月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文10


【現代語訳(親鸞引文)】
 二つには深心(じんしん)である。深心ということは「深く信じる心」ということである。また、 これに二種がある。
 その第一は自身は現に底なき罪悪生死の凡夫、([1])劫(えいごう)の過去から常にこの世の大海で浮き沈みし 流転を繰り返し無明の闇に彷徨(さまよ)う絶望的存在であると信じざるを 得ぬこと。
 しかし第二には深く、かの阿弥陀仏の四十八願は、このような絶望的な我々人間を 阿弥陀ご自身の中に包み込んで衆生自らの思慮分別を超えて、弥陀の本願力に乗托して間違いなく 浄土に往生できると信じる。
 また、釈尊がこの『観経(かんぎょう)』に三福(世に尽そうとする 世俗の善、戒律を守る小乗の善、修行中心の大乗菩薩の善)と、浄土往生を願う者を九つ資質に分けた 九品、そして仏を静かに念じたり(定善)、この世において善事に励んだりする(散善)を説いて、かの 阿弥陀仏と、その浄土の真実を讃嘆して浄土往生を願わしめると信じる。
 また、阿弥陀経の中に十方無数の仏が、全ての凡夫に真実の教えを勧め必ず浄土に往生すると深く信じること。  ①また深く信ずるものよ。謹み仰いで願うことは、全ての行者たちは、一心に、たゞ仏の言葉を信じて、 身命を顧みず、ひたすら行によって、仏が捨てしめられるものは即ち捨て、仏が行ぜしめたまうものは即ち行じ、仏が行(去)かしめたまう処(ところ)には、速やかに行く。これを仏の教えに随順し、仏のこころに随順すると名づける。 これを仏の願いに随順すると名づける。 そして、これを真の仏弟子と名づける②。
 また、一切の人々よ、ただよく、この『観経』に依り、行を深く信じる者は必ず衆生を誤らせないのである。何故なら仏は、これ完全なる大悲の方であるが故に、仏の語られる言葉は真実であるが故に。 いまだ仏に成りえていない人は真実の智慧も行ないも完全でなく、それを学ぶ段階にあり、煩悩も除き尽くしていないから、悟りを求める願いそのものが完全に備わっていない。したがって、これらの凡夫や、 聖者も、たとい仏の意(おこころ)を推し量っても、完全に([2])解(りょうげ)することができない。仮に領解したように思っても、必ず仏に、それが間違いのないことであるとの証明をいただいてから決めるべきである。 もし、仏の意(おこころ)に称(かな)えば仏はお認めになって、それでよい、と言われる。 もし仏の意(おこころ)に称(かな)わなかったら「お前たちの説くところは間違っている」と言われる。 仏が認められない場合、これは無意味、無利益(むりやく)な説に同じということである。仏がお認めになったことは、すなわち仏の正しい教えに随順しているのである。もし、仏のお示しになることであるならば、 それは正しい教えであり、正しい説であり、正しい行いであり、正しい解釈であり、正しい振舞いであり、正しい智慧なのである。数の多少を問わず、全ての菩薩、人間、([3])の神々などの説くところは、 その是非を定めることが出来るだろうか、出来る筈がない。もし、仏が説かれる説ならば、これは完全に正しい教えなのである。菩薩、人間、天の神々などの説くところは、ことごとく不完全で正しくない教えであると名づけるので ある。 このことを、よくよく知るべきである。この故に、今、まさに、あらためて一切の有縁の願生者に勧める、ただ仏の言葉を深く信じて専ら日々の行いに励め。菩薩、人間、天の神々などの仏の教えに適っていない説を信用して、 真の仏の教えを疑い、惑って、浄土往生という、絶対的利益(りやく)を失ってはならないと。(中略)
〘語釈〙
[1]永劫(えいごう):無限に永い
[2]領解(りょうげ):納得
[3]天の神々:梵天、帝釈天など。

 【読下し古文(親鸞引文)】

  〈([4])(しゃ)(じん)(しん)〉。〈(じん)(しん)〉といふは、すなはちこれ(じん)(しん)(しん)なり。また二種(にしゅ)あり。(ひと)つには(けっ)(じょう)して(ふか)()(しん)(げん)にこれ(ざい)(あく)(しょう)()(ぼん)()曠劫([5]こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに()(てん)して、([6]しゅつ)()(えん)あることなしと(しん)ず。(ふた)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、かの()()()(ぶつ)()(じゅう)(はち)(がん)(しゅ)(じょう)([7]しょう)(じゅ)して、(うたがい)なく(おもんばか)りなく、かの(がん)(りき)(じょう)じて、さだめて(おう)(じょう)()(しん)ず。また(けつ)(じょう)して(ふか)く、(しゃ)()(ぶつ)この『(かん)(ぎょう)』に([8]さん)(ぷく)()(ぼん)(じょう)(さん)()(ぜん)()きて、かの(ぶつ)([9])(しょう)()(ほう)([10]しょう)(さん)して、(ひと)をして([11]ごん)()せしむと(しん)ず。また(けつ)(じょう)して、『()()(きょう)』のなかに、([12]じっ)(ぽう)(ごう)(じゃ)(しょ)(ぶつ)(いっ)(さい)(ぼん)()([13]しょう)(かん)(けっ)(じょう)して(しょう)ずることを() (じん) ( しん) するなり。①また (じん) (しん) するもの、(あお)(ねが)はくは(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)(とう)(いっ)(しん)にただ(ぶつ)()(しん)じて(しん)(みょう)(かえり)みず、(けっ)(じょう)して(ぎょう)によりて、(ぶつ)()てしめたまふをばすなはち()て、(ぶつ)(ぎょう)しめたまふをばすなはち(ぎょう)ず。(ぶつ)([14])らしめたまふ(ところ)をばすなはち()つ。これを(ぶっ)(きょう)(ずい)(じゅん)し、(ぶつ)()(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(ぶつ)(がん)(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(しん) (ぶつ) ()()()づく②。また(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)、ただよくこの『(きょう)』((かん)(ぎょう))によりて(ぎょう)(じん)(しん)するは、かならず(しゅ)(じょう)(あやま)らざるなり。なにをもつてのゆゑに、(ぶつ)はこれ(まん)(ぞく)(だい)()(ひと)なるがゆゑに、([15]じつ)()なるがゆゑに。(ぶつ)(のぞ)きて([16])(げん)は、([17])(ぎょう)いまだ()たず。それ([18]がく)()にありて、([19]しょう)(じゅう)()(しょう)ありていまだ(のぞ)こらざるによって、([20])(がん)いまだ(まど)かならず。これらの(ぼん)(しょう)は、たとひ(しょ)(ぶつ)(きょう)()(しき)(りょう)すれども、いまだ(けつ)(りょう)することあたはず。([21] びょう)(しょう)することありといへども、かならずすべからく(ぶつ)(しょう)()うて(じょう)とすべきなり。もし仏意に(かな)へば、すなはち([22]いん)()して〈 如是如(にょぜにょ)()〉とのたまふ。もし(ぶつ)()(かな)はざれば、すなはち〈なんだちが(しょ)(せつ)、この()()(にょ)()〉とのたまふ。(いん)せざるは、すなはち([23])()([24])()([24])(やく)()(おな)じ。(ぶつ)(いん)()したまふは、すなはち(ぶつ)(しょう)(きょう)(ずい)(じゅん)す。もし(ぶつ)(しょ)()(ごん)(せつ)は、すなはちこれ(しょう)(きょう)(しょう)()(しょう)(ぎょう)(しょう)()(しょう)(ごう)(しょう)()なり。もしは()もしは(しょう)、すべて()(さつ)(にん)([25]てん)(とう)()はず、その()()(さだ)めんや。もし(ぶつ)(しょ)(せつ)は、すなはちこれ([26]りょう)(きょう)なり。()(さつ)(とう)(せつ)は、ことごとく()(りょう)(きょう)()づくるなり、()るべし。このゆゑに(いま)(とき)(あお)いで(いっ)(さい)()(えん)(おう)(じょう)(にん)(とう)(すす)む。ただ(ぶつ)()(じん)(しん)して(せん)(ちゅう)([27])(ぎょう)すべし。()(さつ)(とう)()(そう)(おう)(きょう)(しん)(よう)して、もって()()をなし、(まど)ひを(いだ)いて、みづから(まど)ひて(おう)(じょう)(だい)(やく)(はい)( しつ)すべからざれと。(乃至)
〘語釈〙
[4]二者:二つには(このばあいの「者」の字は「もの」と読むのではなく「…は」と読む)
[5]曠劫:はるかな昔
[6]出離:煩悩の世俗を離れ仏教的さとりの世界に入ること
[7]摂受(しょうじゅ)して:摂取して、包み込んで
[8]三福・九品・定善・散善:【現代語訳(親鸞引文)】の9行目〜12行目を参照
[9]依正二法(えしょうにほう):依(依報)は仏国土(浄土)、正(正報)は仏身(阿弥陀仏)
[10]証讃:證誠讃嘆の略、真実であることを証明し褒(ほ)めたたえること
[11]欣慕:「ごんぼ」と読む(または「ごんも」とも〈仏教語大辞典〉)、厭離穢土、欣求浄土のこと。
[12]十方恒沙の諸仏:あらゆるところにガンジス川の砂粒ほどいる諸仏
[13]証勧:真実であることを証明し、信ずべきであることを勧める
[14]去らしめたまふ:去は行くの意。したがって、「行かしめたまふ」の意味。
[15]実語:まことのことば、真実のことば(仏教語大辞典)
[16]以還(いげん):以来、以後。
[17]智慧と行。
[18]学地:まだ学習せねばならない段階。さらに学ぶべきことのある境界 (これに対して学ぶことがなくなった境界を無学という。)まだ煩悩を断じておらず、そのために 修行しているものを有学といい、その境地を学地という。
[19]正習(しょうじゅう)の二障:正使(しょうじ)と習気(じっけ)の二つの障り。正使は煩悩そのもののこと。 習気とは煩悩そのものが断ぜられても、なお習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。
[20]果願:仏果(仏のさとり)を求める願。
[21]平章:道理を正しく明らかにすること。
[22]印可:認可、認容すること。印とは仏の言葉をもって間違いないと定められていて改易できないこと をいい、可とは仏の心にかなったことをいう。
[23]無記:→無記(大判テキスト巻末註24頁)
[24]無利・無益:どちらも利益(りやく)のないこと。
[25]天:①天界、天の世界。②天の神々。
[26]了教:了義教のこと。真実を完全に説きあらわした教え。
[27]奉行:行を奉(たてまつ)る。修行する。実行する。

 


 【HP作成者感想】
 善導の三([28])釈からの引文のうち、前回の「至誠心釈」に続いて今回は「深心釈」について味あわせていただきます。先ず善導は「深心」の定義から始めます。
深心ということは「深く信じる心」ということであるとし、 これに二種あると述べます。そして古来から有名且つ、悲しくも私たちの真実の姿を顕わにした(1)のことばが続きます。
 (1)「
(ひと)つには(けっ)(じょう)して(ふか)()(しん)(げん)にこれ(ざい)(あく)(しょう)()(ぼん)()曠劫(こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに()(てん)して、(しゅつ)()(えん)あることなしと(しん)ず」。
 まず(1)です。  「自身は現に罪悪生死の凡夫」。 自身とは自分のこと、すなわち私のこと、この私を振り返って罪悪とは無縁であると誰が云い得るでしょうか。特に全動植物のいのちを好きなように支配している人間の在り方こそ、 罪悪そのもの ではないでしょうか。これを自然の摂理であるなどと平然としていることこそ、まさに人間の独善です。またその一方で、本当の意味で、この世における、生きる意味の喪失と絶対的な死の不([29])理をかかえた存在であるのも 人間です。おそらく、直接的には法然、親鸞をはじめとして、釈尊以来の七高僧、その他の歴史に残る仏教者も、すべて、この世における、この宿命の底なき恐怖にまず直面したのではないでしょうか。この底なき恐怖に堕ちて行かんとするとき、必死にすがったのが『大無量寿経』の「四十八願」の衆生を摂取して捨てないという経文にあったのではないでしょうか。仏の言葉である『経』は、仏教者にとって、 最大の「信」の源泉であったからです。しかし、これらの仏教者は同時に、曠劫の過去以来、生まれ変わり死に変わりしてたどり着いた自らの在りようを振り返ったとき、そこに、自らの在りようの源泉、 真実の親ともいえる大いなる「いのち」そのものに触れたのではないでしょうか。それこそ、不条理なる絶望の底に喘いでこそ触れうる「大いなるいのち」であったのではないでしょうか。それこそが次の

 (2)「 (ふた)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、かの()()()(ぶつ) ()(じゅう)(はち)(がん)(しゅ)(じょう)(しょう)(じゅ)して、 (うたがい)なく(おもんばか)りなく、かの(がん)(りき)(じょう)じて、さだめて(おう)(じょう)()(しん)ず。」という善導の言葉であったのだと思います。
 この後、善導は、『観経』の([8])福、九品、定善、散善の功徳を説き、かの仏(阿弥陀仏)の([9])正二法を証讃して人々をして阿弥陀仏とその浄土に生まれることを慕い願わせます<この間(かん)の三福(さんぷく)、九品(くぼん)等の 仏教用語の語釈は上の現代語訳をご覧ください>。また、あまたの仏が『阿弥陀経』において、全ての我々凡夫が(念仏によって)間違いなく浄土往生することを証し勧めておられることを信じると、善導は表白します。
そして、その次に、善導は、まことに特徴のある印象深い言葉を私たち凡夫に告げます。 それは、上の「読下し古文(親鸞引文)」の①〜②の間の文章です。すなわち[①また
(じん) (しん) するもの、(あお)(ねが)はくは(いっ)( さい)(ぎょう)( じゃ)(とう)(いっ)( しん)にただ(ぶつ)( )(しん)じて(しん)( みょう)( かえり)みず、(けっ)( じょう)して(ぎょう)によりて、(ぶつ)()てしめたまふをばすなはち()て、(ぶつ)(ぎょう)しめたまふをばすなはち(ぎょう)ず。(ぶつ)()らしめたまふ(ところ)をばすなはち()つ。これを(ぶっ)(きょう)(ずい)(じゅん)し、(ぶつ)()(ずい)( じゅん)すと()づく。これを(ぶつ)(がん)(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(しん) (ぶつ) ()()()づく。②]の文章です。
A現代語訳(親鸞引文)では同じくその①~②のように、ほぼ「読下し古文(親鸞引文)」に使われている言葉通りに訳しておきましたが、いくつかの「教行信証の現代語訳」では、そうではなくて、訳者の仏教的判断によって、 いろいろ付随した言葉が付け加えられています。私見ですが、このような、訳者の付言については、かえって、本来の原文の意図している意味を、ある見方に限定し、読む者の視野を限定してしまうのではないでしょうか。 例えば、今、次の青色リンクをクリックしていただいて二つの現代語訳の内容を見てみますと、まず(イ)では①〜②の間の現代語訳で、元の原文では 「仏が捨てしめられるものは即ち捨て」と捨てしめられる対象は特に規定されていないのに、ある種の解説書には、
仏の捨てよと仰せられる ([30])行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)はこれを捨て」とあります。すなわち、元の原文にはない「雑行雑修」を捨てる対象として規定されてしまっています。 また、「 仏の行ぜよと仰せられる([31])修正行(せんじゅしょうぎょう)はこれを行じ。」 とありますが、もとの原文では「仏が行ぜしめたまうものは即ち行じ」であって、行ぜしめたまう内容が「専修正行」であると、原文のどこにも書かれていません。 さらにまた、原文には「仏が行(去)かしめたまう処(ところ)は速やかに行く。」であって、上記リンクの「二つの現代語訳」の(イ)の 「仏の去(ゆ)けよと仰せられる 御浄土へ往生するがよい。 のように「行(去)けよと仰せられる先が御浄土」であると原文には規定されているわけでありません。なるほど、付け加わった「雑行雑修」や「専修正行」や「御浄土」は真宗教学的に正しいのかも知れませんが、 これでは原文にある宗教的に迫力ある伸びやかさが、付け加わった言葉によって規定されてしまい、まことに宗教的に固くなで伸びやかさが失われ、いわば平凡な発展性のない、型にはまった表現になってしまいます。それに対して 二つの現代語訳の内、(ロ)では「仏のみこころのままに、仏の捨てしめ給うものは捨て、仏の行わしめ給うものは行い、 仏の行かしめ給うところは行くことである」とあるように、仏が捨てしめ給うのも、行なわしめ給うのも、行(去)かしめ給うのも、すべてその内容をこちらの方で決めてしまうのではなく「仏のみこころのままに」 捨て、行ない、そして行(去)かしめ給うのであるとしています。そして、この現代語訳をされた人物は現代の真宗教団と無縁の人かというと、そうではなくて、いくつかある、現代の真宗教団の 内でも最大の教団の宗学者です。それはともかくも、私はこの(ロ)の現代語訳こそ、原文の意をそのままに率直に、そして伸びやかに表現するものであると思っています。
 以上、今回は深心釈の前半を讃嘆させていただきました。この部分について、私の申し上げたかったことは以上です。このあと文章は少し続きますが、この部分は上の【読下し古文(親鸞引文)】および【現代語訳(親鸞引文)】 をお読みいただき、皆さまの自由な思索をお願いするところです。
〘語釈〙
[28]三心釈:この場合、善導が『観無量寿経』の三心(至誠心、深心、迴向発願心)を註釈したものを指す
[29]不条理:人生に意義を見出せないこと。絶望的な状態を指すことに用いる。
[30]雑行雑修:浄土教で念仏以外のもろもろの行をいう。
[31]専修正行:浄土教において、もっぱら正行を修すること。

今月は以上で終ります。


●今月の言葉(2020年7月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文11


【現代語訳(親鸞引文)】
 この故に、今、まさに、あらためて一切の有縁の([1])生者に勧める、 ただ仏の言葉を深く信じて専ら日々の行いに励め。 菩薩、人間、天の神々などの仏の教えに適っていない説を信用して、真の仏の教えを疑い、惑って、 浄土往生という、絶対的利益(りやく)を失ってはならないと。(中略1)
 釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。すなわち、『阿弥陀経』に< 釈尊は極楽浄土の種々のすばらしさを讃嘆され、また一切の凡夫に一日乃至七日にも一心に弥陀の名号をもっぱら 念じれば、間違いなく往生を得ることが出来ると勧め給うと。また、その次の文にも、全ての世界に、それぞれ 数かぎりない仏がおられて、この文でも釈尊が末法五濁の盛りなる時に、弥陀の名号を指して讃嘆し、衆生に 称名念仏すれば必ず浄土往生することができると讃嘆されていると>説かれているのがその証拠である。  また、全ての世界の仏たちは、衆生が釈尊お一人の説かれるところを信じないことを恐れて、 即刻同時に、同じこころで、各々の仏が、声をそろえて、あまねく三千世界にわたって、まごころをこめて <あなたがた衆生は、みなこの釈尊が説かれところ、称賛されるところ、証(あかし)されるところを 信じるべし。すなわち一切の凡夫は、その功罪の多少、時の古今を問わず、ただよく、長くは百年に満ちる 寿命から、短くは一日乃至七日に至るまで一心に弥陀の名号を専(もっぱ)ら念じ、間違いなく往生すること は疑いがないことだと>説かれている。この故に一仏の説かれるところを一切仏は同じように、そのことを 心をこめて証(あか)される。これを釈尊や諸仏を信じることであると名づけるのである。(中略2)  また、正行(読誦([2]どくじゅ)観察([3]かんざつ)、礼拝、称名、讃嘆)の中に二種類がある。一つには一心に弥陀の名号を 専(もっぱ)ら念じて、行住坐臥に時の古今を問わず、念々に称名を捨てないこと、これを正定の業と 名づける。すなわち仏願(弥陀の本願)に順ずるが故である。このほかの業(読誦、礼拝、観察、讃嘆) は、名づけて助業とする。この正助二行を除いた他の行はことごとく雑行と名づける。(中略3)これらは全て 阿弥陀仏の回向を離れた行き届かない雑な行と名づけるのである。以上、正定の業たる称名に究極する のを深心と名づけるのである。
〘語釈〙
[1]願生者:浄土往生を願う者
[2]読誦:経を読むこと。
[3]観察:浄土の情景や仏の姿を思い浮かべること。

 

 【読下し古文(親鸞引文)】

 このゆゑに(いま)の時、 (あお)いで(いっ)(さい)()(えん)(おう)(じょう)(にん)(とう)(すす)む。ただ(ぶつ)()(じん)(しん)して([4]せん)(ちゅう)([5]ぶ)(ぎょう)すべし。()(さつ)(とう)()(そう)(おう)(きょう)(しん)(よう)して、もって()()をなし、(まど)ひを(いだ)いて、みづから(まど)ひて(おう)(じょう)(だい)(やく)(はい)(しつ)すべからざれと。(乃至1)
 釈(しゃ)()(いっ)(さい)( ぼん)()([6]し)(かん)して、この(いっ)(しん)(つく)して(せん)(ねん)(せん)(じゅ)して、(しゃ)(みょう)()()さだめてかの(くに)(うま)るれば、すなはち(じっ)(ぽう)(しょ)(ぶつ)ことごとくみな(おな)じく()め、(おな)じく(すす)め、(おな)じく(しょう)したまふ。なにをもってのゆゑに、同体([7]どうたい)大悲(だいひ)なるがゆゑに。一仏(いちぶつ)所化([8]しょけ)は、すなはちこれ一切仏(いっさいぶつ)([9]け)なり。一切仏(いっさいぶつ)()は、すなはちこれ(いち)(ぶつ)(しょ)()なり。すなはち『()()(きょう)』のなかに()かく、〈(しゃ)()(ごく)(らく)(しゅ)(じゅ)(しょう)(ごん)(さん)(だん)したまふ。また(いっ)(さい)(ぼん)()(すす)めて、(いち)(にち)(しち)(にち)(いっ)(しん)()()(みょう)(ごう)(せん)(ねん)せしめて、さだめて(おう)(じょう)()しめたまふ〉と。(つぎ)(しも)(もん)にのたまはく、〈(じっ)(ぽう) におのおの(ごう)()(しゃ)(とう)(しょ)(ぶつ)ましまして、(おな)じく(しゃ)()よく()(じょく)(あく)()(あく)()(かい)(あく)(しゅ)(じょう)(あく)(けん)(あく)(ぼん)(のう)(あく)(じゃ)()(しん)(さか)りなる(とき)において、()()(みょう)(ごう)()(さん)して(しゅ)(じょう)(かん)(れい)せしめて、(しょう)(ねん)すればかならず(おう)(じょう)()(さん)じたまふ〉と、すなはちその(しょう)なり。   また(じっ)(ぽう)(ぶつ)(とう)(しゅ)(じょう)(しゃ)()(いち)(ぶつ)(しょ)(せつ)(しん)ぜざらんを()()れて、すなはちともに(どう)(しん)(どう)()におのおの ([10]ぜっ)(そう)(いだ)して、あまねく(さん)(ぜん)()(かい)(おお)ひて(じょう)(じつ)(ごん)()きたまはく、〈なんだち(しゅ)(じょう)、みなこの釈迦(しゃか)所説(しょせつ)所讃(しょさん)所証(しょしょう)(しん)ずべし。一切(いっさい)凡夫(ぼんぶ)(ざい)(ふく)多少(たしょう)時節(じせつ)()(ごん)()はず、ただよく(かみ)(ひゃく)(ねん)(つく)し、(しも)(いち)(にち)(しち)(にち)(いた)るまで、一心(いっしん)弥陀(みだ)名号(みょうごう)専念(せんねん)して、さだめて(おう)(じょう)()ること、かならず(うたがい)なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば すなはち (いっ)(さい)(ぶつ)(おな)じくその()([11]しょう)(じょう)したまふなり。これを([12]にん)()いて(しん)()つと()づくるなり。(乃至2) またこの([13]しょう)のなかについてまた二種(にしゅ)あり。(ひと)つには、一心(いっしん)弥陀(みだ)名号(みょうごう)専念(せんねん)して、(ぎょう)(じゅう)()()()(せつ)()(ごん)()はず、(ねん)(ねん)()てざるをば、これを([14]しょう)(じょう)(ごう)()づく、かの(ぶつ)(がん)(じゅん)ずるがゆゑに。もし([15]らい)(じゅ)(とう)によらば、すなはち()づけて(じょ)(ごう)とす。この(しょう)(じょ)()(ぎょう)(のぞ)きて()()()()(しょ)(ぜん)は、ことごとく(ぞう)(ぎょう)()づく。(乃至3) すべて([16]そ)(ぞう)(ぎょう)()づくるなり。ゆゑに(じん)(しん)()づく。

『語注』
[4]専注:もっぱら。
[5]奉行:行を奉じる=修行する。
[6]指勧:指し示して勧めること。
[7]同体の大悲:同じ大いなるいのちの根源からの大悲
[8]所化:さとりの内容、導きの内容。
[9]化:導き
[10]舌相を出(いだ)して:仏が示す三十二の相の一つ。舌を出すのは教説が
     仏によるもので真実であることを証明するという意味を持つ。
[11]証誠(しょうじょう):真実であることを証明する。
[12]人(にん):この場合の「人(にん)」の解釈は難解ですが二つの説があり
(1)釈尊や諸仏を指す。これは比較的常識的で「一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ることを 指勧し、指讃し、証誠される釈尊や諸仏を人(にん)として、これに信を立つ(信心する)という意味と受取るか。
(2)四重の罪を犯す、どうしようもないような人間(煩悩に満ちた存在)を人(にん)として、 そのような人間でも「一心専念弥陀名号」に依れば信が立つ(往生成就)という意味に受け取るか。
(3) (1)と(2)の両方を同時に受け取るか。
      以上、結論が付かず難解です。
[13]正(しょう):正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の五つ。
[14]正定の業:上の五正行の内の「称名」すなわち阿弥陀仏の名号を称えることをいう。
[15]礼誦等:五正行の内、かの仏願(第十八願)に順ずる正定業たる「称名」以外の四正行(読誦、 礼拝、観察、讃嘆)を助業として「礼誦等」とした。
[16]疎雑の行:弥陀の大悲と疎遠な雑行(ぞうぎょう)。


【HP作成者感想】 前回は読下し古文で「([17])至」、同じ部分の現代語訳では「中略」で終わりました。 「乃至(中略)」は、『教行信証』の他の引文でも度々出てきます。 今回は、この「乃至(中略)」の意味の一端を考え、併せて、親鸞聖人が 「乃至(中略)」されたお心を窺(うか)がってみたいと思います。 そのために今月の文章の最初に先月の最後の部分を、あらためて掲載しました。では、親鸞聖人が 「乃至(中略)」された善導の散善義の文章はどのような文章でしょうか。 まずは、この青色リンク「乃至(中略)」をクリックし、最初の(イ)の文章 をご覧ください。これを見ますと、先ず最初のところで善導は「また深心(じんしん)は「深き信なり」 といふは、([18])定(けつじょう)して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯(ぎしゃく)を除きて、 一切の別解(げつげ)・別行・異学・異見。異執のために、退失し傾動せられざるなり。」と述べています。 これを見ますと「決定(けつじょう)して自心を建立して」とあるのは、親鸞浄土教からは、どう考えても 他力ではない、自力のはたらきを鼓吹しているとしか考えられません。この後の文章でも一貫して 浄土往生を願う行者は、異学・異見の人々が、いろいろと「深信者」に対して、妨難して「お前たちの 信心では浄土往生はかなえられない」と言ってきても、それらに対して如何に強固に自己の信心が間違い ないものであるかということを主張すべきであるかを、繰り返し繰り返し説いています。すなわち、 善導はこの部分で、浄土往生を願う行者は自らの意志の限りを尽くして、自らの願生心が間違いなく、 ゆるぎないものであることを自他ともに示すべきであると説いています。つまり行者の願生心も 信心もすべて行者の側の強固な意志、いわば自力の限りを尽くして確固たるものにするべきであると いうのが、この部分の善導の主張です。したがって、この部分には、親鸞のいう全てを弥陀の本願他力に委ねると いう思想は見られません。  そのようなわけで、親鸞聖人が、この部分を「乃至1(中略1)」とされたのは、私なりに考えますと 師の法然聖人がひとえに尊崇された善導大師の『散善義』の引文ではあるが、ここは「乃至1(中略1)」 とされたのではないかと推し量るところです。
 今回の引文の範囲で、次に注目されるところは、
【現代語訳】では以下のところです。 「釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。」
 【読下し古文】では「  釈 (しゃ) () (いっ) (さい)(ぼん)()()(かん)して、この(いっ)(しん)(つく)して (せん) (ねん ) ( せん) (じゅ) して、 (しゃ) (みょう)()()さだめてかの(くに)(うま)るれば、すなはち(じっ)(ぽう)(しょ)(ぶつ)ことごとくみな(おな)じく()め、(おな)じく(すす)め、(おな)じく(しょう)したまふ。なにをもってのゆゑに、同体(どうたい)大悲(だいひ)なるがゆゑに。一仏(いちぶつ)所化(しょけ)は、すなはちこれ一切仏(いっさいぶつ)()なり。一切仏(いっさいぶつ)()は、すなはちこれ(いち)(ぶつ)(しょ) ( )なり。」
以上の引文を読みますと印象的な部分は【読下し古文】で「同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなは ちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」のところです。私はこの場合の 一仏とは釈尊のことであり、一切仏とは諸仏のことであるというのが一般的な解釈だと思います。しかし同時に 釈尊も含めた諸仏のさとりの内容は根源的一仏すなわち阿弥陀仏のさとりの内容であり、阿弥陀仏のさとりの内容 は、一切仏、すなわち釈尊も含めた諸仏のさとりの内容であるというふうに受取りたいと思います。何故そのように思うかと いうと、親鸞浄土教において臨終一念の夕べ、いのち終わって晴れて仏になった場合は、阿弥陀仏と一体 になると思うからです。山崎弁栄師のうたに「天地(あめつち)も、みなみほとけの中なれば、いずこか 弥陀のそとにやはある」とありますが、これはこのことを顕しているのだと思います。このことが拝受 できれば、このあとの文章は、最後まですんなりと拝受されるのではないでしょうか。さて、この後の「読下し古文」とその「現代語訳」の文章 の中の二カ所に比較的短い文章ですが「乃至」、すなわち「中略」があります。
その内、乃至2および中略2は、この青字の部分をクリックしていただくと表示されます。
 この「乃至2(中略2)」の文の最初は、「読下し古文」では「次に行(ぎょう)に就きて信を立つといふは」 という文章から始まります。これは、この乃至2の文章の前に、一仏の所化は一切仏の所化であり、一切仏の所化は一仏の所化であるという、すべての仏のさとりの内容は阿弥陀仏のさとりの内容と同じだということをが 弥陀・釈迦・諸仏を所説を信ずるということ、すなわち「人(にん)に就きて信を立つ」と名づくとした文章に続く文として「次に行に就きて信を立つというは」の文から乃至2の文が始まるということです。すなわち「行によって どのように信を確立するか」ということから、始まるのです。このテーマに取り組むために、善導は行について二種ありとして、それが正行と雑行と名づけられる行であるということから始めます。そして、正行とは、どのような 行かということを述べます。これが、もっぱら往生経(『大経』、『観経』、『阿弥陀経』)の行に依るので、正行はこの三つの経の「読誦(どくじゅ)」からはじまり、浄土と弥陀の姿を心の中にしっかりと取り込む『観察(かんざつ)』、 更には、全ての仏のさとりの内容である弥陀仏を『礼拝』し、さらに一心に弥陀の名号を称える『称名』、そして、弥陀を『讃嘆』すること、この五つを正行とするのだというところまで述べたところが「乃至2」になっています。 親鸞聖人が、『教行信証』の引文でここを乃至として、はぶかれたのは何故か、いろいろと考えをめぐらす ことはできますが、この「乃至2」の文章構成を見ますと、善導が「行に就きて信を立つ」ということを 全体として説明するはじめに、まずそれには正行と雑行の二種があるとし、その後は、この内、正行として 五つの行をあげています。それが「読誦」、「観察」、「礼拝」、「称名」、「讃嘆」になるのですが、 善導は、これらの行を行ずるのに「一心に、専ら」とか「一心に、専注して」とか、とにかく願生者である 衆生の側のひたすらなる専念努力を求めているように読めます。このことについて親鸞は師の法然の教え そして、自己の経験から、自らの努力の絶対的無力を身に染みて体験している立ち位置からやはり、この部分 を積極的に引文に取り入れるのを躊躇されたのではないでしょうか。そして次の文章、親鸞聖人が再び引文を 始めておられる正定の業、すなわち師の法然聖人が唯一選択された『称名』に力点をおき、これをはっきりと示さんがために、 その前の部分を「乃至2」として省かれたのではないでしょうか。そして親鸞聖人は、その直後に 「一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問わず念々に捨てざるは、これを 正定の業と名づく、かの仏願に順ずるが故なり。」を一気に引文されます。この文章こそ、なによりも 師の法然上人の心眼を開くことになった称名一筋の正定業の内容を表した部分であることを顕(あきら)かに するものであり、そして自余の四正行(読誦、観察、礼拝、讃嘆)を助業と位置付けられていることを顕かにし 、更に正助二行を除いた以外の諸善は、すべて雑行と名づくものであって、浄土往生には繋がらない自力 疎雑(そぞう)の行であるとする善導の文章を明らかにされます。この文章の中に「乃至3」があります。 簡単な文章ですから次に示しますと「もし前(さき)の正助二行(しょうじょにぎょう)を修(しゅ)すれば 、心つねに〔阿弥陀仏〕に親近(しんごん)して憶念(おくねん)絶えず、名づけて無間(むけん=絶え間がない) となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断(けんだん=こころが散りじりになる)す、回向して 生ずることを得べしといへども」 ここまでが「乃至3」として中略されています。そして親鸞聖人は 「乃至3」の前の文章に続けて間をおかずに「すべて疎雑の行と名づく。故に深心と名づく。」と善導の深心 釈を引文されてこの項を終わられます。親鸞聖人がなぜ善導のこの部分の文章を「乃至3」として省かれたか を詮索するのは、あまり意味がないのかもしれませんが、ひとつ考えられることは、善導の散善義では 「正行ではない雑行を行じた場合に、心が常に間断する、しかし、雑行と言えども、それを一心に仏に回向し て浄土に生まれる因とすることは不可能とはいえない」と、やや雑行の可能性も認めた内容に なっています。親鸞聖人は、思い切って、これを乃至(中略)することによって、この部分を引文から切り捨てています。これは、浄土往生は 徹底して弥陀の本願力への信によるのであって、自らの、この世的な力、いわゆる自力の雑行によって 浄土往生を遂げることは究極的に不可であるとする親鸞聖人のおこゝろがうかがえるのではないかと思うと ころです。
最後に、親鸞聖人は、「故に深心と名づく。」という言葉で結ばれています。これは、すくなくとも正行と 雑行の二つを比べて、正行に就くことを、そして、正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の中にも偏(ひとえ) に正定の業である『称名』に専念することが、「行に就きて信を立つ」ということであり 更には、この事こそ、浄土往生が成就される『深心』ということであるとする善導の散善義からの引文の 意味を親鸞聖人もここで明らかにされたのでしょう。  以上、今回は、本文中の「乃至」すなわち現代語訳で「中略」の内容を詮索することによって、私見ではあ りますが、親鸞聖人のおこゝろをうかがってみました。 次回以降にも、「乃至」すなわち現代文で「中略」は多く出てきますが、基本的に一々これの意味を窺がう という煩瑣なことはせず、どうしても必要な場合以外は親鸞聖人の「乃至」はそのまま、「乃至」として拝受 して、あまりあれこれと詮索しないで、この『教行信証』の引文を味あわせていただきたいと思っています。  まことに、以上のことを考えますと、『教行信証』における引文は、『浄土三部経』をはじめとする 諸経、そして、それにつづく七高僧はじめとする論釈からの引文でありますが、これらにおける親鸞聖人の 「読み替え」、および「乃至」の意味合いを考えますと、これら引文は、すべて親鸞聖人の文章になって いるという感を深くするところです。
〘語釈〙
[17]乃至:中間を略すこと。現代語訳で「中略」と訳されている。ここでは古文と現代語の両方を 意味する表現として「乃至(中略)」とした。
[18]決定(けつじょう)して:決断安住して動かないこと。

今月は以上で終ります。



●今月の言葉(2020年8月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文12
今月は、善導の『観経疏 散善義』の内、「発願迴向釈」の前半について学ばせていただきました。 後半には、あの有名な「二河白道の譬(たとえ)」があるためです。「二河白道の譬」は来月にしっかりと 学ばせていただきたいと思っております。
前半のみとはいえ、やはりここにも、いろいろと考えさせられる部分がありました。 お読みいただいたうえ、ご批判ください。
  【現代語訳(親鸞引文)】
三つには[1]回向発願心(えこうほつがんしん)と説かれている。(中略)  また、回向発願して浄土に往生しようとする者はかならず真実心の内に 回向される弥陀仏の願いをいただいて 往生すると思うべきである。この心からの深信こそ金剛のごとく壊れない信であって、一切の異見、異学 、別の解釈や別の修行法をとる人たちによって動乱し打ち破られることのない深信である。たゞたゞ一心に 自らの信にもとづいて正しい直道を進んで、異学・異見の人々のいうことに耳を傾けてはならない。 すなわ ち、あれこれと欲張って、ひるみ、ためらい、疑いの心を起し迷うならば、この度の往生という 大いなる利益(りやく)を失うのである。
 問うていう。もし他力回向の教え以外の雑多な行を奉ずる人が来て惑わし、あるいは種々の疑いや非難 をまじえて、お前さんの信心では浄土往生は無理だと言い、或いは次のようなことを言ったとしよう。 「お前たち衆生は限りなき昔から、および今生きているこの世の全ての身の上での振舞いにおいて、 間違いなく、十悪・五逆・あるいは殺・盗・婬・妄語という四重(しじゅう)の罪、謗法(ほうぼう= 仏法を謗る)・闡提(せんだい=生死にとらわれ出離を願わない。)・破戒(はかい=戒律を破る)・破見(正しい 仏の見解を見失うこと=邪見。)などの罪を造って、いまだに、それらを除き去ることができず、 しかもこれらは今生の世界の悪道に直接繋がっている。 このような状態で、どうして、[2]多劫輪廻の中のわずかな一生の間の念仏の功徳ぐらいで、すぐさま穢れの無い永遠の浄土に生まれて不退転の位を悟ることができようか。 できるはずがない。」このようにいわれたときはどうすればいいのか。
 答えて言おう。諸仏の教えや行は数知れない。覚りを領受する衆生の因縁も衆生の[3]機根に応じて一つ ではない。例えば世間の人が、 その眼に映じたことを信じるのは、 光が黒暗を晴らし、虚空が 物を納め、大地が物を載せ、水がよく生き物 を潤し、火がよく(煮炊きして)物を役立たせたり、(火災などで)壊したりする事実を見て 信じるのと同じである。これらの事は、すべて、 それら個々の事態に対応する法と名づける。すなわち、 世のなかのことで目に見えるものは千差万別である。いかにいわんや仏法の不思議な力によって様々に 対応する法門となり、種々の迷いの門をを出る利益がないはずはない。 したがって、(1)一門を出離するということは、一煩悩を出離するということである。(他に多くの法門がある 中で、一つの法門は一人の衆生に応じた教行によって煩悩を出離させることができるのである) 。 したがって、 (2)一門に入るということは、すなわち一つの[4]解脱の智慧の門に入ることである。(他に多くの法門 がある中で、一つの法門は一人の衆生に適した教行によって解脱の智慧の さとりに入らしめるのである。) このような事柄によって、自己に与えられた縁に従って修行し、各々が解脱の道を求めるべきだ。 あなたは何故、私に縁のない行法でもって、私を惑わそうとするのか。しかるに私に与えられた行法は わたしに因縁のある行法であって、あなたが求めているようなものではない。あなたが願うところは、 あなたに与えられた因縁による行法であって、私の求めるところのものではない。この故に、各々が自分に 適した道に随(したが)って修行するならば、かならず、それぞれが速やかに解脱を得るのである。 仏道を学ぶものは、まさに知るべきである。もし解脱のさとりを学ぼうと思うならば、 凡夫の法から聖者の法、さらには仏のさとりの法にいたるまで、どれを学んでも一切障りは無い。みな、 学んだらよいのだ。しかし本当に仏道を学ぼうと思うならば、かならず、自分に縁のある自分にふさわしい 仏道を学ぶべきだ。それは、自分にふさわしいが故に、多くの努力を要せず、しかも多くの利益(りやく) を 得るのである。

〘語釈〙
[1]回向発願心 Ⅰは他力の回向発願心。 Ⅱは自力の回向発願心 (HP作成者解釈)
Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。
Ⅱ.自己の修めた善根をふり向けて浄土へ往生しようと願う心。
(Ⅰ・Ⅱの定義は インターネットWikiArcより)
[2]多劫輪廻:無限の時間の生まれ変わり死に変わり。
[3]機根:素質
[4]解脱の智慧:さとり

【読下し古文(親鸞引文)】

 〈 (さん) ([5]じゃ)()(こう)(ほつ)(がん)(しん)〉。(乃至) ([6])()(こう)(ほつ)(がん)して (しょう)ずるものは、かならず (けっ) (じょう) して(しん)(じつ)(しん)のうちに()(こう)したまへる(がん)(もち)ゐて([7]とく)(しょう)(おもい)をなせ。この(しん)(じん)(しん)せること(こん)(ごう)のごとくなるによりて、(いっ)(さい)()(けん)()(がく)([8]べつ)()(べつ)(ぎょう)(にん)()のために(どう)(らん)()()せられず。ただこれ(けっ)(じょう)して(いっ)(しん)()って(=信心をしっかりと掴んで)(しょう)(じき)(=正しく真直ぐ)に(すす)んで、([9])(ひと)()()くことを()ざれ。すなはち(しん)退(たい)(しん)(=進んだり退いたりするふらふらの心)ありて(こう)(にゃく)(=恐れ弱気)を(しょう)じて ([10]え)()すれば、([11]どう)()ちて(=道をはずれて)すなはち(おう)(じょう)(だい)(やく)(しっ)するなり。
  
()うていはく、もし()(ぎょう)()(どう)(行に対する解釈が同じでない)(じゃ)(ぞう)(ひと)()(雑行・雑善を修し、それによって阿弥陀仏の浄土に往生しようとする人等)ありて、(きた)りてあひ(わく)(らん)して、あるいは(しゅ)(じゅ)()(なん)()きて〈(おう)(じょう)()じ〉といひ、あるいはいはん、〈 ([12])んだ(しゅ)(じょう)([13]こう)(ごう)よりこのかた、および([14]こん)(じょう)(しん)()()(ごう)に、(いっ)(さい)(ぼん)(しょう)()(うえ)において、つぶさに([15]じゅう)(あく)([16]ご)(ぎゃく)([17]し)(じゅう)謗法(ほうぼう)闡提([18]せんだい)破戒(はかい)()(けん)(とう)(つみ)(つく)りて、いまだ(じょ)(じん)することあたはず。しかるにこれらの(つみ)(さん)(がい)(あく)(どう)()(ぞく)す。(=つなぎとめられる)いかんぞ(いっ)(しょう)の(永劫の数限りない輪廻の繰り返しの中の僅かな一回の生涯程度の)(しゅ)(ふく)(ねん)(ぶつ)(=浄土往生の爲の念仏)をして、すなはちかの()()()(しょう)(くに)(=煩悩のけがれなく清らかで生死のない国<仏教語大辞典より>)に()りて、(なが)()退(たい)(くらい)(しょう)()することを()んや〉と。
 
(こた)へていはく、(しょ)(ぶつ)(きょう)(ぎょう)(かず)(じん)(じゃ)()えたり。(さとり)()くる()(えん)(こころ)(1)随(したが)ひて(ひと)つにあらず。たとへば()(けん)(ひと)()()るべく(しん)ずべきがごときは、(みょう)のよく(あん)()し、(くう)のよく()(ふく)()()のよく(さい)(よう)し(=養い育て)、(みず)のよく(しょう)(にん)し(=潤し育て)、()のよく(じょう)()(=生成させたり毀滅させたり)するがごとし。これらのごときの ()、ことごとく(たい)(だい)(ほう)(=二つの事が相応じてはたらく)と()づく。すなはち()()つべし、(せん)(じゃ)(まん)(べつ)なり。いかにいはんや仏法(ぶっぽう)不思議(ふしぎ)(ちから)、あに種々(しゅじゅ)(やく)なからんや。(1)()(したが)ひて一門(いちもん)()づるは、すなはち(いち)煩悩(ぼんのう)(もん)()づるなり。(2)(したが)ひて一門(いちもん)()るは、すなはち(いち)()(だつ)()()(もん)()るなり。ここを()()()(じょう)なり、(ゆう)なり、()なり、()なり、()なり、(そう)なり)って(えん)(したが)ひて(ぎょう)(おこ)して、おのおの()(だつ)(もと)めよ。なんぢなにをもってか、いまし()(えん)(よう)(ぎょう)にあらざるをもって、われを(しょう)(わく)する。しかるにわが(しょ)(あい)はすなはちこれわが()(えん)(ぎょう)なり、すなはちなんぢが(しょ)()にあらず。なんぢが(しょ)(あい)(=好むところ)はすなはちこれなんぢが()(えん)(ぎょう)なり、またわれの(しょ)()(=求むる所)にあらず。このゆゑにおのおの(しょ)(ぎょう)(=好むところ)に(したが)ひてその(ぎょう)(しゅ)するは、かならず()()(だつ)()るなり。(ぎょう)(じゃ)まさに()るべし、もし()(=さとり)を(まな)ばんと(おも)はば、(ぼん)より(しょう)(いた)るまで、(ない)()(ぶっ)()(=平凡な人間にもできる行から聖人でないとできない厳しい行から仏のさとりを成就できる行)まで、(いっ)(さい)(さわり)なし、みな(まな)ぶことを()よ。もし(ぎょう)(まな)ばんと(おも)はば、かならず()(えん)(ほう)によれ。(すこ)しき()(ろう)(もち)ゐるに、(おお)(やく)()ればなりと。
〘語釈〙
[5]者:➀「(何々)は」の「は」にあたる読み方と、②日本語で言う「者(もの)」  という意味の読み方がある、この場合は➀の意味で「三つには」と読む。
[6]善導の『散善義』のこの部分を普通の漢文の読み方をすると
「また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。」 と読む。すなわち、決定真実心の内に回向するのは願生者である衆生の方で、回向は、その衆生から仏への回向ということになる。しかし親鸞聖人は、上の本文(【読下し古文】)のように弥陀が真実心の内に成就された功徳を衆生に回向される ことによって、衆生の浄土往生を成就されるというふうに読み替えられた。
[7]得生:浄土に生まれる。
[8]別解・別行:願生浄土に関する見解や行を異にすること。
[9]かの人の語を聞くことを得ざれ:かの人とは異見・異学・別解・別行の人で、そのような人の いうことを聞いてはいけない。
[10]回顧:ふりかえること。
[11]道(どう)に落ちて:道をはずして=悪道に落ちて。
[12]なんだち:お前たち。
[13]曠劫:かぎりなき昔
[14]今生の身口意業:今、生きている身の振舞、語る言葉、心の思い。
[15]十悪:[17]の四重(淫・盗・殺・大妄語<さとりを開いていないのに開いたという>)の罪に加えて、両舌・悪口(あっく)・綺語(きご=まことのない飾った 言葉)・貪欲・瞋恚(しんに=怒り)・愚痴(真実を理解することが出来ない愚かさ)
[16]五逆:殺父(せっぷ)・殺母(せつも)・殺阿羅漢(せつあらかん=悟りに達した聖者を殺す) ・出仏身血(しゅつぶつしんけつ=仏の身体を傷つけて出血させること)・破和合僧(はわごうそう=教団の和合 一致を破壊し分裂させること)
[17]四重:四重禁のこと。殺生・偸盗(ちゅうとう)・婬・妄語(もうご=虚言)
これらを見ると特に[16]、[17]などは原始仏教当時の教団維持のための禁戒のように思われます。

【HP作成者感想】
 劈頭にも記しましたように、今月は「回向発願心釈」の前半です。まず、いきなり引文冒頭の「三つには 回向発願心(三者回向発願心)と説かれている。」で始まった文の、すぐ次が「 中略(乃至)」として除かれています。 これはどういうことなのでしょうか。なぜ親鸞聖人は、このような冒頭から 「中略(乃至)」されたのでしょうか。 前回の終りに引文の「中略(乃至)」 に今後はあまり詮索せずに、聖人のおこゝろを素直にいただいて、「中略(乃至) 」以外の部分に集中して学んでいく所存と申し上げておりましたが、この冒頭のいきなりの 「中略(乃至)」を目にしては、詮索せずにおれなくなりました。 青字で表示されている「中略(乃至)」 のいずれかをクリックしていただきますと、【現代語訳】として(中略)されている部分、および 【読下し古文】として(乃至)されている部分が表示されますので御覧ください。 これを読みますと、どうやら、この「中略(乃至))」された部分は まさに善導大師が「回向発願心」とはどのようなことかをここで説かれている部分であるということが分かり ます。いわば善導大師の「回向発願心」の定義です。親鸞聖人が引文された「三者回向発願心」の文章の前半 が、どうもよく分らないのは、この善導による「回向発願心」の定義が「中略(乃至)」として省かれているからでしょう。」 そこで「中略(乃至)」直後の引文の内容を読んでみますと、それは上の「読下し古文」にもありますように、「また()(こう)(ほつ)(がん)して(しょう)ずるものは、 かならず(けっ)(じょう)して(しん)(じつ)(しん)のうちに()(こう)したまへる(がん)(もち)ゐて(とく)(しょう)(おもい)をなせ。この(しん)(じん)(しん)せること(こん)(ごう)のごとくなるによりて、(いっ )(さい)()(けん)()(がく)(べつ)()(べつ)(ぎょう)(にん)()のために(どう)(らん)()()せられず。」となります。 これは迴向発願して浄土往生をしたいと思う者の 心得について、親鸞聖人は「かならず、弥陀が真実心の内に修行された結果 の功徳、すなわち全ての衆生を浄土に往生させて仏にしたいという弥陀の願い(本願)を私たち衆生に 回向(振り向け)なされた功徳を信じ須(もち)いて、間違いなく往生すべきなのである。この弥陀の回向による 発願迴向の心は一衆生の親鸞自身ではなく弥陀の回向によるものだから金剛のごとく一切の異見、異学、 別解、別行の人々の意見によってこわれるようなものではない。」と読んでおられます。 実はこれが親鸞聖人の「回向発願心」の定義なのではないでしょうか。すなわち「回向発願心」といえども 弥陀が真実心の内に修行された結果の功徳が衆生に回向される(振り向けられる)ことによって成り立つ のであって、上の「中略(乃至))」された善導定義の「回向発願心」のように 衆生自らの真実心による善根と思われるものを仏に回向することによって成立する「回向発願心」 ではないということです。 親鸞聖人は衆生が真実心を振り絞ってあらゆる善根を仏に回向して成立する「回向発願心」は、いつ 崩れ去るかも知れないけれども、弥陀の真実心によって成就された功徳は崩れ去ることなく衆生に回向され、 願生浄土を願う衆生はこの回向された功徳によって浄土往生を遂げることができる、これが真実の 「回向発願心」すなわち「弥陀の回向の発願心」であると定義されたのでしょう。 これが善導の回向発願心の定義を「中略((乃至))」された理由ではないでしょうか。 だから、異学・異見の人々のいわれなき 非難や中傷に出会っても、私は、ゆるぎなき如来の「回向発願心」によって 浄土往生を遂げることが出来るのだと答えているのが、その後の文章になるのではないでしょうか。 以上が善導の観経疏散善義の「回向発願心」の項目の前半の概略ですが、この文章の中で 一か所、私には、どうもわかり難いところがありました。それは「読下し古文」の(1)及び(2) の部分です。 「(1)(したが)ひて一門(いちもん)()づるは、すなはち(いち)煩悩(ぼんのう)(もん)()づるなり。(2)(したが)ひて一門(いちもん)()るは、すなはち(いち)()(だつ)()()(もん)()るなり。」これは、異学異見の解行同じから ざる邪雑(じゃぞう)の人々が来ていろいろと惑わし、疑い、非難、中傷を振りまいてくる人々に対して、 弥陀迴向の確固たる信心 によって願生浄土をしようとしている人の答えのことばですが、まず(1)の「一門を出づる」の 「一門」とは何を指すのか、また、「一煩悩を出づる」の「一」とは、どういう意味なのか、すなわち 多くの煩悩の中の一つの煩悩なのかといった疑問、そして(2)の「一門に入る」や「一解脱の智慧の 門」の意味も同じで、一体どのようなことを表しているのかがよく分かりませんでした。それで現代語訳の 場合も(1)と(2)の( )内のような補足訳をつけて訳しましたが、それでも、どうもよく 納得できる訳とは言えませんでした。全体として、仏の教えは無限の妙用であって人々の素質に応じて無数 にあるのであって、私に縁のある、私にふさわしい教えと行をえらんでいるのだという意味が込められた 文章だと思うのですが、どうもしっくりしませんでした。しかし今、改めて思い返しますと、歎異抄の 最後の章(後序)の親鸞聖人のことばに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人の ためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願の かたじけなさよ。」があります。この「一門を出づる」とか「一煩悩の門を出づる」とか「一門に入る」 とか「一解脱の智慧の門に入る」とかいうことばは、全体として、上の親鸞聖人の「親鸞一人がため なりけり」の文に総括されるのではないかと思うところです。すなわち、親鸞には「親鸞一人のため」の、 法然には「法然一人のため」の、更には七高僧には七高僧それぞれ一人がための仏の教えがある、この ことを、この「一門を出づる」で代表される文章は表しているのではないかということです。 これは、同時にまた、それぞれ一人がための仏教が、大いなる仏の世界に統合される万人のための 仏教ともなるのではないかと思うところですがいかがでしょうか。 これで、善導の観経疏からの引文における「回向発願心」の前半をひとまず終わります。引文の後半は さらに、この「回向発願心」とはなにかということが「二河白道の譬喩」をもって説き述べられる ことになります。来月が待ち遠しく思われます。

今月は以上で終ります。


●今月の言葉(2020年9月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文13
 今月は、いよいよ善導の『観経疏 散善義』の内、「発願迴向釈」の後半、すなわち、古今を通じて絵や説話で度々登場する「二河白道の譬(たとえ)」の部分です。やや長い文章になりましたが、「二河白道の譬え」がどうして日本の浄土教において かくも、重用されるのか、その背景に思いを走らせて考えてみようと思います。。
  【現代語訳(親鸞引文)】
 また、浄土往生を願う全ての人々に一つの譬えを説いて、信心とは何か、自らに与えられた信心を、 異なった見解の人々の非難から守るとはどういうことかということを説いてみよう。
例えば、西方浄土(生死の解決)を求めて弛(たゆ)みなき旅をする人がある。その時、突如として前方を 横切る一本の河がある。その河の南半分は火の河、北半分は水の河、どちらも幅は、あるいて渡れば百歩にも なろうか。深くして底なしに見え、それぞれ南北に果てしなく続いている。そして、まさにその火と水の 境目に一本の白道がある。幅は四・五寸ほど、この道も東の岸から西の岸に至るには長さは歩いて百歩、 そして、この白道には水の河から荒れ狂う水が、火の河からは業火が、それぞれ、たえず襲いかかって、 休むことがない。ここは果てしない荒野で人影もない。ところがそこに賊の群れと・悪獣が現れ、その人が 一人なのを見て、われ先に襲いかかって殺そうとする。殺されてはかなわないと、さらに西に向かって走ると まさに目の前に火と水が荒れ狂う河が現れ万事休す、すなわち自ら心の中で呟くには<この河、南北に 果てしなく続いているが、火と水の中間に一本の細い白道がある。きわめて狭い道だ。河の両岸は、 それほど離れてはいないけれども、この細白道を襲う火と水の勢いでは、どうして渡ることができようか。 これを行けば、今や、まさに死んでしまうに違いない。引っ返そうとすると群賊・悪獣が迫って きて行く手を阻む、南北に避けて逃げようとすると悪獣や毒虫が競って襲いかかってくるだろう。 まっすぐ西に向かって白道を渡ろうとすると、おそらく水か火かいずれかの河に落ちてしまうに ちがいない>と。 まさに進退きわまり、云うにいわれぬ恐怖にさらされる。しかしここで自ら思うに <いま引っ返そうとすると死ぬだろうし、ここにとどまっても死ぬ。進もうとすれば、これもまた死が 待っている。どうしても死なねばならないのなら、寧(むし)ろこの白道を真直ぐ前に進んで行こう、 前から、この道はあるのだ、渡ることができるのではないか>と。この思いに至った時、今いる東の岸に 間髪を入れず、励ます人の声がした。「君よ、たゞ決心してこの白道をたどって行け、必ず死ぬことは無い。 ここにとどまっていれば死んでしまうよ」と。さらにまた、向こう側の西の岸に人あり、呼び続けて言うに 「そなた、ひとえに、この声を信じて、速やかに来たれ。私は、そなたを必ず護ろう。荒れ狂う水や火が 襲うのを畏れることはない」と。西を目指すこの旅人は、こちらの岸から向う岸を指し示して、勇気を もって白道を進めと励ます声、また、彼方(かなた)西の岸から、すみやかに来たれと励まし喚ぶ声を聞いて 即時に身心共にこれを受け入れ、決心して道を尋ねて怖れることなく一歩、二歩と白道を進んだところ こちら東の岸の群賊たちが「西に向かおうとする君よ、引き返して来なさい。この道を行くのは、まことに 危険だ。向う岸に進むことは絶対無理だ。必ず死ぬこと疑いなし。でもこちらに還ってきたら悪くはしない よ。」と呼び返そうとする。しかし、この旅人は、この賊の呼び声を聞いても振り返ることなく、一心に 真直ぐに白道を信じて西へ進み、たちまち西の岸に着いて、永久にもろもろの禍(わざわい)を離れることが でき、そこで善き友を得て、いつまでも慶び楽しむことができたという。これはこれ譬えである。次に 譬えの意味合わせをすると、<東の岸>というのは、すなわち煩悩燃え盛る娑婆の世界の譬えである。 <西の岸>というのは極楽浄土のことを喩えたものである。<群賊・悪獣が脅したり親しげに近づいて 来たりする>のは、衆生の([5])根 (ろっこん)・ ([6])識(ろくしき)・([7])塵(ろくじん)・ ([8])陰(ごおん)・([9] )大(しだい)、つまり、衆生のあらゆるこの世の認識、感覚世界、行動の譬えで ある。<人無く、空虚な土地>というのは、すなわち常に、この世を絶対視し悪に染まり、真の善知識 にも遇わないことに喩える。 <水火の二河>というのは、衆生の貪(むさぼ)り執著は水のごとくまとわりつき、瞋(いか)り憎しみは激しい火の ごとしというのに喩える。 <水・火の中間に幅四五寸の細い白道>というのは、衆生の貪り瞋りの煩悩の中に、か細いけれども 、それでも、そこに清らかで確かな願生浄土の心が生じることに喩える。貪り瞋りが強い故に、これを まとい付く水、激しい業火のごとしと喩え、仏を信ずるこころは、まことにわずかであるから、これを 激浪・業火の間のとても通過できそうには思えない細い白道のようだと喩える。また、激浪がこの白道に 打ち寄せるというのは、愛着の心、常に起こって、仏心を汚すに喩える。また<業火が常に道を 焼く>というのは、すなわち瞋(いか)り、嫌悪の心が、仏の大悲の心を妨げることに喩える。<旅人が白道を進んで 、ただちに西に向かう>というのは、あらゆる煩悩をひるがえして、即刻に西方浄土に向かうのに喩える。 <東の岸に人の声あって、水火の間の白道を畏れずに往けというのを聞いて、ただちに西方に進む>という のは、すなわち釈尊が既に入滅されて、後の人は相いまみえることが出来ないが、なお釈尊の教えは脈々と 残っており、それを尋ねて精進すべきに喩える。<あるいは旅人が、まさに白道を一、二歩進もうと したとき群がっていた賊たちが旅人を呼び返す>とは別解・別行・悪見の人(宗教的な見解が違う異見・異学 の人)たちが、念仏の行者は勝手な見方で、([34])だりにあゝでもないこうでもないと惑わし合って、自ら 罪をつくって自滅すると言いふらす喩えである。<西の岸に人あって旅人に安心して、こちらに来なさいと喚ぶ> というのは、すなわち浄土より喚ぶ弥陀の本願に喩えられる。<その声に励まされて、敢然と西の岸に 到って、善き同信の友に遇って喜ぶ>というのは、すなわち衆生が久しく生死の海に浮き沈みして、はるかな る過去から生まれ変わり死に変わりして迷いの海に自ら身を沈め、自縛自縄(じばくじじょう)して、そこから 解脱することが出来ない時、有難くも釈尊の導きにより西方浄土への道を示し給い、また西方浄土では 弥陀の大悲の招喚によって、いま旅人は弥陀・釈迦二尊の御心に信順して水火の二河を顧みず、かの弥陀の 本願のはたらきに乗じて、いのち終わった後、かの浄土に生まれることができて、仏と相まみえて無上の慶び に浸ることに喩えるのである。
 また一切の行者よ、行住坐臥、昼夜を問うことなく常に仏の恩徳を感じ、浄土への想いが絶えることが ないのを「回向発願心」と名づけるのである。また、回向というのは、かの浄土に往生して、再び大悲心 をもって、この世に還り生死の巷に入って衆生を導く、これも回向である。至誠心・深心・回向発願心の 三心をもってすれば、行として成就しないものはない。浄土に生まれようとする願いと、行が成就して もし、往生できないような道理はあるはずがない。またこの三心は([10])善をも含んでいると知るべき である。このように述べられている。(以上)

〘語釈〙
[1]回向発願心 Ⅰは他力の回向発願心。 Ⅱは自力の回向発願心 (HP作成者解釈)
Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。
Ⅱ.自己の修めた善根をふり向けて浄土へ往生しようと願う心。
(Ⅰ・Ⅱの定義は WikiArcより)
[2]多劫輪廻:無限の時間の生まれ変わり死に変わり。
[3]機根:素質
[4]解脱の智慧:さとり
[5]六根:対象を感覚する六つの器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)。
[6]六識:対象を認識する六つのはたらき(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)
[7]六塵:六根・六識がはたらく世界
[8]五陰:五蘊に同じ。色・受・想・行・識の五つ。
色:身体および物質。物質のこと。
受:感覚作用のこと。
想:心に浮かぶイメージ。
行:行動を起こす意志。
識:認識作用。区別して知ること。また意識そのものという解釈もある。
[9]四大:地・水・火・風 のこと。
[10]定善の義を通摂す:『観無量寿経』には「定善」と「散善」の浄土往生の道が説かれている。 善導の『観無量寿経疏』で至誠心・深心・回向発願心の三心が説かれているのは「散善義」においてである。 ここで「定善の義を通摂す」と述べてあるのは、「散善義」において浄土往生を願う者は三心が必須 ということであるが、『観無量寿経』のもう一つのテーマ「定善(じょうぜん)」すなわち静かに 瞑想し浄土や仏をイメージ(観法)して浄土往生を成就する場合にも、この三心はあてはまるということ を述べている。
【読下し古文(親鸞引文)】

 また(いっ)(さい)(おう)(じょう)(にん)(とう)にまうさく、いまさらに(ぎょう)(じゃ)のために(ひと)つの()()()()、さとす)を()きて、信心(しんじん)守護(しゅご)して、もって()(じゃ)異見(いけん)(なん)(ふせ)がん。なにものかこれや。たとへば(ひと)ありて、西(にし)()かひて()かんとするに(ひゃく)(せん)()ならん。(こつ)(ねん)として ([11}ちゅう)()()れば(ふた)つの(かわ)あり。(ひと)つにはこれ()(かわ)(みなみ)にあり。(ふた)つにはこれ(みず)(かわ)(きた)にあり。()()おのおの(ひろ)(ひゃく)()、おのおの(ふか)くして(そこ)なし、(なん)(ぼく)([12]ほとり)なし。まさしく(すい)()(ちゅう)(げん)(ひと)つの(びゃく)(どう)あり、(ひろ)()()(すん)ばかりなるべし。この(みち)(ひがし)(きし)より西(にし)(きし)(いた)るに、また(なが)(ひゃく)()、その(みず)()(ろう)(まじ)はり()ぎて(みち)湿(うるお)()。その()(えん)(ほのお)、けむりあるなり、(ほのお)、けむりなきほのほなり)また(きた)りて(みち)()く。(すい)()あひ(まじ)はりて、つねにして()(そく)することなけん。この(ひと)すでに([13]くう)(こう)のはるかなる(ところ)(いた)るに、さらに(にん)(もつ)なし。(おお)(ぐん)(ぞく)(あく)(じゅう)ありて、この(ひと)(たん)(どく)なるを()て、(きお)(きた)りてこの(ひと)(ころ)さんとす。()(おそ)れてただちに(はし)りて西(にし)()かふに、(こつ)(ねん)としてこの(たい)()()て、すなはちみづから(ねん)(ごん)すらく、〈この(かわ)南北(なんぼく)([14]へん)(ばん)()ず、(ちゅう)(げん)(ひと)つの(びゃく)(どう)()る、きはめてこれ(きょう)(しょう)なり。(ふた)つの(きし)あひ()ること(ちか)しといへども、なにによりてか()くべき。(きょ)()さだめて()せんこと(うたが)はず。まさしく(いた)(かえ)らんと(おも)へば、(ぐん)(ぞく)(あく)(じゅう)([15]ぜん)(ぜん)(きた)([16])む。まさしく(なん)(ぼく)()(はし)らんとすれば、(あく)(じゅう)(どく)(ちゅう)(きお)(きた)りてわれに()かふ。まさしく西(にし)()かひて(みち)(たず)ねて()かんとすれば、またおそらくはこの(すい)()()()()せんことを〉と。(とき)(あた)りて([17]こう)()することまたいふべからず。すなはちみづから()(ねん)すらく、〈われいま(かえ)らばまた()せん、(とど)まらばまた()せん、()かばまた()せん。(いっ)(しゅ)として()(まぬが)れざれば、われ([18]やす)くこの(みち)(たず)ねて(まえ)()かひて()かん。すでにこの(みち)あり、かならず([19])()すべし〉と。この(ねん)をなす(とき)(ひがし)(きし)にたちまちに(ひと)(すす)むる(こえ)()く、〈きみただ(けっ)(じょう)してこの(みち)(たず)ねて()け、かならず()(なん)なけん。もし(とど)まらばすなはち()せん〉と。また西(にし)(きし)(うえ)に、(ひと)ありて喚ばひていはく、〈なんぢ(いっ)(しん)(しょう)(ねん)にしてただちに(きた)れ、われよくなんぢを(まも)らん。すべて(すい)()(なん)()せんことを(おそ)れざれ〉と。この(ひと)、すでにここに(つか)はし、かしこに()ばふを()きて、すなはちみづからまさしく([20]しん)(しん)(あた)りて、(けっ)(じょう)して(みち)(たず)ねてただちに(すす)んで、([21])(こう)退(たい)(しん)(しょう)ぜずして、あるいは()くこと(いち)(ぶん)()(ぶん)するに、(ひがし)(きし)(ぐん)(ぞく)()()ばひていはく、〈きみ(かえ)(きた)れ、この(みち)(けん)(あく)なり、()ぐることを()じ。かならず()せんこと(うたが)はず。われらすべて(あく) (しん) あつて([22])()かふことなし〉と。この(ひと)()ばふ(こえ)()くといへども、また(かえ)()みず、(いっ)(しん)にただちに(すす)んで([23]みち)(ねん)じて()けば、([24]しゅ)()にすなはち西(にし)(きし)(いた)りて、(なが)くもろもろの(なん)(はな)る。(ぜん)()あひ()(きょう)(らく)すること()むことなからんがごとし。これはこれ、(たと)()()、をしへなり)へなり。   (つぎ)(たとえ)へを(がっ)せば、〈(ひがし)(きし)〉といふは、すなはちこの(しゃ)()([25])(たく)(たと)ふ。西(にし)(きし)〉といふは、すなはち(ごく)(らく)(ほう)(こく)(たと)ふ。〈(ぐん)(ぞく)(あく)(じゅう)([26]いつわ)(した)しむ〉といふは、すなはち(しゅ)(じょう)([27]ろっ)(こん)(ろく)(しき)(ろく)(じん)()(おん)()(だい)(たと)ふ。〈()(にん)([28]くう)(きょう)(さわ)〉といふは、すなはちつねに(あく)()(したが)ひて(しん)(ぜん)()(しき)()ざるに(たと)ふ。〈(すい)()()()〉といふは、すなはち(しゅ)(じょう)([29]とん)(ない)(みず)のごとし、([30]しん)(ぞう)()のごとしと(たと)ふ。〈(ちゅう)(げん)(びゃく)(どう)()()(すん)〉といふは、すなはち(しゅ)(じょう)(とん)(じん)(ぼん)(のう)のなかに、よく清浄願往生([31]しょうじょうがんおうじょう)(しん)(しょう)ぜしむるに(たと)ふ。いまし(とん)(じん)(こわ)きによるがゆゑに、すなはち(すい)()のごとしと(たと)ふ。(ぜん)(しん)()なるがゆゑに、(びゃく)(どう)のごとしと(たと)ふ。また〈(すい)()つねに(みち)湿(うるお)す〉とは、すなはち(一三六あい)(しん)つねに(おこ)りてよく(ぜん)(しん)(ぜん)()するに(たと)ふ。また〈()(えん)つねに(みち)()く〉とは、すなはち([32]しん)(けん)(しん)よく()(どく)(ほう)(ざい)()くに(たと)ふ。〈(ひと)(みち)(うえ)()いて、ただちに西(にし)()かふ〉といふは、すなはちもろもろの([33]ぎょう)(ごう)()してただちに西(さい)(ほう)()かふに(たと)ふ。〈(ひがし)(きし)(ひと)(こえ)(すす)(つか)はすを()きて、(みち)(たず)ねてただちに西(にし)(すす)む〉といふは、すなはち(しゃ)()すでに(めつ)したまひて、(のち)(ひと)()たてまつらず、なほ(きょう)(ほう)ありて(たず)ぬべきに(たと)ふ、すなはちこれを(こえ)のごとしと(たと)ふるなり。〈あるいは()くこと(いち)(ぶん)()(ぶん)するに(ぐん)(ぞく)()()(かえ)す〉といふは、すなはち(べっ)()(べつ)(ぎょう)(あく)(けん)(ひと)()([34])だり(けん)()をもつてたがひにあひ(わく)(らん)し、およびみづから(つみ)(つく)りて退(たい)(しっ)すと()くに(たと)ふるなり。〈西(にし)(きし)(うえ)(ひと)ありて()ばふ〉といふは、すなはち()()(がん)()(たと)ふ。〈(しゅ)()西(にし)(きし)(いた)りて(ぜん)()あひ()(よろこ)ぶ〉といふは、すなはち(しゅ)(じょう)(ひさ)しく(しょう)()(しず)みて、(こう)(ごう)より(りん)()し、(めい)(とう)して([35])づから(まと)ひて、()(だつ)するに(よし)なし。(あお)いで(しゃ)()([36]はっ)(けん)して、(おし)へて西(さい)(ほう)()かへたまふことを(かぶ)り、また()()([37])(しん)(しょう)(かん)したまふによつて、いま()(そん)(おんこころ)信順(しんじゅん)して、(すい)()()()(かえり)みず、(ねん)(ねん)(わす)るることなく、かの([38]がん)(りき)([39]どう)(じょう)じて、(しゃ)(みょう)()()かの(くに)(しょう)ずることを()て、(ぶつ)とあひ()(きょう)()すること、なんぞ(きわ)まらんと(たと)ふるなり。
 また(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)(ぎょう)(じゅう)()()([40]さん)(ごう)([41]しょ)(しゅ)(ちゅう)()()(せつ)()ふことなく、つねにこの([42])をなし、つねにこの([43]そう)をなすがゆゑに、()(こう)(ほつ)(がん)(しん)()づく。また()(こう)といふは、かの(くに)(しょう)じをはりて、(かえ)りて(だい)()(おこ)して、(しょう)()()(にゅう)して(しゅ)(じょう)(きょう)()する、また()(こう)()づくるなり。
 (さん)(しん)すでに()すれば、(ぎょう)として(じょう)ぜざるなし。(がん)(ぎょう)すでに(じょう)じて、もし(しょう)ぜずは、この(ことわり)あることなしとなり。またこの(さん)(しん)、また([10]じょう)(ぜん)()(つう)(しょう)すと、()るべし」と。(以上)
〘語釈〙
[11]中路:途中。
[12]辺(ほとり)なし:際限がない。
[13]空曠(くうこう):何もない広野、虚無の広野。
[14]辺畔(へんばん):際限、境目。
[15]漸々に:だんだんと、次第に。
[16]逼(せ)む:迫ってくる。
[17]惶怖(こうふ):怖れおののくこと。
[18]寧(やす)く:むしろ。
[19]可度:渡ることが出来る。
[20]身心にあたりて:身と心で受けとめ。そのとおりに受けとめ。
[21]疑怯退心(ぎこうたいしん):疑い・怖れ・尻込みをしない。
[22]あひ向かふことなし:立ち向かっているのではない。危害を加えようとしているのではない。
[23]道を念じて:白道を信じて。行けと励ます人、来たれと迎え呼ぶ人を信じて。
[24]須臾に:すぐに。速やかに。
[25]火宅:煩悩と苦しみに満ちたこの世を火がついている家に例えて云う。
[26]詐(いつわ)り親しむ:それまでは脅していた賊が、今度は懐柔の詐術を使って 親しげに呼び戻そうとする。
[27]「六根・六識・六塵・五陰・四大」まとめ総合して、この世と衆生のありよう全て。 六根など、一つ一つは「現代語訳」の〘語釈〙に掲載。
[28]空迴の沢:広い土地。 仏の導きもない虚しく広がる境涯。
[29]貪愛:むさぼり愛着すること。
[30]瞋憎:瞋(いか)り、憎しみ。
[31]清浄願往生の心:清らかな浄土往生を願う心。
[32]瞋嫌の心:瞋(いか)りと嫌悪の心。
[33]行業を回(え)して:修行法や振舞いをひるがえして。
[34]みだりに見解(けんげ)ををもつて:古い読み方では、みだりに見解をもって、互いに惑乱 するのは、別解・別行・悪見のひとの所業となっているが、親鸞はこの部分を念仏行者の所業を非難する 別解・別行・悪見の人の言葉と読んでいる(現代語訳のこの部分を参照)。
[35]みずから纏ひて、解脱するに由なし:仏の教えに眼を背け、自らのみを絶対とする業に まとわり続けて解脱する道を失う。
[36]発遣して、指(おし)へて西方に:西方に往くことを指し示して。
[37]悲心招喚:大悲心が喚(よ)び招く。
[38]願力:本願力。 
[39]道(どう):仏道。
[40]三業:身の振舞い・口で話す振舞い・心で考える振舞い。 身口意の三業。
[41]所修:行を修(おさむ)るところ。修行するところ
  [42]解(げ):考え。
 [43]想:想い。想う。

【HP作成者感想】
 いよいよ『観経疏 散善義』の「二河白道の譬(たと)え」に入りました。善導は先ず「一切往生人等にもうさく、 いま、さらに行者のために一つの([44])喩(ひゆ)を説きて、信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん。」と説き ます。ここで私の思う所は、これは単なる譬え話であろうかということです。わたしは、この部分の背景 には、善導の切実な体験と、その体験に基づく自らの内面における深刻な思索があると思うのです。ともあれ、まず、 この二河白道の譬えの概略をいいますと、或るとき、西へ向かう一人の旅人があって(これは明らかに西方浄土を求めて、ひたすら心の旅を続ける人を喩えるわけですが)、この人は突然南北 に横切る大きな河に進路を妨げられます。東から西へ進もうとするわけですから当然南北に流れる大河に 道をさえぎられるわけです。そして、その河は全く渡れないのではなくて河の真中に、まことに細い一本の 白い道が東から西へかかっています。しかし、その白い道を境にしてその河の右半分は火の河になっていて 炎が、この白道を焼かんばかりに渦巻いています。そして左半分は水の河になっていて濁浪が同じく左から、 この白道に激しく打ち寄せています。(不思議な河です。)これでは全く渡れそうにないので、白い道を前にして旅人は立ちすくんでしまいます。その時、更に周りを見れば、群賊や悪獣が取り囲んで今にも襲ってくる構えを見せています。 これでは旅人は往くにも行けず、引き返すにも引き返せず、進退窮まって絶体絶命です。そこで旅人は けなげにも、次のような思いに至ります。「私はここにじっとしていても群賊や悪獣のために死ぬ。たとえ細い白道 を進んでも業火と濁浪のために死んでしまうだろう、どうしても死を免れないのなら、むしろこの道を たどって西へ進もうと。その時です。東の岸に「君はためらわずにこの白い道をたどって 西へ進め、決して死ぬことはない。ここにとどまっていたら死んでしまうよ」と雄々しい人の声があって はっきりと西を指し示して導いています。(どうやら、この人には群賊・悪獣も手を出せないようです。) 、そして、はるか西の岸からは、これまた人あって「そなたは、心を一つにして、迷わずに真直ぐこちら 西の岸へ、この細い白道を渡ってくるがよい。わたしが、間違いなく、そなたを護ろう。火や水の河に 堕ちはしないかとを恐れることはない」と呼んでいる声がします。旅人は、こちらから指し示す声と 向うからの呼び招く声を聞いて、怖れることなく西へ進もうとします。ところが西へ一・二歩進んだ ところで、取り囲んでいた群賊・悪獣たちが「おーい、君よ戻って来い。その道は危なすぎるよ。 とても往くことは無理だ。必ず死んでしまうこと疑いなし。私たちは君さえ戻ってくれば、何も危害なんて 加えることはないんだから。」と変にやさしく、呼び戻そうとします。しかし旅人は、そのような声には 振り向かず、「思い切って往けよ。」「来たれよ。」という導きと招喚の二つの声を信じて、無事に 西の岸にたどり着き、永遠に全ての禍(わざわい)を離れることが出来た。  これが「二河白道の譬え」の概略です。そして善導は、この譬えの意味を一つ一つ、どのようなことの 譬えかを説いていきます。その一つ一つは、上の古文や現代語訳をお読みいただきたいと思うのですが、 その内で、私が取り上げさせていただきたいのは次のような事柄です。 (1) まず、群賊・悪獣です。善導は先ず<群賊・悪獣が詐(いつわ)り親しむ>というのは、衆生の 六根・六識・六塵・五陰・四大に喩えるといいますが、これらはこの世で人が感ずる感覚・思いや それを取り囲むこの世の環境や要素を指しているのでしょう。ならば、これらは、火宅無常のこの世 における渦巻く煩悩を表しているのではないでしょうか。とすれば、これらは、初めの貪欲・瞋恚を 表す水火二河でよいのではないか。すなわち、わざわざ、群賊・悪獣をここに、登場させる必要は あるのか。いったい、これら群賊・悪獣は煩悩以外に何を表しているのだろうかということです。 そこで、思いは走るのですが、この賊・獣がここに登場するのは、善導の時代の、善導を取り囲む あらゆる環境を表わすのではないか。すなわち善導(613-681)は唐初期に活躍した浄土教の僧であり、 同時代には吉蔵(549-623),浄影寺の慧遠(523-592)、更に、もう少し時代をさかのぼれば天台智顗 (538-598)など、有名な聖道門の僧が排出されている。このような高名な僧の中で善導はあくまでも 新進の仏教者であった。当時の聖道門における観無量寿経の解釈については例えば韋提希夫人は聖者 と見られていました。ところが善導はこのような見方に対して、韋提希は、あくまでも凡夫であると して、それまでの聖道門の韋提希観を批判しています。このような思想のもと自ら著した『観経疏』を 古今楷定の書(それまでの解釈をあらためて示した手本)として、一字一句も変えてはならないという 強い信念を世に示したことでも有名です。しかし世間の大勢は、慧遠以前の聖道門の観方が一般的 であり、善導の凡夫往生の思想は少数派であったのでしょう。このような善導の当時における立ち位置 を、善導は広野を西へ往く一人の旅人として表したのではないでしょうか。すなわち一人の旅人に対して 群れをつくって善導の往生論を妨げようとする世間や勢力を、群賊・悪獣として表したのでは ないでしょうか。すなわち、実際の、この時代の聖道門の高名な僧たちは、人々の尊敬に値する存在 であったのでしょうが、善導の心の中では、自己の信念を妨げる群賊・悪獣であったと考えられないで しょうか。そうなると、一人の旅人が意を決して白道を渡って自らの道を進もうとすれば、「そっちは 危ない、今引っ返すならば、我々もお前さんに危害を加えずに、君は無難に過ごすことができるぞ」 というセリフも、善導の心の中で圧力を加える聖道門の権威の言葉として無理なく受取ることができます。 実際に、この「二河の譬」を記述した法然の『選択集』に対して、『摧邪輪』著して批判を繰り広げた 明恵も、群賊・悪獣を聖道門の僧に喩えたとして非難しています。皆様のご意見はいかがでしょうか。
(2) 次に、善導の『観経疏』を読みますと、浄土往生を可能にする三心の一つ「至誠心」についても 善導は「経 (観経) にのたまはく、「一には至誠心」 と。 一切衆生の身口意業(しんくいごう)所修の 解行(げぎょう)かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。」としています。 すなわち、「衆生が至誠心をもって往生浄土を成就するには、身口意の所修の解行すなわち自らのすべてをもって往生行を修めるには必ず自らにおいて真実心をもって修行すべきなのだ。」というのです。 そのような無限に厳しい自己規制ともいえる真実心をもって往生浄土を成就することは所詮煩悩をもった 衆生である自分にはできないと体験的に決定をくだしたのが法然・親鸞であるならば、この 善導の無限に高い山にも譬えられる「至誠心」、そして「真実心」をどう乗り越えられるかということです。 ちなみに親鸞は教行信証のこの部分を次のように読み替えて記述しています。「『経』(観経)にのたまはく、 〈一つには至誠心(しじょうしん)〉。〈至〉とは真なり、〈誠(じょう)〉とは実(じつ) なり。一切衆生の身口意業(しんくいごう)の所修(しょしゅ)の解行(げぎょう)、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲(おも)ふ。」すなわち 教行信証において親鸞はこの部分を「かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲(おも)ふ。」として、如来が清浄願心の中で完成された 「真実心」を須(もち)いることによって三心の一つである。「至誠心」を成就していただくというのです。 一見、これは随分と手前勝手な考え方だと思われるかもしれませんが、決してそうではなく。 法然も親鸞も自らの真実心の獲得ということに全身全霊をもって取り組んだけれども、どうしても無理であるという体験から、真実心の自らの修行によって成就することに決定的に絶望した結果、いわばコペルニクス的転回 によって、 全てを弥陀の本願に委ねる、いや委ねざるを得ない、いわばこれが一衆生である自分の 本性であり、人間の本性であると体験的に思わざるを得なかったのではないでしょうか。それでは、往生浄土のためにはどうあればいいのか、古来から大無量寿経に説かれている四十八願、わけても、その内の第十八願、法蔵菩薩が無上清浄の願心のもとに立てられた誓願、念仏往生の願の回向をいただくほかはないという結論です。すなわち絶対他力の出現です。 では、なぜ法然・親鸞は、善導の「真実心」の、あの無限に高い壁ともいえる自力的面を超えることが できたのでしょうか。それを私は、この「二河白道の譬」のなかに見ることができます。 即ち、激浪と業火渦巻く「水・火の二河」と取り囲む群賊・悪獣を前と後ろにして、進退窮まった 旅人は東岸で西に怖れず行けと指し示す釈尊と、西岸で必ずこちらへ来いよと招く弥陀。この二尊を信じて、死を覚悟して 西に進む旅人、ここには、往けと発遣する釈尊、来いよと力強く招く弥陀を信ずる以外に旅人の 道はないことを表しています。この善導の『観経疏』中に本願他力を見たのが法然であり親鸞であったのでは ないでしょうか。更に、このほかに、『観経疏 散善義』の中には「(ひと)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、()(しん)(げん)にこれ(ざい)(あく)(しょう)()(ぼん)()曠劫(こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに()(てん)して、(しゅつ)()(えん)あることなしと(しん)ず。(ふた)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、かの()()()(ぶつ)()(じゅう)(はち)(がん)(しゅ)(じょう)(しょう)(じゅ)して、(うたがい)なく(おもんばか)りなく、かの(がん)(りき)(じょう)じて、さだめて(おう)(じょう)()(しん)ず。」 という二種深心の文章。すなわち前半の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに 没し、つねに流転して出離の縁あることなし。」と、まさに私たちの本質をえぐり出すことば、そして このような出離の縁なき衆生である我々であるが、唯一つ奇蹟ともいえる「決定して深く、かの 阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して疑いなく、慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を 得と信ず」ということば、これこそ法然・親鸞が絶望の果てにたどり着いた一筋の光明。すなわと 絶対他力の風光を、善導に見た瞬間ではないでしょうか。
 そしてさらにこの6月の文章のそのあとすぐの 「仰ぎ願わくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて 、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ 処をばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。」という言葉も、他のどのような本の表現よりもはっきりと他力回向の 宗教を顕す善導の言葉ではないでしょうか。真実心を自らに得ねば、三心成らずとした善導ですが その底には深い他力の湖がたたえられていたのです。それを善導から600年後に生きた法然上人は見逃 さず偏(ひとえ)に善導によるとし、さらに、その他力の思想をはっきりと世に示されたのが親鸞聖人ではないでしょうか。
〘語釈〙 [44]譬喩:たとえ。

今月は以上で終ります。





●今月の言葉(2020年10月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文14
先月は「二河白道の譬(たとえ)」の部分について私見も混じえて書かせていただきました。すなわち、善導が説く深心釈の中の「二種深心」や、その後の文章、また、 「二河白道の譬」にも法然・親鸞が見出した深い他力の思想の芽生えがあることを観てきました。 そして文章の最後に、この「二河白道の譬」における釈尊の発遣(<浄土を>指し示して導く)と弥陀の招喚 (<大悲の中に>摂取する)の情景を読めば、これこそ衆生に発願迴向せしめる釈迦・弥陀、二尊の他力回向はたらきであること、重ねて至誠心・深心・回向発願心の三心によれば必ず浄土往生は間違いないこと。 さらに回向発願心の回向の意味の中には、浄土往生が成就すれば、すぐさま、この世に還って衆生を浄土に導くという大悲のはたらきがあることを最後の結びとして強調していることをあらためて、ここで付け加え、 振り返った上で、今月の文章の読みに入りたいと思います。
  【現代語訳(親鸞引文)】
 また善導の手になる『般舟讃』にいわれている。「敬って往生を願うすべての同行(同じ往生行を励む者)に申し上げる。大いにすべからく自らの 無明を慚(は)じ、仏の徳を肝に銘ずべきである。釈迦如来はまことに慈悲の父母である。種々の手だてを使って私たちに無上の信心を起させるのだ」と。
貞元(ていげん)新定釈教(しんじょうしゃくきょう)の目録』 第十一巻に「『集諸経礼懺(しゅうしょらいさん) ()』は唐の西崇福寺(さいしゅうふくじ)の僧である智昇(ちしょう) が作ったもので、貞元十五年十月二十三日の皇帝の勅命によって大蔵経に編入された」と記されている。この『礼懺儀』の上巻は智昇が様々な経典をひもとき造ったもので、その中には『観無量寿経』に関連して善導が 著した『往生礼讃』の日中の礼讃を引用したものがある。下巻は『比丘善導集』として善導の文章を集めたものとなっている。この『集諸経礼讃儀』の中で大切な文章の引用例として(A)「二つには深心、これこそ真実の 信心である。自身はこれ煩悩を具足した凡夫、善い心は少なく迷いの世界に流転して、目前に危機が迫っているのにも気づかぬ存在であると信知する。また同時に、弥陀の本願は名号をわずか十声称え聞く者まで、まちがいなく 浄土往生を得しめられると心から信じて一念の疑いもない。このことを深心と名づける」とある。(中略)
 また、<まことに、弥陀仏の名号を聞くことを得て心から歓喜することがあれば、みな、まさに、かの浄土に生まれることができる。>と書かれている。
 『往生要集』(上九二)に(B)「華厳経の<入法界品>に「たとえば、或る人がいて、如何なる敵にも害されることがないという不可壊の薬を所持すれば一切の怨敵は害を加える手がかりを失う。菩提心をもった 菩薩も、これと同じように菩提心不可壊の法薬を得れば全ての煩悩や諸々の魔物等が菩提心を壊すことはできないのである。たとえば人あって、意のままに宝物や衣服や食べ物をもたらす住水宝珠(じゅうすいほうじゅ)という珠を 持って、その身にまとえば、深い水中に入っても溺れないようなものである。菩提心の住水宝聚を得れば、迷いの世界に入っても沈んでしまうことがない。たとえば金剛石は百千劫という長い期間、水の中に浸(つ)かっていても、 くずれて壊れたりせず、全く変化したりしないようなものである。菩提心(求道心)も、また、これと同じで、無限に永い期間、迷いの世界で、もろもろの煩悩の世界に沈んでいても無くなることもなく、減ることもない。」 といわれている。
 また『往生要集』中巻九五六に「私もまた、かの阿弥陀仏の摂取の中にあるけれども、煩悩に真実を観る眼(まなこ)が妨げられて、観ることができないけれども、大悲は倦きることなく、常に私を照らし給う」と いわれている。(以上)

 であるから、もしは行、もしは信、どれ一つをとっても、全て、真実の親たる阿弥陀如来の、 我々衆生を無明の闇から救いあげようとする切なる願いの回向成就の賜物なのである。 このように如来回向の賜物である念仏行や信心が往生成仏の因なのであって、この他に因があるのではないことをよく知るべきである。


〘語釈〙
(1)『般舟讃』:善導の著。正しくは『依観経等明般舟三昧行道往生讃』という。『観無量寿経』などによって,浄土をたたえる文章を作り,般舟三昧による浄土往生の道を明らかにしたもの。
(2) 般舟三昧:浄土教で説く精神 統一法。諸仏現前三昧,仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この 三昧を行えば現前に仏を見ることができるという。
(3)『貞元新定釈教目録』:唐の貞元という時代に後漢以降約700年余の経典の譯経目録。
(4)『集諸経礼懺儀』:上の『貞元新定釈教目録』の第十一巻に収められている。上巻には諸経中の礼讃文、下巻には善導大師の『礼讃』の全文が収められている。
(5) 智昇:唐代の僧で経論に通じ、律を宗とした。長安の崇福寺に住し、『開元釈教録』『集諸経礼懺儀』『続大唐内典録』など多くの著述を残している。
(6) 『往生礼讃』:極楽往生を願う偈(げ)で,《往生礼讃偈》《往生礼讃》《礼讃》とも称し,《日没礼讃偈》《初夜礼讃偈》《中夜礼讃偈》《後夜礼讃偈》《晨朝(じんじよう)礼讃偈》《日中礼讃偈》の6曲を指す。
(7) 『入法界品』:『華厳経』に含まれる善財童子が法を求めて 53人を歴訪する文学的な美しい求道物語。
(8) 不可壊の薬:無勝薬ともいう。この薬を所持する者はいかなる敵にも害されることがないという。
(9) 住水宝珠:如意珠の異名。意のままに宝や衣服、食物などを出す徳をもつ宝珠のこと。
【読下し古文(親鸞引文)】

 またいはく(般舟讃(はんじゅさん)七一五)、「(うやま)ひて(いっ)(さい)(おう)(じょう)()(しき)(とう)にまうさく、(おお)きにすべからく(ざん)()すべし。(しゃ)()(にょ)(らい)はまことにこれ()()()()なり。(しゅ)(じゅ)(ほう)便(べん)をして、われらが()(じょう)(しん)(じん)(ほっ)()せしめたまへり」と。(以上)
 ② 『貞元(ていげん)新定釈(しんじょうしゃく)(きょう)目録(もくろく)(かん)(だい)十一にいはく、「『(しゅう)(しょ)(きょう)(らい)(さん)()()(じょう)() (だい)(とう)西(さい)(しゅう)(ふく)()(しゃ)(もん)()(しょう)(せん)なり。貞元(ていげん)十五(ねん)(がつ)二十三日の(ちょく)(じゅん)じて(へん)(にゅう)す」と(うん)(ぬん)。『(さん)()』の(じょう)(かん)は、()(しょう)(しょ)(きょう)によりて『(さん)()』を(つく)()なかに、『(かん)(ぎょう)』によりて(ぜん)(どう)の『(らい)(さん)』((らい)(さん))の(にっ)(ちゅう)(とき)(らい)()けり。()(かん)は「()()(ぜん)(どう)(しゅう)()」と(うん)(ぬん)。かの『(さん)()』によりて(よう)(もん)(しょう)していはく、(A)(ふた)つには(じん)(しん)、すなはちこれ(しん)(じつ)(しん)(じん)なり。()(しん)はこれ(ぼん)(のう)()(そく)せる(ぼん)()(ぜん)(ごん)(はく)(しょう)にして(さん)(がい)()(てん)して()(たく)()でずと(しん)()す。いま()()(ほん)()(せい)(がん)は、(みょう)(ごう)(しょう)すること下至十声聞(げしじっしょうもん)(とう)(およ)ぶまで、さだめて(おう)(じょう)()しむと(しん)()して、(いち)(ねん)(いた)るに(およ)ぶまで()(しん)あることなし。ゆゑに(じん)(しん)()づくと。(乃至)
 〈それかの()()(ぶつ)(みょう)(ごう)()くことを()ことありて、(かん)()して(いっ)(しん)(いた)せば、みなまさにかしこに(しょう)ずることを()べし〉」と。(抄出)
往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』((じょう)九二一)にいはく、(B)「〈(にゅう)法界品(ほっかいぼん)〉にのたまはく、〈たとへば(ひと)ありて()()()(くすり)()れば、(いっ)(さい)(おん)(てき)その便(たよ)りを()ざるがごとし。()(さつ)摩訶薩(まかさつ)もまたまたかくのごとし。()(だい)(しん)()()()(ほう)(やく)()れば、(いっ)(さい)(ぼん)(のう)(しょ)()(おん)(てき)()することあたはざるところなり。たとへば(ひと)ありて住水宝珠(じゅうすいほうじゅ)()て、その()(よう)(らく)とすれば、(ふか)(すい)(ちゅう)()りて(もつ)(にゃく)せざるがごとし。()(だい)(しん)(じゅう)(すい)(ほう)(じゅ)()れば、生死海(しょうじかい)()(ちん)(もつ)せず。たとへば(こん)(ごう)(ひゃく)(せん)(ごう)において(すい)(ちゅう)(しょ)して(らん)()し、また()(へん)なきがごとし。()(だい)(しん)もまたまたかくのごとし。()(りょう)(こう)において(しょう)()のなか、もろもろの(ぼん)(のう)(ごう)(しょ)するに、(だん)(めつ)することあたはず、また捐減(そんげん) なし〉」と。(以上)
またいはく(往生(おうじょう)要集(ようしゅう)(ちゅう)九五六)、「われまたかの(せっ)(しゅ)のなかにあれども、(ぼん)(のう)(まなこ)()へて()たてまつるにあたはずといへども大悲(だいひ)(ものうき)きことなくして、つねにわが()()らしたまふ」と。(以上)    

しかれば、もしは(ぎょう)、もしは(しん)一事(いちじ)として阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)清浄(しょうじょう)(がん)(しん)回向(えこう)成就(じょうじゅ)したまふところにあらざることあることなし。(いん)なくして()(いん)のあるにはあらざるなりと、()るべし。

〘語釈〙
(10) 一切往生の知識:浄土往生を願う全ての求道者。
(11)慚愧:自らの無明を自覚し慚(は)じること。
(12)方便:手だて、たくみな手立て。 (13)慚儀:『集諸経礼懺儀』のこと。 (14)要文:肝要な文。
(15)鈔して:広博な典籍の文章や内容を要略する。
(16)三界:迷いの世界。
(17)火宅を出でず:家に火がついても得ているのにそれに気付かず遊び戯れている。
(18)本弘誓願:阿弥陀仏が修行されていた時(因位の法蔵菩薩でであったとき)衆生救済のために誓われた願=本願。
(19)下至十声聞等に及ぶまで:十声の念仏とそれを、この上なく信じること。この場合の「聞(もん)」には念仏の無明からの救済を信じる意味があると考えます。
(20)一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。:十声の念仏による救済を信じ、しかもそれが一念に及んでも疑うことがない。
(21)一心を至す:天親菩薩の『浄土論』に「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来、願生安楽国」のことばがあります。名号を聞いて(信じて)究極的に弥陀に帰命し往生をしめられる。
(22)摩訶薩:菩薩の尊称。偉大な志を持つ者。大菩提を求める者の通称。
(23)瓔珞:インドの装身具。仏教では仏や菩薩の身体を飾る物。要は身に着ける物。
(24)清浄願心:阿弥陀仏が衆生を救おうという誓願の心。
(25)因なくして他の因あるにはあらざるなり:行も信も阿弥陀如来の清浄願心という因なくして成り立たない。それ以外の因などあり得ない。
【HP作成者感想】 5月以来、善導の三心釈(至誠心・深心・回向発願心それぞれの釈)について拝読してきました。思いますに、これらの深い宗教的記述の一つ一つを懸命に理解しようと思うあまり、その一部に焦点が 集まり過ぎ、考え過ぎてしまって、そこに記述されている文章が、信巻全体の中でどのような位置づけとして書かれているのかということが、おろそかになってしまって、全体的としての「信巻」の意図するところ、ひいては 『教行信証』の意図するところを充分に把握できないということに注意すべきであろうと思います。その意味で、今月の文章も、この点を踏まえながら読ませていただきたいものと思っています。
 先ず、今月の文章、信巻の【14】にあたる①の文章です。『涅槃経』にある「釈迦如来は慈悲の父母」ということを説いた文章です。すぐに思い出すのが「二河白道の譬」において西に向かう旅人に対して、こちらの岸に立って、 弥陀が招く対岸の西方浄土を指し示して、火の河、水の河を恐れずに白道を進んで対岸の浄土に思い切って進めと励ます釈尊の姿です。まことにこの姿は火の河、水の河、群賊悪獣が跋扈する無明の世界にあって、往生浄土を願う 衆生に対して、同じ立場から衆生を気づかう慈悲の父母の姿であります。この世を恐れながら、この世に執着し、往生浄土を躊躇(ちゅうちょ)する衆生に対して、自らの真実の修行の結果、仏になられたその成果を衆生に回向され 涅槃の浄土に誘(いざなう)う姿であります。往生浄土を願う衆生に対して、この釈迦如来の他力回向の姿を肝に銘ぜよと善導がこの場面で説いているのです。慈悲の父母、即ち父母ですから弥陀・釈迦二尊になるのですが釈尊のみが 表現されています。これはやはり弥陀は西方浄土にあって厳然と動かずに存在し、この弥陀のさとりの世界からこの世に現れ私たち衆生を様々な手段で浄土へ導くのが釈尊であるわけでしょう。したがって釈迦・弥陀は一体であって 釈尊を讃嘆することは弥陀を同時に讃嘆することであって釈迦如来は慈悲の父母ということになるのではないでしょうか。  次は信巻【15】にあたる②の文章です。ここには『貞元新定釈教の目録』に記載された『集諸経礼懺儀』の中に『観無量寿経』に関連して善導の『往生礼讃』から次のような要文(肝要な法門)が記述されているとしています。 『貞元新定釈教の目録』や『集諸経礼懺儀』及び『往生礼讃』についての詳細は〘語釈〙の(3)、(4)、(6)の項目を見ていただくことにして、この要文では『往生礼讃』の中の三心(至誠心、深心、回向発願心)の中から「深心」 について上の「読下し古文」における(A)の文章「(ふた)つには(じん)(しん)、すなはちこれ(しん)(じつ)(しん)(じん)なり。()(しん)はこれ(ぼん)(のう)()(そく)せる(ぼん)()(ぜん)(ごん)(はく)(しょう)にして(さん)(がい)()(てん)して()(たく)()でずと(しん)()す。いま()()(ほん)()(せい)(がん)は、(みょう)(ごう)(しょう)すること下至十声聞(一四七げしじっしょうもん)(とう)(およ)ぶまで、さだめて(おう)(じょう)()しむと(しん)()して、(一四八いち)(ねん)(いた)るに(およ)ぶまで()(しん)あることなし。ゆゑに(じん)(しん)()づくと。(乃至)
 〈それかの()()(ぶつ)(みょう)(ごう)()くことを()ことありて、(かん)()して(いっ)(しん)(いた)せば、みなまさにかしこに(しょう)ずることを()べし〉」と。(抄出)
を親鸞聖人は引文としておられます。この文で「乃至」までは、三心(至誠心、深心、迴向発願心)の内、特に「深心」を自己に与えられた他力回向の信心を表す言葉としてここに引文されたのでしょう。
そして「乃至」の後の< >内の文章で、同じ『往生礼讃』の文章から<弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさに、かしこ即ち浄土にうまれることができる>と引文されています。 「名号を聞くことを得る」とは、どのように受け取ればいいのでしょう。これは名号、すなわち「南無阿弥陀仏」が示すように、今、現在、大いなるいのちに摂取され、その中で生きているという自分に気づかせていただく ことではないでしょうか。
 次の③は『往生要集』からの引文で、本文(B)にありますように、「不可壊の薬」や「住水宝珠」になぞらえて、菩薩が、これらの薬や珠を得れば煩悩や魔物、怨敵によって、妨げられることなく 生死の海にあっても沈むことなく金剛のごとき不変の菩提心をうることができる。『仏教語大辞典』には菩提心とは、さとりに向かう心とありますから、親鸞浄土教でいえば信心であって、金剛の信心を得れば それは、丁度、不可壊の薬、住水宝珠を得た菩提心と同じく、もろもろの煩悩の業の中にあっても変わることのない金剛の信心を維持することができるということを表しているのでしょう。
 最後には有名な往生要集の中の言葉で、これは、また、正信偈でも「我亦在彼摂取中、煩悩障碍雖不見、大悲無倦常照我」という偈で顕されており、私たち衆生に大変分り易く、金剛の信心に 摂取された衆生の心境を表わしています。
 以上の引文は、それぞれ比較的短い文章で、内容も表面的には、それぞれ違った話題からなっています。しかし、この4つの文章に共通する深い意味は他力回向による大信心ということを 善導や、源信が、どのように思ったか、また親鸞聖人は、それを、どのように受け取られたかを、『般舟讃』や『往生礼讃』、はたまた源信の『往生要集』からの引文を読み進めることによって考えてきました。 その意味で、親鸞聖人も、の文章で「しかれば、もしは(ぎょう)、もしは(しん)一事(いちじ)として阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)清浄(しょうじょう)(がん)(しん)回向(一五六えこう)成就(じょうじゅ)したまふところにあらざることあることなし。(いん)なくして()(いん)のあるにはあらざるなりと、()るべし。」 として、親鸞浄土教における行も信も全て弥陀の本願によることで、大信心の因はすべて、如来の清浄願心によるものであることを示されています。
 

今月は以上のように学ばせていただきました。




●今月の言葉(2020年11月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文15
先月は前々回の「二河白道の譬え」を含む善導の『散善義』からの引文に続いて、釈迦如来は慈悲の父母と讃える『般舟讃』からの引文、『貞元新定釈教目録』にある『集諸経礼懺儀』の中の 『往生礼讃』文、そして源信和尚の『往生要集』から「不可壊の薬」ならびに、正信偈にもある「煩悩障碍雖不見大悲無倦常照我」の引文によって大信心を讃え、そして、最後に親鸞聖人の「行も信もすべて、阿弥陀如来の 清浄願心の回向成就の因なくして成り立ちえないという、大行と大信を讃える結びの文章で終わりました。
 そこで今月からは、大無量寿経における第十八願文の三心、すなわち至心、信楽、欲生と天親菩薩の『浄土論』にある「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来願生安楽国」の一心、すなわち、どちらも往生浄土を究める三心 と一心の関係を問題にした「三心一心問答」という、大いなるいのちにまつわる緻密なる親鸞聖人の論究の世界に入らせていただきます。これは親鸞聖人が信巻最初の序文に「ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、 論家釈家の宗義を被閲す。ひろく三経の光沢をこうむりて、ことに一心の華文をひらく、しばらく疑問をいたして、ついに明証をいだす。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の弄言をはじず。」と言われている文言が、 今月から、ここで拝読する本文として展開し始めるわけです。まさに『信巻』のかなめとなる部分というべきであると『教行信証講義』の著者、山辺習学師は書いておられます。ところがこの問答、全体をうかがいますに、 まことに緻密にして長大。したがって漠然と、文章を追って読み進めても、とても全体のはっきりした把握が私(HP作成者)には困難であります。そこで、ここは一番、『教行信証』の解説書、名著と言われた、山辺習学・ 赤沼智善共著『教行信証講義』の章、節、項、科による勝れた区画の分け方を参照させていただきながら、私見を述べさせていただきたいと存じます。
 今回最初の章の第一節は問答の問いの部分、第二節第一項は問いに対する大まかな答え、第二項は至心・信楽・欲生を構成する字の解釈、第三項は更に、これら三心各々の意味を四字熟語に融合して釈したもの、 第四項は以上の項目の要点を総合しまとめた結釈となる項目。以上からなっています。それでは以下、三心一心問答の最初の章の現代語訳から始めさせていただきたいと思います。
  【現代語訳】
第一節(問答の問いの部分)
 問うていうに、如来の本願(第十八願)には、すでに([1])心・信楽・欲生という三心が浄土往生のかなめであるとの誓いがある。何をもってのゆえに、浄土論を著した天親菩薩は 「世尊我一心、帰命盡十方無碍光如来願生安楽国(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)」として、これを一心と顕されているのだろうか。
第二節
 第一項(問いに対する大まかな答え)  答えていうに、愚鈍な衆生に分かり易いように弥陀如来は浄土往生のかなめとして、上の三心を発(おこ)されたのだが、往生の真実の因はたゞ信心第一であるので、浄土論の論主 「天親菩薩」は、この三つを合して一心とされたのであろうか。
 ([2])二項(至心・信楽・欲生を構成する字の訓読み(漢字の日本語読み)による解釈)
 私(親鸞)なりに三心の字の意味を考えるに、三はすなわち一である。その意味は
 「至心」について「至」とはすなわち、真であり、実であり誠(じょう)である。また「心」とは種であり、実である。
 「信楽」について、「信」とは、すなわち真であり、実であり、誠(じょう)であり、満であり、極(ごく)であり、成(じょう)であり、用(ゆう)であり、重であり、審であり、験(げん)であり、宣であり、忠である。 「楽(ぎょう)」とはすなわち欲であり、願であり、愛であり、悦であり、歓であり、喜であり、賀であり、慶(きょう)である。
 「欲生」について、「欲」とは、すなわち願であり、楽(ぎょう)であり、覚であり、知である。「生(しょう)」とは、すなわち成(じょう)であり、作(さ)<作(さ)の字は為(い)であり、起であり、行(ぎょう)であり、 役(えき)であり、始であり、生(しょう)>であり、爲(い)であり、興(こう)である。
 第三項(三心各々の意味を第二項の字を使って四字熟語に融合し、すこしでも分かり易く答えたもの)。
 あきらかに、知ることができた。
 「至心」は、すなわち往生成仏の種となる真実にして誠(まこと)なる心(真実誠種)であるがゆえに疑いの雲(疑蓋)が雑(ま)じらないことである。
 「信楽」は、すなわち如来の真実がそっくり入っている心(真実誠満)、極め尽くされた本願のはたらきを敬(うやま)い重んじる心(極成用重)、究極の功徳(審験)をもった如来の仰せ(宣)をかたく信じる心(審験宣忠)、 浄土往生の願いが叶って愛(め)で悦ぶ心(欲願愛悦)、往生が定まって、聞き得た法をよろこぶ心(歓喜賀慶)等々である。 したがってやはり疑いの雲の生じるはずがないのである。
  最後に「欲生」は、すなわち、信により往生できることを確かに知ってよろこぶ心(願楽覚知)、仏に成ることができ、即(ただち)に衆生救済のはたらきを興(おこ)す心(成作爲興)、すべて大悲によって回向された心であるが故に、 疑いの雲が雑(ま)じることがないのである。
第四項(以上の結論)
 今、三心(至心、信楽、欲生)の字の教えを考えれば、真実の心にして、うそいつわり(虚仮)が雑じることがないのである。
([3])直(しょうじき)の心であって邪(よこしま)な偽(いつわ)りが雑じることがない。まことに知ることが出来た、疑いの雲が間に雑じることが ない故に、これを「信楽」と名づけるのである。「信楽」は、すなわちこれ「一心」である。「一心」はすなわち真実の信心である。この故に浄土論を著された天親菩薩は、建(はじ)めに「一心」といわれたことを知るべきである。
〘語釈〙
[1]至心・信楽・欲生:本文「第三項」四字熟語による説明でもって、語釈とします。
[2]第二項において親鸞聖人が至心、信楽、欲生の各単漢字のこころを、多くの別の単漢字で顕されたことの全体の意味は後述の【HP作成者感想】をごらんください。
[3]正直:仏法の上に正直といふは、一切有為の法は、虚妄幻化の偽(いつわり)なりと悟りて、本来本法身天然自性ままに用いるを真の正直とす。 (仏教語大辞典の「正直」の項目で、江戸時代の仏教者鈴木正三の著書『万民徳用』からの解釈として以上のような文言が紹介されている。)

 
【読下し古文】
第一節(問答の問いの部分)
 () ふ。(にょ) (らい)(ほん) (がん) (だい) (じゅう) (はち)( がん))、すでに ([1])(しん)(しん)(ぎょう)(よく)(しょう)(ちかい)(おこ)したまへり。なにをもつてのゆゑに([4]ろん)(じゅ)(てん)(じん))「一心(いっしん)」といふや。
第二節
第一項(問いに対する大まかな答え)
(こた)ふ。()(どん)(しゅ)(じょう)()(りょう)(やす)からしめんがために、弥陀(みだ)如来(にょらい)(さん)(しん)(おこ) したまふといへども、涅槃([5]ねはん)真因(しんいん)はただ信心(しんじん)をもつてす。このゆゑに(ろん)(じゅ)(さん)(がっ)して(いち)とせるか。
([2])二項(第一項の答えだけでは大まかな答えになってしまうので、親鸞聖人は、更に至心・信楽・欲生を構成する字の解釈を試みられている。)
  わたくしに(さん)(しん)([6])(くん)(うかが)ふに(さん)すなはち(いち)なるべし。その(こころ)いかんとなれば、「()(しん)」といふは、「()」とはすなはちこれ(しん)なり、(じつ)なり、(じょう)なり。「(しん)」とはすなはちこれ(しゅ)なり、(じつ)なり。「(しん)(ぎょう)」といふは、「(しん)」とはすなはちこれ(しん)なり、(じつ)なり、(じょう)なり、(まん)なり、(ごく)なり、(じょう)なり、(ゆう)なり、(じゅう)なり、(しん)なり、(げん)なり、(せん)なり、(ちゅう)なり。「(ぎょう)」とはすなはちこれ(よく)なり、(がん)なり、(あい)なり、(えつ)なり、(かん)なり、()なり、()なり、(きょう)なり。「(よく)(しょう)」といふは、「(よく)」とはすなはちこれ(がん)なり、(ぎょう)なり、(かく)なり、()なり。「(しょう)」とはすなはちこれ(じょう)なり、()()()()なり、()なり、(ぎょう)なり、(えき)なり、()なり、(しょう)なり)なり、()なり、(こう)なり。
([7])三項(三心各々の意味を第二項の字を使って四字熟語に融合し、すこしでも分かり易く答えたもの)
 あきらかに()んぬ、「至心(ししん)」は、すなはちこれ真実(しんじつ)(じょう)(しゅ)(しん)なるがゆゑに、([8])(がい)(まじ)はることなきなり。「(しん)(ぎょう)」は、
すなはちこれ真実(しんじつ)(じょう)(まん)(しん)なり、
極成用重(ごくじょうゆうじゅう)(しん)なり、審験宣忠(しんげんせんちゅう)(しん)なり、欲願愛悦(よくがんあいえつ)(しん)なり、歓喜賀慶(かんぎがきょう)(しん)なるがゆゑに、()(がい)(まじ)はることなきなり。「(よく)(しょう)」は、すなはちこれ願楽覚知(がんぎょうかくち)(しん)なり、成作為興(じょうさいこう)(しん)なり。大悲回向(だいひえこう)(しん)なるがゆゑに、()(がい)(まじ)はることなきなり。
第四項(以上の結釈)
 いま(さん)(しん)()(くん)(あん)ずるに、(しん)(じつ)(しん)にして()()(まじ)はることなし、([3]しょう)(じき)(しん)にして([9]じゃ)()(まじ)はることなし。まことに()んぬ、()(がい)([10]けん)(ぞう)なきがゆゑに、これを(しん)(ぎょう)()づく。(しん)(ぎょう)すなはちこれ(いっ)(しん)なり、(いっ)(しん)すなはちこれ(しん)(じつ)(しん)(じん)なり。このゆゑに(ろん)(じゅ)(てん)(じん))、([11]はじ)めに「(いっ)(しん)」といへるなりと、()るべし。

〘語釈〙
[2]第二項の各単漢字の字訓釋について親鸞聖人が至心、信楽、欲生の各単漢字のこころを、多くの別の単漢字で顕されたことの全体の意味は後述の【HP作成者感想】をごらんください。
[4]論主(天親):『浄土論』の著者である天親。
[5]涅槃(ねはん):まよいの火を吹き消した状態。梵語でニルバーナともいう。
[6]字訓:漢字の日本語読み
[7]第三項の四字熟語の意味するところは【現代語訳】第三項の各四字熟語の現代語訳をお読みいただき、また【HP作成者感想】の〈第三項〉該当部分の論述をお読みください。
[8]疑蓋雑じはることなきなり:疑蓋、すなわち疑いの雲が雑じることがないのである。
[9]邪偽雑じはることなし:邪偽、すなわち、よこしまな心が雑じることがない。
[10]間雑(けんぞう):雑じわる
[11]建(はじ)めに:天親菩薩が『浄土論』の初(はじ)めに一心といわれたという意味で「初めに」とか「始めに」の意味があると同時に、ここで「建」という字が使われていることから 天親菩薩が『浄土論』において一心帰命という信心のこころを打ち建てられたという意味にもとれる。
【HP作成者感想】  第一節は願生浄土の必須条件である『大無量寿経』第十八願の至心・信楽・欲生の三心と天親菩薩が『浄土論』において安楽国(浄土という真実の世界)に生まれたいと「盡十方無碍光如来」に一心帰命することの関係性 について、何故三心なのに一心となるのかという問いの提議です。
 それに対して、「第二節」〈第一項〉で「答(こた)ふ。愚(ぐ)鈍(どん)の衆(しゅ)生(じょう)、解(げ)了(りょう)昜(やす)からしめんがために、弥陀(みだ)如来(にょらい)、三(さん)心(しん)を発(おこ) したまふといへども、 涅槃([5]ねはん)の真因(しんいん)はただ信心(しんじん)をもつてす。このゆゑに論(ろん)主(じゅ)、三(さん)を合(がっ)して一(いち)とせるか。」すなわち、現代語訳をしますと「答えていうに、愚鈍な衆生に分かり易いように 弥陀如来は浄土往生のかなめとして、上の三心を発(おこ)されたのだが、往生の真実の因はたゞ信心第一であるので、浄土論の論主、天親菩薩は、この三つを合して一心とされたのであろうか。」と最後は「一心とされたので あろうか」といささかの疑問符を付しながら、親鸞聖人は自問自答しておられます。 これに対して、現代の情報過多の海に浮き沈んでいる私たちは、親鸞聖人において、なぜこのような問答が重大提議としてなされるのだ ろうかと、つい思ってしまいます。これはやはり『大無量寿経』に対する、鎌倉時代の親鸞聖人と、現代の衆生である私の、思いの違いに起因するのではないかと思うのです。親鸞聖人の時代は『大無量寿経』にしろ 『法華経』にしろ、仏教経典は等しく生きた釈尊が直接説かれた経であると偏(ひとえ)に信じられた時代です。だから、この経の説はいのちと引き換えにしても信じるべき教えであると一点の疑いもなく思われていた時代です。 それに対して、現代人はどうでしょう。『大無量寿経』にしろ『法華経』にしろ、その他、大乗仏教経典は釈尊の入滅後500年前後の後の時代に釈尊の永遠性を象徴的に説いた、いわばその時代の深い宗教性をもった人たちが説いた説であって、 そのことが近世から近代にわたって実証的に得られた知見であると、どうしても心の底で思ってしまうのです。そうなると、これは私だけかもしれませんが、三心であっても、一心であっても、宗教的意味合いは、そう変わらない のではないかと、どうしても思ってしまうからではないでしょうか。しかし親鸞聖人の時代は違います。経典は生きた釈尊の言葉の記録であると絶対的な信を置く時代ですから、親鸞聖人はこの三心と一心の同異を、この信巻の 大きなスペースを割(さ)いて、どうしても論じなければならなかったのではないでしょうか。ひるがえって、現代人である私も『大無量寿経』が生きた直接の釈尊の言葉ではないけれども、そこで象徴される宗教的真実は釈尊が 説かれた絶対的真実であると、すくなくとも親鸞浄土教徒であると、自分で勝手に思い込んでいる私にとっては、やはり、この三心一心問答にくらいついていかねばならない理由があるのです。
 そこで親鸞聖人は「第二節」〈第二項〉において、「わたくしに…」以下、至心の「至」から欲生の「生」にいたるまで一つ一つの字に経釈の典拠に基づく、いくつかの単漢字を充てて、その訓読みをとおして、 その意味を顕されます。たとえば、信巻のこの部分で至心の至について「至とは、すなはちこれ真なり実なり誠なり」とありますが、これは、山辺・赤沼『教行信証講義』によれば「(善導の観経疏)『散善義』の至誠心の 釈(説明)に依られた。彼処には「至とは真なり、誠とは実なりとある。」と記されています。したがってこれが至の字の典拠として、親鸞聖人は至の字について上のように説明されたのでしょう。このように、この他に、至心の 「心」、信楽の「信」や「楽」、さらには欲生の「欲」と「生」についても、それぞれ、経釈などに典拠がある多くの漢字の字訓によってそれらの意味(こころ)を顕されました。しかし、このように多くの漢字について精緻を究めた 字訓釋をもっての説明には、能率ばかりを追求する愚かな私たち現代人にはかえってその宗教的核心が掴めずに文字から眼が離れてしまうことになりかねません。実際に私はそうでした。この点について山辺習学・赤沼智善著 『教行信証講義』においては次のような解説がなされています。『西派の東陽閣圓月師(明治の真宗本願寺派の僧)は其著『本典仰信録』に「俗典浅近(親しみやすい漢字)の字訓に 寄せて。以て三心即一心の深義をあらわす也」と云われた。所謂寄顕(漢字を当てはめることにより意味をあらわす)の説であると云う。字訓と云う動かすべからざる基礎に立ちて、三信即一の義を論定し証明すると云う意味 ではなくして、只三信の一々の文字に親密の意味ある文字を集めて、それによりて他力信心の内容をふくよかに発表せんがためである。即ち文字そのものには生命がないが、聖人の信仰の息を吹き入れることによりて、 力ある生命あるものとなるのである。』 また、現代の仏教者、梯実円師も「存覚上人は『六要鈔』三に、ここに挙げられた字訓釈の一々の文言の典拠について、
 <初(はじめ)の問答は、広く字訓を挙(あげ)て三心一心の義を成ずることを明かす。字訓未だ悉くは本文を勧得せず(字訓の典拠のすべてを正確に知ることができなかった)、博覧の宏才仰ぐべし信ずべし。>             といい、博覧強記で有名な存覚上人が、親鸞聖人が挙げられた字訓の典拠のすべてを正確に知ることができなかったといい、ひたすら親鸞聖人の「博覧の宏才を仰信するほかはない」と讃仰されて います。しかし、これは存覚上人の謙譲を表された言葉で、いたずらに言葉の典拠を穿鑿(せんさく)するよりも、このような字訓に寄せて顕そうとされている本願の仏意を正確に領解しなければならないと、 私たちに字訓釈拝読の注意を促されたのでしょう。」といわれています。親鸞聖人は一つ一つの字訓について、確かな典拠をもって、ここに記されているわけでしょうが、後学が後の世にいたずらに、字訓の 典拠を詮索することなく、その字訓の中にひとえに他力信心の深意を拝受させていただくことが肝要であるということではないでしょうか。しかし、そのように他力信心の仏意を領解するといっても、やはりそれには 一つ一つの字訓の典拠をから仏意を探ることでしょうから、結局全部の字訓について仏意を探ることになりその作業を進めている内に、全体の仏意の把握が疎かになってしまうという堂々巡りになる私の力を悔やむほかは ありません。
 ところが、そのような愚かな私の領解力を慮(おもんばか)ってか、親鸞聖人は〈第三項〉では第二項における字訓の単漢字を四字ずつまとめて熟語にして、至心、信楽、欲生それぞれの意味を四字熟語の意味として、 分かり易いように述べられています。これが【現代語訳】の〈第三項〉にまとめられていますのでお読みいただき三心それぞれの意味をお読取いただきたいと思います。  そしていよいよ〈第四項〉で本日読み進めた範囲の結論を出されます。すなわち、親鸞聖人は、ここで挙げられた三心すなわち至心、信楽、欲生の四字熟語による字訓釋において、そのいずれにおいても、それぞれの 最後に、「疑蓋雑じはることなきなり」すなわち、疑いの雲が生じることがないということを強調されます。疑いの雲が生じることがないとは、疑わない、すなわちとりもなおさず信楽であり信心という一心に帰結する ということであります。「信楽すなはちこれ一心なり。一心すなはちこれ真実信心なり。このゆえに論主(天親)、建(はじめ)に<一心>といへるなりと、知るべし。」ということであります。  ということで『大無量寿経』第十八願の三心(至心・信楽・欲生)は『浄土論』における一心ということに帰結しました。ところが親鸞聖人はこれでめでたしめでたしと終わりません。「また問ふ。字訓のごとき、論主の 意(こころ)、三をもって一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発(おこ)したまへり。いかんが思念せんや。」と、今度は逆の問いを発(おこ)されます。 親鸞聖人のどこまでも究め尽すこの精神、まことに理の精緻、ここに極まるというところです。これはまた、来月のテーマとなります。さてどこまで迫れるのか、まことに仰いで敬すべしであります。

今月は以上のように学ばせていただきました。


●今月の言葉(2020年12月)

『顕浄土真実教行証』信文類本文16
 先月は親鸞聖人が説く三心一心問答の内、往生浄土の必須条件として、第十八の本願においては至心・信楽・欲生の三心が必要と説かれているのに対して、4世紀に天親菩薩によって書かれた 浄土教の聖典『浄土論』には「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来願生安楽国」として、三心ではなく一心に究めて浄土往生の条件としてあるのは何故か。このことについて自ら問い、そしてそれに対して自らお答えになるに 愚かな衆生に分かり易いようにと一心とされたと、至心、欲生をも、兼ね摂(おさ)めた信心の一心を強調されたのではないかと説かれ、さらに詳細に字訓をもって三心 ([4])と一心の関係を説き、信心の一心こそ浄土往生のかなめである ことを説かれました。
 ところが、今月は、先月の結論とは逆に、そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、愚かな衆生にわかりやすく説くために、第十八願では、わざわざ三心 にかみ砕いて説かれて いるのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうかという逆の問いを設定され、それについて、まず自らの考えを説いて行かれます。そして、その後には例によって([1] )([2])([3])からの三心に関する引文が続きます。 これがなかなかの長文で、いい加減に読んでいると、焦点がぼけてしまって、親鸞聖人が設けられた問いと、それに対する答えの把握が、引文などを含めると、なかなか掴み切れなくなります。山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』 には「三心の各々の内容を広範に詳しく説かねばならぬと、その特質、更に証拠となる経文の文言、それらによって得られた結論を施された。」とありますが、その理解のために今月こそ、左記の『教行信証講義』 を参考に第一節は問、第二節は至心釈、第三節は信楽釈、第四節は欲生釈に各々分け、更に各釈ごとに項と科に小さく分けて、この「三心一心問答」という信巻の中心課題の教えをいただいていきたいと思います。

<語釈>
[1]経:仏の教え
[2]論:インドの仏教者が著した教え
[3]釈:経・論の教義・意味を解釈する註釈のこと。
[4]三心:第十八願に誓われている至心・信楽・欲生 のこと。

  【現代語訳】
  第一節(問答の問いの部分)
また、問うて申し上げる。字訓が示すように、三心は一つの心、すなわち一心に収斂するというのが論主 天親菩薩の意(こころ)であるという。そのことは、そのとおりだと思うけれども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来は 既に至心、信楽、欲生として三つの心をもって願を起こしておられる。このことはどのように考えればよいのだろうか。
  第二節 至心(まず答えの最初に、三心の内、至心について説き始められる)) 
 <第一項(至心の特質)>
 答えてみよう。仏のこころは深遠で測りがたい。けれども、僭越ながら仏の意(おこころ)を推し量ると一切の生きとし生ける者は永遠の昔から現在に至るまで 罪悪の煩悩に汚(けが)されて、 仏と共にあるという清浄の心がない。いつわり、へつらい多く、仏の心と同じ真実の心がない。そこで如来は一切の苦悩の衆生を哀れみ何とかせねばと、考えも及ばぬ長い期間にわたって 全てを超えて全身全霊をもって 菩薩の行を行じられた結果、一瞬たりとも仏に与えられた清浄心や真実心を失われなかった。したがって、その結果如来となられて、仏の真心(まごころ)をもって、欠けることなく融通無礙に、 思いはかることも、 称(たゝ)え尽くすことも、説き尽くすこともできない無限の徳を成就されたのである。そして如来の至心(究極の仏心)を煩悩にまみれた一切の邪智悪業の衆生に振り向け施されたのである。すなわち これこそ仏の 利他の真心(まごころ)であって、従ってこのことには疑いの心が雑(ま)じることがないのである。この至心はすなわち無上の功徳たる弥陀の名号である。
【読下し古文】

第一節(問答の問いの部分)
また()ふ。()(くん)のごとき、(ろん)(じゅ)(こころ)(さん)をもって(いち)とせる()、その()しかるべしといへども、()(あく)(しゅ)(じょう)のために()()()(にょ)(らい)すでに(さん)(しん)(がん)(おこ)したまへり。いかんが()(ねん)せんや。
第二節 至心(まず答えの最初に、三心の内、至心について説き始められる) 
<第一項(至心の特質)>

 (こた)ふ。(ぶつ)()(はか)りがたし。しかりといへども、ひそかにこの(しん)(すい)するに、(いっ)(さい)(ぐん)(じょう)(かい)(一六九む)()よりこのかた(ない)()(こん)(にち)(こん)()(いた)るまで穢悪汚(一七〇えあくわ)(ぜん)にして([8]しょう)(じょう)(しん)なし、([5])()(てん)()にして真実(しんじつ)(しん)なし。ここをもって(にょ)(らい)一切(いっさい)苦悩(くのう)衆生(しゅじょう)(かい)悲憫(ひびん)して、([6})()()()(ちょう)(さい)(よう)(ごう)において、()(さつ)(ぎょう)(ぎょう)()()まひし(とき)([7]さん)(ごう)(しょ)(しゅ)(いち)(ねん)(いち)(せつ)()([8]しょう)(じょう)ならざることなし、([9]しん)(しん)ならざることなし。(にょ)(らい)(しょう)(じょう)(しん)(しん)をもつて、円融( [10]一七一えんゆう)()()不可思議(一七二ふかしぎ)()()(しょう)()()(せつ)([11])(とく)(じょう)(じゅ)したまへり。(にょ)(らい)()(しん)をもって、(しょ)()(いっ)(さい)(ぼん)(のう)(あく)(ごう)(じゃ)() ([11]ぐん)(じょう)()([13]一七三え)()したまへり。すなはちこれ([14])()(しん)(しん)(あらわ)す。ゆゑに([15])(がい)(まじ)はることなし。この()(しん)はすなはちこれ至徳([16]一七四しとく)尊号(そんごう)をその([17]たい)とせるなり。
<語釈>
[5]虚仮諂偽:うそいつわり
[6]不可思議兆載永劫:考えることもできないような長い年月

[7]
三業の所修:身口意における修行=身で行い、口で論じ、意志によって示した修行。
[8]清浄:仏の浄土のように清らかな。
[9]真心:仏のような まことの心。
[10]円融無礙不可思議不可称不可説:円(まろ)やかで障りなく思議(思いはかる)ことも称(たゝ)えることも説くこともできない。
[11]至徳:徳の至り=最上の功徳。
[12]群生海:あらゆる生き物の世界。
[13]回施:施(ほどこ)し分け与える。
[14]利他:仏が仏以外の他すなわち衆生を利する。
[15]疑蓋:疑い。
[16]至徳の尊号:南無阿弥陀仏のこと。
[17]体:根本、本質。(仏教語大辞典)

【HP作成者感想】
 ここでも、  先月の問答と同じく第一節(問答の問いの部分)です。 今度は、先月の問いとは逆に、「そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、 愚かな衆生にわかりやすく説くために、むしろ、第十八願では、わざわざ三心(つまり至心・信楽・欲生)に噛み砕いて説かれているのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうか。」との問いを親鸞聖人は 投げかけます。すなわち、先月の問答では、三心では三つに焦点が分れているため、これでは愚鈍の衆生には複雑で理解しにくいだろうからと、天親菩薩は、それを一心にまとめられたのだというわけですが、しかし、第十八願は、 浄土往生の必須条件を愚鈍の衆生に分り易いように、わざわざ至心、信楽、欲生の三心に噛み砕いて示されたのではないのかという疑問です。
「第二節 第一項 それに対する答え」それに対する答えとして、親鸞聖人は、仏意は深遠ではかり難いけれどもと、はじめに、ことわりながらも、「ひそかに、その深遠なる仏意を推しはかるに」 と前置きしながら、 このことに対する自論を展開されます。
 すなわち、一切の生きとし生ける者、もちろん親鸞自身も含めた一切の群生、つまり、この世に群れ生きる衆生は永遠の昔から今日今時、つまり現在にいたるまで絶え間ない煩悩に苦しみ汚(けが)されて、清浄なる仏の心を持てない。 いつわりやへつらいの心で固まってしまっていて、仏しか持ち得ないだろう真実心のかけらも持ち得ていない。このような、全ての衆生の有様を見て如来は窮極の悲しみと憫(あわれ)みを持たれ、 その結果、なんとか仏となって、このような衆生を救いたいと思い立たれ、法蔵([18])菩薩として、想像を越えた長い期間の菩薩行を行じられた。 そして全身全霊の修行の間、一瞬たりとも煩悩の濁りなく、 真実心(仏のような心)そのものであられた。その結果、かげりなき円(まろ)やかで、思いはかることも、説くことも、讃嘆することさえできないほどの至徳の仏となられた。この仏は、煩悩の汚(けが)れも全く無い清浄なる真実心、 すなわち至心をもって、この世の、煩悩で、どうしようもない一切の生きとし生ける衆生に、自らの兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行の徳を回施された。となるのですが、ここまで読んで、はじめて、 親鸞聖人が答えられたこの項の主題が三心の内の「至心」であるということであるとわかります。山辺・赤沼両師の著『教行信証講義』による編・章・節・項・科等の分け方で「第二節 至心」<第一項(至心の本質)>と 標題しながら、愚鈍の衆生たる私は第二節、第一項の最後の、このあたりになって、やっとこれが親鸞聖人による「至心」の意味であることに実感が沸いた次第です。ことほど左様に『教行信証』における親鸞聖人の 論旨は、その篤い宗教性のなせるところか、我々愚鈍の衆生の迂闊な読み方では、焦点がぼけてしまうことがあります。この後も、文章を読んでいく中で、しっかりと 三心の中のどの位置を説かれているのかを注意しながら読み進めていくことが肝要であると思うところです。 さて、ここで親鸞聖人は「至心」をどのように捉えておられるのかということですが、これは、問いに対する 答えの初めからずっと、法蔵菩薩の永劫の修行の有様を説かれ、そしてその結果、仏となられたその功徳は、永劫の過去から煩悩悪業邪智の世界から離れることのできない私たち衆生の力ではとても得られない功徳、これを それが「至心」という功徳であって、それは法蔵菩薩の永劫の修行でしか得られないもの。それを、如来は我々衆生に振り向け回施しようとされている。すなわち、これが仏の利他の真実心である。したがって、このことを ①われわれ衆生は一点の疑いもなく受け入れるほかに道はないということになります。すなわち「至心」は仏の力によってのみ得られるもので、われわれ衆生がどんなに自分の力で逆立ちしても 得られるものではない。それを如来は我々愚鈍の衆生に回施しようとされる。このように親鸞聖人は説かれています。そして、その至心は、すなわちこれ至徳の尊号、つまり弥陀の名号を体(そのもの、根本、本体)とするのだと 親鸞聖人は結論されるのです。「至心」の本体が弥陀の尊号であるということは、「至心」の本体は仏であって、私たち衆生の力では手の届かないものということを表わします。しかし、仏は本願力 によって、これを私たち衆生に回施しようとされるのです。それでは、私たち衆生は、どうあればこの回施を受取ることができるのでしょうか。これは、上の①にもありますように「われわれ衆生は一点の疑いもなく受け 入れるほかに道はない」ということに尽きるのではないでしょうか。来月は、この「至心」について、親鸞聖人は『大無量寿経』のほか、いくつかの経釈からの引文によって証(あかし)しされます。来月も焦点を見失う ことなく読み続けていきたいと思います。
<語釈>
[18]法蔵菩薩:阿弥陀仏の修行時の名。

今月は以上のように学ばせていただきました。