仏教 こころの言葉
| 【現代語訳】 ◎ 顕浄土真実信文類 本文4 (第十八願の)本願成就の文、大無量寿経下に次のように説かれている。 「すべての衆生は名号のいわれを聞いて信心歓喜するまさにそのとき、浄土往生を願う衆生は如来の回向により、その願いを成就され不退転のくらいに至るのである。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」 ◎『無量寿如来会 下』にも説かれている。「他の諸仏の国にある衆生も含めてすべての国の生あるものは、無量寿如来の名号のいわれを聞いた、その瞬間に浄らかな信を回向せしめられて歓喜愛楽し、無量寿国に往生したいと願えば、その願いに随って、みな往生し、不退転のくらいとなって無上のさとりを開くことができる。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」 |
| 【読下し古文】 『 |
今月は以上で終ります。
| 【現代語訳】 (1) また説かれている(大無量寿経・下) 仏法を見聞して、よくこころに留め、敬い、教えを受けた身を喜ぶ者は、すなわち私(釈迦)の親友である。だから信心をおこすがよい。 (2) また説かれている(無量寿如来会・下) このような信心深い人々は仏の勝れた功徳を与えられた人々であり、広大な仏法の中でも特に優れた (3) また云われている。 阿弥陀如来の功徳は仏(釈尊)ご自身のみがよく心得ておられる。従って釈尊だけがそれを説き示すことができるのであり、 〘語釈〙 ❶法門:仏の教え ❷天・竜・夜叉:仏教では天の神(梵天、帝釈天)・海の神(竜神)・夜叉(魔力を具えた魔物)は全て阿弥陀仏に仕える存在。絶対者ではない。 ❸二乗:声聞や縁覚など、自らの身悟ることのみに満足し、大乗的に他と共に救済されようとする気の無い聖者。 ❹普賢菩薩:慈悲の菩薩。釈尊の脇に仕える菩薩。 ❺妙法:真実の仏法。 |
| 【読下し古文】 (1) (2) またのたまはく( (3) またのたまはく( 〘語釈〙 ➏親友(しんう):現代語で親友(しんゆう)のこと。釈尊が衆生の立場に立って、 共に阿弥陀仏のさとりを学ぼうとする姿を表す。 ❼有情:衆生のこと。 ❽作仏して:仏に成って。 ❾彼岸:浄土。これに対して此岸はこの世。 ❿一仏:阿弥陀仏のこと。 ⓫敷演:説き述べる ⓬多劫:無限の時間。 ⓭滅度:この場合は身が亡くなる事、すなわち死滅すること。 ⓮勝慧:すぐれた徳 |
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【HP作成者感想】 以下、『大無量寿経』を『無量寿経』、『無量寿如来会』を『如来会』として記述します。
『無量寿経』と『如来会』の本願成就文の次は信心の行者に対する釈尊の励ましの二つのことばです。 (1)は『無量寿経の中の全部で三行ほどの釈尊のことばです。この中で、わたしの「法を聞きてよく忘れず、見て敬い、得て大きに慶ばば、すなわちわが善き (2)も(1)と同じ部分の三行ほどの『如来会』からの引文です。この引文で注目されるのは「広大仏法の異門に生ぜん」の部分です。ここで『如来会』が表す「異門」とは単に「特殊な」とか「勝れた」といった一般的で曖昧な表現ではなく「異門」すなわち「異なった法門」の意味が含まれねばなりません。すなわち釈尊が表された八万四千の広大な法門の中での他の並の法門とは異なって際立った法門、そしてその法門の勝れた仏土、すなわち「極楽浄土」を表すのでなければなりません。このような特異な、際立って勝れた仏土である「阿弥陀仏の浄土」に往生することを「広大仏法の異門に生ぜん」と受取るべきでしょう。 (3) その次の(3)でも、注目して読むべき所があります。まず、「 さて、このような状況にあっても、深遠な仏法、阿弥陀如来の功徳は、仮に仏に生涯があったとしても、その生涯を尽しても説き尽くすことは出来ないのでしょう。丁度それは、現代の科学者が宇宙の仕組みを説き明かそうと人類の歴史をもってしても、なかなか説き尽くせないのと似ています。ことほど左様に、説き尽くせない如来の功徳ですが、信心の念仏者は、その内の一つだけ根本的な如来の功徳を知っているというか、知らされています。それは何かといいますと、その功徳は、我々衆生の絶対的な救いです。他力回向によって生きる生き方、すなわち如来に全てを摂取された一体感です。やがて大いなるいのちと一体となる予感です。そのほか取り上げれば無数にあるようですが、結局は一つです。我々衆生の絶対的な救いです。これ一つで充分です。これが阿弥陀仏の法を聞くということではないでしょうか。だから上記(3)の部分の後半は、そのことが説かれているのでしょう。だから「このような妙法を已(すで)に聞くことが出来たなら、諸仏はこころから喜ばれるのである。」ということではないでしょうか。 〘語釈〙 ⓯便同弥勒:弥勒菩薩に同じ。真実の念仏者は他力回向によって現生において正定聚 と成る。このことを必ず仏に成って釈尊のあとを継ぐという弥勒菩薩と同じになるという こと。 ⓰弥勒大士:弥勒菩薩のこと。 ⓱横超:聖道の修行者のように厳しい修業を積んで無限の長い時間の末に仏になるの ではなく、信の一念が定まれば、その瞬間に往生するということ。親鸞聖人のことばに 「信心定まるとき往生また定まるなり」ということばがある。 ⓲大般涅槃:仏のさとりの境地。 ⓳邪聚(じゃじゅ):ブリタニカ国際大百科事典より 【1】倶舎論の邪定聚:実の父や母を殺すなど五逆の罪を犯し無間地獄に堕ちることが決定的な人々 【2】親鸞浄土教では第十九願の趣旨に則(のっと)って、念仏以外の修行、すなわち、いろいろな善根を仏に回向して(振り向けて)その自力修業の功徳によって浄土に往生しようをする人々。 以上【1】、【2】の定義について最初は、【2】の自力の修行も、【1】の倶舎論の 地獄落ちの衆生も、結果として浄土に往生できないということで一致するとしていましたが 前回1月の「仏性」の検討から、【1】にも【2】にも仏性があるということから考えると 【1】も【2】も回心すれば第十八願の念仏往生の浄土教徒すなわち正定聚の人になれる という点で一致する。まことに救われ難い存在である人間が、無量寿の仏になることが できるという点で、いずれも親鸞浄土教における救済の対象になり得る点で一致すると いう結論になりました。(令和2、1月のまとめをご参照ください。) ⓴不定聚:仏教語大辞典 【3】正とも邪とも決定されていない人々。さとりの世界に安住することなく、縁次第で迷悟 いずれにでも向かうともがら。 【4】自力の念仏によって往生を願う第二十願の人びと。自力の念仏を仏に回向して 浄土往生を遂げようとする人々。 |
| 【現代語訳】 曇鸞大師の『往生論註下巻』にいわれている。 天親菩薩の『浄土論』に「阿弥陀如来の御名を称え、その如来の光明というすべてを見そなわす智慧にふさわしく、その名号のいわれにふさわしく、その内実にふさわしく修業し、相応しようと思うからである。」といわれている。「かの如来の御名を称えて」というのは、すなわち無碍光如来の御名を称するのである。「彼の如来の光明の相の如く」というのは、仏の光明は智慧の顕れなのである。この光明は十方世界を照らしてさえぎるものはないのである。したがって、よく十方衆生の迷いの黒闇を除くのであって、日光や月光や宝石の光が穴蔵の闇を無くすごときの限られた有様などくらべものにならないのである。「彼の名号のいわれの如く真実の行に相応する」というのは、彼の無碍光如来の名号は、よく衆生の全ての迷いを打ち砕き、よく衆生の全ての願いを満たし給うということである。ところが、御名をとなえ、こころに念じることがあっても、迷いが、なお残っていて衆生の心からの願いが満たされないのはどうしてかといえば、それは衆生が真実に行を修めず、名号のいわれにかなっていないからである。これは、どういうことかというと如来こそが、真実の実相を覚られた方であり、そのことが、そのまま衆生の救いを全うされる方であることを知らないからである。また、名号のいわれに、相い適わぬ三種の事柄がある。一つには、信心が純粋でなく、疑惑の混じり物があるので、或るときはあるようで、またあるときは、疑いの雲が出て、信心がなくなってしまうという始末だからである。二つには信心が一つでなく、弥陀一仏への信の決定がないからである。また、三つには信心が永続せず、他に心がうつってしまうことである。この三つは転々と関連しあっていて、信心が純粋でないから、決定の信をなく、決定の信がないから、信が永続しない。また、永続しない信であるがゆえに、信が一つに決定しない。また、信が決定しないがゆえに、あれやこれやと心が移って、信心が純一でなくなるのである。このようなことがないのを「如実の修行に相適っている」というのである。このことを天親菩薩は『浄土論』のはじめに「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来」すなわち、「お釈迦さま、私は一心に盡十方無碍光如来に帰命し奉ります。」といわれたのである。 曇鸞大師が作られた『讃阿弥陀仏偈』に「あらゆる衆生は弥陀の名号を聞信して、信心歓喜するその一念の瞬間も、如来の回向によるものである。如来の他力回向を聞信すれば、みな浄土に往生することができる。ただ五逆と誹謗正法の状態では、それを遂げることができない。その故に、私は如来をかぎりなく讃嘆礼拝し往生を願うのである」といわれている。 |
| 【読下し古文】 『 『 |
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【HP作成者感想】 親鸞聖人は、ここで曇鸞大師の『浄土論註』の三不信の文を引文として、大信心とは何かを説かれます。 『浄土論註』は天親菩薩の『浄土論』の注釈書ですから、曇鸞大師は、この引文
で、『浄土論』のいくつかの言葉を解説することによって、大信心を讃嘆し思索しています。まず、「かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく
修業し相応せんとおもふがゆえに」と『浄土論』のことばを紹介し、さらに細かく『称彼如来名』という『浄土論』のことばは、いわく無碍光如来の名(みな)を称するなりと、まず、
はっきりとおさえておられます。すなわち『浄土論註』はもとより、その元になった『浄土論』においても、既に称名が浄土教の基本的な行であることが示されていることになります。
そういえば、更に、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の『易行品』において「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において
阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲わば、当(まさ)にこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること、『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」の中に説くがごとしと」
となっていることを見ますと、すでに龍樹菩薩の『易行品』によって、更にはその前の『宝月童子所問経』の時代から、称名念仏は浄土教を報ずるための大切な行であったということです。
後の唐の時代に中国では善導大師が称名念仏中心の浄土教を創始したといわれていますが、これは、彼の著『観無量寿経疏』の『散善義』にあるように「一心に弥陀の名号を専念して、
行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。」として、人は称名念仏のみで救われるのであって、称名以外の礼誦等
に依るのを、「助業」とし、この正助二行を除いた自余の諸善は、ことごとく「雑行」と名づけて疎雑の行(阿弥陀仏と疎遠な自力の行)として、往生浄土のためには、ひとえに称名のみを
「正定の業」としたことに由来しています。随って、称名を行ずることは浄土教の始まりと共にあって、浄土教には欠かすことのできない行であったといえます。
次に曇鸞大師は『浄土論』の『如彼如来光明智相』という言葉を註して「仏の光明は無限の智慧のあらわれ」であって、十方衆生の無明の黒闇を除く力があることを洞察し、それは日光 ・月光・や宝石の光などとは比べ物にならない、無限の光明であることを強調します。更に、『如彼名義欲如実修行相応』を説明するに、この無碍光如来の名号が衆生の一切の無明を破り、 一切の願いを満たすはたらきがあると讃嘆します。これは、如来の光明には無限の智慧と無限の能力と無限の慈悲があることを示しているのであって、それは衆生が生まれて生きること、 そしていのち終わって死ぬことについて、大いなる納得を与えるものだからです。 そして曇鸞は論釈を次に進めます。そのように如来のはたらきは素晴らしいものであるにもかかわらず、称名憶念しても、無明がまだ残っていて、衆生の志願を満たさないのはなぜかと いうことを究明していきます。いわゆる「三不信」の究明です。そしてまず、このようなことがおこるのは一つには如来が真実の存在であるということ、我々衆生の存在は仮のものであって 真実の存在は阿弥陀仏であること。すなわち聖徳太子のいわれる『世間虚仮、唯仏是真』ということを知らないからだというのです。そして、さらに如来は無限の智慧、無限の能力、 無限の慈悲そのものであることは、如来が物のため、すなわち衆生のため、衆生がその志願を満たすための存在であることを知らないからだといわれます。そして、このように無明がまだ 残っているのは三種の不相応(信心が、淳(あつ)からず、一ならず、相続せず)があるからだと曇鸞大師は説きます。 ① 「信心が淳からず」とは信心が純粋ではないことを示しています。すなわち、信心に夾雑物である疑いが混じっていることでしょう。だから、「存ぜるがごとく、亡ぜるがごとし」、 つまり、ある時は弥陀の本願を信じているように思えたり、また別の時には、それを信じる心が失せて、疑いの雲がもくもくと心の中に湧いてくるということでしょう。 ② 2番めには「信心が一つでなく決定しない」。たとえば、弥陀一仏を信じ、その本願一つを信ずるだけでは何となく物足りなく、薬師如来など他の仏を信じて信を補強すしようと しますが、これは結局最初の弥陀の本願さえも絶対的に信ずることが出来ないといった疑いに起因することだから不相応というのです。 ③ 3番目には「信心が相続しない」。つまり長続きしない。すぐ、疑いの雲が蔓延(はびこ)って弥陀の本願への信楽が亡くなってしまう。 結局これら三つのことが転々と繰り返されて、①信心淳からざれば②決定心無く、決定心なければ③信心が相続せず、信心が相続しなければ②あれこれと眼が移って、弥陀の本願ひとつ の決定心がなくなり、決定心がなくなれば①信心が純一でなくなるといった繰り返しがおこると、曇鸞大師は指摘します。だから、このようにならないことを「如実修行相応」と名づけ、 『浄土論』において天親菩薩は「我一心」と言われたと『浄土論』の注釈書である『浄土論註』で曇鸞大師は云います。 私が考えますに、このような「三不信」がおこるのは結局いずれ の場合も煩悩に根付く疑いの雲があることにもとづくものではないでしょうか。三不信の根底に弥陀の本願にたいする根強い疑いがあるからではないでしょうか。「弥陀の本願」という けれども、この世のように確固とした存在認識があるではなく、いわば古いお経に出ている単なる物語ではないかという、この世の存在観の強烈さとは、およそ掛け離れた、空虚 な物語の世界の事柄という感覚がどうしても起ってくる。この疑いということが「三不信」すなわち上にあげた三つの不信に共通した根底にあるのではないかと思う次第です。 しかし、この普通に現世感覚からは存在感の薄い「弥陀の本願」ですが、この今、現実に、ここにこうして在る自分を考えてみますと、まず自然に考えられることは、永劫の 過去から、無数の因と縁によって、ここにこうして在るということです。このような無数の因と縁の根源を大いなるいのちの根源と考え、その根源こそ、今、ここにこうして在る自分 を、ここにこうして在らしめた真実の親と考える。すなわち宗教的には、この真実の親とは、まさに阿弥陀仏、そして、その真実の親の切にして、根本的な願いこそ、我々を大いなる根源的 いのちとして生かしめたいという弥陀の本願であると考えられます。そして、この無数の因と縁によって私をここにこのように在らしめたはたらきという事柄こそ弥陀の他力回向 であると考えますと、『安心決定鈔』にもあるように「我々の身と心、行なうこと、話すこと、思うこと、行住坐臥すべての振舞い、出る息、入る息、も念々みな南無阿弥陀仏、 すなわち他力回向である」ということになります。とすれば、弥陀の本願は、信じまいとおもっても、信じざるを得ない、疑おうとしても疑うことが出来ないことがらではないかと いうことになります。このときこそまさに、「三不信」の元である「疑い」の雲はことごとく晴れ渡り、「信」の世界を拝受する状態になるのではないでしょうか。 最後に親鸞聖人は、あらためて『無量寿経四十八願』の第十八願成就文に相当する引文を曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から挙げて、頂礼し、讃嘆されます。ここで「至心のひと」とは阿弥陀如来のことを指し、その回向を讃えられます。 |
今月は以上で終ります。
| 【現代語訳】 「〈如意〉という事柄には 二種類の 意 味がある。①一つには 衆生 の意 のままにという 意 味で、その心にしたがって、みな、済度される 。②二つには弥陀の意のままにという意味で、五眼をもってまどかに照らし出され、六つの神通力を自在に用いて、済度すべき人を見通され、一瞬の内に、弥陀のすべてをもって一時に衆生のところへおもむき、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力をもって衆生の迷いを打ち砕き、衆生それぞれの利益を与えられる。」 また 「この悲惨な 世に 生れ、 生老病死や、愛する者との別れなどの苦しみにさいなまれるのは、あらゆる迷いの世界にあることであり、これらの苦しみを受けないものはいない。もし、このような苦しみを受けない者がいるなら、その者は 凡夫ではないのである」 〘語釈〙 [1]観経疏:善導による『観無量寿経』の注釈書。 [2]定善義・散善義:『観無量寿経』では浄土往生を願う人に対する 修行法として
定善義と散善義があると説く。その内
(1)定善義は雑念を払い心を凝らして如来、浄土を観察して浄土往生を遂げる行であり
[3]五眼(ごげん):(1)肉眼(にくげん)→肉身に所有している眼(2)散善義は人間の心を九種(九品)にわけ、九種それぞれの人間が雑念を凝らすのではなく 平素の心でどのように行ずれば浄土往生できるかを説いたもの。
(2)天眼(てんげん)→天人が所有している眼
[4]序文義:『観経疏』は「玄義分」、「序文義」、「定善義」、(3)慧眼(えげん)→一切は空であると見抜く眼 (4)法眼(ほうげん)→菩薩が一切の衆生を救うために一切の法門を明らかに見る眼 (5)仏眼(ぶつげん)→(1)~(4)までの全部を備えた仏の眼。
「散善義」からなるが、その内の「序文義」のこと。
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| 【読下し古文】 またいはく( [5]六通:六つの神通力:六神通ともいう。超人的な六つの能力。
(1)神足通→自由に欲するところに現れる能力。
[6]機:教えを聞く人。(2)天眼通→自他の未来のあり方を知る能力。 (3)天耳通→普通人の聞き得ない音を聞く能力。 (4)他心通→他人の考えを知る能力。 (5)宿命通→自他の過去世のあり方を知る能力。 (6)漏尽通→煩悩を取り去る能力。 [7]度すべき:済度(救う)すべき。 [8]三輪開悟:仏の身・口・意(三輪)によって悟らせること。 [9]五濁:この世における五つのけがれ。総じて末法の時節を指す。
(1)劫濁(こうじょく)→時代の濁り。
[10]五苦:生・老・病・死・愛別離苦。(2)見濁(けんじょく)→思想の乱れ。よこしまな思想がはびこること。 (3)煩悩濁→貪り・怒り・迷い(癡)など煩悩の燃え盛る人間のあさましい姿。 (4)衆生濁→衆生の果報が衰え心が鈍く、身体弱く、苦しみが多い状態。 (5)命濁→衆生の寿命が次第に短くなる。いつまでも生きたいと思う心のこと? [11]六道:衆生が業によって赴くところの世界。
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つをいう。
[12]逼悩:苦しむ。悩む。[13]凡数:凡夫と数えられるもの。 [14]摂(しょう):含まれる。仲間。身内。 |
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【HP作成者感想】
前回は、曇鸞大師が説かれた三不三信(三つの不信と三つの真実の信<淳心、一心、相続心>)について開陳させていただきました。 親鸞聖人は大無量寿経や如来会などからの引文とともに、前回の曇鸞、今回の善導の説く釈文等を引用することによって、この信巻本文最初に説かれている長生不死の神方をはじめとする大信心のいわれについて説かれています。そして、今回は、その一環として、信巻の大きな部分を占める善導の三心釈(至誠心、深心、迴向発願心によって浄土往生が適う)を自らの信心にもとづいて説かれます。すなわち、この善導の三心釈の引文も、ひとえに、信巻劈頭の「大信心」のいわれを説くためにここに引用されているものと私は考えます。 親鸞聖人は、この「三心釈」の幕がひらかれる序章の文章をまず善導の『観経疏』の「定善義」から引文されます。本日はこの文について聞かせていただくことにします。 この文章は表面的に読むと、親鸞浄土教的に、いささか、わかりにくいところがあります。それは「〈 この文章は、まことに私たちの胸を打つ、この世の全ての衆生の有様を映す文章であります。この世の生きとし生ける者、人間のみならず、およそ生あるものの真実を表しています。したがって、ここでは、あらためて、上の③の『序文義』の文章も頭に入れながら、「衆生の如意のごとし」ということと、「阿弥陀仏の神通如意」ということの関係を、善導が三心釈を説こうとしている、その序章ともいうべき、この部分で、どのように、考えているかを、もう少し追求することが必要ではないかと思えるのです。 そこで、この部分についての「『教行信証を読み解く』の著者 藤場俊基師の読み解き方」と、さらに、古くは金子大栄師の『教行信証講読』にある、 この部分についての「金子師の聞思」を読んでみました。(上の二つの青色のリンクをクリック)。 いずれも、表面的に一回読むだけでは、なかなか難解な文章です。しかし結局、藤場、金子両師が、この二つのリンクにおける論釈について、言われんとする所をまとめますと、お二人ともに次のようなことを論じておられているのではないでしょうか。 すなわち、『如来の本願は絶対的真実である。しかし、如何に絶対の真実であっても人間の願生心をはなれては意味をなさない。また逆に人間の存在の事実は如来の本願の絶対的真実がないかぎり、まったく意味をなさない。』 このことを善導の引文は「如意といふは二種あり・・・」という二種の如意として捉えているのだということです。そして善導の場合は衆生の願生心に焦点をあて、それを始点にして、宗教的真実、如来の真実に目ざめていったということを言っているのではないかと思われます。実際に、この後に展開される至誠心、深心、回向発願心の解釈には善導ならではの体験にもとづく強烈な願生心の記述が見られます。いずれにしても金子、藤場のお二人とも、大変高度で、それゆえに一読ではなかなか分かりづらい論を展開しておられますが、簡潔にうけとれば、このようになるのではないでしょうか。 更に、これに関連して、ここで、もう一つ、気になることがあります。「金子師の聞思」の中に述べられている。「信ずるが故に如来あり、願生するが故に招喚の声あり」ということばです。この言葉は曽我量深師においても、「我、如来を信ずるが故に如来在(まし)ます也」という言葉があります。この二つの言葉は共に、意味の取り方によっては、随分、ご都合主義、合目的的な言葉に受け取られかねません。すなわち、「信ずれば如来がある。信じなければ如来は存在しない。」 まことに人間が自己の願生(浄土往生を願う心)の都合のために造った単なる空虚なことば遊びのように受け取られないでしょうか。現代の碩学と言われる曾我、金子両師のことばとして、私たちは、これをどのように受け取るのか。親鸞浄土教が成り立つ根本問題です。しかも、これは宗教を受取るか受取らないかの、根本的分岐点になる事柄ではないでしょうか。よくよく考えてみると「如来の有無」を、この世を絶対と考え、それを超えた世界には関心がない人には「信ずるが故に如来あり」ということが空虚な事柄に思えるのであって、これは丁度、弥陀の浄土は十万億土のかなたにあるということと同じで、弥陀の浄土を物理的存在として見ようとするから、十万億土というような空虚な言葉をつかわざるを得ないということです。物理的存在は永遠ではありません。時と共に、変化し消えてなくなるものです。このような物理的存在として如来を観ることは間違っています。しかし考えてみますと、前回までも、このページで申し上げていますが、私は今、ここに、こうして生きていますが、これは宇宙開闢以来の永劫の過去からの無数の因と縁によって、いまここに、こうしてあらしめられているわけで、こうなると、どうしても、私という存在をここに、このようにして有らしめた根源のはたらきの不思議を考え、その根源のいのちと一体となっている自分を考えざるを得ず、ここに如来のはたらきを信じざるを得ない心境に立ち至ります。したがって「信ずるが故に如来あり」とはこのようなことであって、如来は信ずる人の心の中に厳然とある。すなわち信ずれば、この世のどこかに如来が物理的に存在するようなことではないということです。物理的存在は、上にも申し上げたように、いつかは、消え失せます。早い話が人間の死によって、その人からは消え失せます。それに対して、信ずる人の中に厳然とある如来は永遠に有ります。なぜなら永遠は時間ではないからです。そして更にもう一つ、この世は何故あるのか、なくてもいいわけで、どうしても有らねばならない理由はどこにもない。しかし、この世は、ここに有る。今、ここに、こうしてある。この個々の物理的存在の変化と生滅をはらみながら、この宇宙(つまりこの時空の世界)が、今、ここに、こうして宇宙開闢以来の永劫の過去から無数の因と縁によってここに厳然と有る。ここに不思議を感ずるのであって、その結果、信ずる者の心に如来は一体となって今、永遠に満ちみちている。そしてその如来はどのような如来か、これは先に申し上げたように永劫の過去から無数の因と縁によって今ここに、こうして私を有らしめた真実の親である。真実の親ならば何よりも子を絶対的に救う存在である。その真実の親の願いが我々衆生を救わずにはおれない誓いとしてあるのが「弥陀の本願」ということになるのではないでしょうか。皆様のご思索と、ご批判を賜るところです。 今月は以上で終ります。 |
| A【現代語訳(親鸞引文) また、いわれている( ① ②外面に ③なぜかというと、まさしく、阿弥陀 仏が法蔵菩薩として修行されたときには、わずか ④また、真実に二種がある。一つには自らの成仏を願う真実、二つには 他者の成仏を願う 真実である。(④のア) (中略)(④のイ) 衆生がおこなう不善の ≪語釈≫ [1]散善義:善導著『観無量寿経疏』(略して『観経疏』)の内の「散善義」のこと。親鸞聖人は大信心の意義を説くために『大無量寿経』、『無量寿如来会』、そして曇鸞大師の『浄土論註』から引文し、4月には善導大師の 『観経疏』から、その内の「定善義」と「序文義」の要決部分を引文されています。『観経疏』は言うまでもなく『観無量寿経』の注釈書です。『観無量寿経』はその本文において「定善」という修行法と「散善」という修行法で 浄土往生が遂げられることを説いてあります。善導の『観経疏』は、この『観無量寿経』の意義を解説するために「玄義分」「序文義」「定善義」「散善義」の四帖(四章)を設けて説いています。今月は、この内で親鸞聖人は、 自身の浄土教の大きな骨格となっている『散善義』からその主要部を引文することによって、大信心の意義を説く糧としているのです。 [2]何等をか三と為す~必ず彼の国に生ず。:左の文章の範囲は東西本願寺に掲載の『観無量寿経』に共にその22章の中にある文章の「何等をか三とする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、 必ずかの国(浄土)に生ず。」とあるのを指す。 |
| A【読下し古文(親鸞引文)】 またいはく( ①『経』( ≪語釈≫ [3]乃至一念一刹那も:一念、一刹那に至るまでも。 [4]( 以上、本文の途中で、いきなり出現した「( |
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【HP作成者感想】 信巻劈頭の「つつしんで、往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は長生不死の神方・・・」から はじまる『大信心』を経論釈(経は仏が書かれた書。論は古代インドの龍樹や天親が書かれた書。釈はそれ 以後の中国や日本の曇鸞・道綽・善導・源信・法然が書かれた文章を指す。)の面からどのように見ていくか。 このことについて、親鸞聖人は『大経』と『如来会(にょらいえ)』から、ついで天親菩薩の『浄土論』を註釈した曇鸞大師の『浄土論註』等から引文し 、そして前回は善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』からの引文によって、いわば信巻劈頭の『大信心』を 七高僧の中の天親、曇鸞、善導たちはどのように考えたかを親鸞聖人は、あらためて論じていかれます。 今回は、序章ともいえる前回の『観経疏』の「定善義」および「序文義」からの文章に続いて、いよいよ本論の 『観無量寿経』が浄土往生を遂げるためにあるべき三心「至誠心、深心、回向発願心」についての善導の解釈、すなわち「散善義」 から、その主要な部分を引文され、親鸞聖人独自の三心に対する解釈を説き進めていかれます。 まず、善導の釈文は現代語訳で「『 そこで、先ず、「至誠心」についての善導の漢文記述に対する親鸞以前の日本仏教の「伝統的読下し文」の検討からはじめて、次いで、親鸞聖人独自のこの文に対する読み方を読むことにより親鸞浄土教の特色を聞思(考察)したいと思います。親鸞聖人独自の訓読は上の「読下し古文」を参照することとし、下記には、善導が意図したであろう読み方、即ち下のB【通常の読下し文(善導『観経疏』)】を表示し、それを聞思し、次いで上記の親鸞の引文、即ちA【読下し古文(親鸞引文)】によって親鸞独自の思想を聞思したいと思います。 B【通常の読下し文(善導『観経疏』)】 ①〔『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心(しじょうしん)」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修(しんくいごうしょしゅ)の 以上が『観経』の至誠心に対する善導の『観経疏』における解釈です。 これを読みますと善導がまことに真摯な態度で、自らの体験を基にしたともいえる筆致で、この『観経』にある「至誠心」を論じています。 次にこの文を同じく現代語訳したものを記します。 B【現代語訳(善導『観経疏』)】[①往生を願う衆生は「至誠心」を発(おこ)すには必ず”真実心”をもって発(おこ)さねばならない。②外面は賢善精進の相を顕(あらわ)してはならない。何故なら心の内は、それとは裏腹に、いつわりの心を懐いているからである。むさぼり、瞋(いか)り、邪(よこしま)な心、嘘偽(うそいつわり)の心で満ちみちており、まるで毒蛇かサソリのようで、このような悪性を懐(いだ)きながら往生を願う行動をしても、これは毒を含んだ願生心であり、嘘いつ わりの願行であって真実心の行とは言えない。もしこのような状態で往生を願う念仏をしても、それがたとえ、一日中、もがき苦しむほど、あくせくと、頭についた火を払うように 念仏起行しても、全て毒の混じった善と名づけられ、このような毒の混じった善を仏に回向して浄土に生まれようと願っても必ず不可である。③何故かというと、まさしく彼の阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行されていたとき、一念一刹那の瞬間にいたるまでも身口意のあらゆる振舞いに至るまで、みなすべて真実心の内になされて、衆生を利益(りやく)するための利他、自らの覚(さと)りを求める自利ともに、みな真実心によって成されたからである。 ④また真実に二種あり、 一つは自利真実であり、二つには利他真実である。 (④のア)自利真実には又二種あり、 一つには真実心のうちに自分と他人の悪をとどめ、穢れた世を捨てて、行住坐臥に全ての菩薩たちが諸々の悪をとどめ捨て去るのと同じように自分も、そのようになろうと思うのである。 二つには真実心のうちに自分や他人、凡夫や聖人の善を勤め励むことである。真実心をもって口に阿弥陀仏とその修行による報いとして顕れた浄土を讃嘆する。また真実心をもって口に、この迷いの世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅(阿修羅の略=一種の鬼神)・人間・天(天人のこと[5])と六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)に輪廻(生まれ変わり死に変わりして流転すること)する自分や他人の報いの支配するこの苦海の世を厭(いと)う。また全ての衆生が身口意(しんくい)の業(行為)によって行なう善を讃嘆する。もし、それが善でない業ならば、よく思いはかって、これから遠ざかれ、またこのようなものを有難がって喜ぶな。また真実心による身の行いに対して合掌礼拝し四事(飲食・衣服・臥具・湯薬)などをもって、彼の阿弥陀仏と、その浄土を供養する。また真実心をもって身の行いに、生死するこの世の自他のありようを遠ざかり捨て去る。また真実心をもって意(こゝろ)に彼の阿弥陀仏とその浄土を思いうかべ、よく観察し、絶えず念じて、まるで目の前に現れているように思う。また、真実心をもって意(こゝろ)に、この生死するこの世の自他のありように、かかずらわず、遠ざかり捨て去る。 (④のイ)仏の教えによらない身口意の不善の業はかならず、すべからく真実心のうちに捨て去るべきである。また、仏の教えによる身口意の善業は必ず真実心の内になさねばならない。また、もし仏の教えによる身口意の善業を起こすなら、必ず真実心をもってなさねばならない。真実心の内になせば、聖者と凡夫、智者と愚者をえらばず、皆すべからく仏の御心にかなうのである。故に、これを「至誠心」と名ずけるのである 〕 以上が善導の『観経疏 散善義』における「至誠心」解釈の通常の訓読を現代語訳したものです。これを読むと、善導の『観経疏』が、『観無量寿経』に説かれている「至誠心」を善導自らの問題として自らの力で体験した上での釈文であるということです。ある意味で自分にも他人にも自力的な厳しい真実心を要求している釈文であるともいえます。その「至誠心」を親鸞聖人はどのように受け取られたか。これは画面上のB【通常の読下し文(善導の「至誠心」)】とA【読下し古文(親鸞引文)】とを読み比べてみるとよくわかります。 先ずBとAそれぞれの①の文章においてBでは「かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。」となっているところをAの親鸞聖人の読み方では「 次に③です。これは②で善導と親鸞が私たち人間において「真実心」による「至誠心」はあり得るか、あり得ないかということについて、善導と親鸞がどのように体験し思索したかをみてきました。そこで、先ず善導はB【通常の読下し文(善導『観経疏』)】の③にあるように「なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ 次に④です。先ず善導の意図と見られるB【通常の読下し文(善導の「至誠心」)】とA【読下し古文(親鸞引文)】の、それぞれの④の部分を読み比べてみます。 先ず最初の「④また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。」この部分はAもB同じです。その次からAでは乃至(中略の意味)として、ずっと後の「不善の三業はかならず・・・・・」という所の手前(④のイ)までが親鸞聖人の引文では「乃至」として省略されています。すなわちBの【通常の読下し文(善導『観経疏』)】では親鸞聖人が省略されたこの乃至の部分(④のア)では、例えば「真実心のうちに、自他の諸悪および 「真実心のうちに、自他 (1) B【通常の読下し文(善導『観経疏』)】の(④のア)から(④のイ)まで、往生を願う人自身の真実心による努力精進(いわゆる自力)を期待している節(ふし)がある部分を親鸞聖人は「乃至(中略)」として、きれいに省略しています。ことほど左様に人間の有限な不定な自力を親鸞聖人は徹底して否定されています。 (2) 次いで(④のイ)以降、最後までの文章にもBとAで大きな違いがあります。この部分のBとAの文章を現代語訳または古文のいずれかを、お読みいただけばわかりますが、Bでは「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 以上、善導の『観経疏 散善義』の「至誠心釈」における善導の漢文を普通の訓読にしたB【通常の読下し文(善導『観経疏』)】と、同じ場所の親鸞聖人の引文を比べ、その違いを見てきました。私はこの事から一層、親鸞浄土教という真実教が深く胸に刻みこまれたように思いました。以下に、その事について箇条書きで述べさせていただきます。 (1) 親鸞浄土教の真髄ともいうべき第一の特徴は「弥陀の回向」、則ち「他力回向」が中心であること。これは上の文章で、善導が浄土往生の為には、衆生自らの真実心を求めているのに対して、親鸞はそれらの真実心をもってする行為を、全て弥陀が成仏される前に修行された結果(法蔵菩薩の修行の結果)の功徳を須(もち)いる(委ねる)ことによって全うしようとしています。 (2) これは”他人まかせ”といった安易なことでは勿論なく、師の法然に続いて親鸞自身も体験し思想した、自分たちも含んだ、この世の人間の有りようについての底なき深い絶望、この世にある人間の力では救いようのない絶対的な絶望にもとづくものではないでしょうか。人間として存在することの絶対的不条理というべきもの、つまり、端的な例を挙げれば、この世を絶対としたときの生きる意味、死ぬ意味の絶対的欠如です。そのとき法然、親鸞が必死ですがったのが、即ち大無量寿経にある弥陀の本願であり、その中の第十八願だったと思います。当時、経文に対する信頼度は現代とは比べ物にならないほど強いものだったでしょう。しかし経文だけではなく、法然も親鸞も、それによって自らを包み込む根源であり真実の親としての大いなるいのちに出会い、その真実の親としての願いである本願に、たどり着くべくして、たどり着いたのではないでしょうか。随って仏の本願は、単なる経文の中の言葉ではなく、それを超えた真実の親の願いを顕わしているのではないでしょうか。 (3) このようにB【通常の読下し文(善導『観経疏』)】即ち、善導の漢文の通常の読み方による訓読と、同じ部分を引文とした親鸞の読み方の違いを考えると、親鸞の引文は、元の善導の文章と同じとは考えられず、親鸞による引文は善導の文章を下敷きにした、親鸞独自の文章、いやそれどころか、親鸞自身の思想をストレートに述べた文章といえるのであって、これは、今、学んでいる『教行信証』全体の引文についても云えるのではないかと思います。 以上、今回は『教行信証 信巻』の「至誠心釈」について学ばせていただきました。 〘語釈〙 [5]天人:仏典には、仏のはたらきを喜び、天楽を奏し、天華を降らせ、天香を薫じて、瓔珞(ようらく=ひらひら) をなびかせて虚空を飛行する。(仏教語大辞典)。したがって仏ではなく、仏の下位にあり人間に近い有情と 考えられる架空の存在。 今月は以上で終ります。 |
| A【現代語訳(親鸞引文)】 二つには深心(じんしん)である。深心ということは「深く信じる心」ということである。また、 これに二種がある。 その第一は自身は現に底なき罪悪生死の凡夫、 しかし第二には深く、かの阿弥陀仏の四十八願は、このような絶望的な我々人間を 阿弥陀ご自身の中に包み込んで衆生自らの思慮分別を超えて、弥陀の本願力に乗托して間違いなく 浄土に往生できると信じる。 また、釈尊がこの『観経(かんぎょう)』に三福(世に尽そうとする 世俗の善、戒律を守る小乗の善、修行中心の大乗菩薩の善)と、浄土往生を願う者を九つ資質に分けた 九品、そして仏を静かに念じたり(定善)、この世において善事に励んだりする(散善)を説いて、かの 阿弥陀仏と、その浄土の真実を讃嘆して浄土往生を願わしめると信じる。 また、阿弥陀経の中に十方無数の仏が、全ての凡夫に真実の教えを勧め必ず浄土に往生すると深く信じること。 ①また深く信ずるものよ。謹み仰いで願うことは、全ての行者たちは、一心に、たゞ仏の言葉を信じて、 身命を顧みず、ひたすら行によって、仏が捨てしめられるものは即ち捨て、仏が行ぜしめたまうものは即ち行じ、仏が行(去)かしめたまう処(ところ)には、速やかに行く。これを仏の教えに随順し、仏のこころに随順すると名づける。 これを仏の願いに随順すると名づける。 そして、これを真の仏弟子と名づける②。 また、一切の人々よ、ただよく、この『観経』に依り、行を深く信じる者は必ず衆生を誤らせないのである。何故なら仏は、これ完全なる大悲の方であるが故に、仏の語られる言葉は真実であるが故に。 いまだ仏に成りえていない人は真実の智慧も行ないも完全でなく、それを学ぶ段階にあり、煩悩も除き尽くしていないから、悟りを求める願いそのものが完全に備わっていない。したがって、これらの凡夫や、 聖者も、たとい仏の意(おこころ)を推し量っても、完全に 〘語釈〙 [1]永劫(えいごう):無限に永い [2]領解(りょうげ):納得 [3]天の神々:梵天、帝釈天など。 |
| 【読下し古文(親鸞引文)】 〈 |
| 【HP作成者感想】 善導の三
深心ということは「深く信じる心」ということであるとし、 これに二種あると述べます。そして古来から有名且つ、悲しくも私たちの真実の姿を顕わにした(1)のことばが続きます。 (1)「 まず(1)です。 「自身は現に罪悪生死の凡夫」。 自身とは自分のこと、すなわち私のこと、この私を振り返って罪悪とは無縁であると誰が云い得るでしょうか。特に全動植物のいのちを好きなように支配している人間の在り方こそ、 罪悪そのもの ではないでしょうか。これを自然の摂理であるなどと平然としていることこそ、まさに人間の独善です。またその一方で、本当の意味で、この世における、生きる意味の喪失と絶対的な死の不 (2)「 この後、善導は、『観経』の そして、その次に、善導は、まことに特徴のある印象深い言葉を私たち凡夫に告げます。 それは、上の「読下し古文(親鸞引文)」の①〜②の間の文章です。すなわち[①また A現代語訳(親鸞引文)では同じくその①~②のように、ほぼ「読下し古文(親鸞引文)」に使われている言葉通りに訳しておきましたが、いくつかの「教行信証の現代語訳」では、そうではなくて、訳者の仏教的判断によって、 いろいろ付随した言葉が付け加えられています。私見ですが、このような、訳者の付言については、かえって、本来の原文の意図している意味を、ある見方に限定し、読む者の視野を限定してしまうのではないでしょうか。 例えば、今、次の青色リンクをクリックしていただいて二つの現代語訳の内容を見てみますと、まず(イ)では①〜②の間の現代語訳で、元の原文では 「仏が捨てしめられるものは即ち捨て」と捨てしめられる対象は特に規定されていないのに、ある種の解説書には、「仏の捨てよと仰せられる 以上、今回は深心釈の前半を讃嘆させていただきました。この部分について、私の申し上げたかったことは以上です。このあと文章は少し続きますが、この部分は上の【読下し古文(親鸞引文)】および【現代語訳(親鸞引文)】 をお読みいただき、皆さまの自由な思索をお願いするところです。 〘語釈〙 [28]三心釈:この場合、善導が『観無量寿経』の三心(至誠心、深心、迴向発願心)を註釈したものを指す [29]不条理:人生に意義を見出せないこと。絶望的な状態を指すことに用いる。 [30]雑行雑修:浄土教で念仏以外のもろもろの行をいう。 [31]専修正行:浄土教において、もっぱら正行を修すること。 |
今月は以上で終ります。
| 【現代語訳(親鸞引文)】 この故に、今、まさに、あらためて一切の有縁の 釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。すなわち、『阿弥陀経』に< 釈尊は極楽浄土の種々のすばらしさを讃嘆され、また一切の凡夫に一日乃至七日にも一心に弥陀の名号をもっぱら 念じれば、間違いなく往生を得ることが出来ると勧め給うと。また、その次の文にも、全ての世界に、それぞれ 数かぎりない仏がおられて、この文でも釈尊が末法五濁の盛りなる時に、弥陀の名号を指して讃嘆し、衆生に 称名念仏すれば必ず浄土往生することができると讃嘆されていると>説かれているのがその証拠である。 また、全ての世界の仏たちは、衆生が釈尊お一人の説かれるところを信じないことを恐れて、 即刻同時に、同じこころで、各々の仏が、声をそろえて、あまねく三千世界にわたって、まごころをこめて <あなたがた衆生は、みなこの釈尊が説かれところ、称賛されるところ、証(あかし)されるところを 信じるべし。すなわち一切の凡夫は、その功罪の多少、時の古今を問わず、ただよく、長くは百年に満ちる 寿命から、短くは一日乃至七日に至るまで一心に弥陀の名号を専(もっぱ)ら念じ、間違いなく往生すること は疑いがないことだと>説かれている。この故に一仏の説かれるところを一切仏は同じように、そのことを 心をこめて証(あか)される。これを釈尊や諸仏を信じることであると名づけるのである。(中略2) また、正行( 〘語釈〙 [1]願生者:浄土往生を願う者 [2]読誦:経を読むこと。 [3]観察:浄土の情景や仏の姿を思い浮かべること。 |
| 【読下し古文(親鸞引文)】 このゆゑに [4]専注:もっぱら。 [5]奉行:行を奉じる=修行する。 [6]指勧:指し示して勧めること。 [7]同体の大悲:同じ大いなるいのちの根源からの大悲 [8]所化:さとりの内容、導きの内容。 [9]化:導き [10]舌相を出(いだ)して:仏が示す三十二の相の一つ。舌を出すのは教説が 仏によるもので真実であることを証明するという意味を持つ。 [11]証誠(しょうじょう):真実であることを証明する。 [12]人(にん):この場合の「人(にん)」の解釈は難解ですが二つの説があり (1)釈尊や諸仏を指す。これは比較的常識的で「一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ることを 指勧し、指讃し、証誠される釈尊や諸仏を人(にん)として、これに信を立つ(信心する)という意味と受取るか。 (2)四重の罪を犯す、どうしようもないような人間(煩悩に満ちた存在)を人(にん)として、 そのような人間でも「一心専念弥陀名号」に依れば信が立つ(往生成就)という意味に受け取るか。 (3) (1)と(2)の両方を同時に受け取るか。 以上、結論が付かず難解です。 [13]正(しょう):正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の五つ。 [14]正定の業:上の五正行の内の「称名」すなわち阿弥陀仏の名号を称えることをいう。 [15]礼誦等:五正行の内、かの仏願(第十八願)に順ずる正定業たる「称名」以外の四正行(読誦、 礼拝、観察、讃嘆)を助業として「礼誦等」とした。 [16]疎雑の行:弥陀の大悲と疎遠な雑行(ぞうぎょう)。 |
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【HP作成者感想】 前回は読下し古文で「 今回の引文の範囲で、次に注目されるところは、 【現代語訳】では以下のところです。 「釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。」 【読下し古文】では「 以上の引文を読みますと印象的な部分は【読下し古文】で「同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなは ちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」のところです。私はこの場合の 一仏とは釈尊のことであり、一切仏とは諸仏のことであるというのが一般的な解釈だと思います。しかし同時に 釈尊も含めた諸仏のさとりの内容は根源的一仏すなわち阿弥陀仏のさとりの内容であり、阿弥陀仏のさとりの内容 は、一切仏、すなわち釈尊も含めた諸仏のさとりの内容であるというふうに受取りたいと思います。何故そのように思うかと いうと、親鸞浄土教において臨終一念の夕べ、いのち終わって晴れて仏になった場合は、阿弥陀仏と一体 になると思うからです。山崎弁栄師のうたに「天地(あめつち)も、みなみほとけの中なれば、いずこか 弥陀のそとにやはある」とありますが、これはこのことを顕しているのだと思います。このことが拝受 できれば、このあとの文章は、最後まですんなりと拝受されるのではないでしょうか。さて、この後の「読下し古文」とその「現代語訳」の文章 の中の二カ所に比較的短い文章ですが「乃至」、すなわち「中略」があります。 その内、乃至2および中略2は、この青字の部分をクリックしていただくと表示されます。 この「乃至2(中略2)」の文の最初は、「読下し古文」では「次に行(ぎょう)に就きて信を立つといふは」 という文章から始まります。これは、この乃至2の文章の前に、一仏の所化は一切仏の所化であり、一切仏の所化は一仏の所化であるという、すべての仏のさとりの内容は阿弥陀仏のさとりの内容と同じだということをが 弥陀・釈迦・諸仏を所説を信ずるということ、すなわち「人(にん)に就きて信を立つ」と名づくとした文章に続く文として「次に行に就きて信を立つというは」の文から乃至2の文が始まるということです。すなわち「行によって どのように信を確立するか」ということから、始まるのです。このテーマに取り組むために、善導は行について二種ありとして、それが正行と雑行と名づけられる行であるということから始めます。そして、正行とは、どのような 行かということを述べます。これが、もっぱら往生経(『大経』、『観経』、『阿弥陀経』)の行に依るので、正行はこの三つの経の「読誦(どくじゅ)」からはじまり、浄土と弥陀の姿を心の中にしっかりと取り込む『観察(かんざつ)』、 更には、全ての仏のさとりの内容である弥陀仏を『礼拝』し、さらに一心に弥陀の名号を称える『称名』、そして、弥陀を『讃嘆』すること、この五つを正行とするのだというところまで述べたところが「乃至2」になっています。 親鸞聖人が、『教行信証』の引文でここを乃至として、はぶかれたのは何故か、いろいろと考えをめぐらす ことはできますが、この「乃至2」の文章構成を見ますと、善導が「行に就きて信を立つ」ということを 全体として説明するはじめに、まずそれには正行と雑行の二種があるとし、その後は、この内、正行として 五つの行をあげています。それが「読誦」、「観察」、「礼拝」、「称名」、「讃嘆」になるのですが、 善導は、これらの行を行ずるのに「一心に、専ら」とか「一心に、専注して」とか、とにかく願生者である 衆生の側のひたすらなる専念努力を求めているように読めます。このことについて親鸞は師の法然の教え そして、自己の経験から、自らの努力の絶対的無力を身に染みて体験している立ち位置からやはり、この部分 を積極的に引文に取り入れるのを躊躇されたのではないでしょうか。そして次の文章、親鸞聖人が再び引文を 始めておられる正定の業、すなわち師の法然聖人が唯一選択された『称名』に力点をおき、これをはっきりと示さんがために、 その前の部分を「乃至2」として省かれたのではないでしょうか。そして親鸞聖人は、その直後に 「一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問わず念々に捨てざるは、これを 正定の業と名づく、かの仏願に順ずるが故なり。」を一気に引文されます。この文章こそ、なによりも 師の法然上人の心眼を開くことになった称名一筋の正定業の内容を表した部分であることを顕(あきら)かに するものであり、そして自余の四正行(読誦、観察、礼拝、讃嘆)を助業と位置付けられていることを顕かにし 、更に正助二行を除いた以外の諸善は、すべて雑行と名づくものであって、浄土往生には繋がらない自力 疎雑(そぞう)の行であるとする善導の文章を明らかにされます。この文章の中に「乃至3」があります。 簡単な文章ですから次に示しますと「もし前(さき)の正助二行(しょうじょにぎょう)を修(しゅ)すれば 、心つねに〔阿弥陀仏〕に親近(しんごん)して憶念(おくねん)絶えず、名づけて無間(むけん=絶え間がない) となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断(けんだん=こころが散りじりになる)す、回向して 生ずることを得べしといへども」 ここまでが「乃至3」として中略されています。そして親鸞聖人は 「乃至3」の前の文章に続けて間をおかずに「すべて疎雑の行と名づく。故に深心と名づく。」と善導の深心 釈を引文されてこの項を終わられます。親鸞聖人がなぜ善導のこの部分の文章を「乃至3」として省かれたか を詮索するのは、あまり意味がないのかもしれませんが、ひとつ考えられることは、善導の散善義では 「正行ではない雑行を行じた場合に、心が常に間断する、しかし、雑行と言えども、それを一心に仏に回向し て浄土に生まれる因とすることは不可能とはいえない」と、やや雑行の可能性も認めた内容に なっています。親鸞聖人は、思い切って、これを乃至(中略)することによって、この部分を引文から切り捨てています。これは、浄土往生は 徹底して弥陀の本願力への信によるのであって、自らの、この世的な力、いわゆる自力の雑行によって 浄土往生を遂げることは究極的に不可であるとする親鸞聖人のおこゝろがうかがえるのではないかと思うと ころです。 最後に、親鸞聖人は、「故に深心と名づく。」という言葉で結ばれています。これは、すくなくとも正行と 雑行の二つを比べて、正行に就くことを、そして、正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の中にも偏(ひとえ) に正定の業である『称名』に専念することが、「行に就きて信を立つ」ということであり 更には、この事こそ、浄土往生が成就される『深心』ということであるとする善導の散善義からの引文の 意味を親鸞聖人もここで明らかにされたのでしょう。 以上、今回は、本文中の「乃至」すなわち現代語訳で「中略」の内容を詮索することによって、私見ではあ りますが、親鸞聖人のおこゝろをうかがってみました。 次回以降にも、「乃至」すなわち現代文で「中略」は多く出てきますが、基本的に一々これの意味を窺がう という煩瑣なことはせず、どうしても必要な場合以外は親鸞聖人の「乃至」はそのまま、「乃至」として拝受 して、あまりあれこれと詮索しないで、この『教行信証』の引文を味あわせていただきたいと思っています。 まことに、以上のことを考えますと、『教行信証』における引文は、『浄土三部経』をはじめとする 諸経、そして、それにつづく七高僧はじめとする論釈からの引文でありますが、これらにおける親鸞聖人の 「読み替え」、および「乃至」の意味合いを考えますと、これら引文は、すべて親鸞聖人の文章になって いるという感を深くするところです。 〘語釈〙 [17]乃至:中間を略すこと。現代語訳で「中略」と訳されている。ここでは古文と現代語の両方を 意味する表現として「乃至(中略)」とした。 [18]決定(けつじょう)して:決断安住して動かないこと。 |
今月は以上で終ります。
| 『顕浄土真実教行証』信文類本文12 今月は、善導の『観経疏 散善義』の内、「発願迴向釈」の前半について学ばせていただきました。 後半には、あの有名な「二河白道の譬(たとえ)」があるためです。「二河白道の譬」は来月にしっかりと 学ばせていただきたいと思っております。 前半のみとはいえ、やはりここにも、いろいろと考えさせられる部分がありました。 お読みいただいたうえ、ご批判ください。 |
| 【現代語訳(親鸞引文)】 三つには[1]回向発願心(えこうほつがんしん)と説かれている。(中略) また、回向発願して浄土に往生しようとする者はかならず真実心の内に 回向される弥陀仏の願いをいただいて 往生すると思うべきである。この心からの深信こそ金剛のごとく壊れない信であって、一切の異見、異学 、別の解釈や別の修行法をとる人たちによって動乱し打ち破られることのない深信である。たゞたゞ一心に 自らの信にもとづいて正しい直道を進んで、異学・異見の人々のいうことに耳を傾けてはならない。 すなわ ち、あれこれと欲張って、ひるみ、ためらい、疑いの心を起し迷うならば、この度の往生という 大いなる利益(りやく)を失うのである。 問うていう。もし他力回向の教え以外の雑多な行を奉ずる人が来て惑わし、あるいは種々の疑いや非難 をまじえて、お前さんの信心では浄土往生は無理だと言い、或いは次のようなことを言ったとしよう。 「お前たち衆生は限りなき昔から、および今生きているこの世の全ての身の上での振舞いにおいて、 間違いなく、十悪・五逆・あるいは殺・盗・婬・妄語という四重(しじゅう)の罪、謗法(ほうぼう= 仏法を謗る)・闡提(せんだい=生死にとらわれ出離を願わない。)・破戒(はかい=戒律を破る)・破見(正しい 仏の見解を見失うこと=邪見。)などの罪を造って、いまだに、それらを除き去ることができず、 しかもこれらは今生の世界の悪道に直接繋がっている。 このような状態で、どうして、[2]多劫輪廻の中のわずかな一生の間の念仏の功徳ぐらいで、すぐさま穢れの無い永遠の浄土に生まれて不退転の位を悟ることができようか。 できるはずがない。」このようにいわれたときはどうすればいいのか。 答えて言おう。諸仏の教えや行は数知れない。覚りを領受する衆生の因縁も衆生の[3]機根に応じて一つ ではない。例えば世間の人が、 その眼に映じたことを信じるのは、 光が黒暗を晴らし、虚空が 物を納め、大地が物を載せ、水がよく生き物 を潤し、火がよく(煮炊きして)物を役立たせたり、(火災などで)壊したりする事実を見て 信じるのと同じである。これらの事は、すべて、 それら個々の事態に対応する法と名づける。すなわち、 世のなかのことで目に見えるものは千差万別である。いかにいわんや仏法の不思議な力によって様々に 対応する法門となり、種々の迷いの門をを出る利益がないはずはない。 したがって、(1)一門を出離するということは、一煩悩を出離するということである。(他に多くの法門がある 中で、一つの法門は一人の衆生に応じた教行によって煩悩を出離させることができるのである) 。 したがって、 (2)一門に入るということは、すなわち一つの[4]解脱の智慧の門に入ることである。(他に多くの法門 がある中で、一つの法門は一人の衆生に適した教行によって解脱の智慧の さとりに入らしめるのである。) このような事柄によって、自己に与えられた縁に従って修行し、各々が解脱の道を求めるべきだ。 あなたは何故、私に縁のない行法でもって、私を惑わそうとするのか。しかるに私に与えられた行法は わたしに因縁のある行法であって、あなたが求めているようなものではない。あなたが願うところは、 あなたに与えられた因縁による行法であって、私の求めるところのものではない。この故に、各々が自分に 適した道に随(したが)って修行するならば、かならず、それぞれが速やかに解脱を得るのである。 仏道を学ぶものは、まさに知るべきである。もし解脱のさとりを学ぼうと思うならば、 凡夫の法から聖者の法、さらには仏のさとりの法にいたるまで、どれを学んでも一切障りは無い。みな、 学んだらよいのだ。しかし本当に仏道を学ぼうと思うならば、かならず、自分に縁のある自分にふさわしい 仏道を学ぶべきだ。それは、自分にふさわしいが故に、多くの努力を要せず、しかも多くの利益(りやく) を 得るのである。 〘語釈〙 [1]回向発願心 Ⅰは他力の回向発願心。 Ⅱは自力の回向発願心 (HP作成者解釈) Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。 Ⅱ.自己の修めた善根をふり向けて浄土へ往生しようと願う心。 (Ⅰ・Ⅱの定義は インターネットWikiArcより) [2]多劫輪廻:無限の時間の生まれ変わり死に変わり。 [3]機根:素質 [4]解脱の智慧:さとり |
| 【読下し古文(親鸞引文)】 〈 |
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【HP作成者感想】
劈頭にも記しましたように、今月は「回向発願心釈」の前半です。まず、いきなり引文冒頭の「三つには 回向発願心(三者回向発願心)と説かれている。」で始まった文の、すぐ次が「 中略(乃至)」として除かれています。 これはどういうことなのでしょうか。なぜ親鸞聖人は、このような冒頭から 「中略(乃至)」されたのでしょうか。 前回の終りに引文の「中略(乃至)」 に今後はあまり詮索せずに、聖人のおこゝろを素直にいただいて、「中略(乃至) 」以外の部分に集中して学んでいく所存と申し上げておりましたが、この冒頭のいきなりの 「中略(乃至)」を目にしては、詮索せずにおれなくなりました。 青字で表示されている「中略(乃至)」 のいずれかをクリックしていただきますと、【現代語訳】として(中略)されている部分、および 【読下し古文】として(乃至)されている部分が表示されますので御覧ください。 これを読みますと、どうやら、この「中略(乃至))」された部分は まさに善導大師が「回向発願心」とはどのようなことかをここで説かれている部分であるということが分かり ます。いわば善導大師の「回向発願心」の定義です。親鸞聖人が引文された「三者回向発願心」の文章の前半 が、どうもよく分らないのは、この善導による「回向発願心」の定義が「中略(乃至)」として省かれているからでしょう。」 そこで「中略(乃至)」直後の引文の内容を読んでみますと、それは上の「読下し古文」にもありますように、「また |
今月は以上で終ります。
| 『顕浄土真実教行証』信文類本文13 今月は、いよいよ善導の『観経疏 散善義』の内、「発願迴向釈」の後半、すなわち、古今を通じて絵や説話で度々登場する「二河白道の譬(たとえ)」の部分です。やや長い文章になりましたが、「二河白道の譬え」がどうして日本の浄土教において かくも、重用されるのか、その背景に思いを走らせて考えてみようと思います。。 |
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【現代語訳(親鸞引文)】 また、浄土往生を願う全ての人々に一つの譬えを説いて、信心とは何か、自らに与えられた信心を、 異なった見解の人々の非難から守るとはどういうことかということを説いてみよう。 例えば、西方浄土(生死の解決)を求めて弛(たゆ)みなき旅をする人がある。その時、突如として前方を 横切る一本の河がある。その河の南半分は火の河、北半分は水の河、どちらも幅は、あるいて渡れば百歩にも なろうか。深くして底なしに見え、それぞれ南北に果てしなく続いている。そして、まさにその火と水の 境目に一本の白道がある。幅は四・五寸ほど、この道も東の岸から西の岸に至るには長さは歩いて百歩、 そして、この白道には水の河から荒れ狂う水が、火の河からは業火が、それぞれ、たえず襲いかかって、 休むことがない。ここは果てしない荒野で人影もない。ところがそこに賊の群れと・悪獣が現れ、その人が 一人なのを見て、われ先に襲いかかって殺そうとする。殺されてはかなわないと、さらに西に向かって走ると まさに目の前に火と水が荒れ狂う河が現れ万事休す、すなわち自ら心の中で呟くには<この河、南北に 果てしなく続いているが、火と水の中間に一本の細い白道がある。きわめて狭い道だ。河の両岸は、 それほど離れてはいないけれども、この細白道を襲う火と水の勢いでは、どうして渡ることができようか。 これを行けば、今や、まさに死んでしまうに違いない。引っ返そうとすると群賊・悪獣が迫って きて行く手を阻む、南北に避けて逃げようとすると悪獣や毒虫が競って襲いかかってくるだろう。 まっすぐ西に向かって白道を渡ろうとすると、おそらく水か火かいずれかの河に落ちてしまうに ちがいない>と。 まさに進退きわまり、云うにいわれぬ恐怖にさらされる。しかしここで自ら思うに <いま引っ返そうとすると死ぬだろうし、ここにとどまっても死ぬ。進もうとすれば、これもまた死が 待っている。どうしても死なねばならないのなら、寧(むし)ろこの白道を真直ぐ前に進んで行こう、 前から、この道はあるのだ、渡ることができるのではないか>と。この思いに至った時、今いる東の岸に 間髪を入れず、励ます人の声がした。「君よ、たゞ決心してこの白道をたどって行け、必ず死ぬことは無い。 ここにとどまっていれば死んでしまうよ」と。さらにまた、向こう側の西の岸に人あり、呼び続けて言うに 「そなた、ひとえに、この声を信じて、速やかに来たれ。私は、そなたを必ず護ろう。荒れ狂う水や火が 襲うのを畏れることはない」と。西を目指すこの旅人は、こちらの岸から向う岸を指し示して、勇気を もって白道を進めと励ます声、また、彼方(かなた)西の岸から、すみやかに来たれと励まし喚ぶ声を聞いて 即時に身心共にこれを受け入れ、決心して道を尋ねて怖れることなく一歩、二歩と白道を進んだところ こちら東の岸の群賊たちが「西に向かおうとする君よ、引き返して来なさい。この道を行くのは、まことに 危険だ。向う岸に進むことは絶対無理だ。必ず死ぬこと疑いなし。でもこちらに還ってきたら悪くはしない よ。」と呼び返そうとする。しかし、この旅人は、この賊の呼び声を聞いても振り返ることなく、一心に 真直ぐに白道を信じて西へ進み、たちまち西の岸に着いて、永久にもろもろの禍(わざわい)を離れることが でき、そこで善き友を得て、いつまでも慶び楽しむことができたという。これはこれ譬えである。次に 譬えの意味合わせをすると、<東の岸>というのは、すなわち煩悩燃え盛る娑婆の世界の譬えである。 <西の岸>というのは極楽浄土のことを喩えたものである。<群賊・悪獣が脅したり親しげに近づいて 来たりする>のは、衆生の また一切の行者よ、行住坐臥、昼夜を問うことなく常に仏の恩徳を感じ、浄土への想いが絶えることが ないのを「回向発願心」と名づけるのである。また、回向というのは、かの浄土に往生して、再び大悲心 をもって、この世に還り生死の巷に入って衆生を導く、これも回向である。至誠心・深心・回向発願心の 三心をもってすれば、行として成就しないものはない。浄土に生まれようとする願いと、行が成就して もし、往生できないような道理はあるはずがない。またこの三心は 〘語釈〙 [1]回向発願心 Ⅰは他力の回向発願心。 Ⅱは自力の回向発願心 (HP作成者解釈) Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。 Ⅱ.自己の修めた善根をふり向けて浄土へ往生しようと願う心。 (Ⅰ・Ⅱの定義は WikiArcより) [2]多劫輪廻:無限の時間の生まれ変わり死に変わり。 [3]機根:素質 [4]解脱の智慧:さとり [5]六根:対象を感覚する六つの器官(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)。 [6]六識:対象を認識する六つのはたらき(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識) [7]六塵:六根・六識がはたらく世界 [8]五陰:五蘊に同じ。色・受・想・行・識の五つ。 色:身体および物質。物質のこと。 受:感覚作用のこと。 想:心に浮かぶイメージ。 行:行動を起こす意志。 識:認識作用。区別して知ること。また意識そのものという解釈もある。 [9]四大:地・水・火・風 のこと。 [10]定善の義を通摂す:『観無量寿経』には「定善」と「散善」の浄土往生の道が説かれている。 善導の『観無量寿経疏』で至誠心・深心・回向発願心の三心が説かれているのは「散善義」においてである。 ここで「定善の義を通摂す」と述べてあるのは、「散善義」において浄土往生を願う者は三心が必須 ということであるが、『観無量寿経』のもう一つのテーマ「定善(じょうぜん)」すなわち静かに 瞑想し浄土や仏をイメージ(観法)して浄土往生を成就する場合にも、この三心はあてはまるということ を述べている。 |
| 【読下し古文(親鸞引文)】
また |
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【HP作成者感想】
いよいよ『観経疏 散善義』の「二河白道の譬(たと)え」に入りました。善導は先ず「一切往生人等にもうさく、 いま、さらに行者のために一つの (2) 次に、善導の『観経疏』を読みますと、浄土往生を可能にする三心の一つ「至誠心」についても 善導は「経 (観経) にのたまはく、「一には至誠心」 と。 一切衆生の身口意業(しんくいごう)所修の 解行(げぎょう)かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。」としています。 すなわち、「衆生が至誠心をもって往生浄土を成就するには、身口意の所修の解行すなわち自らのすべてをもって往生行を修めるには必ず自らにおいて真実心をもって修行すべきなのだ。」というのです。 そのような無限に厳しい自己規制ともいえる真実心をもって往生浄土を成就することは所詮煩悩をもった 衆生である自分にはできないと体験的に決定をくだしたのが法然・親鸞であるならば、この 善導の無限に高い山にも譬えられる「至誠心」、そして「真実心」をどう乗り越えられるかということです。 ちなみに親鸞は教行信証のこの部分を次のように読み替えて記述しています。「『経』(観経)にのたまはく、 〈一つには至誠心(しじょうしん)〉。〈至〉とは真なり、〈誠(じょう)〉とは実(じつ) なり。一切衆生の身口意業(しんくいごう)の所修(しょしゅ)の解行(げぎょう)、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲(おも)ふ。」すなわち 教行信証において親鸞はこの部分を「かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲(おも)ふ。」として、如来が清浄願心の中で完成された 「真実心」を須(もち)いることによって三心の一つである。「至誠心」を成就していただくというのです。 一見、これは随分と手前勝手な考え方だと思われるかもしれませんが、決してそうではなく。 法然も親鸞も自らの真実心の獲得ということに全身全霊をもって取り組んだけれども、どうしても無理であるという体験から、真実心の自らの修行によって成就することに決定的に絶望した結果、いわばコペルニクス的転回 によって、 全てを弥陀の本願に委ねる、いや委ねざるを得ない、いわばこれが一衆生である自分の 本性であり、人間の本性であると体験的に思わざるを得なかったのではないでしょうか。それでは、往生浄土のためにはどうあればいいのか、古来から大無量寿経に説かれている四十八願、わけても、その内の第十八願、法蔵菩薩が無上清浄の願心のもとに立てられた誓願、念仏往生の願の回向をいただくほかはないという結論です。すなわち絶対他力の出現です。 では、なぜ法然・親鸞は、善導の「真実心」の、あの無限に高い壁ともいえる自力的面を超えることが できたのでしょうか。それを私は、この「二河白道の譬」のなかに見ることができます。 即ち、激浪と業火渦巻く「水・火の二河」と取り囲む群賊・悪獣を前と後ろにして、進退窮まった 旅人は東岸で西に怖れず行けと指し示す釈尊と、西岸で必ずこちらへ来いよと招く弥陀。この二尊を信じて、死を覚悟して 西に進む旅人、ここには、往けと発遣する釈尊、来いよと力強く招く弥陀を信ずる以外に旅人の 道はないことを表しています。この善導の『観経疏』中に本願他力を見たのが法然であり親鸞であったのでは ないでしょうか。更に、このほかに、『観経疏 散善義』の中には「 そしてさらにこの6月の文章のそのあとすぐの 「仰ぎ願わくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて 、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ 処をばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。」という言葉も、他のどのような本の表現よりもはっきりと他力回向の 宗教を顕す善導の言葉ではないでしょうか。真実心を自らに得ねば、三心成らずとした善導ですが その底には深い他力の湖がたたえられていたのです。それを善導から600年後に生きた法然上人は見逃 さず偏(ひとえ)に善導によるとし、さらに、その他力の思想をはっきりと世に示されたのが親鸞聖人ではないでしょうか。 〘語釈〙 [44]譬喩:たとえ。 今月は以上で終ります。 |
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【現代語訳(親鸞引文)】 ① また善導の手になる『般舟讃』にいわれている。「敬って往生を願うすべての同行(同じ往生行を励む者)に申し上げる。大いにすべからく自らの 無明を慚(は)じ、仏の徳を肝に銘ずべきである。釈迦如来はまことに慈悲の父母である。種々の手だてを使って私たちに無上の信心を起させるのだ」と。 ②『 また、<まことに、弥陀仏の名号を聞くことを得て心から歓喜することがあれば、みな、まさに、かの浄土に生まれることができる。>と書かれている。 ③ 『往生要集』(上九二)に(B)「華厳経の<入法界品>に「たとえば、或る人がいて、如何なる敵にも害されることがないという不可壊の薬を所持すれば一切の怨敵は害を加える手がかりを失う。菩提心をもった 菩薩も、これと同じように菩提心不可壊の法薬を得れば全ての煩悩や諸々の魔物等が菩提心を壊すことはできないのである。たとえば人あって、意のままに宝物や衣服や食べ物をもたらす住水宝珠(じゅうすいほうじゅ)という珠を 持って、その身にまとえば、深い水中に入っても溺れないようなものである。菩提心の住水宝聚を得れば、迷いの世界に入っても沈んでしまうことがない。たとえば金剛石は百千劫という長い期間、水の中に浸(つ)かっていても、 くずれて壊れたりせず、全く変化したりしないようなものである。菩提心(求道心)も、また、これと同じで、無限に永い期間、迷いの世界で、もろもろの煩悩の世界に沈んでいても無くなることもなく、減ることもない。」 といわれている。 ④ また『往生要集』中巻九五六に「私もまた、かの阿弥陀仏の摂取の中にあるけれども、煩悩に真実を観る眼(まなこ)が妨げられて、観ることができないけれども、大悲は倦きることなく、常に私を照らし給う」と いわれている。(以上) ⑤ であるから、もしは行、もしは信、どれ一つをとっても、全て、真実の親たる阿弥陀如来の、 我々衆生を無明の闇から救いあげようとする切なる願いの回向成就の賜物なのである。
このように如来回向の賜物である念仏行や信心が往生成仏の因なのであって、この他に因があるのではないことをよく知るべきである。
〘語釈〙 (1)『般舟讃』:善導の著。正しくは『依観経等明般舟三昧行道往生讃』という。『観無量寿経』などによって,浄土をたたえる文章を作り,般舟三昧による浄土往生の道を明らかにしたもの。 (2) 般舟三昧:浄土教で説く精神 統一法。諸仏現前三昧,仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この 三昧を行えば現前に仏を見ることができるという。 (3)『貞元新定釈教目録』:唐の貞元という時代に後漢以降約700年余の経典の譯経目録。 (4)『集諸経礼懺儀』:上の『貞元新定釈教目録』の第十一巻に収められている。上巻には諸経中の礼讃文、下巻には善導大師の『礼讃』の全文が収められている。 (5) 智昇:唐代の僧で経論に通じ、律を宗とした。長安の崇福寺に住し、『開元釈教録』『集諸経礼懺儀』『続大唐内典録』など多くの著述を残している。 (6) 『往生礼讃』:極楽往生を願う偈(げ)で,《往生礼讃偈》《往生礼讃》《礼讃》とも称し,《日没礼讃偈》《初夜礼讃偈》《中夜礼讃偈》《後夜礼讃偈》《晨朝(じんじよう)礼讃偈》《日中礼讃偈》の6曲を指す。 (7) 『入法界品』:『華厳経』に含まれる善財童子が法を求めて 53人を歴訪する文学的な美しい求道物語。 (8) 不可壊の薬:無勝薬ともいう。この薬を所持する者はいかなる敵にも害されることがないという。 (9) 住水宝珠:如意珠の異名。意のままに宝や衣服、食物などを出す徳をもつ宝珠のこと。 |
| 【読下し古文(親鸞引文)】
① またいはく( ⑤しかれば、もしは
〘語釈〙 (10) 一切往生の知識:浄土往生を願う全ての求道者。 (11)慚愧:自らの無明を自覚し慚(は)じること。 (12)方便:手だて、たくみな手立て。 (13)慚儀:『集諸経礼懺儀』のこと。 (14)要文:肝要な文。 (15)鈔して:広博な典籍の文章や内容を要略する。 (16)三界:迷いの世界。 (17)火宅を出でず:家に火がついても得ているのにそれに気付かず遊び戯れている。 (18)本弘誓願:阿弥陀仏が修行されていた時(因位の法蔵菩薩でであったとき)衆生救済のために誓われた願=本願。 (19)下至十声聞等に及ぶまで:十声の念仏とそれを、この上なく信じること。この場合の「聞(もん)」には念仏の無明からの救済を信じる意味があると考えます。 (20)一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。:十声の念仏による救済を信じ、しかもそれが一念に及んでも疑うことがない。 (21)一心を至す:天親菩薩の『浄土論』に「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来、願生安楽国」のことばがあります。名号を聞いて(信じて)究極的に弥陀に帰命し往生をしめられる。 (22)摩訶薩:菩薩の尊称。偉大な志を持つ者。大菩提を求める者の通称。 (23)瓔珞:インドの装身具。仏教では仏や菩薩の身体を飾る物。要は身に着ける物。 (24)清浄願心:阿弥陀仏が衆生を救おうという誓願の心。 (25)因なくして他の因あるにはあらざるなり:行も信も阿弥陀如来の清浄願心という因なくして成り立たない。それ以外の因などあり得ない。 |
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【HP作成者感想】
5月以来、善導の三心釈(至誠心・深心・回向発願心それぞれの釈)について拝読してきました。思いますに、これらの深い宗教的記述の一つ一つを懸命に理解しようと思うあまり、その一部に焦点が
集まり過ぎ、考え過ぎてしまって、そこに記述されている文章が、信巻全体の中でどのような位置づけとして書かれているのかということが、おろそかになってしまって、全体的としての「信巻」の意図するところ、ひいては
『教行信証』の意図するところを充分に把握できないということに注意すべきであろうと思います。その意味で、今月の文章も、この点を踏まえながら読ませていただきたいものと思っています。
先ず、今月の文章、信巻の【14】にあたる①の文章です。『涅槃経』にある「釈迦如来は慈悲の父母」ということを説いた文章です。すぐに思い出すのが「二河白道の譬」において西に向かう旅人に対して、こちらの岸に立って、 弥陀が招く対岸の西方浄土を指し示して、火の河、水の河を恐れずに白道を進んで対岸の浄土に思い切って進めと励ます釈尊の姿です。まことにこの姿は火の河、水の河、群賊悪獣が跋扈する無明の世界にあって、往生浄土を願う 衆生に対して、同じ立場から衆生を気づかう慈悲の父母の姿であります。この世を恐れながら、この世に執着し、往生浄土を躊躇(ちゅうちょ)する衆生に対して、自らの真実の修行の結果、仏になられたその成果を衆生に回向され 涅槃の浄土に誘(いざなう)う姿であります。往生浄土を願う衆生に対して、この釈迦如来の他力回向の姿を肝に銘ぜよと善導がこの場面で説いているのです。慈悲の父母、即ち父母ですから弥陀・釈迦二尊になるのですが釈尊のみが 表現されています。これはやはり弥陀は西方浄土にあって厳然と動かずに存在し、この弥陀のさとりの世界からこの世に現れ私たち衆生を様々な手段で浄土へ導くのが釈尊であるわけでしょう。したがって釈迦・弥陀は一体であって 釈尊を讃嘆することは弥陀を同時に讃嘆することであって釈迦如来は慈悲の父母ということになるのではないでしょうか。 次は信巻【15】にあたる②の文章です。ここには『貞元新定釈教の目録』に記載された『集諸経礼懺儀』の中に『観無量寿経』に関連して善導の『往生礼讃』から次のような要文(肝要な法門)が記述されているとしています。 『貞元新定釈教の目録』や『集諸経礼懺儀』及び『往生礼讃』についての詳細は〘語釈〙の(3)、(4)、(6)の項目を見ていただくことにして、この要文では『往生礼讃』の中の三心(至誠心、深心、回向発願心)の中から「深心」 について上の「読下し古文」における(A)の文章「 〈それかの を親鸞聖人は引文としておられます。この文で「乃至」までは、三心(至誠心、深心、迴向発願心)の内、特に「深心」を自己に与えられた他力回向の信心を表す言葉としてここに引文されたのでしょう。 そして「乃至」の後の< >内の文章で、同じ『往生礼讃』の文章から<弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさに、かしこ即ち浄土にうまれることができる>と引文されています。 「名号を聞くことを得る」とは、どのように受け取ればいいのでしょう。これは名号、すなわち「南無阿弥陀仏」が示すように、今、現在、大いなるいのちに摂取され、その中で生きているという自分に気づかせていただく ことではないでしょうか。 次の③は『往生要集』からの引文で、本文(B)にありますように、「不可壊の薬」や「住水宝珠」になぞらえて、菩薩が、これらの薬や珠を得れば煩悩や魔物、怨敵によって、妨げられることなく 生死の海にあっても沈むことなく金剛のごとき不変の菩提心をうることができる。『仏教語大辞典』には菩提心とは、さとりに向かう心とありますから、親鸞浄土教でいえば信心であって、金剛の信心を得れば それは、丁度、不可壊の薬、住水宝珠を得た菩提心と同じく、もろもろの煩悩の業の中にあっても変わることのない金剛の信心を維持することができるということを表しているのでしょう。 最後に④は有名な往生要集の中の言葉で、これは、また、正信偈でも「我亦在彼摂取中、煩悩障碍雖不見、大悲無倦常照我」という偈で顕されており、私たち衆生に大変分り易く、金剛の信心に 摂取された衆生の心境を表わしています。 以上①〜④の引文は、それぞれ比較的短い文章で、内容も表面的には、それぞれ違った話題からなっています。しかし、この4つの文章に共通する深い意味は他力回向による大信心ということを 善導や、源信が、どのように思ったか、また親鸞聖人は、それを、どのように受け取られたかを、『般舟讃』や『往生礼讃』、はたまた源信の『往生要集』からの引文を読み進めることによって考えてきました。 その意味で、親鸞聖人も、⑤の文章で「しかれば、もしは 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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そこで今月からは、大無量寿経における第十八願文の三心、すなわち至心、信楽、欲生と天親菩薩の『浄土論』にある「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来願生安楽国」の一心、すなわち、どちらも往生浄土を究める三心 と一心の関係を問題にした「三心一心問答」という、大いなるいのちにまつわる緻密なる親鸞聖人の論究の世界に入らせていただきます。これは親鸞聖人が信巻最初の序文に「ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、 論家釈家の宗義を被閲す。ひろく三経の光沢をこうむりて、ことに一心の華文をひらく、しばらく疑問をいたして、ついに明証をいだす。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の弄言をはじず。」と言われている文言が、 今月から、ここで拝読する本文として展開し始めるわけです。まさに『信巻』のかなめとなる部分というべきであると『教行信証講義』の著者、山辺習学師は書いておられます。ところがこの問答、全体をうかがいますに、 まことに緻密にして長大。したがって漠然と、文章を追って読み進めても、とても全体のはっきりした把握が私(HP作成者)には困難であります。そこで、ここは一番、『教行信証』の解説書、名著と言われた、山辺習学・ 赤沼智善共著『教行信証講義』の章、節、項、科による勝れた区画の分け方を参照させていただきながら、私見を述べさせていただきたいと存じます。 今回最初の章の第一節は問答の問いの部分、第二節第一項は問いに対する大まかな答え、第二項は至心・信楽・欲生を構成する字の解釈、第三項は更に、これら三心各々の意味を四字熟語に融合して釈したもの、 第四項は以上の項目の要点を総合しまとめた結釈となる項目。以上からなっています。それでは以下、三心一心問答の最初の章の現代語訳から始めさせていただきたいと思います。 |
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【現代語訳】 「第一節(問答の問いの部分)」 問うていうに、如来の本願(第十八願)には、すでに 「第二節」 第一項(問いに対する大まかな答え) 答えていうに、愚鈍な衆生に分かり易いように弥陀如来は浄土往生のかなめとして、上の三心を発(おこ)されたのだが、往生の真実の因はたゞ信心第一であるので、浄土論の論主 「天親菩薩」は、この三つを合して一心とされたのであろうか。 私(親鸞)なりに三心の字の意味を考えるに、三はすなわち一である。その意味は 「至心」について「至」とはすなわち、真であり、実であり誠(じょう)である。また「心」とは種であり、実である。 「信楽」について、「信」とは、すなわち真であり、実であり、誠(じょう)であり、満であり、極(ごく)であり、成(じょう)であり、用(ゆう)であり、重であり、審であり、験(げん)であり、宣であり、忠である。 「楽(ぎょう)」とはすなわち欲であり、願であり、愛であり、悦であり、歓であり、喜であり、賀であり、慶(きょう)である。 「欲生」について、「欲」とは、すなわち願であり、楽(ぎょう)であり、覚であり、知である。「生(しょう)」とは、すなわち成(じょう)であり、作(さ)<作(さ)の字は為(い)であり、起であり、行(ぎょう)であり、 役(えき)であり、始であり、生(しょう)>であり、爲(い)であり、興(こう)である。 第三項(三心各々の意味を第二項の字を使って四字熟語に融合し、すこしでも分かり易く答えたもの)。 あきらかに、知ることができた。 「至心」は、すなわち往生成仏の種となる真実にして誠(まこと)なる心(真実誠種)であるがゆえに疑いの雲(疑蓋)が雑(ま)じらないことである。 「信楽」は、すなわち如来の真実がそっくり入っている心(真実誠満)、極め尽くされた本願のはたらきを敬(うやま)い重んじる心(極成用重)、究極の功徳(審験)をもった如来の仰せ(宣)をかたく信じる心(審験宣忠)、 浄土往生の願いが叶って愛(め)で悦ぶ心(欲願愛悦)、往生が定まって、聞き得た法をよろこぶ心(歓喜賀慶)等々である。 したがってやはり疑いの雲の生じるはずがないのである。 最後に「欲生」は、すなわち、信により往生できることを確かに知ってよろこぶ心(願楽覚知)、仏に成ることができ、即(ただち)に衆生救済のはたらきを興(おこ)す心(成作爲興)、すべて大悲によって回向された心であるが故に、 疑いの雲が雑(ま)じることがないのである。 第四項(以上の結論) 今、三心(至心、信楽、欲生)の字の教えを考えれば、真実の心にして、うそいつわり(虚仮)が雑じることがないのである。 〘語釈〙 [1]至心・信楽・欲生:本文「第三項」四字熟語による説明でもって、語釈とします。 [2]第二項において親鸞聖人が至心、信楽、欲生の各単漢字のこころを、多くの別の単漢字で顕されたことの全体の意味は後述の【HP作成者感想】をごらんください。 [3]正直:仏法の上に正直といふは、一切有為の法は、虚妄幻化の偽(いつわり)なりと悟りて、本来本法身天然自性ままに用いるを真の正直とす。 (仏教語大辞典の「正直」の項目で、江戸時代の仏教者鈴木正三の著書『万民徳用』からの解釈として以上のような文言が紹介されている。) |
| 【読下し古文】
「第一節(問答の問いの部分)」 「第二節」 第一項(問いに対する大まかな答え) わたくしに あきらかに 第四項(以上の結釈) いま 〘語釈〙 [2]第二項の各単漢字の字訓釋について親鸞聖人が至心、信楽、欲生の各単漢字のこころを、多くの別の単漢字で顕されたことの全体の意味は後述の【HP作成者感想】をごらんください。 [4]論主(天親):『浄土論』の著者である天親。 [5]涅槃(ねはん):まよいの火を吹き消した状態。梵語でニルバーナともいう。 [6]字訓:漢字の日本語読み [7]第三項の四字熟語の意味するところは【現代語訳】第三項の各四字熟語の現代語訳をお読みいただき、また【HP作成者感想】の〈第三項〉該当部分の論述をお読みください。 [8]疑蓋雑じはることなきなり:疑蓋、すなわち疑いの雲が雑じることがないのである。 [9]邪偽雑じはることなし:邪偽、すなわち、よこしまな心が雑じることがない。 [10]間雑(けんぞう):雑じわる [11]建(はじ)めに:天親菩薩が『浄土論』の初(はじ)めに一心といわれたという意味で「初めに」とか「始めに」の意味があると同時に、ここで「建」という字が使われていることから 天親菩薩が『浄土論』において一心帰命という信心のこころを打ち建てられたという意味にもとれる。 |
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【HP作成者感想】
第一節は願生浄土の必須条件である『大無量寿経』第十八願の至心・信楽・欲生の三心と天親菩薩が『浄土論』において安楽国(浄土という真実の世界)に生まれたいと「盡十方無碍光如来」に一心帰命することの関係性
について、何故三心なのに一心となるのかという問いの提議です。
それに対して、「第二節」〈第一項〉で「答(こた)ふ。愚(ぐ)鈍(どん)の衆(しゅ)生(じょう)、解(げ)了(りょう)昜(やす)からしめんがために、弥陀(みだ)如来(にょらい)、三(さん)心(しん)を発(おこ) したまふといへども、 涅槃([5]ねはん)の真因(しんいん)はただ信心(しんじん)をもつてす。このゆゑに論(ろん)主(じゅ)、三(さん)を合(がっ)して一(いち)とせるか。」すなわち、現代語訳をしますと「答えていうに、愚鈍な衆生に分かり易いように 弥陀如来は浄土往生のかなめとして、上の三心を発(おこ)されたのだが、往生の真実の因はたゞ信心第一であるので、浄土論の論主、天親菩薩は、この三つを合して一心とされたのであろうか。」と最後は「一心とされたので あろうか」といささかの疑問符を付しながら、親鸞聖人は自問自答しておられます。 これに対して、現代の情報過多の海に浮き沈んでいる私たちは、親鸞聖人において、なぜこのような問答が重大提議としてなされるのだ ろうかと、つい思ってしまいます。これはやはり『大無量寿経』に対する、鎌倉時代の親鸞聖人と、現代の衆生である私の、思いの違いに起因するのではないかと思うのです。親鸞聖人の時代は『大無量寿経』にしろ 『法華経』にしろ、仏教経典は等しく生きた釈尊が直接説かれた経であると偏(ひとえ)に信じられた時代です。だから、この経の説はいのちと引き換えにしても信じるべき教えであると一点の疑いもなく思われていた時代です。 それに対して、現代人はどうでしょう。『大無量寿経』にしろ『法華経』にしろ、その他、大乗仏教経典は釈尊の入滅後500年前後の後の時代に釈尊の永遠性を象徴的に説いた、いわばその時代の深い宗教性をもった人たちが説いた説であって、 そのことが近世から近代にわたって実証的に得られた知見であると、どうしても心の底で思ってしまうのです。そうなると、これは私だけかもしれませんが、三心であっても、一心であっても、宗教的意味合いは、そう変わらない のではないかと、どうしても思ってしまうからではないでしょうか。しかし親鸞聖人の時代は違います。経典は生きた釈尊の言葉の記録であると絶対的な信を置く時代ですから、親鸞聖人はこの三心と一心の同異を、この信巻の 大きなスペースを割(さ)いて、どうしても論じなければならなかったのではないでしょうか。ひるがえって、現代人である私も『大無量寿経』が生きた直接の釈尊の言葉ではないけれども、そこで象徴される宗教的真実は釈尊が 説かれた絶対的真実であると、すくなくとも親鸞浄土教徒であると、自分で勝手に思い込んでいる私にとっては、やはり、この三心一心問答にくらいついていかねばならない理由があるのです。 そこで親鸞聖人は「第二節」〈第二項〉において、「わたくしに…」以下、至心の「至」から欲生の「生」にいたるまで一つ一つの字に経釈の典拠に基づく、いくつかの単漢字を充てて、その訓読みをとおして、 その意味を顕されます。たとえば、信巻のこの部分で至心の至について「至とは、すなはちこれ真なり実なり誠なり」とありますが、これは、山辺・赤沼『教行信証講義』によれば「(善導の観経疏)『散善義』の至誠心の 釈(説明)に依られた。彼処には「至とは真なり、誠とは実なりとある。」と記されています。したがってこれが至の字の典拠として、親鸞聖人は至の字について上のように説明されたのでしょう。このように、この他に、至心の 「心」、信楽の「信」や「楽」、さらには欲生の「欲」と「生」についても、それぞれ、経釈などに典拠がある多くの漢字の字訓によってそれらの意味(こころ)を顕されました。しかし、このように多くの漢字について精緻を究めた 字訓釋をもっての説明には、能率ばかりを追求する愚かな私たち現代人にはかえってその宗教的核心が掴めずに文字から眼が離れてしまうことになりかねません。実際に私はそうでした。この点について山辺習学・赤沼智善著 『教行信証講義』においては次のような解説がなされています。『西派の東陽閣圓月師(明治の真宗本願寺派の僧)は其著『本典仰信録』に「俗典浅近(親しみやすい漢字)の字訓に 寄せて。以て三心即一心の深義をあらわす也」と云われた。所謂寄顕(漢字を当てはめることにより意味をあらわす)の説であると云う。字訓と云う動かすべからざる基礎に立ちて、三信即一の義を論定し証明すると云う意味 ではなくして、只三信の一々の文字に親密の意味ある文字を集めて、それによりて他力信心の内容をふくよかに発表せんがためである。即ち文字そのものには生命がないが、聖人の信仰の息を吹き入れることによりて、 力ある生命あるものとなるのである。』 また、現代の仏教者、梯実円師も「存覚上人は『六要鈔』三に、ここに挙げられた字訓釈の一々の文言の典拠について、 <初(はじめ)の問答は、広く字訓を挙(あげ)て三心一心の義を成ずることを明かす。字訓未だ悉くは本文を勧得せず(字訓の典拠のすべてを正確に知ることができなかった)、博覧の宏才仰ぐべし信ずべし。> といい、博覧強記で有名な存覚上人が、親鸞聖人が挙げられた字訓の典拠のすべてを正確に知ることができなかったといい、ひたすら親鸞聖人の「博覧の宏才を仰信するほかはない」と讃仰されて います。しかし、これは存覚上人の謙譲を表された言葉で、いたずらに言葉の典拠を穿鑿(せんさく)するよりも、このような字訓に寄せて顕そうとされている本願の仏意を正確に領解しなければならないと、 私たちに字訓釈拝読の注意を促されたのでしょう。」といわれています。親鸞聖人は一つ一つの字訓について、確かな典拠をもって、ここに記されているわけでしょうが、後学が後の世にいたずらに、字訓の 典拠を詮索することなく、その字訓の中にひとえに他力信心の深意を拝受させていただくことが肝要であるということではないでしょうか。しかし、そのように他力信心の仏意を領解するといっても、やはりそれには 一つ一つの字訓の典拠をから仏意を探ることでしょうから、結局全部の字訓について仏意を探ることになりその作業を進めている内に、全体の仏意の把握が疎かになってしまうという堂々巡りになる私の力を悔やむほかは ありません。 ところが、そのような愚かな私の領解力を慮(おもんばか)ってか、親鸞聖人は〈第三項〉では第二項における字訓の単漢字を四字ずつまとめて熟語にして、至心、信楽、欲生それぞれの意味を四字熟語の意味として、 分かり易いように述べられています。これが【現代語訳】の〈第三項〉にまとめられていますのでお読みいただき三心それぞれの意味をお読取いただきたいと思います。 そしていよいよ〈第四項〉で本日読み進めた範囲の結論を出されます。すなわち、親鸞聖人は、ここで挙げられた三心すなわち至心、信楽、欲生の四字熟語による字訓釋において、そのいずれにおいても、それぞれの 最後に、「疑蓋雑じはることなきなり」すなわち、疑いの雲が生じることがないということを強調されます。疑いの雲が生じることがないとは、疑わない、すなわちとりもなおさず信楽であり信心という一心に帰結する ということであります。「信楽すなはちこれ一心なり。一心すなはちこれ真実信心なり。このゆえに論主(天親)、建(はじめ)に<一心>といへるなりと、知るべし。」ということであります。 ということで『大無量寿経』第十八願の三心(至心・信楽・欲生)は『浄土論』における一心ということに帰結しました。ところが親鸞聖人はこれでめでたしめでたしと終わりません。「また問ふ。字訓のごとき、論主の 意(こころ)、三をもって一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発(おこ)したまへり。いかんが思念せんや。」と、今度は逆の問いを発(おこ)されます。 親鸞聖人のどこまでも究め尽すこの精神、まことに理の精緻、ここに極まるというところです。これはまた、来月のテーマとなります。さてどこまで迫れるのか、まことに仰いで敬すべしであります。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
| 『顕浄土真実教行証』信文類本文16 先月は親鸞聖人が説く三心一心問答の内、往生浄土の必須条件として、第十八の本願においては至心・信楽・欲生の三心が必要と説かれているのに対して、4世紀に天親菩薩によって書かれた 浄土教の聖典『浄土論』には「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来願生安楽国」として、三心ではなく一心に究めて浄土往生の条件としてあるのは何故か。このことについて自ら問い、そしてそれに対して自らお答えになるに 愚かな衆生に分かり易いようにと一心とされたと、至心、欲生をも、兼ね摂(おさ)めた信心の一心を強調されたのではないかと説かれ、さらに詳細に字訓をもって ところが、今月は、先月の結論とは逆に、そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、愚かな衆生にわかりやすく説くために、第十八願では、わざわざ三心 にかみ砕いて説かれて いるのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうかという逆の問いを設定され、それについて、まず自らの考えを説いて行かれます。そして、その後には例によって
<語釈> |
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【現代語訳】 「第一節(問答の問いの部分)」 また、問うて申し上げる。字訓が示すように、三心は一つの心、すなわち一心に収斂するというのが論主 天親菩薩の意(こころ)であるという。そのことは、そのとおりだと思うけれども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来は 既に至心、信楽、欲生として三つの心をもって願を起こしておられる。このことはどのように考えればよいのだろうか。 「第二節 至心(まず答えの最初に、三心の内、至心について説き始められる))」 <第一項(至心の特質)> 答えてみよう。仏のこころは深遠で測りがたい。けれども、僭越ながら仏の意(おこころ)を推し量ると一切の生きとし生ける者は永遠の昔から現在に至るまで 罪悪の煩悩に汚(けが)されて、 仏と共にあるという清浄の心がない。いつわり、へつらい多く、仏の心と同じ真実の心がない。そこで如来は一切の苦悩の衆生を哀れみ何とかせねばと、考えも及ばぬ長い期間にわたって 全てを超えて全身全霊をもって 菩薩の行を行じられた結果、一瞬たりとも仏に与えられた清浄心や真実心を失われなかった。したがって、その結果如来となられて、仏の真心(まごころ)をもって、欠けることなく融通無礙に、 思いはかることも、 称(たゝ)え尽くすことも、説き尽くすこともできない無限の徳を成就されたのである。そして如来の至心(究極の仏心)を煩悩にまみれた一切の邪智悪業の衆生に振り向け施されたのである。すなわち これこそ仏の 利他の真心(まごころ)であって、従ってこのことには疑いの心が雑(ま)じることがないのである。この至心はすなわち無上の功徳たる弥陀の名号である。 |
| 【読下し古文】
「第一節(問答の問いの部分)」 |
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【HP作成者感想】
ここでも、 先月の問答と同じく「第一節(問答の問いの部分)」です。 今度は、先月の問いとは逆に、「そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、 愚かな衆生にわかりやすく説くために、むしろ、第十八願では、わざわざ三心(つまり至心・信楽・欲生)に噛み砕いて説かれているのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうか。」との問いを親鸞聖人は 投げかけます。すなわち、先月の問答では、三心では三つに焦点が分れているため、これでは愚鈍の衆生には複雑で理解しにくいだろうからと、天親菩薩は、それを一心にまとめられたのだというわけですが、しかし、第十八願は、 浄土往生の必須条件を愚鈍の衆生に分り易いように、わざわざ至心、信楽、欲生の三心に噛み砕いて示されたのではないのかという疑問です。 「第二節 第一項 それに対する答え」それに対する答えとして、親鸞聖人は、仏意は深遠ではかり難いけれどもと、はじめに、ことわりながらも、「ひそかに、その深遠なる仏意を推しはかるに」 と前置きしながら、 このことに対する自論を展開されます。 すなわち、一切の生きとし生ける者、もちろん親鸞自身も含めた一切の群生、つまり、この世に群れ生きる衆生は永遠の昔から今日今時、つまり現在にいたるまで絶え間ない煩悩に苦しみ汚(けが)されて、清浄なる仏の心を持てない。 いつわりやへつらいの心で固まってしまっていて、仏しか持ち得ないだろう真実心のかけらも持ち得ていない。このような、全ての衆生の有様を見て如来は窮極の悲しみと憫(あわれ)みを持たれ、 その結果、なんとか仏となって、このような衆生を救いたいと思い立たれ、 <語釈> [18]法蔵菩薩:阿弥陀仏の修行時の名。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |