今回は前回に引続いて【88】のご自釈に対する【90】の『論註 下』からの引文に引続いて、同じく『論註 上』の「仏の一切種智深広にして無限である(涯(きし)なし)という仏教における「海」ということばの宗教性を味わっていきます。
【91】 またいはく(論註・上)。
「〈海〉とは、いふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雜善の中下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩ふ。
このゆゑに、〈天人不動衆 清浄智海生〉(浄土論)といへり。
〈不動〉とは、いふこころは、かの天・人、大乗根を成就して傾動すべからざるなり」と。
(以上)
【91】また『論註・上』で云われている。「<海(かい)>ということばの意味は、仏のさとりは一切の存在について、その意味が把握できているという無限の智慧を顕すものである。このような無限の智慧を前にして、自らのみのさとりに汲々(きゅうきゅう)としている声聞や縁覚の二乗雑善の輩はこの広大な大乗の智慧の中には含まれないのである。このようなことから大乗の広大無限の智慧を「海」のごとしと譬えるのである。だから浄土に往生することが決まっている不動の天界やこの世の人間は、浄土論で云われているように、この汚れのない無限に広大な智慧の海から生まれ出るのである。「不動」ということは、これらの人々が大乗の根源を成就して、まったく揺るぎがないということなのである。
【HP作成者感想】 2025年12月の【81】の親鸞聖人のご自釈から始まる部分を「一乗海釈」といいます。今回の【91】も親鸞浄土教における「海」ということばの無限の宗教性が語られています。そうして 【91】では仏の一切種智深広ということばを使ってその無限の智慧と、無限の能力と、無限の慈悲をあらわし、小乗ということばでも表現される大乗仏教より前の古い仏教、すなわち自己一人のさとりの 追求という二乗雑善の仏教を、「中下の屍骸を宿さず」ということばを使って、小乗仏教の矮小性と大乗仏教の広大無限性、すなわち全ての生きとし生ける者の救いという種智深広性を讃える表現となっています。 ちなみに「二乗雑善の中下」とは何を意味するのかと言いますと、仏教にはさとりに至らしめる乗り物として声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つがありますが、その内で、中下として中乗が縁覚乗・下乗が声聞乗 となります。したがって中・下とは縁覚・声聞を表すものと考えられます。だから三乗の内の残り一つ上乗は菩薩乗ということになります。ただ菩薩乗はもはや大乗の菩薩を指すので小乗としては残りの中下 ということになります。だから、「海」ということばが当てはまるのは大乗仏教の世界です。だから最後の行の天・人が大乗根を成就して傾動すべからざる世界は大乗仏教の世界ということになり、これを 「海」ということばで表現したのでしょう。ちなみに現代では大乗の世界はこの海を更に広めて。無限の時空を表す大宇宙と考えてもいいのではないでしょうか。すなわち大乗仏教は大宇宙をもその傘下に 展開する宗教であるということです。 今月は以上で終ります