「中略」された部分
◎中略1(乃至1)
【現代語訳】 (イ) また、深心(じんしん)は「深い信」であるというのは、徹底して自らの心を しっかりしたものにして、仏の教えに順じて修業し末永く疑い惑うことがないことである。そして 一切の別の教え、別の行法、異なった思想や見解、またそれらへの固執のために信心を失い、いたずらに 動揺することがないのである。 問うていう、凡夫は智浅く、迷いに捉われ、もし仏説に対する解釈が異なる多くの人々が経論を 携えてやってきて、あれこれ証拠立てて、私の信心を妨げ、非難して「全ての罪ある凡夫は往生できない」 というのに遭えば、その非難をしりぞけて、信心を成就し、益々しっかりと自分の道を進み、非難を畏れて、 信心を退失することのないようにするには、どのようにすべきだろうか。 その問いに答えていうと、もし、そのように、多くの経論を引用して、あれこれ証拠立てて「浄土往生」 は無理だというような人がいても、行者であるあなたは、そのように論難する人に『あなたは、経論を もってきて証拠立てて「浄土往生できない」と言っても、私は、あなたの論難を受け入れることはない。 なぜかというと、私も、あなたが携えてきた経論を尊重しないわけではない。ことごとくみな尊く立派 だと思う。しかし、仏が経を説き給うときは、説く場所、説く時、説く相手、そして、それを聞く人間 の利益になるかどうかということで違った説き方をされている。そして、あなたが携えてきた立派な経を 仏がお説きになった時は、私が信心をいただいている『観経』・『阿弥陀経』などをお説きになった時 ではない。すなわち仏は、それを聞く相手に応じて教説を説かれ、また、説かれる時も同じではない。 あなた方が携えてきたお経は人天・菩薩など修行に熱心な相手の修行について説いているのに対して 『観経』の定善、散善の教えは、ただ韋提希夫人と仏が亡くなられた後の五濁・五苦に捉われた一切の 凡夫のために「浄土往生は出来る」と保証された教えである。このようなわけで、私は今、一心に、 この仏の教えによって心を決めて仏行を奉じている。だから、たとえ、あなた方が百千万億の人数で 浄土往生できないと言っても、私は益々往生の信心を強めて全うすることになる。 また、あなたは あなたの往生を否定する連中に向かって「お前たち、よく聴け、私は今、お前たちのために 更に私の金剛の信心の有様を説こう。たとい十地のさとりに至る前の菩薩や羅漢や辟支(びゃくし)のように仏の 教えによるかよらないかは別として、自らが悟るばかりで、それを説いて他を救おうとしない者 (辟支:仏の教えによらず悟り、人にも、それを説かない者)が一人でも多数でも、或いは十方に 遍満して、みな経論を引き、証拠立てて<浄土往生できない>といっても、私はまた、一念の疑心も起こさず、ただ私に与えられた信心を、いやましに強めて、それを成就しようと思う。なぜかと いうと、私の聞いている仏の言葉は必ず浄土往生を成就させる完全な教えであって、どのような事にも壊れない教えであるが故なり」と言い給え。また行者よ、よく聴け。たとい悟りをよく心得た 初地以上十地までの菩薩が、もし一人、或いは多数、十方に満ちて「釈迦仏、弥陀を 指して讃嘆し、この世の荒んだありさまを貶(けな)し、衆生を勧め励まして<懸命に念仏し、そして その他の善を修めれば、いのち終わった後、必ず、彼の浄土に往生する>というのは、これは、 まちがいなく嘘偽りだ、信じてはいけない。」と異口同音に言うとしよう。そのときは、わたしは これら説かれるところを聞いたとしても、また、少しの疑心も生じない。唯々、間違いない 上々の信心を、いや増しに完成させるだけだ。なぜかというと、私の聞いている仏の言葉は 真実で絶対の教えに由るが故である。ほとけの言葉は絶対確実な智慧であり了解であり、真実を 見る眼であり、それを証(さと)らせる言葉であって疑惑心の言葉ではないからである。また全ての 菩薩の異なった見方、異なった解釈のために、私の信心は壊れない。それに第一に菩薩ならば、 すべて仏教に違背するようなことはないはずだ。これぐらいで、このことは置くとして、行者は まさに知るべきである。たとい人間の姿をとった仏や、立派な修業の報いとして顕れた仏が 一人でも多くでも、また、十方に遍満して、各々が光り輝いて口々に「釈尊のお説きになった 説を讃嘆し、一切の凡夫を勧め励まして<懸命に念仏し、そして他の善を修めて浄土を願生し回向すれば、彼の浄土に生ずることができる>というのは、これ嘘偽りである。まちがいなく、 そのようなことは無い」と十方を覆うように一々に説いて言われ、そして私がこれらの諸仏が説かれるところを聞いても、究極的に私は少しも怯(ひる)むことはない。何となれば、一仏のさとりは 一切仏のさとりであり、あらゆる智慧に満ちた見識、深い教理とそれに基づく修行、悟り、仏としての位、大いなる慈悲は、平等にして、そこには少しの差別もない、したがって一仏が制止されるところは 一切仏も制止される。前の仏が殺生や十悪等の罪を制止されて、その結果そのような悪を行なわず、不殺生戒などを含む十善と利他の行によって六波羅蜜の教えに随順すると名づけ給うように、 もし、その後に出世された仏があれば、どうして十善をあらためて殺生など十悪を行なわしめ給うことがあろうか。この道理をもって推し量れば、諸仏の言行が仏によって違っている ということがあるだろうか。あるはずがない。
◎乃至1(中略1)
【読下し古文】 (イ) また深心(じんしん)は「深き信なり」といふは、決定(けつじょう)して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯(ぎしゃく)を除きて、一切の別解(げつげ)・別行・異学・異見。異執のために、
退失し傾動せられざるなり。
問ひていはく、凡夫は智浅く、惑障(わくしょう)処すること深し。もし解行(げぎょう)不同の人多く経論を引きて来りてあひ妨難し、証して「一切の罪障の凡夫往生を得ず」といふに逢はば、いかんが、かの難を対治して、
信心を成就して、決定してただちに進みて、怯退(こうたい)を生ぜざらんや。
答へていはく、もし人ありて多く経論を引きて証して「生ぜず」といはば、行者すなはち報(こた)へていへ。「なんぢ経論をもつて来し証して〈生ぜず〉といふといへども、
わが意のごときは決定してなんぢが破(は)を受けず。なにをもつてのゆゑに、しかるにわれまた、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。ことごとくみな仰信(ごうしん)す。しかるに仏かの経を説きたまふ時は、
処別(しょべつ)・時別・対機別・利益(りやく)別なり。またかの経を説きたまふ時はすなはち『観経』・『弥陀経』等を説きたまふ時にあらず。しかるに仏の説教は機に備(そな)ふ、時また不同なり。かれすなはち通じて
人・天・菩薩(にん・でん・ぼさつ)の解行(げぎょう)を説く。 いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、ただ韋提(いだい)および仏滅後の五濁(ごじょく)・五苦等の一切凡夫のために、証して〈生ずることを得〉とのたまふ。
この因縁のために、われいま一心にこの仏教によりて決定して奉行(ぶぎょう)す。たとひなんぢら百千万億ありて〈生ぜず〉といふとも、ただわが往生の信心を増長(ぞうじょう)し成就せん」と。また行者さらに向かひて説きていへ。
「なんぢよく聴け、われいまなんぢがためにさらに決定の信相を説かん。たとひ地前(じぜん)の菩薩・羅漢・辟支(びゃくし)等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉といふとも、
われまたいまだ一念の疑心を起さず。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。 なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義(りょうぎ)にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑなりにと。また行者よく聴け。
たとひ初地以上十地以来、もしは一もしは多、乃至、十方に遍満して、異口同音にみないはく、「釈迦仏、弥陀を指讃(しさん)し、三界・六道を毀呰(きし)し、衆生を勧励(かんれい)し、〈専心に念仏し、および余善を修すれば、
この一身を畢(お)へて後、必定(ひつじょう)してかの国に生ず〉といふは、これかならず虚妄(こもう)なり、依信すべからず」と。 われこれらの所説を聞くといへども、また一念の疑心を生せず。ただわが決定上上(けつじょうじょう
じょう)の信心を増長し成就せん。なにをもってのゆゑに、すなはち仏語は真実決了の義なるによるがゆゑなり。
仏はこれ実知・実解(じつげ)・実見・実証にして、これ疑惑心中の語にあらざるがゆゑなり。また一切の菩薩の異見・異解のために破壊(はえ)せられず。もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違(い)せじ。またこの事を置く、
行者まさに知るべし。たとひ化仏(けぶつ)・報仏(ほうぶつ)、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐きてあまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたまはく、「釈迦の所説に、
あひ讃(ほ)めて一切の凡夫を勧発(かんぼつ)して、〈専心に念仏し、および余善を修して、回願(えがん)すればかの浄土に生ずることを得〉といふは、これはこれ虚妄(こもう)なリ、さだめてこの事なし」と。
われこれらの諸仏の所説を聞くといへども、畢竟(ひっきょう)じて、一念疑退の心を起してかの仏国に生ずることを得ざることを畏(おそ)れず。 なにをもつてのゆゑに。一仏は一切仏なり、あらゆる知見・解行(げぎょう)
・証悟(しょうご)・果位・大悲、等同にして少しき差別(しゃべつ)もなし。このゆゑに一仏の制したまふところは、すなはち一切仏同じく制したまふ。
前仏(ぜんぶつ)、殺生(せっしょう)・十悪等の罪を制断(せいだん)したまひ、畢竟(ひっきょう)じて犯さず行ぜざるをば、すなはち十善・十行にして六度の義に随順すと名づけたまふがごとき、もし後仏、
出世したまふことあらんに、あに前(さき)の十善を改めて十悪を行ぜしめたまふべけんや。この道理をもって推験(すいげん)するに、あきらかに知りぬ、諸仏の言行(ごんぎょう)はあひ遺失せざることを。