仏教 こころの言葉
今月、親鸞聖人は先月説かれた問いと答えについて、経と釈からの引文を用いて、その思索過程を証され、最後に『至心』を私たち衆生は、どのように賜るのかを説かれます。 (註)今月から、親鸞聖人の手になる文章は、一段右への余白を付けて引文との区別をつけました。 |
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【現代語訳】 <第二節 第二項(経文からの引文)> このことについて『大無量寿経(上)』に「(法蔵菩薩は、稀有(けう)の修行において)、むさぼり、いかり、加害の心など微塵も起こさず、もちろん、 むさぼり、いかり、加害の心をおこす本源も断ち、色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょく)など感覚がはたらく煩悩にも執着せず、最高の忍耐力をもって、あらゆる苦を気にせず、欲少なく足るを知り、貪欲(とんよく) ・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒から相離れ、心は真実の 教えに基づく宗教性に統一され、従って智慧無限であった。したがって当然の事として、うそ偽(いつわ)り、媚(こ)びへつらいの心など微塵もなかった。穏やかな表情とやさしい言葉でもって相手の意志を先んじて知り、よく受け入れて 教え導く ことが出来た。同時に恐れを知らず精進(しょうじん)して、倦(あ)くなきこころざしを持ち、ひたすら仏法を求めて世に群れるいのちあるものに恵みを与えようとされた。仏・法・僧の三宝を敬(うやま)い、世自在王仏をはじめとする 師や先輩によく 仕えられた。そして、それらの全てをもって衆生救済の誓いを立て、修行して、一切のこの世のいのちある衆生に対して菩薩自らの功徳を回向成就(えこうじょうじゅ)された。」といわれている。 また無量寿如来会(むりょうじゅにょらいえ)(上)に「釈尊が阿難(あなん)にいわれた。<かの法処比丘(ほうしょびく=法蔵菩薩)が世間自在王如来(世自在王仏)および、天人・人間・(さとりを妨げようとする)魔王・梵天(ぼんてん=古代インドの神) ・仏道修行者・ 婆羅門(ばらもん)教徒を前にして広大な、このような大いなる誓いを発(おこ)され、そして、これらは皆すでに成就されたのである。普通世間では有り得ない、この誓願を発(おこ)し既に悟りの世界に安住しておられる。そこでは、 諸々(もろもろ)の功徳が具(そな)わり威徳広大で清浄なる仏土が実現されている。このようにして法蔵菩薩の修行は無限の長い時を経られたその間、一度たりとも貪欲、瞋恚、愚痴の想いを起こさず、色、声、香、味、触などへの 執著の想いを起こさず、もろもろの衆生を、まるで親族に対するように敬愛されたのである。(中略) その(法蔵菩薩の)こころは和順で荒々しいところが無く生きとし生ける者に常に慈悲と忍耐をもって、いつわらず、へつらわず、 衆生救済に邁進(まいしん)し怠け心など微塵もなかった。人々に浄らかで純粋な仏法を求めさせ、もろもろの、この世のいのちある者のために憶せず退(しりぞ)かず、利益(りやく)せしめ、大いなる誓願の成果を世に円やかに 満たされた。>」といわれている。 <第二節 第三項(釈文からの引文)> 唐時代、光明寺の和尚(善導)が『散善義(さんぜんぎ)』で「この毒のまじつた行(ぎょう)を仏に捧げて、 阿弥陀仏の浄土に 生れようと 求めても、 決して生れることはできない。なぜかというと、まさしく、 阿弥陀 仏が法蔵菩薩として修行されたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身(しん)・口(く)・意(い)の三業(ごう)の行はみな、真実の心においてなされたことに由(よ)る〈仏を経(へ)て、仏の行を行じて、 仏に依り従って、仏のまことを用いて、ということであるからである。すべて、このように仏が真実の心において修(おさ)められた功徳を全て衆生に施ほどこしてくださるのであり、それをいただいて 浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実 なのである。 また、真実に二種がある。一つには自らの成仏を願う真実、二つには他者の成仏を願う 真実である。(中略) 衆生がおこなう不善の三業、すなわち真実心のない善は、如来が法蔵菩薩として修行中に、真実の心において捨てられた のであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も智慧ある衆生も愚かな衆生も、みな如来の真実をいただくのであるから至誠心 と名づけるのである。」 といわれている。 <第二節 第四項 第一科(親鸞聖人の結釈)> 上記の通り、釈尊の真実のお言葉、浄土教の勝れた師である善導大師の解釈によって、まことに知ることが出来た、この至心(ししん)というのは思いはかることも、称え尽くすことも、説き尽くすこともできない如来の智慧の大いなる海であり、他力回向(たりきえこう)の真実心であり、これを至心と名づけるのである。
『涅槃経(ねはんぎょう)』(聖行品〈しょうぎょうぼん〉)にいわれている「究極的な真実は唯一のさとりへの清浄なる道にあり、二つあることなし。真実というのは、すなわちこれ如来であり、逆に云えば如来は、すなわち真実なのである。
真実とは、すなわち 虚空(有限を超えた無限)であり、虚空(絶対無限)とは、すなわち真実である。真実はこれ仏性であり、仏性はすなわちこれ真実である。」と。
すでに上記でも真実と言った。真実というのは <第二科 第一科に関する引文>『散善義』において善導の説くところによれば「内外明闇(ないげみょうあん)を簡(えら)ばず」といっている。「内外」についていえば、「内」は仏法の内
(すなわち出世間)なり、「外」はすなわち仏法の外(すなわち世間)である。「明闇」についていえば、「明」とはすなわち仏法(出世間)、「闇」とはすなわち世法(世間であり煩悩)である。また、「明」はすなわち仏法の智慧であり、
「闇」はすなわち仏法からはずれた(無明であり、愚痴)である。
『涅槃経』(迦葉菩薩品)にいわれている。「闇はすなわち世間であり、明はすなわち出世間である。闇はすなわち無明煩悩であり、明はすなわち真実の智慧である。
〘語釈〙 [1]字訓:漢字の日本語読み。 [2] 収斂:縮むこと。引き締まること。 [3] 菩薩:菩提薩埵 (ぼだいさった) の略称ともいわれる。原始仏教においては,悟りを開く前の仏陀のこと。大乗仏教では,大乗の実践を行う人,宗教的実践をなす主要な人とみなされた。 『大智度論』では仏陀の道を学ぼうとする心をもった人と解釈され,また利他行を行うものとして説かれ,大願と不退転と勇猛精進の3条件を菩薩の資格としている。 [4] 融通無碍:考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。また、そのさま。 |
| 【読下し古文】
<第二節 第二項(経文からの引文)>ここをもって『 『 しかれば、
すでに「真実」といへり。真実といふは、 『
『涅槃経』(迦葉菩薩品)にのたまはく、「闇はすなはち世間なり、明はすな |
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【HP作成者感想】
今月は、上記はじめに述べたごとく親鸞聖人が先月「三心別相問答」について説かれた問いと答えについて、経と釈からの引文を用いて、その思索過程を証されます。 ここで、先月、「三心別相問答」に対する答えの中で、親鸞聖人は仏意測りがたしとしながらも、ひそかに、この仏意を推測するに、として、「永劫の過去から穢悪汚染(えあくわぜん=煩悩罪悪に汚されている) で清浄の心のない、私たち、この世に生きる群生を哀れんだ如来は、このような衆生海を悲憫(ひびん=あわれむ)して、考えも及ばない永劫の年月にわたって、衆生救済のための菩薩の行を行じられたとき、 一念一刹那にいたるまで衆生を救わんとする純粋な心、真実の心で行じられた。これこそ、仏が衆生を救わんとする「至心」であり、如来は、この「至心」をもって円融無礙なる仏の無限の徳を成就された のであるとされ、それのみならず、さらに如来は、この仏のみが持ち得るであろう「至心」を、無限の慈悲の心をもって、往生浄土を何よりも必要としながらも、煩悩の繋縛から抜け出られない衆生に 回向されたのである。すなわちこれが疑うことが出来ない仏の利他の真実心を表わすのであり、これこそ無上の功徳である南無阿弥陀仏にほかならない。」と親鸞聖人は答えられます。 そして今月は三心別相問答における親鸞聖人の答えを証する文章を先ず『大無量寿経』からと、その異訳である『無量寿如来会』から引文されます。この『大無量寿経』からの引文では、主語がはっきりしませんが 明らかに法蔵菩薩が穢悪汚染の底にうごめく衆生の救済のために四十八の誓願を立てられたあと、『讃仏偈』をもって、この誓願を必ず成就するべき決意をのべられた、そのための修行に入られるわけですが、 本日の『大無量寿経』からの引文では、そのときの法蔵菩薩の修行の有様を描写した文章を引文されています。これは本日の『大無量寿経』からの引文全体によって表現されていますので、これを【現代語訳】および 【読下し古文】でお読下さい。 次に『無量寿如来会』からの引文です。ここでは、まず初めに釈尊が阿難に法処比丘と名指された法蔵菩薩が師の世間自在王如来すなわち世自在王仏および諸天・人・魔・梵天・沙門・婆羅門等を前にして普(あまね)く 衆生救済の大弘誓を発(おこ)され、且つ、みな既(すで)に、その誓いを成就し、さとりの世界に安住し、仏の功徳を身に備え、浄土をうるわしく荘厳されていると述べています。そして、ここでも、このような正覚成就の 菩薩行はとても、我々凡夫には、まねのできない厳しく永い修業の結果であったことが示されています。この様子も親鸞聖人は『無量寿如来会』からの、この引文によって示されていますので、上記の『現代語訳』および 『読下し古文』のこの部分をお読みください。 更に親鸞聖人は善導大師の『観経疏 散善義』から引文されます。この引文の劈頭でいきなり、善導大師は「衆生が雑毒の行を仏に回向して浄土に往生しようとしても、それは必ず不可である。」と強調されます。 何故かというと、要するに法蔵菩薩が正覚を成就しようとして行を積まれている時は、一念一刹那も凡夫には絶対のできない、仏の真実心を以って行を全うされたからである。だから凡夫に、この行は務まらない 、そこで大悲の如来はどうされたか、それは、どこまでも衆生に真実心をもって修行を全うせよと厳命されるのではなく、それとは逆に如来が真実心の内に修められた功徳を衆生に全て施(ほどこ)してくださる のである。すなわち、浄土に生まれたいという衆生の願いそのものまでも如来は施してくださるのである。このように不善の三業は仏が修行中に捨てられたものであり、衆生も同じように捨て去らせていただくのであり、善の三業は仏が真実心の内に成就されたもので、衆生は、その成果をそのままいただくのである。このように衆生は智者であるか、愚者であるかを問わず(内外明闇を問わず) 清浄なる仏の真実行の成果をいただくのであるから衆生がいただいた功徳は皆真実なのである。 以上のように親鸞聖人は善導大師の至誠心釈を解釈し「至心は仏の真実心であるが故に衆生は自分の力では決して至心を手にすることができないけれども、仏が大悲をもって自らが成就した 真実の行による成果(功徳)、これを回向していただいた衆生は、智者であろうと愚者であろうと、みな真実心たる仏の至心を須(もち)ゐさせていただけるのだ」と結論されます。これが親鸞聖人の「至誠心釈」についての見方です。 ところが、ここに一つ提議すべき問題があります。それは親鸞聖人が善導の至誠心釈の漢文を読んでおられる読み方です。たとえば親鸞聖人は上記【読下し古文】の善導の『散善義』の引文において「 親鸞聖人は上記本文においても、このことを「回向利益他の真実心」であるとされ、これを「至心」と名ずく。とされています。さらに親鸞聖人は、すでに真実と言った、真実と言うのは 「実諦(すなわち究極的な真実)は一道(つまり一つ)であって、あれか、これかの二つ道ではない。真実と言うのは如来である。如来はすなわち真実である。真実はすんわち無限大悲(虚空)である。無限大悲 (すなわち虚空)は真実である。真実は仏性である。仏性はすなわち真実である。」との涅槃経(聖行品)の言葉を引文されます。更に再び善導の『散善義』に「不簡内外明闇」といわれている、として内外の意味、 明闇の意味をそれぞれ【読下し古文】および【現代語訳】で述べています。これはあらためて「智者であっても、愚者であっても」信心一つで、第十八願の仏の「至心」の真実行の結果がが与えられ、私たち衆生はそれを須(もち)いさせていただくことができるということを再確認しています。 そして、この部分(すなわち至心釈)の最後の最後にも再々度『涅槃経』(迦葉菩薩品)から「闇は世間、明は出世間。闇は無明(永劫の過去世からの無智)、明は智明(永劫の過去世からの智=仏の智慧)として「明」と「闇」 の意味を引文し、信心ひとつで明・闇を問わず「仏の至心」に浴することができることを裏打ちされています。したがって、繰り返しますが、「至心」というのは、永遠の無明を背負ったままの我々衆生には望むべくもないもの であるけれども、人間の根源につながる智慧(すなわち信心)をいただくことができれば、いわゆる「内外明闇」を問わず、生きて仏に遇うことができるということがこの章の最大の眼目として述べられていることで あると考えます。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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今月は、三心の内、至心に続いて「信楽」について親鸞聖人はご自身の証をもって、更には経・論・釈からの引文をもって論証に入られます。したがって、今月は、天親菩薩の三心を一心に凝縮した考え方に対して、 第十八願では至心、信楽、欲生の三心は衆生に分かり易いようにと如来が三つに分けられたのだという三心別相問答の内、第二節「至心釈」に 続いて第三節「信楽釈」に入ることになります。この第三節では、まず第一項として親鸞聖人ご自身の「信楽」についてのお考えを述べられ、第二項には経文として『大無量寿経』、『無量寿如来会』、『涅槃経』、 『華厳経』から引文され、第三項には釈文として『浄土論註』から引文されています。これら引文の中では信心の色々な姿が描写され、信心の本質はどこにあるかが説かれており、親鸞聖人は これら経・釈によって信心という事柄に如何なる根源があるかということを私たちに知らしめようとされています。 今月は、これらの中の、まず『大無量寿経』と『無量寿如来会』及び『涅槃経』からの引文で今月の親鸞聖人の信心に対するお考えが如何に反映されているかを聞かせていただくこととし、 そのあとの経釈からの引文は来月以降に続けて聞かせていただきたいと思います。 <語釈> [1]正覚成就:仏のさとりをひらくこと。 |
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【現代語訳】 <第三節 信楽> <第一項>親鸞聖人ご自身の証(身をもっての見解) 【28】次に「信楽」というのは、すなわち、すべてが満たされた如来大悲の障りなき無礙(何ものにも捉われない)の信心の世界を顕すものである。
この故に、一点の疑いの
<第二項ー1>『無量寿経』からの引文【29】本願信心の願成就文(大無量寿経下巻はじめの「第十八願成就文」)にいわれている。 あらゆる衆生は弥陀の名号を聞いたその瞬間に信心が生まれ歓喜すると。 <第二項ー2>『無量寿如来会』からの引文 【30】また、浄土以外の国にいるありとあらゆる衆生が無量寿如来の名号を聞いたやはりその瞬間、清らかな信心に浸って歓喜すると述べられている。 <第二項―3>『涅槃経』からの引文 【31】『涅槃経』にいわれている。「善き人々よ、大慈大悲を名づけて仏性という。 何をもってそのようにいうかというに、大慈大悲は本当に仏道を求める人(法蔵菩薩)に付き随うこと影が形に 添うようなものだからである。 一切衆生はついに間違いなく大慈大悲を得るのである。このゆえに一切衆生悉有仏性(一切衆生も竟(つい) にはこの仏の信心(大信心)を間違いなく獲る)といわれるのである。大慈大悲は仏性と名づけるのである。 仏性は名づけて如来と するのである。 仏性は大信心と名づける。何故かというと、 一切衆生悉有仏性というのである。衆生の獲るこの大信心は仏性であり、仏性はすなわち如来である。 仏性は 【32】また(涅槃経・迦葉品に)言われている。 「あるいは阿耨多羅三藐三菩提、すなわち浄土のさとりにいたるには、ひとえに信心に因(よ)るのである 。さとりに至る因となることがらは無数にあるといえども、もし信心がその因であるといえば、まったくそのとおりであって、それで全てが説き尽くされたことになる。」 【33】更にまた(涅槃経・迦葉品に)いわれている 「信ずるということに二種がある。一つには「聞」すなわち教えのいわれは知らないけれども、教えの言葉を聞く だけの場合、 二つには「思」、すなわち教法のいわれを充分聞き分けて、まちがいなく自らの身に受け入れる場合。 ある人の信心で「聞」のみあって、「思」がない場合、これを名づけて信が整っていないとする。 また更に二種がある。「道(どう)」すなわちさとりへの道があるとのみ信ずる場合と、その「道」すなわち「さとりへの道」 を得た人がいると信ずる場合である。ある人の信心で「道」あるとのみで、その「道」を得た人、 すなわち得道の人があるということを信じられない人は、やはり信が整っていないのである。 〘語釈〙 [2] 大悲:仏・菩薩が衆生を生死の苦しみから救おうとするはたらき。 [3] 大喜大捨:大喜とは衆生が喜び楽しむのを見て喜ぶ心。大捨とは愛憎の心を捨てて平等の心に住するをいう。 [4] 二十五有:この世の衆生 が 生死 (しょうじ)流転する生存の世界を二十五種に分類されるありようのこと。 [5] 阿耨多羅三藐三菩提:最高の理想的な悟りのこと〈語源はサンスクリット〉。無上正等覚などと漢訳された。 [6] 菩薩は「覚りを求める衆生」、摩訶薩は「偉大な衆生」のこと。 [7] 布施の行:他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことなど、贈与、与える行を指す 。 [8] 智慧の行:一切の 現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心を養う行 [9] 一子地:すべての 衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこすこと。 |
| 【読下し古文】
<第三節 信楽> <第一項>親鸞聖人ご自身の証(身をもっての見解) 【29】 <第二項ー2>『無量寿如来会』からの引文 【30】またのたまはく( <第二項―3>『涅槃経』からの引文 【31】『 【32】またのたまはく( 【33】またのたまはく( <語釈> [10] 満足大悲:如来の大悲が念仏の衆生に完全にいきわたっているということ。 円融無礙(えんゆうむげ):無限の円のようにとらわれのないこと。 すなわち無限の円のように障りなき如来の大悲が信の世界に居る念仏の衆生を包みせっしゅしていること。 [11]利他迴向の至心をもって信楽の体とする:如来大悲の利他の徳によって衆生に回向された至心を信楽の根源とする。 [12]諸有掄:諸有は二十五あるとする迷いの世界のこと。衆生は仏教の教えがなければ車輪が 回転するように果てしなく輪廻するので所有輪という。 [13]法爾:浄土真宗では、自力を捨てゝ阿弥陀仏の願力のままに計らわれること。 [14]雑毒雑修の善:仏の本願によらない自力作善の行為や修行による善。 [15]三業の所修:身と口と心、すなわち全ての行ないによって修める行 [16]かならず報土の正定の因となる:必ず報土に往生する因(原因)となる。 [17]報土:法蔵菩薩の正覚成就の報いによって現れた世界、すなわち浄土。 [18]善男子:仏法に帰依し、正しい信仰を守る男子。 [19]仏性:衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと 。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。 [20]大喜大捨:大喜とは衆生が喜び楽しむのを見て喜ぶ心。大捨とは愛憎の心を捨てて平等の心に住するをいう。いずれも仏に属する性質。 [21]菩薩摩訶薩:菩薩は「覚りを求める衆生」であり、摩訶薩は「偉大な衆生」である。 『般若経』成立以前の、般若経典編纂者たちのいわゆる小乗仏教時代の菩薩という用語は、 成道以前の釈迦の称号であったが、『般若経』では『覚りを求める衆生』と意味が拡張され、 大乗仏教の立場で覚りを求める意義を強調するために摩訶薩を付加するようになった。 [22]段波羅蜜:「檀」は布施の意》六波羅蜜の一。悟りを得るために 他人に財宝・真理を施す修行=布施波羅蜜。 [23]般若波羅蜜:自らの行動を慎み(戒),自己の心をコントロールすること(定)によって, 正しい見識(慧)が生じ,安らぎ(解脱=涅槃(ねはん))にいたると説く。大乗仏教は,菩薩(ぼさつ) の実践すべき修行徳目として〈六波羅蜜(ろくはらみつ)〉を説くが,そのうち〈般若波羅蜜〉 (般若波羅蜜多とも書く。真実の智慧の完成)は他の五つすべての根底をなすものとして重視された。 [24]菩提:仏陀の悟り,完全な開悟,涅槃の境地をなす智慧のことで,そこでは煩悩は断たれている。 [25]聞(もん): 耳に聞く。思、修に対する語。 [26]思(し):一般的には意志、意図、方向性と訳される。特定の方向、目標、ゴールに向かおうとする意志を指す。 [27]信不具足:完全な信心ではない。 [28]得者:悟りを得た人=得道の人。 |
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【HP作成者感想】
今月から先月の「至心」に続いて、「信楽」についての親鸞聖人の、まさに体験にもとづく己証と、その己証を更に確固としたものにする経・釈からの引文に入ります。
親鸞聖人は「信楽」というのは、すべてが満たされた如来大悲の障りなき無礙の信心の世界を顕すものである。 この故に、一点の疑いの夾雑物も無いのである。したがってこれを「信楽」と名づけるのであるとされ、 そうして これこそ、先月学習した他力回向の賜物である「至心」に由来するのであるといわれます。このように如来回向の「至心」に由来する「大信心」であり、また、大信心の大とはすなわち如来を指すわけですから、 これも凡夫の手作りでは生み出し得ない、ひとえに如来の回向によるものであることになります。すなわち、「一切の群生(全ての衆生)は、永劫の過去から自らは何者であるかもわからず、ただ、太陽のまわりを 無言のまま回転する この宇宙に浮かぶ球体の中にあって、何もわからずに、いたずらに右往左往し、欲望に繋縛されて自らの根本を純粋に信じうやまうという気持ちは、チリばかりもない。 このようなことでは、 上記のような無意味な生死を繰り返すばかりで無限の智慧である仏の智慧の功徳に出遇うこともなく、この上ない信のこころに出会うこともない。更に加えて具体的に貪欲、瞋恚、愛憎の渦の中で藻掻いて、 なんとか自分の力で、このような世界から抜け出そうとしても、もともと貪愛、瞋憎からできているこの世の材料を使って修行のようなことをしても、これらは、まさに毒の混じった修行であって、 真実の行からは程遠いものであるから、このような毒の混じった行ないにもとづいて無量光明のさとり(浄土)の世界に生まれようと思っても、これ、かならず不可である。なぜそうなのかと言えば、 全ての衆生と違って、十劫の昔に正覚成就され如来となられ浄土を建立された法蔵菩薩の行は、一瞬一刹那たりとも、身のふるまい、話す言葉、意図して行う心ともに仏を敬(うやま)い、信じるこころに満ちて 、露ほどの疑いの心をもたれなかったからであるが。この、お心は既に如来の大悲心そのものであるがゆえに必ず往生浄土が正しく定まる因となるからである。如来は、このままでは往生浄土を成就できない苦悩の群生界(衆生界) を悲しんで、その結果、障りなき広大な仏の信を、あらゆる命を生きる衆生の世界に施(ほどこ)されたのである。これを仏の利他真実の信心と名づけるのだ」。このように親鸞聖人は自らをも含む衆生の やり場のない無智と苦悩を悲しむ一方で、浄土のさとりを建立された法蔵菩薩の真実の行と無限の衆生救済の意志を讃えられます。 親鸞聖人の「信楽」についての己証を、HP作成者は以上のように受取らせていただきました。 そして親鸞聖人は更に所依の経典である『大無量寿経』、および『無量寿如来会』、および過去以来、多くの衆生を導いてきた『涅槃経』や『華厳経』などの経典からの引文で、自己の己証が間違っていないことを証されます。今回はこの内『大無量寿経』『無量寿如来会』および『涅槃経』からの引文を読ませていただくことにより、更なる親鸞聖人の「信」の有様から教えをいただきたいと思います。 先ず、『大無量寿経 下巻』のはじめ第十八願成就の文と『無量寿如来会』から引文されます。 第十八願成就の文では「すべての衆生は衆生の救済をあらわす如来の名号のいわれを聞いた瞬間に歓喜して信心に満たされる。」とあること、さらに 『大無量寿経』と同じ内容を漢訳した『無量寿如来会』では「この世のあらゆる衆生は、衆生救済をあらわす無量寿如来の名号のいわれを聞いた瞬間に清らかな信をおこして歓喜する。」とあります。 親鸞聖人は真実心に基づく行により正覚成就された如来の誓願成就文「聞其名号信心歓喜乃至一念至心迴向即得往生住不退転(仏の名号を聞いた瞬間に、真実の行に基づいて成就された至心によって回向された信心に基づいて 直ちに浄土往生を得、不退転の位に住する)」という成就文の言葉を引文し、上記のような、ご自身の己証が間違いのないものであることを確かめられます。 次に親鸞聖人は『涅槃経 獅子吼品』を引文します。私(HP作成者)は、はじめには、この引文の内容そのものと、親鸞聖人が上に述べられた己証や信楽との関係がよく分かりませんでした。しかし今、考えますに、 この第二節「信楽」は至心、信楽、欲生の三心は私たち衆生にどのように与えられているか、与えられた三心は衆生において、どのような働きをするかということを追求する中での信楽についての親鸞聖人のメッセージです。 したがって仏にしか生み出せない至心に基づく信楽も仏ならぬ身で煩悩から抜け出せない私たち衆生には生み出すことはできません。したがって、これは仏の回向によってのみ与えられる功徳であるわけですが、この節では、 このようにして「信楽」が私たち衆生に与えられた時に、衆生の身にどのようなことが起るかを表すのも引文も含めたこの第二節「信楽」の内容であると考えた時に、はじめて、この『涅槃経 獅子吼品』がここに引文されている 意味が受けとれました。」 それでは、この引文たる『涅槃経 獅子吼品』の文章に入ります。 まず大慈大悲を名づけて仏性とする、なぜなら大慈大悲は常に①菩薩の身と心に影の形のごとく付き随うものであるからだとあります。だから一切衆生はついには間違いなく大慈大悲の心を獲るのだとあります。 そして、この故に一切衆生悉有仏性というのだとし、この大慈大悲を名づけて仏性とするのである。そして、仏性はまさに名づけて如来そのものであるとします。なぜこのようにいえるのでしょうか、これは上の①の菩薩とは 法蔵菩薩を指すからであると考えます。すなわち真実心によって修行し成就された法蔵菩薩の大慈大悲は、四十八願にもありますように、その成就された大慈大悲という功徳も必ず衆生に振り向けて与えられる、 すなわち衆生に回向されるとし、すでに十劫の昔にその回向は成就されているから、大慈大悲の心を回向された衆生も必ず大慈大悲心を身にいただくことになるからです。そしてその衆生には仏性がやどるということになります。 ではそれは何によってやどることになるかといえば衆生の信心によって成り立つ、すなわち衆生が仏の第十八願の成就を信じることによって、このことが全て成り立つことになるということです。 つまり、ここに大慈大悲と信楽の関係がなりたつということです。 次の『大喜大捨』もおなじですが、今度は逆に一切の衆生が窮(つい)に大喜大捨を得るということは、法蔵菩薩が二十五有の迷いを見事に克服されて大喜大捨を得られて正覚成就されたわけで、すべて、 正覚成就の如来の回向によって、衆生は大喜大捨を身にいただくことが出来るのであって、この衆生は必ず法蔵菩薩の正覚成就を信じ、その功徳の衆生への回向を信じる衆生であるということになります。 したがって大信心はもちろん大という字が付くのですから仏の信心でありますが、衆生は信心一つで仏の大信心を身にいただくことになりますから、当然のこととして大信心は仏性なり、仏性すなわちこれ如来なり。 ということになります。 そうなれば「一切の衆生を一人子のように慈しみ悲しむこころを持つ」という一子地の位を衆生が身にいただくことも信心一つということになり、ここに『涅槃経』がその獅子吼品によって、仏性という無限の功徳を 衆生が身にいただくことができるのは衆生の信心一つであるということ、即ち親鸞浄土教においては「信楽」こそ衆生の往生浄土の根本であることを示しているということです。 次の『涅槃経 迦葉品』でも阿耨多羅三藐三菩提(親鸞浄土教においては浄土往生)について、これが衆生において成就する因となるのは「信心」一つであることを強調している部分を親鸞聖人は引文されています。 そして正覚成就の因は他にも多くあるけれども、それらはすべて信心によるといわれれば、それは説き尽くされることになるというわけですから、やはり衆生における正覚成就の因は信心一つということになります。 最後に同じく『涅槃経 迦葉品』には次のようにとかれていると引文されます。これは、それまで説いてきた「信」という事柄について二種あるという引文です。一つには「聞」より生じ、二つには「思」より生ずとあります。「聞」というのは「聞」という言葉の意味は、ここでは仏の教える言葉をただ聞くだけでそのいわれを探究しないということでしょうか。また「思」というのは「仏の教えを充分に聞き分けて如実に思い知ること。」ということですが、これらはどういうことかと私が考えますところは、親鸞浄土教においては「他力」ということを強調するあまり、仏の教えに出会ったとき、中には、自らそれを心の中で租借し探究することなく、自分は煩悩のかたまりで、どうせ、探究しても何も売るところはない、全部おまかせ、おまかせと仏の教えを聞き流し、疑いも含めて吟味し、その意味を探究する中で、たとえ、それが結局煩悩熾盛のために挫折に終わっても、挫折したからこそ、絶対他力に本当に委ねる浄土往生の光明が待っているということなのでしょうか。 更にもう二種があって、一つには 以上で法蔵菩薩の誓願成就と衆生救済の真実に対する「信心」こそ、衆生にとって浄土往生が成就される必要かつ不可欠の事柄であるということを親鸞聖人は自からの文章及び自らの己証を証する経典からの引文によって 私たちに教え示して下さっています。 ところで、ここからは、私(HP作成者)の私考ですが、これほど欠くことのできない如来の本願への「信心」でありますが、はたして、現代の衆生の知識・感覚において、この釈尊の死後約500年に創作された 大無量寿経における法蔵菩薩の行と衆生救済の誓願、そして誓願成就された如来と、その回向による衆生への救済のはたらきを容易に信ずることができるでしょうか。しかもこの信心も与えられるものであると言われればなおのこと、 総じて法蔵菩薩の誓願と誓願成就そして如来の回向の働き(本願力)への信は、このように正攻法で考えていきますと、およそ私たち衆生にとって、このような「信」を身に受けると考えることには全く不可能ということになります。 しかし私(HP作成者)は、そのようには考えません。考えてみれば私たち衆生は何一つ自身に由来するものはなく、すべて与えられた存在だからです。この世に生を受けること、そして死んでいくこと、心臓の動き、出る息、 入る息、一挙手一投足、更には一瞬一瞬の心の起滅も、何一つ完全に自らによるところがあるでしょうか。これはとりもなおさず、この私を存在させ、全ての衆生を存在させ、宇宙の存在そのものである大いなる絶対無限のいのち、 すなわち私たち衆生の真実の親ともいえる無限のいのちにすべてを与えられ生きているからだと考えます。法蔵菩薩の誓願成就も十劫の昔の正覚成就も、すべてこのことを象徴しているのではないでしょうか。 信ずる、信じられないという、この世の自らの信心の努力ではなく、初めから信じざるを得ない絶対無限の掌中にあるということになります。このことは明治の宗教哲学者である清沢満之の信心の告白に 「自己とは他なし、絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗托して、任運に法爾に、この境遇に落在せるもの、すなわちこれなり。たゞそれ絶対無限に乗托す。 故に死生の事、亦た憂うるに足らず、死生なおかつ憂うるに足らず、如何に況(いわん)や、それより而下(じか)なる 事項においておや。追放可なり、獄牢甘んずべし、誹謗擯斥(ひぼうひんせき)、許多の凌辱、豈(あ)に 意に介すべきもの在らんや。我はむしろ只管(ひたすら)、絶対無限の我に賦与(ふよ)せるものを楽しまんかな。」 この文章を読むと、まさに絶対他力であります。こうなると、親鸞聖人が生涯をかけて説かれた法蔵菩薩の本願力回向や正覚の如来はどこに行ったのだという方も居られるかもしれませんが、法蔵菩薩や正覚の如来は信心にいきる 自らの胸の中で生きておられるのです。また、こうなると自らの意志は何も与えられておらず、すべて何をするか分からないではないかという恐れを懐く方もあろうかと思いますが、しかし、自らの意志もすべて他力であるならば、 大いなる他力の掌の中で、努力の限りを尽くして、間違った道を踏まないように細心の注意を払って生きていくことも他力ではないでしょうか。島根県温泉津の妙好人、浅原才市翁もその宗教詩の中に 「他力には自力他力はありはせぬ。一面の他力、南無阿弥陀仏」という言葉を残しています。上記清沢満之も上の言葉の後で「絶対、吾人に賦与するに、善悪の観念を以ってし、避悪就善の意志を以ってす。 自覚の内容なり(この自覚無き者は吾人の与(仲間)にあらざるなり)。所謂(いわゆる)、悪なるものも亦、 絶対のせしむる所ならん。しかれども、吾人の自覚は避悪就善の天意を感ず。これ道徳の源泉なり。吾人は喜んで此の事に従わん。」と言っています。自力も如来の掌中にある大いなる他力であるならば、 私たちは力の限りを尽くして社会的にも間違いないことを細心の注意をもって実践していくということではないでしょうか。そのように、細心の注意をもって個人的、社会的に対処しても、それが、 必ずしも当初の意図通りにはいかず、結果的に悪なる結果となる場合もあるかもしれません。しかし、それだからといって全てを投げ出すのではなく、やはり、新しい明日のために努力を尽していくことが大切ではないでしょうか。 どうせ悪人だからと全てを投げ出してしまうことこそ親鸞聖人も心の底から諫めておられる放逸無慚、造悪無碍の行ないと云えるのではないでしょうか。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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【現代語訳】 <第三節 信楽> <第二項ー4>『 『華厳経』( また同じ経の入法界品・唐訳に「如来は永遠に全ての衆生の疑いを断ち切り、衆生を救おうとする如来自身の願いにしたがって、すべての衆生の願いを満足せしめられる。」といわれている。 また(同・賢首品・唐訳には) 「信は一切が仏となる仏道の元である。無上の功徳を生む母である。一切もろもろの仏の徳を養い育ててくださる。疑いの雲を打ち払い、 ◎断ち切れない愛欲を仏の眼で静見出来、 仏への信の無上道を開示せしめられる。信には煩悩の汚れがない。清らかでおごり高ぶりを滅除し、仏への敬いに満ちている。 また、仏の教えの中で最高の宝である。浄らかな仏の手であり、無限の行に値する。 信は自らにあるものを惜しみなく与える。信は常に歓喜をもって仏法そのものとなる。 信は、衆生にとって自分とは如何なる者であるかを知る力を増大させる。信は速やかに、且つ、必ず如来とひとしき道を与える。 信は自らの有りようを感受する心を清らかにかつ明らかにする利益を与える。 真実の信心の世界に入ることができれば、信の力は堅固であるから退転することはない。信の力はよく煩悩の本を滅し去る。 信はもっぱら仏の功徳に直結する。 信はよく執着心の無意味を知らしめ、諸難を遠ざけて無難とする。信はよく多くの魔の誘惑を超えて無上の解脱の道を示し現す。信の功徳の種は壊れず、さとりの大樹を成長させる。 信はよくこの上なく勝れた、全てをみそなわす智慧を増大させる。信はよく一切の仏を、目前に感得させる。以上の故に、修行の次第を説けば、この信楽が最も勝れているが、まことに身にいただくことが難しいのである。 (中略) もし常に諸仏に信を奉じれば、それは諸仏に対して大供養を興すことになる。もしよく大供養を興せば、その人は仏の不思議を信じるようになる。 もしよく尊い仏法に信を奉ずれば、これはもちろん仏法を聞くことに飽きることがない。もし仏法を聞くことに飽きることがなければ、この人は、この世のありとあらゆる事柄、すなわち仏法の不思議を信じることができる。 もし常に清浄なる善知識である僧を信じ奉じれば、速やかに信心が不退転になる。もし信心が不退転になれば、その人の信心の力はたじろぐことがないから仏に対する堅固不抜の帰依も動揺することがない。 もし堅固不抜の帰依が動揺することがなければ、心のはたらきが清らかで智慧明らかになる。もし心のはたらきが智慧明らかになれば即座に善知識(信心の人)に親しみ近づくことができる。 そして善知識に親しみ近づくことができれば、これは広大な仏法の根本を集積することができる。広大な仏法の根本を集積することができれば、この人は仏のさとりを得る元となる力を成就することができる。 もし仏のさとりを得る元となる力を成就すれば仏に成ることが間違いないという <語釈> [1]華厳経:仏教経典。詳しくは『大方広仏華厳経』。おそらく4世紀頃中央アジアで成立したものであろうといわれる。いわば,小経典を集成して『華厳経』といったもので,最初からまとまって成立したものではなく, 各章がおのおの独立した経典であったと考えられる。このうち最古のものと考えられる章は,菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で,1~2世紀頃の成立。このほか『華厳経』のなかには,善財童子が法を求めて 53人を歴訪する文学的な美しい求道譚「入法界品」も含まれている。漢訳では 60,80,40巻より成る『六十華厳』『八十華厳』『四十華厳』などがあり,最後のものは,前2者中の「入法界品」に相当する。 思想的には,現象世界は互いに働きかけつつ交渉し合い,無限に縁起し合うという事事無礙 (じじむげ) の法界縁起 (ほっかいえんぎ) の思想に基づき,菩薩行を説くことを中心としている。(出典 ブリタニカ国際大百科事典) [2]入法界品:[1]の中に説明有。 [3]晋訳:晋訳とは『華厳経』の生成年代(4世紀頃に中央アジアで)から考えて東晋の東晉天竺三藏佛馱跋陀羅 訳(418 - 420年)(『大方廣佛華嚴經』60巻(六十華厳)と考えられます。 [4]大供養:大きな供養。供養とは=①奉仕すること。②尊敬心を以って仕え、世話すること。③供え、さしむけること。もろもろの物を供え衆生の方から回向すること。等々。 [5]領解:仏教において、教えを聞いてその心を会得すること。悟ること。 (日本国語大辞典) [6]彼岸:①かなたの岸。②迷いの此岸に対してさとりの世界をいう。生死の海を超えたさとりの世界。(仏教語大辞典) |
| 【読下し古文】
<第三節 信楽> <第二項ー4>『華厳経』からの引文 【三四】 『 【三五】またのたまはく( |
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【HP作成者感想】
先月は衆生の往生がかなう三つの心、すなわち大無量寿経上巻の第十八願にある「三心」の内、「信楽」について先ず親鸞聖人のお考えを述べられた後で、そのお考えについて経・釈から引文することにより、自らの考えを証するとして『大無量寿経』『無量寿如来会』『涅槃経』から引文されました。今月は、続いて『華厳経』からの引文によって親鸞聖人が示される「信楽」についてのご領解を伺いたいと思います。 まず、親鸞聖人は『華厳経』からの引文において、その「入法界品・晋訳」で、「この法を聞きて信心を歓喜して疑いなき者は、すみやかに無上道(この上なき仏のさとり)を成就すして、もろもろの如来と等し。」を挙げられます。そして、これに先立って先月には<第二項―3>『涅槃経』からの引文として本文14行目から「 次に親鸞聖人は華厳経入法界品(唐訳)から「如来は永遠に一切衆生の自分は本当に救われるのだろうかという疑いを断ち切り、如来のお心の願う所に随って、あまねく全ての衆生の願いを満足せしめられる。」 という部分を引文されます。多くの書物では「その心の所楽(しょぎょう)に随ひて」の部分を「衆生の願う所に随って」と訳されているようですが、HP作成者はあえて、その心の所楽に随っての「その心の所楽」 を如来の願いと訳させていただきました。そして、その如来の願われるところに随って、衆生の浄土往生の願いが満足せしめられると受取らせていただきました。 さて、その次は華厳経・賢首品からの長い引文が続きます。すなわち信楽の讃歎文です。この部分の讃嘆の有様は全体として現代語訳でお読みいただき、また、読下し古文でも多くの難解語の<語釈>を 用意しましたのでご参照の上、信楽の限りなき功徳に対する讃嘆をお読みください。また難解語の後ろの( )内にも語の解釈を付けたものもありますのでそれもご参照ください。ここでは、これら讃嘆は勿論 いずれも優劣をつけるべきものでないことはいうまでもありませんが、私の心を大きく揺さぶった文をここに書かせていただきたいと思います。<本文の対象対象箇所にも◎印をつけています。> それは◎「(信は)愛流を出で」ということです。このことは、そんなに簡単に納得できるかというと、現在の私にはとてもできません。それは孫の中学生が不登校に悩まされているのです。 この状態の解決は第三者にはとても簡単です。学校に行けばいいのですから。しかし、絶対といっていいほど当校できないのです。世間では、このような子には無理に登校を強要してはいけない。 できるだけ、ガンバレとか励ましを強要するな。行かなければ行かないでいいのだと言われるのですが、私の娘である中学生の母親にはとても認めることができないのです。それにはそれなりの 理由があります。それは、この地域ではかなり学力を要する私学に昨年4月に合格できたその後半年も経たない内に不登校になってしまったからです。その子の父は外国に単身赴任で現在、 新型コロナで簡単に帰国できません。仕事の上の事情もあるのです。母親は必至で子供に学校に行くように毎朝のように強要します。しかし、行けないのです。この状態はまさに愛流そのものです。煩悩です。大げさに言えば地獄です。まだまだ記載 すべきことは山ほどありますがスペースの関係もあり、この位で止めることとして、結局、ここに絡んでいるのは親や、身内の者は、自らの欲望が抹殺されることに対して何とかならないかと あがいていることの具体像だと思います。結局不登校の孫がなんとか社会に適応していけるように、そのほかのあらゆることを断念して、そのこと一筋に対処しなければ、中学生本人は救われません。愛流ということがらが 大きな煩悩、それも不登校生を取り巻く身内の者のエゴの騒乱であることが、傷みと共に現在味わわされているところです。 「(信は)愛流を出で、 以上のほかに、いま読んでいる『華厳経 賢首品』の数多くの信心の功徳について、ここで、それら一つ一つについての感想や讃嘆は私の場合できません。 たゞ一つ、やはり、心の底まで信心の功徳を思わしめられるのは、『 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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【現代語訳】 <第三節 信楽> <第三項>『浄土論註』からの引文 【37】『浄土論註』にいわれている。「仏の願いを信じ名(みな)を称する」こと。これは本願の信が淳(あつ)く、純一であり、そのゆえに余念によって妨げられることなく永続することである故に、天親菩薩は 『浄土論』で「我一心」といわれたのである。 【38】所依の経である『三部経』(すなわち、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)などでも、経の初めに<如是>ということばで始まっている。これは、私(阿難)は信を以て是(こ)のように聞いたということを表している。 すなわち仏教の真髄に入ることが出来るのは唯々「信」によるからである。 <第四節 欲生> <第一項 欲生の特質について親鸞聖人の私譯>
<第二項 経文からの引文>【39】次に欲生というのは、すなわち、如来がこの世に群生する衆生を私のところへ還って来いよと命じる呼声である。すなわち、他力の信の顕れが欲生であるということである(つまり、欲生ということは直接には浄土に生まれたいという衆生の願いであるが、このこと自体が他力回向のはたらきであって、その他力回向の信の中に自ずと込められた如来の願いであり、その願いが衆生に顕れたのが欲生ということである。)。まことに、 これは <第一科 『大無量寿経』の文> 【40】 そこで、本願の欲生心成就の文は『大無量寿経下巻』において「如来が至心に(真実心を以って)回向されたので、彼の国(浄土)に生まれようと願えば、ただちに往生が定まり退くことがない。ただ五逆の罪を犯したり 正しい仏の教えを謗る者は除かれる」といわれている。 <第二科 『無量寿如来会』の文> 【41】 また『無量寿如来会下』に「如来が真実の修行によって成就されたあらゆる <語釈> [1]大乗:大きな乗り物の意。個人の救いだけでなく皆が救われるという利他行に力点をおいた仏教。一、二世紀頃に興起した。 [2]小乗:小さな乗物の意。大乗仏教の側からの言葉で個人のさとりに重点を置いた仏教の意味で「劣った乗物」を意味したことば。大乗仏教興起以前からある仏教で釈尊以後,その伝統を比較的そこなわずに継承し,複雑で形式的な「法の研究」を主体とした仏教の部派をいう。 [3]貪瞋痴 貪(とん):むさぼりの心 瞋(しん):怒り 痴(ち):普通愚かさ、無知など、ものの道理のわからぬことを指すが。 人間に備わる根本的な煩悩。無明と同じ。 |
| 【読下し古文】
<第三節 信楽> <第三項>『浄土論註』からの引文 【三七】 『 【三八】 またいはく「 <第四節 欲生> <第一項 欲生の本質について親鸞聖人の自証> 【三九】
<第二項 経文からの引文> |
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【HP作成者感想】
<第三節 信楽> <第三項>『浄土論註』からの引文 に関連して 今月は先ず、先月残ってしまった「信楽釈」の最後の部分、曇鸞大師の『浄土論註』からの引文の解釈です。いきなり何の前置きもなく、『 次に、同じく『論註』からの引文で「経の始めに<如是(このように私は聞いた)>と称することは、信を彰(あらわ)して能入とす」。これは親鸞浄土教の所依の経典である三部経(大経・観経・阿弥陀経)のいずれにも「如是我聞」あるいは「我聞如是」ということばで始まっています。すなわち「私はこのように聞いた」として、その教えによって皆が生きるとすれば、そこには何よりも「信」によって仏の教えの世界に入るということが基底になっているわけですから、やはり、論註も「信楽」の第一であることを強調していることを親鸞聖人は見のがさずにここに引文として引かれていると私は解釈しています。 <第四節 欲生> <第一項 欲生の本質について親鸞聖人の自証>に関連して 親鸞聖人は、まず劈頭に「 なんだか私(HP作成者)の上の作文では、欲生心はすべて如来のはたらきであって、衆生とは無関係の尊い心のように表してしまったかもしれませんが、それは、あくまでもそうではなくて、このように周到且つ真実に如来によって回施された欲生心の受け手は、やはりあくまでも我々衆生であるはずです。すなわち、浄土に生まれたいと思う心、これは最終的には衆生の心でなければなりません。たゞ、そこには如来の回向に対する「信」がなければなりません。「信」がなければ、浄土に生まれたいとは思えないでしょう。やはり、このような娑婆ではあるけれども、安養の浄土は恋しからずということになるのでしょう。しかし、親鸞聖人は、歎異抄第九条において、さらに突き詰めて「よくよく案じてみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」。すなわち、窮極において、やはり、親鸞聖人は不退の「信」の人であったということが分かります。 最後に、「浄土に生まれることを願う」といいますが、私たちは、どのようなところに生れることを願うのでしょうか。例えば、いのち終わって生れる浄土とはいかなるところでしょうか。それは、またもや同じ、この煩悩の世界ではないでしょう。これは、この煩悩にまみれたHP作成者のいえることではないかも知れません。金子大栄師はその著『教行信証講読』の欲生の項で、これを「無生の生」をいわれています。それを直説どんな生なのか私には言い表すことはできませんが、しましまた、そんなに深く複雑に考えることでもないのではないでしょうか。すなわち阿弥陀如来の中に生まれる。いいかえれば、私が今生きてここにこうして在ることの根源、すなわちやはり阿弥陀仏の中に、根源のいのちの中に生まれると考えていいのではないでしょうか。わたしはこの意味で、浄土に生まれたいと欲生致します。 <第二項 経文からの引文> <第一科 『大無量寿経』の文> 次に、親鸞聖人は「欲生」すなわち「浄土に生まれたい」と願うこころまでもが如来の回向によるもので、これは如来が「私の国、すなわち浄土に生れよ」という勅命を発せられたのだと受取られたことを『大無量寿経』の本願成就文を引いて証されます。すなわち「ここをもって これを見ても親鸞聖人は、三心の内の『欲生』ということがらが、すべて如来の回向心によるものであることを強調されたかったかがわかります。 <第二科 『無量寿如来会』の文>について ここでも第一科と同じ趣旨で引文されています。すなわち「所有の善根回向したまへるを愛楽して無量寿国に生ぜんと願ずれば・・・」と、ここでも「所有の善根回向したまへるを」と、まず如来回向の文を述べたうえで、 「この回向を愛楽して・・・」として、衆生が「無量寿国に生ぜんと願ずれば願に随いてみな生ぜしめ・・・」となっています。ちなみに「愛楽」とは、この場合「信楽」と同じと私は考えますので、如来の回向による「欲生」であることを深く信ずることによって衆生の欲生の道が開けるものと考えます。 今月は以上のように学ばせていただきました
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今月は、曇鸞大師の『論註』と善導大師の『散善義』から同じく「欲生心」に関する引文から主として如来の回向を中心に書かれている文章として拝読させていただきたいと思います。 |
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【現代語訳】 <第四節 欲生> <第三項 釈文からの引文> <第一科 曇鸞大師の釈文> 【42】浄土論に「<(如来は)どのように回向されるのか。一切の苦悩の衆生を棄てることなく、心に常に衆生の救済を願って、回向を何よりも先にして(=首として)大悲心を成就されたからである。>といわれている。 回向に二種の姿(=相)がある。一つには往相、二つには還相である。 往相とは法蔵菩薩自らの功徳をもって一切衆生に施し与えられる(=回施)、衆生救済の誓願(=作願)のもとに、共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめ給うことである。 還相とは彼の浄土に生れおわって仏となれば、平安で真理を観る力を成就する力を得て(方便力成就)、再び迷いの渦巻く娑婆世界に還って、一切の衆生を説き導いて共に仏道に向かわせ 給うことである。 往相にしても還相にしても、みな衆生を生死の海から救い出して、浄土へ渡らせるために回向されたものである。この故に天親菩薩は<回向を何よりも先にして(首として)大悲心を成就されたが故である>と浄土論で述べておられる。 【43】 また『論註下』でいわれている。「天親菩薩の『浄土論』に<浄入願心(すべて法蔵菩薩の清浄な願いにおさまる)というのは、先に浄土にそなわる功徳の成就と、阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と浄土の菩薩に そなわる功徳の成就とを説いたが、この三種の成就は法蔵菩薩の衆生救済の願いが顕れたものであると知るべし>とある。<知るべし>とは、この、そなわった三種の功徳の成就は、もともと如来が因位のとき菩薩として修行中 の清浄なる誓願から建立されたものである。随って因(願い心)が仏意にかなって浄(きよ)らかであるから、その果(結果)も浄らかなのである。この願い心である因なくして弥陀の浄土建立はありえず、また他の因によって弥陀の浄土の建立も金輪際ないのだということを <知るべし>というのである。 【44】また『論註』に次のようにいわれている。『浄土論』で< <第二科 善導大師の釈文> 【45】善導大師が『観経疏 散善義』にいわれている。「また浄土往生を願う者は、必ず如来がゆるぎなき真実心の中で私ども衆生に回向し給うた本願を須(もち)いて間違いなく往生できると 思うがよい。この思いは金剛のように硬い信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても乱されたり壊されたりすることがない。ただ心に決めて一心に真直ぐに進んで、異をとなえる人の言葉などに耳を 傾けることはない。つまり動揺したこゝろで恐れをいだいて躊躇するようなことがあっては元のもくあみになって(道に落ちて)、すなわち往生という大いなる功徳を失うことになる」と。 <語注> [1]出第五門:出は利他教化のはたらきに出ること。浄土に往生して後に得る五つの功徳すなわち五功徳門の内の五番目の園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)のことで、浄土のさとりの世界に到った後に、衆生済度の心をもって迷いの世界に立ち還って自由自在に衆生が浄土に往生することをたすけること。 |
| 【読下し古文】
<第四節 欲生> <第三項 釈文からの引文> <第一科 曇鸞大師の釈文> 【42】 『 【43】 またいはく( 【44】 また『 <第二科 善導大師の釈文> 【45】 <語釈> [2]いかんが:どのように [3]作願:願うこと。 [4]首(しゅ):第一として。 [5]奢摩他:平安な心の状態。 [6]毘婆舎那:真実の智慧の眼をもって観る。 [7]方便力:奢摩他、毘婆舎那によって生ずる利他教化のはたらき。 [8]生死の稠林:生死の迷いの世界を密生した林にたとえた。 [9]抜いて:教化して。 [10]度せん:生死の海から光明の浄土に渡す。 [11]回向為首得成就大悲心故:回向を首(しゅ)として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに。 [12]観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就:浄土にそなわる功徳の成就と、阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と浄土の菩薩に そなわる功徳の成就を観察する。 [13]願心:法蔵菩薩の衆生救済の願い。 [14]因なくして他の因のあるにはあらざるなりと知るべしとなり:この部分は「衆生の往生浄土の因は全て法蔵菩薩の願心から生じた功徳によるものであって決して因が無いのでもなく、この願心の成就以外の他の因があるのでもないことを強調している。 [15]応化の身:釈尊のように如来がこの世に姿を現すこと。 [16]教化地:自ら成仏し終わって他を教化すべき利他行の地位。 [17]回向発願(えこうほつがん):「浄土のさとりに至りたいと願う」=「欲生」 [18]得生(とくしょう):浄土に生れる。 [19]かの人:異見、異学、別解、別行の人。 [20]進退の心:信の道に進むのか、疑いの想いに退くのか。 [21]怯弱(こうにゃく):他を怯(おそ)れて弱気になる。 [22]回顧:信をひるがえす。 [23]道(どう)に落ちて:(仏)道にはずれて。 |
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【HP作成者感想】
今月は個々の文章の解釈には現代語訳を御覧いただくことにして、曇鸞大師の『浄土論註』および善導大師の『観経疏 散善義』からの引文全体にわたって親鸞聖人のお考えをうかがってみたいと思います。 まず『浄土論註(以後 「論註」と略称)』からの引文です。引文の最初は 『浄土論』にいわくとして、〈いかんが 次に引文は回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相と続きます。そうして、往相と還相の詳細な相が語られるわけですが、いずれの場合も親鸞聖人は回向は如来のはたらきとして受取られているということがはっきり 読み取れます。そして、【43】このような如来の回向の根源は法蔵菩薩の清浄願心に基づくものであることを強調し、【44】大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観(み)そなわして応化身を示して(この世に顕れて)生死の園、 煩悩の林のなかに回入して思いの如く衆生を仏道に導くという出第五門のはたらきも全て如来の本願力の回向によるのであるとの『論註』における『浄土論』の解釈を親鸞聖人は引文されます。このことは浄土往生を願う心すなわち 「欲生心」といえども、すべて如来の回向によって与えられるものであると親鸞聖人は、この曇鸞の『論註』の引文をとおして、私どもに説いておられるということになります。 【45】次に光明寺の和尚(かしょう)善導大師の『散善義』からの引文です。 散善義のこの部分の通常の読み方は「また回向発願(えこうほつがん)して生(しょう)ぜんと願ずるものは、 かならず須(す)べからく決定(けつじょう)真実心 のうちに回向し願じて、 得生(とくしょう)の想(おもい)をなすべし。 」であるところを、ここでも親鸞聖人は「また回向発願(えこうほつがん)して生るるものは、かならず決定(けつじょう)真実心のなかに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生(とくしょう)の 想(おもい)をなせ。」 と読まれています。「回向発願」とは「欲生」のことでありますから、親鸞聖人は善導の『散善義』の「回向発願」すなわち「欲生」ということも、如来の回向を須(もち)いて得生の想いをなせと、 如来の回向によるものであることを何のためらいもなく読まれ、むしろ善導の『散善義』のこの部分は、このように読むのだと私たちに示しておられるようです。 次の、「この心深く信ぜること金剛のごとくなるによりて」も、その前にある 善導の文章を読んでも「この深く信ぜること」というのは、衆生自らが積み上げた真実心に基づく修行によって浄土往生できると信じることを指しているものと考えられますが、 親鸞聖人は、この場合も如来の回向を須(もち)いるが故に、その成就を信じることが出来、それによって得生の想いをなすことができると受取っておられるものと考えます。 いずれにしても「欲生心」も如来の回向に基づくものであり、更にそれを信ずる「信心」も如来の回向に基づくものであるということが親鸞聖人のゆるぎない受取り方でありますから、 この如来の回向を信じるか信じないかが問題の核心になるのであって、現代人にとって、十劫の昔、法蔵菩薩が真実心(これは、我々衆生には根本から持ち得ない真実心)にもとづいて修行され、 正覚の阿弥陀如来となられ、その功徳を現代の我々衆生に間違いなく回向されるということを信じるということが根本になります。「欲生心」も「信心」も全て如来の回向すなわち他力によるものであることを我々現代人は どう受取るかが根本問題となります。この大きな問題は、今後、読み進めていく中で、考え、味あわせていただく他はないものと思います。 今月は以上のように学ばせていただきました。
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今月の画面から、はじめに【読下し古文】を掲載させていただき、その次に【現代語訳】を掲載させていただくことにいたしました。 |
| 【読下し古文】
<第四節 欲生> <第四項 助釈> <第一科 親鸞聖人の私釈> 【46】 まことに
<語釈> |
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【現代語訳】 【46】まことに知った。二河の譬えのなかで「白道四五寸」ということについて「白道」の「白(びゃく)」という言葉は「黒(こく)」に対する言葉である。すなわち「白(びゃく)」はいうならば
<語釈> |
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【HP作成者感想】<
ここで二河白道の譬えについて、あらためて知ることになったと私釈されますが、何故ここで「二河白道の譬え」なのだろうと私(HP作成者)には、 その理由が分かりませんでした。そこで、ある師のこのことについての解釈をうががいますと、これは、その前(先月5月)に善導の散善義の欲生を意味する 「回向発願心」についての文章があり、そこで「この心深く信ぜること金剛のごとくなるによって、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せらず。ただこれ決定して一心に捉(と)って正直に進んで、 かの人の語を聞くことを得ざれ」という文章を引用されている。そして、このことを詳しく説いたのが、同じく善導の「二河白道の譬え」だからであるというご意見を述べておられ、私(HP作成者)も納得できました。 そして、その譬喩の中で、「白道四五寸」ということについて、まず「白(びゃく)というのは如来の選択摂取の白業、往相回向の浄業(この部分の現代的受け取りは上記現代語訳をご参照下さい。)であるのに対して、「黒(こく)」というのは、それとは逆の無明、煩悩が充満した雑業を意味すること。また「道」についても「本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道であるのに対して、「路」という語は同じように通路を表す言葉だけれども、これは「二乗・三乗・万善諸行を表す小路である(この項の現代的受け取りも上記現代語訳をご参照下さい。)とされ、白道が無上の往生浄土への大道であることを示されます。次に「白道四五寸」の「四五寸」というのは「衆生の四大・五陰」に喩えるなり、といわれます。これはなぜその様に喩えられるのか、ちょっとわかりにくいですが、これも上記現代語訳に記しましたように「四大(地・水・火・風)五陰(感覚・想い・行ない・精神)など、要するに煩悩そのものである衆生の構成要素ですから、そのままで衆生の浄土往生成就には幅が四五寸という大変狭い路でしかあり得ないことに喩えられる。」ということでしょう。そして次に親鸞聖人は「能生清浄願心」に言及され、衆生の浄土往生の成就、すなわち欲生心の成就は如来の金剛の真実心で裏打ちされた結果生ずる心であって、これこそまさに本願力のはたらきによる大信心の世界そのものであるがゆえに、決してこわれないものである。これを、壊れないこと金剛の如しと喩えるのである結論されます。 すなわち欲生心も如来の真実心によって成就されたものであるから、如来の回向によるほかなく、衆生は何を置いてもこの如来の回向を信じるという大信心の世界に、これも如来によって導かれねばならないということをここで述べておられます。 ちなみに親鸞仏教センターの師は「能生清浄願心」について、『善導の「能生清浄願往生心(のうしょうしょうじょうがんおうじょうしん)」という二河譬(にがひ)の喩(たと)えの表現を、親鸞は「衆生貪瞋(とんじん)煩悩中」に「能生清浄」の「願心」が生ずると言う。この「願心」は法蔵願心であろうが、発起する場は「衆生貪瞋煩悩中」である。衆生の煩悩の心を竪(しゅ=縦)に超えるのでなく、むしろ衆生の心の根源に掘削(くっさく)的に超発すると言うのではないか。それを「横」に発起(ほっき)すると表現する。私たちが自分で煩悩生活を超えようとするのでもなく、また貪瞋煩悩の圧力に負けるのでもない。碍(さわ)りだらけの濁世の有情が、無碍の願心に帰依することによって、自分の力で碍りを超えるのではないが、本願力によって一切の有碍を超えることが成り立つのだと言うのである。無量光が「一切の有碍にさわりなし」と光明摂取のはたらきを届けてくるからである。』と述べておられます。 今月は以上のように学ばせていただきました。
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| 【読下し古文】
<第四節 欲生> <第四項 助釈> <第二科 善導『玄義分』などからの引文> 【47】 『 【48】 またいはく( 【49】 またいはく( <語釈> [4]道俗時衆:今の世の僧や俗人。 [5]無上の心:浄土のさとりを得ようとする心=無上菩提心。 [6]生死:生き、死にする輪廻の世界。迷いの世界。 [7]横(おう)に:横とは順を踏んだ道理にのっとらないことをさし、あまり良い方に使われていない場合があります。たとえば「横着」とか「横紙破り」とか、横さまから転語したとみられる「よこしま(邪)」など、どれも道理を踏まない、それに反した行動の表現に使われる場合があります。 仏教ではさとりへの修行は順を追って積み上げていく、いわば縦に上へ上へと修行を積み上げてさとりに到達するというのが通常の修行方法です。それに対して縦に修行を積み上げるのではなく、弥陀の回向によって、縦の道理を超えて、横に、一瞬にしてさとりにいたるというのが「横(おう)に超断」ということであり、「横超(おうちょう)」ということでありましょう。 [8]四流(しる):四暴流(しぼる)のこと。暴流とは煩悩のことで、煩悩が内心の善を消し流すこと暴流のごとくであるがゆえに煩悩の異名としてこれを使う。これには四種があり、欲暴流、有暴流(うぼる)、見暴流(けんぼる)、無明暴流(むみょうぼる)のことをいう。 [9]一念に相応して:本願成就文にある一念の信を得るという意味。 [10]果:その結果。 修行の到達点。 さとり。 仏果。 仏に至った境地。 [11]涅槃:迷いの火を吹き消した状態。煩悩の滅尽した状態。 [12]無為:因と縁によって生成されたものではない存在。 生滅変化を超えた常住絶対の真実。 [13]軽爾(きょうに):軽々しい。 [14]輒然(ちょうねん):たやすく。 [15]親(まのあた)り:間近に。間近に見て親しい人。特にもっとも情けの深いものが親である(小学館、新選漢和辞典) [16]無漏の体:下の現代語訳の語釈[3]を参照してください。 |
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【現代語訳】 |
| 【HP作成者感想】 先月の「こころの言葉」において親鸞聖人は御私釈で善導大師の「二河白道の譬え」が行者の「欲生」という事柄について持つ意味を思索しておられます。すなわち激しい煩悩の水火二河の間を貫く、幅四五寸の狭い白道を通って、こちらの岸から行けよと勧められる釈尊の声(発遣)と水・火二河の向こう岸の浄土から「来いよ」と招喚したまう弥陀の声を信じて身を賭して西へ向かう行者の姿が表す意味を深く思索しておられます。すなわち善導は強烈な行者の真実心が釈迦・弥陀の発遣と招喚の声を信じる金剛の欲生心となって、はじめて行者は西の岸(浄土)へたどり着くことができたわけですが、親鸞聖人は行者が西の岸へたどり着くことができたのは、決して行者自身の真実心ではありえず、ひとえに法蔵菩薩が真実心によって修行され正覚の如来となられ浄土を建立された欲生の真実、その欲生の真実を如来の回向として信じる真実信心のたまものであり、如来回向であるが故に、決して壊れることのない信心であり、その金剛心が根底であると領解され、いわば如来の勅命としての他力の欲生心によって浄土往生が叶うのであるというのが親鸞聖人が到達された結論です。今月はこの金剛心が浄土往生の真実を可能にする基(もとい)であることを、善導大師の観経疏の玄義分をはじめとする三文によって証されています。 まず初めに『玄義分』では「今どきの僧も俗人も、各々が浄土に生まれたいという心を起こしても生死を超えて、仏法を求める心は起り難く、「浄土に生まれて欲生心を完遂するためには、金剛心を発(おこ)して激しい煩悩を如来の力によって超克しなさい。そうすれば、結果として浄土往生が可能となる。」と善導は書いています。親鸞聖人は、この『玄義分』にある善導のことばの「横(おう)に四流(しる=激しい煩悩)を超断せよ。」という言葉の「横(おう)に」という部分をはっきりと他力のはたらきとしてとらえて「願わくば、共に金剛の信心をおこして如来回向により迷いの世界を超えなさい。速やかに、この金剛の信心に浴して(一念に相応して)、如来の願いにかなう人は、遂には仏のさとりを得る人である。」と、このように『玄義分』のこの部分の善導のこころを受けて引文されています。 また、『序文義』では「無為の境すなわち浄土往生の成就は軽々しく(軽爾として)成就されるものではない。苦悩の娑婆であるが、そんなにたやすく見かぎれるものではない。まさに他力による金剛の信心をおこすことがなかったら、いかにしてもこの根深い迷いの元を絶つことができようか。もしこの親ともいえる近しく慈悲深い如来に従い奉る( そして、最後に『定善義』からは「金剛というは、すなはちこれ無漏の体なり」と、金剛心というものは如来の所作(無漏の体)であって、他力の信あって、はじめて衆生の上に顕れるものであることの証として引文されています。このように、至心・信楽・欲生の三心はすべて如来の所作であって、衆生においてはこの如来の回向への真実の信心があって、はじめて顕れ得るものであることを、善導の『玄義分』『序文義』『定善義』の文章から引文され、これを証されています。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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| 【読下し古文】
<三心・一心についての親鸞聖人の結釈( 【50】 まことに
【51】 おほよそ [5]疑蓋:疑い。 [6]一心:一つに統一された心。 [7]真心:真実心。浄土真宗では信心のことをいう(仏教語大辞典)。 [8]名号:ここでは称名の意味。 [9]願力:本願力。本願のはたらき。 [10]「如彼名義欲如実修行相応故」:「かの名義の如く、実の如く修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑに」。 [11]大心海:大いなる信心の世界。如来回向(如来に与えられる)の大いなる信心の世界 [12]緇素:緇は僧、素は俗人。 [13]頓:一定の段階をふまず直接的、飛躍的に高い宗教的境地に至ること。 [14]漸:段階的に順序をかけ、時間をかけて、高次の宗教的境地に導かれること。 [15]定(じょう):定善のこと。観無量寿経の説く十三種の方法で阿弥陀仏とその浄土の有様を心に描いて想いを凝らす修行法。 [16]散(さん):散善のこと。観無量寿経が人間を九品に分け、それぞれが定善のように心を集中し凝らす修行ではなく、外界の事象にとらわれて散乱しながらも悪をおさえ善を実践する修行法。 [17]正観、邪観:正観は仏の教えに合致する [18]観法:心に仏法の真理を観察し熟考する実践修行法。 [19]有念:具体的な姿・形のあるものを、心にイメージして修行すること。 [20]無念:仏の姿・形をも念ぜず真理を念ずること。 [21]尋常:平生での仏行。 [22]臨終:臨終での仏行。 [23]多念:浄土往生のため称名念仏の回数を多く称える。 [24]一念:他力迴向による一回の念仏で浄土往生は可能とする。 [25]不可思議、不可称、不可説:順に、考えることも、称(たゝ)えることも、説くこともできない。 |
| 【現代語訳】 <三心・一心についての親鸞聖人の結釈( 【50】まことに知ることができた。 <三心は信心の一心に収まるとして、大信心を讃嘆する親鸞聖人> 【51】おおよそ他力の信心の世界を考えると、貴族であるか下々(しもじも)の民であるか(貴賤)、僧であるか俗人であるか(緇素)を簡(えら)ばず、男女老少をいわず、犯した罪(造罪)の多少を問わず、修行の長短(久近)を論じない。また、衆生のはからいによる行でもなく、同じく衆生の計らいによる善でもなく、速やかに悟ろうとするのでもな、時間をかけて悟ろうとするのでもない(頓・漸)。心を凝らし瞑想し往生を願う(定)のでもなく、娑婆世界で種々善行努力して往生を願う(散)のでもない、正しく経に法(のっと)った瞑想法(正観)であるか、そうでない(邪観)かでもなく、仏や浄土の相をイメージ(有念)して往生への想を練るか、相を否定して理のみ(無念)で往生への想を練るかでもなく、平生に限るのでもなく、臨終に限るのでもなく、多念でもなく一念でもない。すべて只これ、思いはかることも、称え尽くすことも、説き尽くすこともできない(不可思議、不可称、不可説)の大信心である。これは、たとえば不死の薬(阿伽陀薬)が一切の毒の効力を失わしめるようなものである。如来が誓願された薬は、自分とは何者かをよく分かっているようなつもりで何もわかっていない(無明)という私たち衆生の [1]至心:真心(しんしん、まごころ)、至誠心も同じ。親鸞浄土教では仏のまごころ、阿弥陀仏より回向されるもの。三心の最初の一つ。 [2]信楽(しんぎょう):阿弥陀仏を信じて疑わぬこと。本願を信じて疑いなき心。三心の二つ目。 [3]欲生:浄土に生まれたいと願う心、親鸞浄土教では衆生に浄土に帰せよとの勅命。三心の三つ目。 [4]智愚の毒:この世の自力の知恵の毒や貪欲・瞋恚(怒り)・愚痴(無明)の毒。いずれも煩悩の毒。 |
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【HP作成者感想】
【50】 昨年11月の「仏教 こころの言葉」において以来、親鸞聖人は、浄土教において古来から往生の必須条件とされてきた、『大無量寿経 第十八願』の至心、信楽、欲生の三心について、またこの三心と浄土論における天親菩薩の一心との関係を説いてこられましたが、ここにきて親鸞聖人は三心について「まことに 次に、注目すべきことばを親鸞聖人は述べておられます。すなわち「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」です。 私見ですが、名号とは「南無阿弥陀仏」、或いは「帰命盡十方無碍光如来」、正信偈に「帰命無量壽如来 南無不可思議光」とありますように、「南無」は「帰命」すなわち弥陀に摂取された衆生の在りようを示し、「阿弥陀仏」や「盡十方無碍光如来」は今在る私たち衆生の根源となる大いなるいのちをあらわすとすれば、「南無阿弥陀仏」や「帰命盡十方無碍光如来」は、その「大いなる根源的いのち」に「衆生」が摂取され一体となっていることを表すのではないでしょうか。真宗の本尊たる名号をいろいろ詮索するものではないという意見もどこからか聞こえてきそうですが、名号は呪文ではないのですから私は如来によって衆生に与えられたる性根(しょうね)によって思索するのは間違っていないと考えます。そして、その摂取の根源たる名号によって回向されたる三心(至心、信楽、欲生)を一つのものとした真実信心の一心の世界は、根源たる名号を具している、すなわち信心は名号の中にあるわけですから、信心をよろこぶ衆生の口からは自(おの)ずと名号があふれ出てくるということでしょう。この場合の「名号」というのは「称名念仏」を指すことになります。名号が称えられることによって、名号がこの世に顕れ出でるということになる。このように信心をまことによろこび称名念仏して、この世に現に在らしめられる人を現生正定聚の人ということになるものと考えます。 それでは、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」とはどのように受取るかです。名号とは宇宙の根源的大いなるいのちと、それに摂取されている衆生とが一体となった状態をいうわけでしょう。しかし衆生の側に大いなるいのちに摂取されているという一体感(信心)が与えられておらず、その思いが娑婆のことのみで終始している場合においては、名号そのものが機能しておらず、したがって三心そのものも与えられず、いくら、その衆生が幸せいっぱいの浄土往生を願って念仏を称えても、そこに三心を一心とする信心が伴なわない。「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」ということです。すなわち先ず名号への信心が大切であるということでしょう。すなわち「このゆゑに 【51】以上のように、親鸞聖人は三心は、そのいずれもが、疑いの雑(まじ)ることがない(疑蓋雑はることなき)真実の一心であり、これを金剛の真心と名付け、更に金剛の真心は、これを真実の信心と名付け、大信心として無上の讃嘆を捧げられます。そうして、この大信心の世界を海に例えて、上の現代語訳にもありますように、大信海は貴賤・僧俗、男女・老少、造罪の多・少、修行の長・短などを一切問わず平等に開かれ、また、それは行でもなく、善でもなく、速やかにさとりに至ろうとする教え(頓)でもなく、修行を順に積み重ねて段々とさとりにいたる教え( このように、多くのことばを費やして大信心の情景を、衆生がどのような状態にあっても、またこの世で行なわれるどのような修行法でも顕すことができない。たゞ不可思議、不可称、不可説の世界であると表現し讃嘆されます。実は、ここにも親鸞浄土教の根幹を見ることができる、聖人の思いがこめられているように思います。 まず、大信海というのは、本願を信じる世界ということでしょう。親鸞聖人が語られている大信海を案ずる初めの四項目、「① したがって親鸞聖人は、まさにいま如来大悲からいただいてい る大信心こそ、只々考えることも、称えることも、説くこともできない(不可思議、不可称、不可説)の一心であることを自ずと示されたのではないでしょうか。 ところで、よくよく考えてみれば、大信心が不可思議、不可称、不可説ということと、いま、衆生の私が、ここに、こうして在るといこと、世界、宇宙が今、ここにこうして在るということ、何故在るのか、何故在らねばならないのか、これこそ不可思議、不可称、不可説であり、奇しくも、大信心が親鸞聖人の中に芽生えたということが不可思議、不可称、不可説であることと同じことであるということではないでしょうか。 そして最後の「たとへば、阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。」、すなわち、如来誓願の薬は、あたかも阿伽陀薬が全ての毒を滅するように、私たち衆生の無明の毒を滅してくれるということを親鸞聖人は実際のご自身の体験から吐露されたのがこの【51】の大心海讃嘆の文ではないでしょうか。 今月は以上のように学ばせていただきました |
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(注)今月から【HP作成者感想】を【HP作成者私考】とさせていただきました。 また、いつものように親鸞聖人ご自身の私釈の場合は古文・現代文ともに行頭を若干空けています。 |
| 【読下し古文】
<大信海こそ大菩提心であるとする親鸞聖人の明恵『摧邪輪』にたいする反論> 【52】 しかるに [1]菩提心:さとりを求める心。さとりを求めて衆生を救おうとする心。自分が救われるよりも前に、まず他の衆生を救おうと願う心。 [2]竪(しゅ): 縦の意。修行を積んでさとりをひらく道。 [3]横(おう):よこの意。修行を積んで迷いを断ち、さとりを開くという順を踏む修行の道理を、本願力によって横ざまに飛び越えて往生浄土を成就する道。 [4]竪超(しゅちょう):自力聖道門の内で修行の中で一足飛びに悟りにいたる教え(頓教)をさす(例として華厳宗、天台宗、密教、禅宗)。 [5]竪出(しゅしゅつ):自力聖道門の内で、長い間の自力の段階的修行を経てさとりに至る教え(例として法相宗) [6]権・実:権教・実教のこと 権教:真実の大乗の教えに導くための方便の教え。例として天台では法華経以外は権教とする。 実教:大乗の教えに導くための真実の教え。 [7]顕・密:顕教と密教 顕教:言語、文字の上に顕(あきら)かに説き示された教え。密教の対。密教以外の一般仏教を指す(以上仏教語大辞典)。 密教:秘密教の略称。仏教の教説のうち、最高深遠で、その境地に到達した者以外はうががい知ることができないものの意。普通に密教といえば一はこれに類似の教説を含めて言う(以上仏教語大辞典)。 [8]大・小:大乗と小乗。 [9]歴劫迂回の菩提心:長い時間順序を踏んだ自力の修行を経てさとりに至る仏道。 [10]大心:精魂込めた菩提心。 [11]正雑(しょうぞう):正行と雑行。 正行:雑に対する正。すなわち目的も意思も行ないもすべてが阿弥陀仏へ限定され純である行。この正行に浄土三部経を読誦し、阿弥陀仏やその浄土を観察、礼拝、称名、讃歎供養の五種がある(仏教語大辞典)。 雑行:上記正行以外の全ての行をいう(例:定散自力の行など) [12]定散:定善と散善。いずれも観無量寿経の記述によれば 定善とは:定善は13種の観法によって阿弥陀仏 (無量寿)とその浄土を観想すること。 ・散善とは:浄土に往生する九種の方法で、仏教的習熟度によって人々を九種の分け、それぞれの修行方法を説いたもの。 [13]願力迴向の信楽:法蔵菩薩が生死する衆生の根源的救済の誓願をたて、十劫の昔にその誓願を成就し浄土を建立し、正覚の如来となった。 その功徳を本願力というが、これを生死する衆生に振り向け(回向)ることを願力迴向というが、このことを我々衆生の真実の親たる如来の回向として 信じることを信楽といい、全体として「願力迴向の信楽」とする。 [14]願作仏心:衆生を仏にしようとする願いを建て修行し、その願いが成就して自らも仏となった法蔵菩薩のこころを願作仏心という。 「この願作仏心はすなわち度衆生心(衆生を生死の世界から救済しようとする心)なり。すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。<親鸞、『唯信鈔文意』) [15]横(おう)の:他力浄土教の。 [16]横超:如来回向の他力により横ざま一足飛びに迷いの世界を超える。 [17]入真(にゅうしん):仏の真実。信心。 [18]真心(しんしん):如来の真実心。 [19]邪雑: 他力念仏の浄土教と見解を異にし、それ以外の自力の雑なる修行によってさとりを成就しようとすること。 [20]錯(しゃく):誤り。 [21]欣求:願い求める。 [22] [23]信不具足:信を完全に具(そな)えていないこと(仏教語大辞典)。 これにまた二種がある。 ①聞(もん)より生じて、思(し)より生じない信。すなわち経典の言葉だけを聞いてわかっているにしても、その言葉の真実の深い意味を受取ろうとする思(し)が欠けている。いわばただ聞いて理解できても、自分の身の中で、その言葉の真実性を体験できていないもの。 ②また、さとりへの道があるということはわかっていても、実際にさとりへの道を成就できた人(得道の人)がいるということを信じないこと。 [24]聞不具足: ①如来の説かれた十二部経のうち、半分の六部だけを信じて残り半分の六部を信じない場合。 ②また、残りの六部をも聞き受けても真に自らの身に体験することができずに衆生にそれを説いても衆生を利益するところはない。また、このような聞不具足の状態で、他論に勝つために論争を挑んだり、衆生の爲だと思って、実際は自らの利益のために引き続いて、これを説き続けるのも聞不具足である。 以上[23]、[24]が親鸞聖人が涅槃経より引文された部分です。 ◎十二部経:仏典を、その叙述の形式または内容から「修多羅」以下十二に分類したもの。この十二部で仏の教えを全部まとめたとされるもの。 |
| 【現代語訳】 ところで菩提心について二種がある。一つは竪、二つには横である。また竪についてまた二種がある。一つは竪超、二つには竪出である。竪超、竪出は自力聖道門の権
また横(おう)について二種がある。一つは横超(おうちょう)、二つには横出(おうしゅつ)である。 横出とは正 最後の横超とは、これこそ如来の本願他力信楽(願力迴向の信楽)の心で、これを 浄土往生を願い求める僧も俗も、 |
| 【HP作成者私考】 先月は至心、信楽、欲生から成り立つ「大信海」について親鸞聖人は究極的に不可思議、不可称、不可説の信楽である。例えば、この薬を飲めばあらゆる病がなくなる不死の薬ともいえると、大信心の中に身を置かせていただくという自らの体験の不思議に心を打たれました。そして次に、いきなり唐突ともいえることばが出ます。「しかるに菩提心について二種あり。一つには竪(しゅ)、二つには横(おう)なり。・・・」。すなわち、竪(しゅ)と横(おう)について先ず徹底して分析的に説かれます。菩提心を先ず竪と横に分け、更に竪を竪超と竪出に、横を横超と横出に分けられ、そこからこれらにおける菩提心のありかたを冷静に説いていかれます。 先ず竪の菩提心。これには竪出というまことに永い時間をかけて厳しい修行をともなった結果得られるといわれる菩提心、竪超といっても、これまた果てしない歴劫迂回の修行の中で、なぜか分からぬが突如として開かれるという菩提心、しかも、いずれも生涯かけても成就定かならぬ菩提心である。 次に横(おう)の菩提心、これを横超と横出に分けた上の横出とは、まだ聖道門の自力の心が抜けきれない、いわば仏の無限の力を信じきれない他力の中の自力の菩提心であるとされます。 最後に横超とは、これこそ如来の無限の本願力回向を信楽する心であり、如来の無限の力によって与えられたる信心である。そしてこれを「願作仏心」であると示され、これこそ横超の大菩提心、すなわち本願力によって回向された他力の大菩提心であるとされ、これこそ横超の金剛心であると究められます。そして、横と竪の菩提心、菩提心として一つの言葉でありながら、その心は異なっているといえども、いずれも真実の仏の心であることが欠くことができない要であって、仏の真実心が根本であり、邪(よこしま)な雑行は誤りである。聖道の自力は仏の無限の能力に及ぶべくもなく無力であって、すべて仏の無限の本願力に依る以外、衆生にはなすすべがないのだ。ましてや仏力の無限を疑って仏の能力を補完しようするような雑行自力は根本的あやまちである。どうか浄らかなさとりの世界を欣求する僧も俗も『涅槃経』にある信不具足の金言をしっかりと了知し、聞不具足の邪心に取りつかれないようにするべきである。 以上のように親鸞聖人は浄土真実の教えである横超の菩提心こそ大菩提心であることを、やや激しいともいえる文言によって結論付けておられます。 さて、ここで思われることは、理路整然と説く教行信証の執筆ではありますが、ここでいきなり、至心・信楽・欲生の三心の領解から離れて、「菩提心」という事柄を前面に出してこられたのでしょうか。これについて親鸞聖人は上記三心を論述する中で突如として、師の法然上人が念仏爲先を説いた『選択集』に対して『摧邪輪』を説いて、法然浄土教を激しく非難した明恵上人の菩提心論が頭に浮かんできたのではないでしょうか。 日本における華厳宗中興の祖といわれる明恵上人は親鸞聖人と同じ1173年の生まれ、華厳、倶舎、真言の教学に通じ、禅も栄西に学び、厳しい戒律を守る典型的な自力聖道門の道を歩んだ人です。 一方法然上人は一切経を五度まで読了し知恵第一の法然房と称されたが、それだけ研鑽を積んでもなお自己の確固とした仏道を見出だすことができずに悩み抜かれていたのですが、43歳のときに善導の『観経疏 散善義』の「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近(くごん)を問はず念々に捨ざるは、 これを正定の業(しょうじょうのごう)と名づく、 かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の『無量寿経』第十八願に基づく善導のことばに出遇って、これこそ、あらゆる衆生を生死海から救いあげる大乗の真実であることに心眼が開かれたのです。 この法然上人が著わされた『選択本願念仏集』において称名念仏こそ、どのような人間も救われる第一の要因であるということから、称名念仏こそが浄土往生のための正定の業とし、それまで仏教本来の根本原理とされていた菩提心等を余行として退けられたのは法然の上記それまでの経緯からして当然の流れであろう思われます。しかし聖道門の沙門(仏弟子)としての明恵上人からすれば、大乗仏教の根幹である菩提心を余行として廃した法然上人の『選択集』は到底認められるものではなく、結果として明恵上人は奇しくも法然上人還浄(逝去)の1212年に『摧邪輪』を著わして、聖道門の立場から激しく、しかも理路整然と法然の『選択集』を非難したのです。『摧邪輪』が『選択集』を非難する論拠はもちろん大乗仏教そのものの根幹である「共にさとりを開いて仏になろう。」とする「菩提心」を『選択集』が称名念仏以外の余行として不用のものとしているところです。 このような経緯をふりかえって親鸞聖人はどのように思索されたのでしょうか。常々この『摧邪輪』等を代表として法然の思想を非難する奈良、平安の聖道門側の批判に向き合われていた親鸞聖人が本願他力の大信海を論じておられたこの部分で理論のおもむくところ、突如として沸き起こってきた菩提心の問題です。 そこで親鸞聖人は「しかるに菩提心について二種あり。一つには・・・」と菩提心を先ず分析的に思索されます。すなわち菩提心を先ず竪(しゅ)と横(おう)の二種に、竪をさらに竪超(しゅちょう)と竪出(しゅしゅつ)に、横(おう)を横超(おうちょう)と横出(おうしゅつ)に分けられます。 そして竪超と竪出は権実・顕密・大小と、いずれも自力成仏の聖道門の菩提心であり、仏道を念じつつも自らの力で仏になろうとする法門です。(ここで、大小とは大乗と小乗のことです。親鸞聖人は法然の浄土教も勿論大乗仏教であることは心得ておられるわけですが、ここでは聖道門としての大乗を意味しておられます。) そして横の菩提心については横超と横出に分けられますが、横出は、まだ正行といっても正定の業たる専修称名念仏に至らず、定善・散善など自らの行の功徳を仏に捧げて(自力回向して)仏にしてもうらおうという、すなわち他力のなかの自力の菩提心であるとされます。 それらに対して、親鸞聖人は、わが法然上人の仏教は法蔵菩薩が一切の生死の衆生を救済しようと誓われ、永劫の間、真実心をもって仏道修行され、遂に正覚の仏となられた、その仏徳を仏の側から衆生に回向された成仏の道を信楽する菩提心であって、これこそ法蔵の衆生救済の四十八願に顕されている仏になろうとする心、すなわち願作仏心であり、これを横超の大菩提心、すなわち仏の菩提心そのものであって、これを必然的に信じ念仏する道が法然浄土教である。このように宣言されているわけです。 たしかに菩提心は「自未得度先度他」とあるように、自(みずか)らのさとりより先に他をさとりに導き、共に仏になろうとすることであります。法然上人はどのような愚者であっても、むしろ、愚者なればこそ先に生死の苦海から救われる道を万人に施された方(仏ではない人間は皆、愚者。)であって、『選択集』において、念仏爲先として、菩提心というまことに高度ではあるが、一部の高位高学の人間にしかその深い意味が通じない言葉は退けられました。この生涯こそ「自未得度先度他」の生涯であって、念仏爲先の中に溢れるほどの大菩提心をたたえて生涯を送られました。そして、法然教団のもとに集まるもろもろの凡夫・衆生も、集まって同じ宗教行動をとり、話し合ううちに自然な自信教人信の世界が実現しこれこそ「自未得道先度他」の菩提心の実現となりました。このような法然上人の生涯をまのあたりにしておられた親鸞聖人は、明恵上人の『摧邪輪』を念頭に痛烈で意味深厚な批判を教行信証の大信海を称える文章につづいて書き進められたのです。 まず「横竪の菩提心、その言葉は一つにして、その内容は異なっているというけれども、いずれも入真を正要とし、真心を根本とす。」、すなわち菩提心というものは仏の真実心を根本として、その仏の衆生救済の心を絶対的に信じることに尽きる。それには大いなるいのちに生かされている自分であること、そのこと自体である南無阿弥陀仏を信じざるを得ざる自らに気づくこと。 こうなると、聖道門仏教が自力成仏を願って自らの修行の功徳を捧げようなどということ自体が仏の絶対性を疑う雑行であり、疑情であるということになります。すなわち、「入真を正要とし、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。」とは、このことを言っているのではないでしょうか。 そして最後に「欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。」とはまことに意味深長は『摧邪輪』明恵に対する批判になっているのではないでしょうか。すなわち、ここで信不具足を『摧邪輪』を著わした明恵上人にあてはめると ①聞(もん)より生じて、思(し)より生じない信。すなわち『選択集』の言葉だけを聞いたにしても、その言葉の真実の深い意味を受取ろうとする思(し)が欠けている。いわばただ聞いただけで、自分の身の中で、その言葉の真実性を体験できていない。 ②また、さとりへの道があると聖道門の立場でわかっているようなつもりでも、実際にさとりへの道を成就できた人、いわば法然上人がおられることが分からない。 以上のように『摧邪輪』に対する信不具足の意味を観ることができますし、 また、聞不具足についても、 ①法然上人の説かれた『選択集』を読んでも、その真の大乗仏教の立場を半分ぐらいしか理解できず、ましてや自らの身に体験することができずに『摧邪輪』を世に問うても、衆生を利益するところはなく、また、このような聞不具足の状態で『選択集』に勝つために論争を挑んだり、衆生の爲だと思って、実際は自らの立場に固執して引き続いて、これを説き続けるのも聞不具足である。 以上、親鸞聖人が、ここで菩提心論にからめて信不具足と聞不具足のことばまで引用して明恵上人の『摧邪輪』が法然上人の『大菩提心』を見誤っていると反論しておられることを思うと、「HP作成者」の筆者もこのようにいささか過激な言葉で記述せざるをえませんでした。ちなみに『大菩提心』の大とは「如来回向の」ということを顕します。すなわち『大菩提心』=『如来の菩提心』ということです。 最後に親鸞聖人が願作仏心は浄土の菩提心であること、これこそ大菩提心というべきであると詠った『正像末和讃』からの一首を下に記述します。
今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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| 【読下し古文】
<大信心こそ大菩提心であることを証する曇鸞大師『論註』からの引文> 【53】 『 <語釈>
[1]『論の註』:『浄土論註』のこと。曇鸞が天親菩薩の『浄土論』を註釈した書物。上下二巻からなる。天親の『浄土論』を註釈しながら、独自の浄土思想の展開が行われた書物。 [2]王舎城所説の『無量寿経』:王舎城で釈尊が説かれた『無量寿経』。 [3]三輩生(さんぱいしょう):阿弥陀仏の浄土に往生する人を行ないの浅深によって上輩・中輩・下輩の三つに分けたものを三輩というが、三輩生とは この三輩がすべて往生すること。 [4]願作仏心:仏になろうと願う心。弥陀の本願なり、浄土の大菩提心也。 [5]度衆生心:衆生を有仏の国土(浄土)へ渡そうとする心。共に浄土に渡ろうとする心。 度衆生心はすなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生まるゝ心なり(『教行信証』信巻) 「度」の字は渡すの意。 [6]住持:保つ。取り込む。 [7]所集:集めたところの。積み重ねたところの。 |
| 【現代語訳】 【53】曇鸞の『浄土論註 下』に王舎城で釈尊が説かれた『無量寿経』を見ると往生する上輩・中輩・下輩の三輩の中に行に優劣があるといえども、みな「この上ないさとりを求める心」を起さない者はいない。この「無上のさとりを求める心」 こそ「願作仏心(仏になろうとする心)」であり、この「願作仏心」は、すなわちこれ「度衆生心」である。この「度衆生心」こそ衆生を摂取して仏の世界に生まれさせようとする心である。この故に「安楽浄土に生まれようと願う者は、かならず「無上菩提心」 を起こすのである。もし人あって上記のような「無上菩提心」を起こさないで、たゞ浄土が間断なき楽しみの世界であることを聞いて、この楽しみのためだけの故に浄土に生まれようと願っても、決して往生できないだろう。この故に『浄土論』では 「浄土に生まれることを願うのは一切衆生の苦を抜こうと欲する心から願うのであって、決しておのれ一人の幸せのために願うのではない。」と云われているとおりである。<住持楽>という意味は、かの安楽浄土はすべての衆生の苦を抜こうとする 阿弥陀如来の本当の願いが保たれているが故に「受楽間(ひま)なき」というのである。この観点から「回向」の意味を解釈すれば、自分が積み重ねた一切の功徳(すばらしい果報)を一切の衆生に与えて、共に仏への道に向かわせてくださるるのである。 |
| 【HP作成者私考】 前回 親鸞聖人は菩提心を竪(しゅ)と横(おう)、更に竪には竪出と竪超、横には横出と横超に分けられるとされた中で最後の横超こそ如来の本願力による信楽であり、これを「願作仏心」といゝ、これこそ横超の大菩提心というと、法然浄土教の念仏爲先の信心の中に如来の願力迴向の大菩提心は厳然と存在している。もっといえば法然上人の『選択集』が余行として廃したのは聖道門の菩提心であって、往生浄土のためには念仏こそ先とするものであって、念仏爲先の中にある如来回向の横超の大菩提心こそ、真の菩提心であることを直接のことばではないが、暗に示唆しています。 親鸞聖人はここで、そのことを証する曇鸞大師の『論註 下』の文章を引文されます。曇鸞はここで「 この 『論註』は天親菩薩の『浄土論』の注釈書ですから天親菩薩が「自身の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと思うが故に」と云っておられるわけで、そこでいっておられる「住持楽」というのは「安楽浄土とは阿弥陀仏がかって修行中に自らが救われる前に他を救おうと誓願され、それが成就された力、すなわち本願力によって保たれた結果を受楽間(ひま)なき」というのだと曇鸞大師が註釈しておられるのです。 そして最後に回向というのは自分が積み重ねた全ての功徳を一切の衆生に施し与えて共に仏の道に向かわせようという如来のおこゝろなのである。」と曇鸞大師は結ばれ、親鸞聖人はこれを引文されたのです。 最後に親鸞聖人が、曇鸞大師の『浄土論註』にある「願作仏心」と「度衆生心」を引文して、これこそ浄土の大菩提心であることを力強く詠われた、『正像末和讃』からの三首をあらためて下記に記します。
今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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8月以来、浄土往生に欠かせない至心、信楽、欲生の三心は結着として真実信心となるという親鸞聖人の御領解すなわち、三心一心問答の結釈について読み進めてきました。その中で如来回向の大信心を讃歎し、如来回向の大信心こそ大菩提心であり、これこそ「願作仏心」即「度衆生心」の成就としての大乗の仏になる道であることを親鸞聖人は曇鸞大師の『論註』を引文することによて証されます。 さて、今月は元照律師(がんじょうりっし)の『阿弥陀経義疏』、律宗の用欽(ようきん)、『聞持記』、『楽邦文類』からの引文が続きますが、それぞれの内容を読みますと、これ等は前回の大菩提心をも包み込む、如来回向の大信心の有様を親鸞聖人が引文によって証されていることがわかります。以下、それぞれの引文をお読みください。 |
| 【読下し古文】
<あらためて大信心が如何なるものかを証する先師の引文> 【54】 【57】 【58】 『 【59】 『 <語釈>
[1]元照:元照律師ともいう。中国 宋の人。(1048~1116年)。 若い頃には浄土教に否定的であったが、三〇代半ば、重病にかかり死後の不安を感じて浄土教に帰依した。以来、戒律と浄土教の研鑽と教化に励んだ。 元照の基本的な立場は、戒律と浄土教の双修・融合であり、常にそれを意識して教化していた。その浄土教の特色としては、天台智顗の作だといわれる『十疑論』の所説を重視するが、それと並行して善導の『観経疏』玄義分と『往生礼讃』の所説を受容して、阿弥陀仏の本願による易行の称名念仏を凡夫に勧めている。法然の門流の諸師に注目され、証空、聖光、良忠に引用があり、とくに長西、親鸞に影響が顕著である。(以上、『浄土宗大辞典』より抜粋) [2]豪賤:富める者と貧しい者。 [3]久近:時間の長短。 [4]善悪:この場合、久近と・で連結しているので、行いの善悪を指す。 [5] [6]臨終悪相なれども:地獄の衆火、一時に共に至る。すなわち、臨終の間際に死の恐怖が一時に襲うことをいう。 [7]屠沽:屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふる (切りさばく)ものなり。これはりょうし(猟 師)というものなり。沽は、よろずのものを、う りかうものなり。これは、あきびと(商人)な り(親鸞『唯信抄文意より) [8]律宗の用欽:律宗は戒律 の研究と実践を行う 仏教 の一宗派である。 中国で 東晋 代に戒律について翻訳され、 唐 代に 道宣 が成立させた。 日本には 鑑真 が伝来させ、 南都六宗 の 日本仏教 の一つとなった。(以上、Wikipediaより)。 用欽は中国(時代不明)。『阿弥陀経疏超玄記』の著者とのことですが同書は現存しません。 律宗の用欽:律宗という宗派は戒律の研究と実践を行なう宗派だが用欽という僧は律宗も学んだが、浄土教の信奉者でもあった(ネット辞WikiArcより)。 [9]なほし:漢字としては「猶し」、現代語訳としては「なおこれは」とか「丁度」とか「まったくもって」。 [10]易往而無人(いおうにむにん):往きやすくして人無し。 [11]聞持記:宋の戒度、法久撰。元照がんじょうの『阿弥陀経義疏』の注釈書(浄土宗辞典)。 [12]報:果報、むくい、運。 [13]功:修行の功。 [14]下品中生:仏教が定める物質や人の性質を3×3で分類したもの。 三三品(さんさんぼん)。 現在俗にいわれる上品・下品(じょうひん・げひん)の語源とされる。 またしばしば、九品浄土(9の等級に分けられた浄土)や九品蓮台(同様の蓮台)を単に九品と呼ぶ。浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの品について上生・中生・下生とがあり、 合計9ランクの往生があるという考え方。九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のこと。 九品の内、下品中生は最後の下品下生の一つ上の段階。 [15]二惑:見惑けんわくと思惑しわくのこと。煩悩による迷いを2種に分けたもの。真実の道理を誤認することによって生じる心の迷い(見惑)と、感覚的・肉体的迷い(思惑<修惑ともいう>)の二つをいう。(浄土真宗辞典) [16]醞売(うんばい):酒を醸造して売ること。 [17] 超往:迷いの世界を超えて浄土に往生すること。 [18]真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光:阿弥陀如来の八つの号(称賛した名前)。現代語訳のこの項を参照。 [19]楽邦文類:南宋・石芝宗暁(1151~1214年)編纂。慶元六年(1200年)成立。浄土教文献284文を蒐集、編纂したもの。浄土教の経典や論疏の他、東晋の廬山慧遠から南宋代にいたる学僧や文人の短篇などが数多く収録されている。 宋代天台浄土教を知る上で極めて重要な文献である。また、法然門下によって盛んに用いられており、日本鎌倉期浄土教に大きな影響を与えている。 [20]自障自蔽:みずから、さとりの道をさえぎり、みずから正しい道を覆い隠すこと。 [21]かっていまだ聞かず、自障自蔽をもって説をなすことあるもの:これはむしろ「自障自蔽をもって説をなすことあるもの、かっていまだ(ずっといままで)聞かず。」と日本語的に読んだ方が理解しやすかった。 [22]説をなすことあるもの:この文章のあたりは、少し意味が取りにくいが、これは「自障自蔽がさとりの道をさえぎるのだという説をなす者、」という意味に受け取りました。 [23]得るによってもってこれをいふ:これも、わかりにくい表現ですが、「[21]、[22]のように自障自蔽がさとりの道をさえぎる原因だということを指摘する者はいなかったが、そのことについてはっきり認識することができたのでこれを今から語ろう。」 ということだと考えます。 [24]自障は愛にしくなし:自ら往生の道をさえぎるのは貪愛にしくなし。 [25]間隔(けんきゃく)せず:わけへだてしない。 [26]いまだはじめて:「今までの仏教では、ずっと疑と愛の二心を完全に障礙なからしめられなかったが、浄土の一門は、はじめて間隔(わけへだて)せずに、弥陀の洪願(広く全てを救うという誓願)によって、おのずから摂取され救い上げられる」 という意味を含む表現 [27]洪願:分け隔てなく広く救い上げようとする誓願 |
| 【現代語訳】 <あらためて大信心が如何なるものかを証する先師の引文> 【54】中国宋代の律宗の僧 元照律師(1040~1116年)は、その著『阿弥陀経義疏』で次のように述べている。「『阿弥陀経』には釈尊がこの世において仏となられ、阿弥陀仏の教えを説かれたことが説かれている。これは他の仏にはできないことである故に甚難というのであり、このようなことは、それまでの世の全てにおいて誰も見たことがないので稀有というのである。」 【55】また同じく述べている。「念仏の法門は愚者と智者、富める者と貧しい者を区別せず、修行の長短やその善悪を論ぜず、たゞ信心が決定(けつじょう)すれば、たとえその人が臨終に悪相をあらわしても十声の念仏で浄土往生を遂げることができる。これこそ煩悩でがんじがらめになった凡夫、生き物を殺したり、酒を売ったりして生活している卑しい者も、世の全てを飛び越えて瞬時に成仏できる教えである。まさに、世間的に考えても、有り得ず、信じ難い法というべきものである。 【56】また、同じくいわれている。この悪世において、自力の修行をしても仏になることは困難である。ところが、また、諸々(もろもろ)の衆生のために、この阿弥陀仏の有難い法を説くことも困難なことで、これを二つ目の難とする。このような二つの難を承(う)けて、釈尊が見事に、この有難い法を説かれたことを、多くの他の仏がたが称賛されることは、もっともなことである。衆生をして、この法を聞かせて信受させるに如(し)くはない。[(註)「有難い」とは有ること難し=有り得ないということ。 如(し)くなし=それに及ぶものはない。] 【57】律宗の用欽が云っている。「この阿弥陀仏の有難い法を説く中で、特にすぐれたことは、この法によって、凡夫を一足飛びに聖人に変えること、まことに手のひらを反(かえ)すが如くなることだ。このようなことが、きわめて容易(たやす)く実現するので、多くの信心の浅い衆生には、かえって、ほんとうにそんなことは有り得るのかと疑惑を生じさせるのである。すなわち、このことを『大経』下巻では<易往而無人(いおうにむにん=往(い)き易くして人無し)>といわれているのである。だからこそ、この法が難信であるということを知るのである。 【58】元照の弟子である戒度の『聞持記』がいう。「元照律師の『阿弥陀経義疏』で<愚智を簡ばず>というのは、人の素質には愚かなものと、智慧あるものとがあるが、それらを区別しないということであり、また<豪賤を簡(えら)ばず>というのは、人の財運には強い者と弱い者があり、これらを区別しないということであり、<久近を論ぜず>というのは修行を久しく積んでいるか、近々始めてまだ浅い段階かということで、そういったことも区別しないということであり、<善悪を選ばず>というのは、行いが善であるか、悪であるかも区別せず、<決誓猛信を取れば、臨終悪相なれども>というのは、すなわち『観無量寿経』の下品中生の項に〈地獄の業火が臨終一時(りんじゅういっとき)に襲ってくるということであり、もしそのようなことがあっても堅い信心が決定(けつじょう)しておればということであり、<具縛の凡愚>というのは二惑、すなわち真実の仏道に眼が開かず、修行によって断ずべき感覚的・肉体的煩悩に振り回され惑(まど)わされていることであるが、これらもすべて前述のように強固な信心を獲得しておれば、すべて救いとるということであり、<屠沽(とこ)の下類(げるい)、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり>というのは、屠(と)は、いわく殺生を生業(なりわい)とすることであり、沽(こ)は酒を造って売る者のことで、このような悪人も、たゞ十回の念仏によって、迷いの世界を超えて浄土に往生することができるということで、総じて、まことに有り得ない信ずることもできない阿弥陀仏の法であり、まさに難信の法というべきものである。(ちなみに「有難過ぎて」とは「有ること難(かた)過ぎて=有り得なさ過ぎて」の意味)。 阿弥陀如来は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』にあるように、その号(ごう=なまえ)を「真実明」すなわち、まことの智慧。「平等覚」すなわち、阿弥陀仏を根源として一切を差別しない。「難思議」すなわち、思いはかることもできない。「畢竟依」すなわち、最終的な拠り所。「大応供」すなわち一切の存在から讃歎される。「大安慰」すなわち人の心の安らぎの根源。「無等々」すなわち比べるものもない。「不可思議光」すなわち思い計ることもできない無限の光。等々を号(名前)とし、崇(あが)める存在である。 【59】中国南宋の石芝宗曉(せきししゅうぎょう。1151~1214年)が編纂した『楽邦文類』の後序(ごじょ)で云うには、「浄土教を修めるものは常に多いけれども、その法門に真に通じて、直ちに往生浄土のさとりを得る者は、いくらもいない。浄土とは何かを論ずる者は常に多いけれども、その根源を会得して、直ちに指し示す者は寡(すく)ない。ところで、自らのさとりへの道を妨げ、自らのさとりへの道を塞ぐということについて研究し説いた者は、 今まで聞いたことがない。今、わたしはこのことがわかったので、このことを伝えよう。これはまさに、さとりを自ら妨げるのは愛欲の煩悩に如(し)くはない。さとりの道を塞ぐのも仏の教えを疑う煩悩に如(し)くはない。この愛欲と疑いの煩悩を遂に障礙なからしむる のが、まさに浄土の一門である。阿弥陀如来はこの愛欲と疑蓋(ぎがい)の煩悩をも分け隔てし給うことなく救い取って下さるのである。阿弥陀如来の広々とした本願はつねに自然(じねん)に、このような煩悩に苦しめられる衆生を摂取して、決して捨てられないのである。 これこそ自ずから然らしめられる弥陀の本願の理(ことわり)である。(以上) |
| 【HP作成者私考】 親鸞聖人は浄土往生への必須条件である至心・信楽・欲生の三心は私たち衆生にとっては信楽の一心に決着するとの領解されました。そしてこの信楽である大信心は、これまた仏教の必須条件である菩提心をも大菩提心として如来回向の大信心の中に包み込んでいるとされました。今月は劈頭にも述べましたように、大菩提心をも包み込む大信心のありさまについて宋代の元照が著わした『阿弥陀経義疏』、用欽が著わした『阿弥陀経疏超玄記(今は現存しないとのこと)』、そして元照の弟子である戒度が著わした『聞持記』、そして石芝宗暁 (せきししゅうぎょう)(1151―1214)が編纂したとされる『楽邦文類』などいずれも親鸞聖人とほゞ同時代の宋の書物からの引文です。それぞれの引文の大略を述べますと 【54】において元照は阿弥陀仏の経を説かれた釈尊について、釈尊以外の他の誰も説くことができなかった阿弥陀仏の教えを説くという難事業を成し遂げられ、世の中のだれもがこのように有ること難き経は見たこともなかったが故に希有なことである述べた上で、【55】で阿弥陀仏の経が説く念仏の法門は 愚智、豪賤、久近・善悪を問わない、すなわち現世における優劣の違いを問題にせず、ただ確固たる信心があれば浄土往生のさとりに至る教えであるとしていること。更に【56】で、この釈尊の時代から遠く離れてしまった悪世においては修行成仏することはまことに難事であり、またひるがえって衆生が分かるように、この阿弥陀仏の法門を説くこともまた同じく難事である。この点で、諸仏が釈尊と阿弥陀仏の経を称賛されていることは、衆生にとって有難く有益なことで、衆生がこの諸仏称賛の声を聞いて、この経の主旨をよく了受して信受できるようにしなければならない。 【57】では律宗の用欽は「本願を信じ念仏するだけで凡を転じて、まるで手のひらをかえすように聖(仏)となす。まことに簡単すぎて、浅はかな衆生には、そんなことは、とても有り得ないということで多くの疑惑が生じるだろう。これすなわち『大経下』に<易往而無人>と云われる所以、それゆえまことに難信であるとしている。 【58】元照の弟子の戒度は『聞持記』で師の元照の説の一々を解説し、衆生にとって、とても思いつかないようなこの世の常識を超えた救いを信じることはまことに難とすべきことであるとしたうえで、阿弥陀仏の「真実明」以下八つの号(名前)を挙げて、阿弥陀如来の無限の徳を称賛し、このような無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力のある方の誓いであるかぎり、私のような衆生でも必ず救われるという大信心を示唆しています。 そして【59】の『楽邦文類』では「浄土の教えを修するものは多いが、本当に信受する者はいくらもない。浄土を論ずる者は多いが、要を得て教え導く者も少ない。 また、いまだかってこの自障自蔽の迷路を解き明かした者も聞いたことがない。 私はそれを明らかにすることができたのでそれを説こう。<すなわち自障は愛欲、自蔽は疑いによるのである。そしてこの二つの障礙を無からしむることができる教えこそ浄土の一門である。弥陀の大いなる本願は、全てを分け隔てなく自然(じねん)に無理なく摂取し給うからだ。これこそまことに必然の理による救いというものである。 以上、親鸞聖人は宋時代の中国の説を引文し、例えば【57】の律宗の用欽がいう如く「本願を信じ念仏するだけで凡を転じて、まるで手のひらをかえすように聖(仏)となす。」まことに簡単、すなわち易証でありながら而して往く人無しという難信であることを示されますが、同時に、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」として無限の大悲に摂取されていることを信じる衆生にとっては決して不可能のことではなく、救いは必然のことであるということを、これ等の引文によってあらためて証されていると考えるものです。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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今月は、このような大信心が如来回向によって、我々衆生に、どのように顕れるか、その有様を、今月はまず信の一念の事実をもって我々に示されるところから始まります。それでは早速この部分、すなわち「信一念釈」において、親鸞聖人が書き記された言葉、すなわち「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋(じこく)の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」から読み始めることにしましょう。 |
| 【読下し古文】
<衆生にとって真実の信楽の開発(かいぼつ=顕れ)は一念、すなわち時剋の極促(瞬間)にあるという親鸞の釈> 【60】 それ <大無量寿経の本願成就文からの引文で名を聞きて一念の信と即得往生を回向され聞(もん)の重要性を証す> <語釈>
[1]開発(かいぼつ):回向される。発(おこ)る。 [2]時剋:時剋(きざ)み、すなわち時刻のこと。 [3](時剋の)極促:一瞬。 [4]乃至一念せん:わずか一念で [5]至心に回向したまへり:この部分の漢文は普通「至心に回向して」と読む。親鸞聖人は如来が真実心を以て回向されたという意味をこめて、この部分の漢文を、このように読み変えられた。 [6]すなはち:即ち、一瞬のうちに、即時に。 [7]不退転:退(しりぞ)くことがない位。信を得て往生すべき身と定まった位。 [8] 他方仏国:阿弥陀仏の浄土ではない。他の仏国、すなわち宇宙に様々ある仏国(すなわちいのちの世界)のことで、私たちの住む娑婆もその内の一つと考えます。 [9]所有(しょう)の衆生:全ての衆生。あらゆる衆生。 [10]一念の浄信:横超(如来回向により一気に迷いの世界から信の世界へ)の浄らかな信。 [11]仏の聖徳の名:仏の無限に深遠な徳そのものである御名。 [12]涅槃経:この場合、大乗の涅槃経を指す。 ◎成立 龍樹(紀元150年頃に活躍)には知られていないことなどから、この経の編 纂には瑜伽行唯識派が関与したとされ、4世紀くらいの成立と考えられる。 原典は失われている. ◎基本的教理 ①大乗涅槃経の基本的教理は、 ②如来常住(にょらいじょうじゅう) ③一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) ④常楽我浄(じょうらくがじょう) ⑤一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)<迦葉品において説かれている。 以上の4つを柱として要約される。釈迦の入滅という初期仏教の涅槃経典と同じ場面を舞台にとり、また諸行無常という仏教の基本的理念を踏まえながら、如来の般涅槃(はつねはん)は方便であり、実は如来は常住で変易(へんやく)することがないとして、如来の法身(ほっしん)の不滅性を主張する。また如来(仏)は涅槃の教法(法)を説く教団(僧)と共に一体で常住し不変である(三宝一体常住不変)と説き、その徳性を常楽我浄の四波羅蜜(四徳)に見いだし、またそれを理由に、「一切衆生はことごとく仏性を有する」(一切衆生悉有仏性)と宣言する [13]◎迦葉(かしょう): 釈迦の十大弟子の一人で仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)とされ、釈迦の死後、初めての ◎迦葉品:こちらは大乗涅槃経の一部分一闡提にも仏性ありと説いている。 [14]聞(もん)、および聞不具足:聞不具足については本文中で詳しく、その具体例を挙げて説かれているが、ここでは、仏教用語としての聞(もん)の意味を吟味し、しかる後に聞不具足の意味を考えてみます。 先ず、仏教でいう聞(もん)の意味を仏教語大辞典で調べますと「教えを聴聞すること」となっています。しかし、この説明では単に「教えを耳で聞く」という意味以上の受取り方ができません。そこで、もう少し「聞(もん)」の意味を考えますと、これは単に「耳で聞く」というだけではなく、聞いた教えが自分の中で体験的に身に付くということでなければ意味をなしません。このように「聞」の意味を受取ることができれば「聞不具足」の一般的な意味も自ずと確定すると考えます。 [15]十二部経 (じゅうにぶきょう)とは:仏(ぶつ)の所説・如来(によらい)の所説の教法を内容・形式によって分類したもの。 分類の内容は以下の1~12 1.修多羅(しゅたら) :教説を直接散文で述べたもの 2.祇夜(ぎや): 散文の教説の内容を韻文で重説したもの 3.和伽羅(わがらな): 仏弟子の未来について証言を述べたもの 4.伽陀(かだ):偈であって 最初から独立して韻文で述べたもの 5.優陀那(うだな): 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの 6.伊帝曰多伽(いていわったか)、如是語とも: 仏弟子の過去世の行為を述べたもの 7.闍多(じゃーたか、本生(ほんじょう)とも): 仏の過去世の修行を述べたもの 8.毘仏略(びぶつりゃく): 広く深い意味を述べたもの 9.阿浮陀達磨(あぶだだつま): 仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの 10.尼陀那(にだな): 経や律の由来を述べたもの 11.阿婆陀那(あばだな): 教説を譬喩で述べたもの 12.優婆提舎(うばだいしゃ): 教説を解説したもの [16]読誦にあたはずして:読誦しても理解することができない。 [17]所有(しょう)のためのゆゑに:世俗のためだけの理由で。 [18]持読誦説せん:読誦しそれを説いても。 [19]一心専念:阿弥陀仏の本願を信じて、もっぱら称名念仏すること。 [20]専心専念:[19]に同じ。 |
| 【現代語訳】 <衆生にとって真実の信楽の開発(かいぼつ=顕れ)は一念、すなわち時剋の極促(瞬間)にあるという親鸞の釈> 【60】さて、真実の信楽について考えると、この信楽について一念ということがある。一念というのは信楽が開き起る時のきわまりをあらわし、広大不思議の徳をいただいた限りない喜びの心を彰(あらわ)すのである。 <大無量寿経の本願成就文からの引文で名を聞きて 一念の信と即得往生を回向され聞(もん)の重要性を証す> 【61】このことについて『大無量寿経 下』にいわれている。「あらゆる衆生は弥陀の名号を真実に聞いたその時に弥陀の回向によって信心の慶びに充たされ往生浄土を心にいだけば即ちその願いが定まり不退転の身となる。 <無量寿如来会と大無量寿経下からの引文で名を聞きて一念の信と即得往生を回向され聞(もん)の重要性を証す> 【62】また『如来会 ・下』には「阿弥陀仏の浄土以外の宇宙のあらゆる仏国、例えば、その内の一つとして娑婆の一切の衆生は無量寿如来の名号を真実に聞いた、その時に浄らかな信心が起って喜びに充ち溢れる」といわれている。 また、『大経 下』には「仏の本願の力の真実によって、衆生は阿弥陀仏の御名(南無阿弥陀仏)を聞いて浄土に生まれたいと欲(ねが)う」と云われている。 更にまた、『如来会 ・下』には「仏の無限に深遠な徳そのものである御名を真実に聞く」といわれている。 <涅槃経からの引文で「聞不具足」とは何かを証す> 【63】『涅槃経』(迦葉品)に「どのようなことをか名づけて聞不具足とするのか。如来が説かれた教えは『十二部経』として整理されている。その内の六部を信じて残りの六部を信じない、これでは完全な「聞(もん)」ではなく聞不具足である。 また、この六部の経の教えを受けたといっても、たゞ読んだだけで、その深い意味もわからないまゝに、これを人に説いても、説かれた人にとって何の利益(りやく)にもならない。このようなこともまた聞不具足とするのだ。 また、たとえこの六部の教えを受持したといっても、この受持した教えを単に人との論議のために、他の人との論議に勝ちたいために、また自分の利益のために、あるいは世俗的な欲望を全うするために、経典を受持、読誦し人に解説したりすること、これらも名づけて聞不具足とする。」といわれている。 【64】 光明寺の和尚である善導は「一心専念」「専心専念」といわれているが、これはどちらも阿弥陀仏の本願を信じて専(もっぱ)ら称名念仏することをいわれているのである。 |
| 【HP作成者私考】 今月は、この易行難信ともいえる親鸞浄土教の大信心の獲得について、法然・親鸞浄土教の基盤ともいえる第十八の本願成就文を出発点として私たち愚縛の凡愚に大信心が開発(かいぼつ=開き発(おこ)る)するありさまは、いかなるものかを説かれています。それによれば、信楽に一念あり、すなわち大信心が衆生の身に開き発るのは一念にあり、一念とは大信心が衆生の身に開き発(おこ)ったその時のことであり、これはまさに時剋(時)の極促、すなわち衆生の心に広大で思いはかることもできない慶びが顕れる、まさにその時であるといわれます。 私(HP作成者)は一念とは一念多念の称名念仏の一念だと思っておりましたが、これはそうではなくて、一念とは如来回向の大信心が浄土に生まれることを願う衆生の心に開き発り、その慶びが湧きおこる、その時のことであるということでしょう。 そしてこの親鸞聖人の釈を証するのはいうまでもなく【61】の大経(大無量寿経)下巻の本願成就文です。これを拝読すると、【60】において、親鸞聖人が説かれている一念とは、まさにこの成就文が示すところの一念のことであることがわかります。そして、この本願成就文には、一念の信心歓喜の前に、聞其名号ということばがあります。「その名号を聞きて」ということですが ここに、「聞(もん)」ということが一念の信心歓喜の爲には無くてはならない必須条件であることがわかります。この「聞」ということは、単に、なんとなく聞くということではなくて、これは名号のいわれを、この身に受けて聞く、まさに南無阿弥陀仏すなわち帰命無量壽如来という、我に来たれという如来の勅命を身に受けて聞くということではないでしょうか。更に親鸞聖人は【62】において、『無量寿如来会』の下の成就文にあたる部分を引文されます。ここで注目される部分が二か所あります。 その一つは「他方仏国の所有の衆生」ということばです。他方仏国とはどのような仏国を表すのでしょうか。 他方というのは何に対して他方というのでしょうか。これは勿論「阿弥陀仏国」すなわち浄土に対しての他方でありましょう。Wikipediaによれば仏国というのは「一人の仏が教化できる範囲を指すということですから、我々が住む娑婆も釈尊という仏が教化された仏国の一つということになります。そうすると、娑婆は阿弥陀仏の住む浄土に対して「他方仏国」ということになります。そうすると、宇宙には、我々人間と同じようなさとりを求める生き物が住む星もあるでしょうから、そのような微塵世界の星にある国も他方仏国ということになります。それはともかく、他方仏国の所有の衆生とは、私たちの娑婆に住む、一切の衆生ということになるのは間違いありません。これらの衆生が「無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信をおこして歓喜せん」ということです。 ここでもうひとつ注目されるのは「一念の浄信」ということです。すなわち一念の浄信というわけですから、ここでいう一念というのは「信心の一念」ということになり【60】で親鸞聖人が解釈しておられる「一念」とは「信楽開発の時剋の極促」ということになります。『大無量寿経』の本願成就文では「乃至一念」となっており、このままでは一回の称名念仏をあらわす一念と区別がつきにくいわけですが、この『如来会』の「一念の浄信」という部分を見て、『大無量寿経』の「乃至一念」の一念も「信の一念」として間違いないということになり、親鸞聖人も同じように判断されて、ここに如来会の文を併せて掲載されているものと私考します。 最後に親鸞聖人は『大経』下から「その仏の本願の力、 名(みな)を聞きて往生せんと欲はん」の文を引文されています。この文の後半は「みなことごとく彼(か)の国に到りて、 おのづから不退転に致る。」ですから、この仏の本願力を単に聞く、ではなくて「仏の聖徳の名(みな)を聞く」という『如来会』からの引文にもあるように、「仏の無限に深遠な徳そのものである名(みな)を聞く」ですから、その聖徳の名を本当に自分の中の体験として聞くということを、この部分でも強調されているのではないかということで、ここでも親鸞聖人は「聞(もん)」ということの意味を重く、大切に受け止めておられることが分かります。 そのような意味を受けて、【63】の引文で「聞(もん)」について「聞(もん)不具足」とはどういうことか、すなわち聞(もん)ということが整っていないとはどういうことかということを『涅槃経』(迦葉品)から引文することによって、親鸞聖人は浄土のさとりを獲得するには、「聞(もん)」ということがらが如何に大切かということを強調されています。あとはこの【63】の『涅槃経』からの引文による証を【読下し古文】とその【現代語訳】をお読みいただくことによって、親鸞聖人からの「聞(もん)」についてのメッセージをお読みください。これによって、「聞(もん)」ということが、浄土のさとりを獲得(ぎゃくとく)するために、如何に無くてはならないものかということがお判りいただけるものと思います。 最後に【64】で善導の『散善義』から「一心専念」と「専心専念」のことばを引文されています。これは単に[19]と[20]における「阿弥陀仏の本願を信じてもっぱら称名念仏するという言葉の意味だけでなく、称名念仏には必ず信心が伴うこと、そして真実信心には必ず称名念仏が伴うということが強調されています。親鸞聖人は、ここでも「難信」といわれる他力浄土教の真実の信心の姿を引文することによって、信心の真実の姿を讃歎されています。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |