| 第二十書簡
方々よりの御こゝろざしのものども、かずのまゝに、たしかにたまはりさふらふ。明教房ののぼられてさふらふこと、ありがたきことにさふらふ。かたがたの御こゝろざし、まふしつくしがたくさふらふ。明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがえすうれしくさふらふ。鹿島・なめかた・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにてさふらふ。またひらつかの入道殿の御往生のことききさふらふこそ、かへすがえすまふすにかぎりなくおぼえさふらへ。めでたさまふしつくすべくもさふらはず。をのをのみな往生は一定とおぼしめすべし。さりながらも往生をねがはせたまふひとびとの御なかにも御こゝろえぬこともさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。京にもこゝろえ |
【語釈】
①放逸無慚=67頁 ④ を参照。
②往生は一定=浄土に生まれることは必ず定まる
③御こころえぬ=(往生について)間違ってうけとっている
④こころえずして=上におなじで、間違ってうけとっている、すなわち
⑤ゆゝしき学生=優れた学者
⑥法文=経典や師の教え
⑦信見房=その素性は知られないが、おそらく、この書簡の宛先の
⑧ひがさまに=僻様に=まちがった方向に
⑨御方便=(今の場合は)善き方向への導き
⑩不便=79頁 とおなじ。「不都合なこと」ととるか、不憫すなわち「気のどくな」ととるか。
⑪後世=来世、死後の世界、後の世。
なお、大谷派御消息集広本第一書簡=西本願寺蔵御消息集(室町時代写本)には、「後世」ではなく「この世」となっている。
⑫さたせず=問題とせず
⑬この身をもいとひ=(煩悩具足の)この身を厭い
⑭流転=まよいつづける
⑮世をいとふしるし=自らの煩悩具足の身をいとい、仏法を求める
⑯さりとも=煩悩から逃れられない身であっても
⑰『浄土論』=浄土論は天親菩薩の作であるが、その中には、ここ で示されているような文は見られない。むしろ『浄土論』の注釈書である曇鸞の『浄土論註』の巻上には、書簡中のこの言葉に
⑱至誠心のなかには=善導の観経疏のなかの散善義に至誠心を説く部分があり、その部分を指す。
⑲⑳
㉑よも=よもや
㉒これに=念仏に、念仏道に
【現代意訳】
方々よりの御こころざしのものども、お知らせの数のとおりに確かにいただきました。明教房の上京されたことは、忝いことであります。かたがたの御こころざしは、御礼のことばもありません。明法御房の往生のことは、びっくりするほどのことではありませんが、くれぐれもうれしいことです。鹿島・行方・奥郡の、このような往生をねがう人々の、みんなのよろこびであります。また、ひらつか(平塚)の入道殿の御往生のことを聞きまして、かさねがさね、申せばかぎりのないことですが、その立派なことは申しつくしがたく思われます。おのおのもみな、往生は一定とおぼしめされるがよろしい。
この文を、鹿島・行方・南の庄、その他いずれでも、念仏にこころざしのあられる人には、おなじ心もちをもって読みきかせていただきたく思います。あなかしこ、あなかしこ。
建長四年(一二五二)二月二十四日
この手紙には建長四年二月の日付がついています。親鸞聖人八十歳の二月に、この手紙を出されていることになります。まずはじめに、関東の門弟からのこころざしの品々に礼を申されたあと、ここでも明法房が浄土に旅立ったことを“おどろきまふすべきにはあらねども”とそれ相当の年齢でいのち終わっていくことを、この世の常と見定めたことばのあとで、その臨終の様子を上京してきた門弟から聞かれたのか、念仏者として立派に浄土に帰っていったことを“かえすがえすうれしく”と喜びに満ちたことばで言われています。また、平塚という地に住んでいた念仏者の往生の様子を聞かれた結果も、よろこびに満ちて書いておられます。やはり、関東に於いて、そしてその後の門弟たちとの信心のまじわりが明法房や平塚の入道の中に見事に実っていることを喜ばれているのでしょう。そして、明法房や平塚の入道がそうであったように、この人たちの周りの信心の定まった御同行の皆さんも、かならず浄土往生は間違いないとお考え下さいと保証し讃嘆されています。このように、ここまでは念仏の同行たちを讃えることば続いたのですが、“さりながらも”と続けられるところは、上のような讃えるべき人々とともに、心得違いの人々が出てきた今までの経験に基づいて、おそらく今も、さだめし、そのようなことになっているのではと危惧すると共に、京にもそのように、法然上人がすすめられた真実の浄土教からはずれた言説をひろめているのもいるが居り、また京都以外の地方でも、教えを心得違いをしている人々のことがわたしの耳にも入っており、自分は立派な学者だと思い込んでいた人が、さまざまに仏の教えを言い変えて自分も惑い、人をも惑わしている輩がいる。ましてや都から遠く、経典やすぐれた師の教をえも十分に把握されていない各々方のような人々に、悪人正機だからと、往生に障りにならないからということを聞いて、どうも良くない心得違いをしている人もあるようだし、今もさだめしそのようなことではないかと話を詰めていかれます。そうして、恐らく造悪無碍なんだからと放逸無慚を勧めたのであろう信見房などのいうことに迷わされている人があることを、あさましいことと、大変心配しておられます。以前はすべての人々の往生を約束しようとの弥陀の誓いも知らず、無明の貪欲・瞋恚・愚痴の世界にいた身が、今は釈迦・弥陀のお手まわしを受ける身になって無明の酔いもようやく少しずつ覚めて、阿弥陀仏の薬である念仏と信心の世界にいざなわれている人々に対して、無明の酔いを勧め、造悪の毒を誘いかけるなどの所業は、まことにあさましく言語道断のことであると、放逸無慚の面々の行いを厳しく糾弾されます。造悪無碍なのだからと、悪人正機なのだからと煩悩のままに振る舞っていいのだと申し合しているとのこと、かえすがえす哀れであり不都合なことだといわれます。これでは薬があるから毒を好んでよいのだといっているようなもので、このようなことは“あるべくも候はず”といわれます。このあとも、弥陀の本願をいただく身でありながら、その本願のこころをはき違えて、好きほうだいをする放逸無慚の面々を糾弾すると共に、ほんとうに本願をいただく身になったならば、このような放逸無慚の行いをしたり、人にも吹聴したりすることはあり得ないことを諄々と説かれています。また、善導大師の散善義の中の至誠心の例をあげて、このような好んで悪を行なうような人物からはつつしんで遠ざかれと諭されています。そして、悪を好む人に近づくなどするのは、浄土に参って後、衆生利益の爲に浄土に還ってから、仏の心で、このような放逸無慚な悪人とも接して救いに導くことができるのであって、それも、すべて、弥陀他力の迴向によって還相の菩薩としてはじめてできることであって、煩悩熾盛の今の私たちには出来ないことだと言われます。そして最後に、すべては、矮小な人間のはからいではなく、仏の御はからいによるものであって、仏の御はからいによって金剛の信心が定まった人は、決して師を謗ったり、善知識をあなづりなどすることは決してないのだと言われます。おそらく、まことの信心を説く指導者や善知識に異を唱え、侮った態度をとる人間がいたのでしょう。そして鹿島、行方、南の庄など常陸の南部の念仏のこころざしのある人によみきかせてほしいと伝えて、この手紙を終えられます。いずれにしても、このような放逸無慚の輩が出てくるのは、法然・親鸞浄土教の根幹である限られ選ばれた人間だけが仏の救いにあずかるのではなく、すべての衆生が救いにあずかることを誓われたのが仏の本願であって、まさに、この仏の本願においてこそ、“造悪は往生の障りにはしない”ということがいえるのであって、これと同じことを衆生である人間が言ったり行なったりすることはできないということをしっかりおさえておくことが必要であって、その意味で、歎異抄第一条にある「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」と云い「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」といい「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」といい、第三条では「善になおもって往生をとぐ、いはんや悪人においてをや」というこれらの言葉は、人間がいえることばではなく、如来にしてはじめて云えることばであるということではないでしょうか。したがって、放逸無慚の輩が如来のことばである「造悪無碍」をはじめ、歎異抄の一条や三条のことばをもって、仏がこのように云っておられるのだからと、人間の側から好んで悪を行なったり、それを吹聴したりすることは、まさに本末転倒の骨頂ということに違いないと思うのですが、いかがでしょうか。すべて人間のはからいではなく、如来のはたらきとして云えることだと思うのです。
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第二十一書簡 安楽浄土にいりはつれば、すなはち |
【語釈】
①法語=親鸞が書簡で説いた浄土教の教え
②善性本=御消息集(善性本)=親鸞の門弟の飯沼の善性房が編集した親鸞聖人の御消息集。
③④⑤大涅槃も無上覚も滅度も等しく仏のさとりを意味する。覚はさとりで、無上覚といったときは仏のそれを指し、涅槃が梵語ニルバーナの中国語への音写であるのに対して、滅度はこのニルバーナの中国語の意訳である。(石田瑞麿著「親鸞とその妻の手紙」)
⑥法身=宇宙の理法そのものであり仏陀のさとりの本体。(広辞苑)
⑦法蔵菩薩=阿弥陀仏が、まだ修行中の菩薩であったころの名。
法蔵菩薩には還相の菩薩としてのはたらきもある・・・
⑧迴向=振り向ける。
例1 衆生が自らの修行の結果の功徳を他者に振向ける。
例2 仏が自らの修行の結果の功徳を衆生に振向ける。
⑨往相の迴向=浄土に往生する因果を仏がことごとく衆生に回向する(振向け与える)。
⑩一向に=ひたむきに。いちずに。ひとすじに。
⑪一向専修=ひとすじに専ら修めること。ひとすじに称名念仏を修すること。
⑫如来二種の迴向=如来のはたらきとしての往相回向と還相回向のこと。
⑬還相回向=如来の迴向(はたらき)としての往相回向によって衆生が浄土に往生した後、直ちに、これも如来の迴向によって、この世に還って、衆生を済度する(仏にする)こと。
【現代意訳】
安楽浄土に入ってしまうと、それをそのまま、大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるとも申す。それらは名称こそちがっているけれども、すべて、法蔵菩薩が、弥陀仏の誓願をわれらに廻向して、法身の仏のさとりをひらくべき正因を与えたもうたのであって、これを往相の廻向というのである。その廻向したまえる願を、念仏往生の願という。この念仏往生の願を一向に信じて二心なきを、一向専修とはいうのである。如来に二種の廻向ありというが、その二種の廻向の願を信じてふたごころなきを、真実の信心という。この真実の信心のおこるのは、釈迦・弥陀二尊の御はからいによりてであると知られるがよい。あなかしこ、あなかしこ。
【HP作成者感想】
“安楽浄土にいりつれば”ということばから始まるこの書簡で親鸞聖人は、まず、左のことば、すなわち浄土に往生すれば“大涅槃をさとる”とか、“無上覚をさとる”とか、“滅度にいたる”など、ことばこそ異なってはいるけれども、いずれもみな“宇宙の理法そのものであり仏陀のさとり、”すなわち“法身”のさとりをひらくということなのだと説明されます。このはたらきは、すべて法蔵菩薩が御誓を成就され弥陀仏となって私たちに迴向されたものであって、この御誓を“念仏往生の願と申すなり”ともいわれます。そして、更に聖人は、浄土に往生した後の還相迴向という仏のはたらきについても言及され、これら往相迴向と還相迴向の二つのはたらきを“如来二種の迴向”といい、この二種の迴向のはたらきを信ずることを真実の信心というと述べられ、さらに、これら真実信心のおこるのは、ひとえに釈迦・弥陀二尊の御はからいによっておこるのだということを承知しなさいと結論されます。
ところで、仏のさとりの境地である“法身”ということと、衆生との関係について、ふと思ったのですが、最近、ある人から、ほとけそのものである法身と、我々衆生との関係は、あたかも大いなる海と、その海の表面に起こる波のようなものではないかということです。すなわち、われわれ一つ一つの生命というものは、あたかも大きな海原の表面に波立っている“波”のようなもので、ひとつひとつの波は海原のはたらきによって、生ずるわけですが、しかし、やがて波は消えていきます。消えればどうなるかというと、海原そのものに還るわけで、いうならば波は次から次に起こり、そして消えていきますが、その波を生じさせている大海原そのものは、いつまでも残り、そしてまた新しい多くの波を生じさせます。私たちが浄土に往生することは、私たちをあらわす、この小さな一つ一つの波が消えて、元の大海原に還ることなのではないかと思うのです。波が消えて大海原と一体になれば、そこは法身の世界です。そうして、もうひとつ
波は絶えず生まれ、そして消えていくわけですが、それでも一定期間、波として存在します。その存在している間に、波自身は、自分は一体、何者か、自分がここにこうして波としてあることの根源は何かということなど、これも大海原のはたらきによって考えるようになり、遂に、自分の根源が大海原であることに、ある瞬間に気づかされることになるのではないでしょうか。つまり、自分で気づくのではなくて、もともと大海原に由来する波なのですから、大海原のはたらきによって“気づかされるのです。”これが正定聚ということなのではないか、もっと卑近な表現をすれば、このことに気付かされた状態が“大人”ということになるのではないでしょうか。何故なら、波ができて間もない状態のときは、波にとって波がすべてで、波である自分が大海原に由来するのだということに、まだ気づかされていない、そういう波の時期を“子ども”の時期というのではないかと思うのですがいかがでしょうか。さて、往相迴向はこれで、表現したつもりでいるのですが、還相迴向は、どのように考えればいいのでしょうか、波が消えると法身である大海原に一体となる。そこは仏の世界、もう煩悩を持った個人というものは無いわけでしょうが、この大海原は何といっても、その表面で波立っている波の、まさに根源です。いうならば根源としての親であります。親は子である波のことが当然心配になる、そのような状態から大海原は、子である波に、心配しなくともよいのだ、お前はもともと、大海原なのだからということを知らせたい。このようにして仏である大海原は、このことを子である多くの波に知らせようとして、大海原の中から、再び、小さな波となって、波の世界に還る。そうして多くの波に、あなた方は大海原に由来しているんですよということを知らせる。このような働きをした波が釈尊であり、法然上人であり、親鸞聖人であり、そして多くの妙好人なのではないかと、臆面もなく想像してしまうのですが、これは如何でしょうか。
今月はこれで終わります。
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第二十二書簡
『 名号はこれ善なり行なり。 本願は、もとより仏の 本願の名号は |
【語釈】
①宝号経=この経は現存せず。専修寺蔵『浄土真宗聞書』に「宝号経に言」としてこの一文がおさめられている ( 加藤辨三郎著「末燈鈔」より)
②大蔵経=一切経ともいう。実例の一つをあげれば、わが国で昭和に完成した『大正新修大蔵経』は全一〇〇巻、三〇五三部を収め、我が国大蔵経としては最大のもの。
③弥陀教義集=51 頁語註を参照
④宝号王経=右『弥陀教義集』の中に宝号経が宝号王経ともよばれて紹介されており、歎異鈔第八条にもでてくる「「念仏は行者のために非行非善なり」という言葉の出拠だともいわれています」
⑤行にあらず善にあらず=(弥陀の本願は)私たちが自分の力で励む行でもなく、同じく、自分の力で励む善でもない。(すなわち、仏のはたらきだということ。)
⑥仏名=名号、すなわち南無阿弥陀仏
⑦能生する因=浄土に生ぜしめる原因となる事柄。「能」は能動を意味する。
⑧所生の縁=浄土に生ぜしめられる縁となる事柄。「所」は受動を意味する。
【現代語訳】
『宝号経』にいわく、弥陀の本願は、行にもあらず、善にもあらず、ただ仏名をたもつのである。名号は善であり、行である。行とは善をなすをいうことばである。本願は、
いうまでもなく仏の御約束であると承知したうえは、善でもなく行でもないのであって、そのゆえに他力とは申すのである。本願の名号は能生の因である。能生の因といえぱ、
とりもなおさず父である。大悲の光明は所生の縁である。所生の縁といえば、とりもなおさず母である。
【HP作成者感想】
末燈鈔も、とうとう最後の書簡になりました。ところが、この最後の書簡に来て、大変難解な文章に突当たることになりました。たとえば、まず最初の“宝号経にのたまはく、弥陀の本願は行にあらず善にあらず、たゞ仏名をたもつなり。”の部分です。いろいろ、末燈鈔のこの部分について解説を読んでみました。“弥陀の本願は行にあらず、善にあらず”という部分についえは、「弥陀の本願は、われわれ衆生のはからいによって実践する行でもなく、おなじくはからいによって実践する善でもない」というふうに解釈されているところは、これはわかります。しかし、その次、“ただ仏名をたもつなり”の部分はどのようにうけとればいいのでしょうか。たとえば、その著、日本放送出版協会発行の『末燈鈔』で、加藤弁三郎さんは「これは、『阿弥陀経』の“阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、若は一日、若は二日、若は三日、若は四日、若は五日、若は六日、若は七日、一心不乱ならん”の義を取ってあるのかもしれません。」と書いておられます。また、霊山勝海師は、その著、『聖典セミナー 親鸞聖人御消息』 で“宝号経という経典は古来いろいろ考究されてきたが、その中で、親鸞聖人はこの二十二書簡を書かれるにあたって『弥陀経義集』の中に宝号王経に〈非行非善なり、ただ仏名をたもつ故に不退位に生ず〉とあるのに依られたのではないかとしていると書かれています。諸師の説明は綿密な考証から成っているのでしょうが、私の場合は、このような説明が、“仏名をたもつなり”というこがらとして、すっと心に入ってくるということは、ありませんでした。したがって、私の場合は、独自に次のように受取らせていただくほかにありませんでした。すなわち「弥陀の本願は、われわれ衆生のはからいによって実践する行でもなく、同じく、はからいによって実践する善でもない。ただ仏名すなわち名号を執持して、称名念仏そのものであることにつきる。」 私はこのように受けとらせていただきました。そして次に聖人は「
名号はこれ善なり行なり。
そして次、「 本願の名号は
この部分についても、いろいろな解説書にでている諸師のご意見に、どうも私自身の不明もあって、こころに響くものがありませんでした。では私はどのように受けとらせていただいたかと申しますと、まず、「本願の名号は
更にまた、「大悲の光明は所生の縁なり」とは、どういうことでしょうか。これこそ、上のたとえの爆発ということがらについて申しますと“火をつける”というはたらきにあたるのではないでしょうか。因という火薬があれば、それに“火をつける”という縁のはたらきによって“爆発”という結果は起こります。それでは親鸞浄土教においては、この関係はどうなるでしょうか、すなわち名号が衆生を浄土に往生させる因、すなわち能生の因であるとすると、“大悲の光明”は“所生の縁”、すなわち“衆生が浄土に生まれさせられる縁”だというのです。これはどういうことでしょうか。丁度“爆発(すなわち結果)”は“火薬(すなわち因)に“火をつける(すなわち縁)ということによって起こるように、名号という因があれば、それに、大悲の光明という縁がはたらくことによって、“浄土往生”という結果が成立する。それでは、大悲の光明とは何でしょうか。それについては、それは信としての“弥陀の摂取不捨のはたらき”であり、総じて、信としての“弥陀他力のはたらき”であり、これが所生の縁であると思うのですがいかがでしのはか。そして親鸞聖人は“所生の縁といふはすなはちこれ母なり。”といわれます。
以上、みなさまの御意見と、御批判を仰ぐところです。
最後に、ふと私は思ったのですが、名号とは自分のことではないのかと。これはまた、とんでもない不遜で身の程知らずのことをいうといわれるでしょうね。
でも自分がいなければ浄土往生も何もないではありませんか。だから自分こそ能生の因であるといえないでしょうか。ところがここで、いささか矛盾に突当たります。
能生ということがらを“浄土に往生させる”と受取りますと、これは自分が自分を浄土に往生させるとう、おかしなことになります。 しかし、この場合、この小さく有漏穢身である自分ということがらを、大海原の表面に起こる小さな波にたとえるとどうでしょうか、大海原の表面には無数の波が立ちます。そしてその波は生まれては消え、また生まれては消えていきます。
この一つ一つがこの有漏の穢身をもった自分と考えるとどうでしょうか。そして生まれてはすぐ消えていく一つ一つの波である自分なのですが、同時に、この波には、それを生じさせている
大海原がなければ波立ちません。とすると、この生まれては消えていく波もふくめて、大海原全体も大いなる自分ではないのでしょうか。このひとつひとつのうたかたの波を含んだ大海原
全体が大いなる自分ということを考えると、生まれては消えていく波である、はかない有漏の穢身の自分に対して、大海原全体の大いなる自分が、小さな波よ、お前はやがて消えていくことを
恐れているが、けっして恐れることはない、なぜならお前は今は小さな波であることにしか気が付かないが、大元の根源は大海原であって、やがて、はかなく消えていく波であるお前を、大海原である大いなる
自分は、断えず表面の小さな波であるお前を摂取し、凝視しているのだよと、大いなる自分が、うたかたの波である有漏の自分に救済の手をさしのべる、すなわち浄土往生させる、そして小さなうたかたの波は、やがて消えて、大いなる自分に完全に一体化する、というようなことを想像してしまうのですがいかがで しょうか。そして、この小さなはかない波を含んで大海原全体を名号といってもいいのではないでしょうか。そして更に、能生の因である自分があるだけでは浄土往生は
かなわないでしょう。なぜなら、そこに所生の縁が働かねばなりません。この所生の縁とは、まさに上に述べました、信としての弥陀の摂取不捨のはたらきであり、総じて、信としての弥陀他力のはたらき、弥陀の本願のはたらき
なのではないでしょうか。そして、そのようなはたらきを小さなうたかたの波である衆生に知らせたのが、還相の菩薩であり仏である、具体例をあげれば、釈尊であり七高僧であり、親鸞聖人、そのほか多くの妙好人なのではないでしょうか。この有漏の穢身である自分が能生の因とは、あまりにも傲慢不遜な仏教の常道をはみだした異端であるということになるかもしれません。言葉足らずになってしまいましたが、おもわず想像が膨らんでしまいました。これについても、みなさまのご意見とご批判をうかがうところです。
今月はこれで終わります。
| 親鸞聖人の『末燈鈔』は全22書簡を読み終わりました。 このあと、どのように、このページを進めていくかを考えましたが、HP作成者はこのページの作成とほぼ同時並行で『末燈鈔を読む』と題した読書会を近隣の人々と共に続けております。この読書会の中で出てきた末燈鈔の内容について徒然に出てきた話題を、このページにも表示したいと思いましたので下記に開陳させていただきます。 |
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話題のもとになった書簡・文書 |
【HP作成者感想】
実は、このページの最初にも書きましたように、このHPと同時並行で、読書会「末燈鈔を読む」で近隣の同好の人たち20名ほどと共に読み進めておりますが、
その中の第十八書簡で親鸞聖人が関東にいる随信房からもらった手紙の返信で、≪1≫のような文章を書き送っておられます。 そこでは、関東の随信房の同行の中に、いのち終わる時に弥陀の来迎を信じ、それを強く期待している人がいるということについて、随信房が親鸞聖人に、このようなことをどのように思われますかと手紙で質問してきたのでしょう。おそらく、随信房は親鸞聖人が末燈鈔第一書簡の冒頭に
(1)「来迎は諸行
(2)“同行の信心の力がおよばない。”すなわち“信心の力が定まっていない。”と受取るか。
(3)あるいは聖人御自身がその同行の来迎願望に対して“自分にはちからおよばぬことなり”すなわち 来迎たのむことなしとする自分の信心内容に導くのは 自分として“ちからおよばぬことなり”という意味に受け取るかに分かれます。さらにまた、(3)の“親鸞聖人ご自身のちからがおよばないという意味”に受け取る場合も、
(4)聖人御自身が既に老齢の身であり、さらに関東と京都の距離の遠さもあって、その同行を導くのは“ちからおよばぬことなり”なのか、さらには、これは親鸞浄土教の根幹にもかかわることですが
(5) この同行を自らと同じ臨終来迎を不要とする信心の世界に至らしめることができるのはのは、聖人御自身ではなく、ひとえに弥陀のお手回しに依らなければ成就しないということだから、自分には“ちからおよばぬことなり”といわれているのでは、ということになります。 読書会では(5)の解釈が最もふさわしいということになりました。
ところで、この“ちからおよばぬことなり”という事柄の検討は、このページの主題ではなく、“臨終来迎”という事柄について、法然聖人と親鸞聖人はどのような位置づけであられたかということが主題です。
親鸞聖人は勿論、上記(1)にありますように、“臨終待つことなし、来迎たのむことなし、信心さだまるとき往生また定まるなり、来迎の儀式を待たず。”とはっきり言明しておられます。
それでは法然聖人はどうでしょうか。読書会で出た意見では、親鸞聖人が関東で懸命に布教されていた当時においても、平安時代以来の古い浄土教の臨終来迎思想が根強く残っていたのではないか、親鸞聖人のいわゆる現生正定聚の革新的信仰も、随信房の同行が住んでいる地方には、まだ充分に及んでいなかったのではないか。ちなみに、関東の人々にとって、親鸞聖人は法然聖人の信仰を伝えに来た人と受取られていたことから考えると、当然、法然上人のこの臨終来迎についての対応も、ぜひ考えなければならないことではないでしょうか。そのような意味で、まず≪2≫に法然聖人のことばを記録した「一紙小消息」を読んでみますと、ここでは法然聖人がひとびとにはっきりと「阿弥陀仏は不取正覚の言(ことば)を成就して現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん。」と述べておられます。
それでは、法然聖人を代表する文章「選択本願念仏集」において、臨終来迎はどのように表現されているかといいますと、その第十章において「かくのごときの愚人、多く衆悪を造って、慚愧有ること無し。命終らんと欲する時、善知識の、為に大乗の十二部経の首題の名字を讚ずるに遇えり。かくのごときの諸経の名を聞くを以での故に、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教えて、合掌叉手して、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。その時彼の仏、すなわち化仏、化観世音、化大勢至を遣わし、行者の前に至らしめ、讃じて言わく、善男子、汝仏名を称するが故に、諸の罪消滅すれば、我れ來って汝を迎うと。」とあるごとく、仏名を称えることによって五十億劫の長い間生まれ変わり死に変わりして造った罪を除くことが出来て、さらに、その時、阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩が称名念仏者を讃歎して「お前を浄土に迎える」と来迎し給うことが観無量寿経に書かれている。「私(法然)は、このように称名念仏が何よりも衆生が浄土に往生するための欠かすことのできない行であることを、生死輪廻で造った罪の滅罪や仏の来迎などを伴なった最高の行であると考える。」と縷々述べておられます。したがって「選択本願念仏集」では来迎を肯定的に浄土往生の兆しとして人々に説かれているのです。
最後に、親鸞聖人が晩年に編まれた「西方指南鈔」においては、法然聖人の臨終のでの言行が記録されています。これは「西方指南鈔」の巻上末の『法然上人臨終の行儀』に出ておりますが、これを≪4≫の(1)、(2)の文章で読み取ることができます。法然聖人はこの内の(1)では弟子たちが臨終が近づいている法然聖人に、平安浄土教の行儀に則って臨終の際の用意にと三尺の弥陀の像を聖人の傍に据えて、この御仏を拝んでくださいと申し上げたところ、聖人はこの仏よりほかに、また仏がおられるのかと、その弟子たちが据えた仏像の方は見ずに、別の方を指さされたということ、すなわち聖人は弟子たちが用意した仏像ではなく、自らが既に心に観じている仏の来迎に遇われていていて、その仏のほかに弟子たちが示す別の仏がいますのかと問われたのでしょう。更に(2)において、臨終が近づいた法然聖人に弟子たちが仏像の御手に五色の糸をかけて、聖人がその糸を持たれるようにおすすめしたところ聖人は「これは世間一般の習わしだろうが、私には必ずしもそのようなことは必要がない。」と弟子たちが勧める臨終の行儀をことわられたとの記述があります。これは臨終来迎との関係でどのように受けとるべきかということですが、私は法然聖人の心の中には既に仏が来迎されていたのでしょうか、世間一般の臨終行儀である仏像の御手に結んだ五色の糸を手に取られることはありませんでした。以上のようなことですが、上の例文の≪2≫〜≪4≫から考えますと法然聖人は来迎をかならずしも否定せず、人々に称名念仏を何よりも勧める中でその功徳としての臨終来迎を説いておられます。このあたりが「臨終待つことなし、来迎たのむことなし、信心の定まるとき、往生また定まるなり」とされた親鸞聖人と法然聖人の微妙でしかもはっきりとした具体的な違いではないでしょうか。よく法然聖人は念仏を、親鸞聖人は信心を第一義とされたという漠然とした法然・親鸞の違いを言われることがありますが、何か抽象的ではっきりとした違いの把握になりにくい気持ちがします。しかし上記のような来迎に対する法然聖人と親鸞聖人の違いは比較的具体的に受取ることができます。しかし法然聖人も古来からの風習である仏像と自分の手を五色の糸で結んで臨終を迎えるという儀式は必要が無いこととしておられます。これはまさに臨終を迎えておられる聖人のこころにはまざまざと浄土からの仏が顕れていたのだと受けとることができます。その意味で人間の造った仏像などをツールにするのではなく臨終時にまざまざと顕れる仏の来迎を肯定しておられたということではないでしょうか。というよりも法然聖人には臨終と言わず、日頃から常に弥陀仏は聖人のこころに住んでおられたともいえるのではないでしょうか。その点、平生から弥陀の摂取のなかにあるとの信の世界におられた親鸞聖人と変わるところがなかったのではないでしょうか。また、上記「西方指南鈔」の(2)の文章において法然聖人が「これはおほやうのことのいはれぞ、かならずしもさるべからずとぞのたまひける」として、世間一般の臨終の行儀を断られたのと、晩年の親鸞聖人が末燈鈔第一書簡で「来迎の儀式を待たず」とされていることは親鸞聖人が生涯にわたって法然聖人の御弟子であられたことを鮮明に物語っていることだと受けとることができます。
今月はこれで終わります。
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末燈鈔第三書簡 信心をえたるひとは、
かならず
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【HP作成者感想】
今月は末燈鈔第三書簡と歎異抄第15条を掲載させていただきました。私の場合、多くの日本人と同じだと思うのですが、歎異抄を読むことにが親鸞聖人の教えとの出会いでありました。
よくわからないところも多くありましたが「弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。」という誰をも区別しない平等性、そして、その次の
「そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にまします。」さらには「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々」
、 そして窮極には「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。」 このような、救われようのない人間から、まず救っていくという弥陀の本願のはたらきについて、日々の所業において、まことに救われようのない自らを振り返って、天地が逆転するような、なんともいえないよろこびというか、安堵感というか、そのような気持ちにおそわれたものです。そのほか「念仏はまことに浄土にうまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。・・・」という強烈な思いに圧倒されたおぼえがあります。
ただ、このように強烈な親鸞聖人の信心をまちがいなく伝えようとする歎異抄の唯円の言葉に対して、いわば、全て“ごもっとも”と納得できるのかというと、正直そうでないところもありました。その内の一つが、本日、上に記した「歎異抄第十五条」の中の唯円の言葉です。「
今月はこれで終わります。
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末燈鈔第二十一書簡より 如来二種の廻向とまふすことは、この二種の廻向の願を信じ、ふたごゝろなきを、真実の信心とまふす。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。 |
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歎異抄第四条より 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。 |
如来の二種迴向(往相迴向・還相迴向)をうたった和讃
(1)
如来二種の迴向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆへ
憶念の心たへぬなり
(2)
(3)
(4)
すすめいれしめおはします
(5)
(6)
すなはち
(7)
これらの
【HP作成者感想】
今回は末燈鈔第二十一書簡と共に、親鸞聖人の二種迴向(往相迴向・還相迴向)を讃嘆する和讃を多く掲載させていただきました。
聖人は教行信証をはじめ、三帖和讃、ご消息等で二種の迴向という如来のはたらきを、多くの場面で讃嘆しておられます。ところで、この如来二種の迴向の内、私は往相迴向については、まことに有難く、自然に拝受させていただけるのです。しかし還相迴向については、未だに、どうしても、自然に拝受させていただくことができないのです。すべて私の煩悩のなせるところではないかと思うのですが、どうしてもこの状態なのです。今回はこのことについて、私の思いを述べさせていただきたいのです。
では、まず往相迴向について、わが心の内が自然に有難く大悲の内なる状態になるのかということを、正直赤裸々に申し上げますと、これも聖教の内の「安心決定鈔」において『われらが道心二法・三業・四威儀、 すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、 南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、 念々みな南無阿弥陀仏なり。 されば出づる息入る息も、 仏の功徳をはなるる時
最後に、それでは大いなる事実としての還相迴向はどのように考えればいいのでしょうか。私は、むしろ、いのち終わって浄土に往生すれば如来と一体となり、仏と成って無限の慈悲をもって浄土を求める衆生を導いて生死を超えるという最大、究極の救いを与えることによって、刻々と、あまねき衆生救済のはたらきを続けることができる。そして時に法然上人や親鸞聖人のような無上の善知識を弥陀・観音・勢至の生まれかわりとして、この世に送り人々を永遠(とわ)にわたって浄土に導くという、これこそ私は事実を伴った還相迴向のはたらきではないかと思うのです。生死を超える道、生死一如の世界に衆生を導くことこそ大いなる、究極の還相迴向のはたらきではないかと思うのです。
なお、末燈鈔において、如来二種の迴向の記述は、この第二十一書簡のみですが、親鸞聖人がつくられた和讃では如来二種の迴向を讃嘆されているものが多くありますので、これら和讃によっても、如来二種の迴向、特に難解な還相迴向という事柄を共に考えていくご参考になればと思って上に記述させていただきました。
今月はこれで終わります。
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末燈鈔第二十一書簡より |
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歎異抄第四条より 慈悲に |
如来の二種迴向(往相迴向・還相迴向)をうたった和讃
(1)
ふかく
(2)
(3)
(4)
すすめいれしめおはします
(5)
(6)
すなはち
(7)
これらの
【HP作成者感想】
先月の終りに、7月からは『恵信尼公御消息』に入りたいと申し上げましたが、先月の「こころのページ」でとりあげました“如来二種の回向”について、今少し、申し上げたいことができましたので、先月に続いて、同じ表題で、掲載させていただきました。
先月は如来の二種回向の還相迴向について、歎異抄第四条の聖道と浄土の慈悲の対比について、聖道の慈悲が思うがごとく助けとぐることはきわめてあることかたしということは、現代の私たちの身の回りのことを考えても頷けることなのですが、それでは、浄土の慈悲はどうかというと、念仏して急ぎ仏になって、思うがごとく衆生を利益する、すなわち念仏申すのみぞ、末とおりたる大慈悲心であると親鸞聖人が述べられたという歎異抄のこのことばに、まったくといっていいほど納得できなかったこと。 また、還相迴向の証(あかし)として、(1)例えば、近親に亡くなった人がいる場合、ふと仏壇に手を合わせるようなことが多くなるといったことが亡くなった方の還相迴向のあらわれだとしたり、 (2)あるいは、ある方が、少年時代に、折しも大流行した病気のために、その方を残して、家族全員が亡くなるという悲惨な歴史的事実があったのですが、その少年を遺して、最後に、その母上がいまや亡くなろうとされているとき、近親の方が、励ましの意味もあって、少年を指して「このような、いたいけな子を遺して死んでしまってはいけない。」との言葉を母上に言ったところ、少年の母上は、比較的明るい声で、「いいえ、たとえ私のいのちが終わっても、お浄土から還って、ずっとこの子を見守ります。」と言われたということ、そしてその少年は、常に、この母の言葉を胸に懐いて、その後成長し、多くの人々に真実の仏の教えを伝える高名な仏教者となられたことを、すばらしい母の還相迴向の事実として、法話の会で披露されたりすることがあります。この事は事実としてあったことで、大変すばらしい話であります。しかし、私として、あえて申し上げることができるとすれば、こんなに還相迴向という事柄は、数少ない、限られた話なのだろうか、過去以来、浄土往生された念仏者は数知れぬほど多い中で、すこし寂しすぎるのではないか。もっと多くの、還相迴向の事実がこの世に展開していてもよいのではないかと、つい思ってしまうのです。このような法話がなされるについては、基本的に、二種回向、すなわち往相・還相の回向について次のような伝統的解釈があり、それに基づいて、このような解釈を、その証(あかし)として、我々にわかるようにと法話される、ご苦心があるのだと思います。その伝統的解釈を、元龍谷大学の教授の星野元豊師の『講解教行信証』から引用させていただきますと
①「往相とは衆生が浄土へ往く相(そう=すがた)であり、還相とは現来穢国といって、一度往生したものが衆生救済のために、この娑婆に還ってくることをいうのであって、共に衆生の相である。往相も還相も共に如来の迴向である」。
すなわち、この伝統的二種回向の解釈によれば、往相、還相共に如来の迴向によって、衆生に現れる相、という解釈からなっているので、それをもとにこの事柄を証(あかし)すれば、上記(1)や(2)のような個人的な還相の顕れ方となるのでしょうか。しかしそうとすれば、もっと広くあまねく、このような還相迴向のはたらきがあってもよいように思いますが、そのような実例を、あまた語られるのを私の狭い経験の範囲内においては、いまだありませんし、そのような内容の書籍に接したこともありません。このように考えていました時にある書籍に出会いました。それは寺川俊昭師著「親鸞の信のダイナミックス-往還二種回向の仏道-」です。これを拝読して、私は眼を開かれたような感激を覚えました。これは寺川俊昭氏の師である曽我量深師の「如来の二種回向」についての、ご領解を紹介された本でありました。その中で、わたしが最もひきつけられたのは曽我量深師のやや難解ではありますが、つぎのような二種回向についての論述です。②『我が個性を救ふ所の仏はその本願業力を我の往相の前途に表現して、具体的なる名号を成就してわれの行の足となり、又我の還相の背後に影現して、われの師父となりて教の眼を回向し給ふ。無上涅槃の霊境は我の往相の行の究極の理想であるが、その涅槃の大用たる還相の利他教化は遠き未来の理想であらふと思ひきや、現に自己の背後の師父の発遣の声の上に、已に実現せられてある。われの伝道的要求は、我の教を受くる所に於て已に満足せられてある。祖聖は自己の往相に付て教行信証の四法の回向があると云はれ、又還相回向を以て利他教化地の益であるとせられたが、往相の第一なる教、即ちわれ等が入道の第一関門なる師父の教は、そのまま我の未来に於て満足すべき往相の究竟理想の彼岸より反影する所の還相の利他教化と、全く同一体である。
(中略)往相は未来の世界に至りて、初めて究極するから、それから応現する所の還相の大用はわれの受くる所の真実教の上に、即ち往相以前に已に我が背後に開展せられて在るを見よ。』
この曾我氏の二種回向論を見ますと、上の②の文章の中の、下線部で「涅槃の大用たる還相の利他教化は遠き未来の理想であらふと思ひきや、現に自己の背後の師父の発遣の声の上に、已(すで)に実現されてある。」と述べておられます。すなわち、還相迴向の利他教化のはたらきは、遠い未来の事かと思っていたが、現に曾我氏の背後の師父の教えの声の上に既に実現されている。そして、この文章の最後(中略)以降の下線部で「往相は未来の世界に至りて、初めて究極するから、それから応現する所の還相の大用は、われの受くる所の真実教の上に、即ち往相以前に已(すで)に我が背後に開展せられて在るを見よ。」と敢然と言い放っておられます。還相は私(曾我)の往相以前に已(すで)に我(曾我)が背後に師父の教えとして繰り広げられているというのです。還相迴向は、私が往相迴向によって浄土往生する以前に、すでに師父の教えとして私に脈々と働いているというのです。ここで師父とは誰を指すのでしょうか、師父とは師主知識のことですから、この人たちこそ、曽我量深師にとっては清澤満之であり、親鸞聖人であり、七高僧であり、そして仏祖釈尊であるわけであります。そして、これら已(すで)にはたらいている師主知識の還相迴向によって、私(曾我)の往相・還相の迴向は成就されるのだとも云っておられることになります。まことに眼からうろこのような曾我氏の還相迴向論を前にして、私(五島)の歎異抄第四条の浄土の慈悲に対する疑問は氷解しました。すなわち、第四条のような聖道の慈悲でできなかった究極の救済は、既に還相迴向として師主智識の教えがここに現前するではないか。そして私(親鸞)は今まで口が酸っぱくなるまであなた方に、その法然聖人をはじめとする師主智識の教えを説いているではないか。だからあなた方も、念仏して急ぎ真実の仏道に目ざめ、如来の恩徳にあずかり、浄土往生して如来となって、衆生の仏道成就に参画しなさいと聖人は言っておられるように私(HP作成者)にはきこえます。そして、第四条の最後の言葉「しかれば、念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべき」となるのではないでしょうか。では歎異抄のいう“聖道の慈悲”では実現できなかったけれども“浄土の慈悲”では実現できる“究極の慈悲”とは何でしょうか。これこそ、親鸞聖人が自己の仏道の成就に悩み悩んだあげくに比叡の山を決死の覚悟で降りて、法然上人の膝下に参じて求めたものは何か、これこそ親鸞聖人にとっての“生死出づべき道”ではなかったでしょうか。“生死出づべき道”の成就以上の究極の救いは、私たちにとってあるでしょうか。この“生死出づべき道”こそ清澤満之が「絶対他力の大道」で痛烈にもとめた『自己とは他なし、絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗託(じょうたく)して、任運に法爾(ほうに)にこの現前の境遇に落在せるもの、すなわち是れなり。只(た)だ、それ絶対無限に乗託す。故に死生の事、また憂うるに足らず、死生なおかつ憂うるに足らず、如何にいわんや、それより而下(じか)なる事項に於いてをや、追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗擯斥(ひぼうひんせき)、許多(きょた)の凌辱、豈(あ)に意に介すべきものあらんや。否、之(これ)を憂うるといえども、之を意に介すといえども、吾人(ごじん=われら)は之を如何ともする能(あた)はざるなり。我人(われら)は寧(むし)ろ、只管(ひたすら)、絶対無限の吾人(われ)に賦与(ふよ)せるものを楽しまんかな。』のことばが符合するのではないでしょうか。このようにして曽我量深師の二種回向への着想にもとづけば、既に記した、死した個人がこの世に還って我が念仏となってあらわれたといった還相迴向の個人的体験談への疑問も、なるほどそんなものかと受け入れられるのではないかと思いますし、また、二種回向の相(そう=あらわれ)は衆生なのか如来なのかといった対極も解消され、すべてが如来のはたらきであるというとこころに落ち着くのではないかとさえ私(HP作成者)には思えてきます。 そして上記曽我量深師の二種回向の領解に随(したが)えば、私たちが今読み進めているこの第二十一書簡で聖人が「この二種の迴向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心とまふす。この真実の信心のおこることは、
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今回は原文・現代文・解説ともに石田瑞麿師著「親鸞とその妻の手紙」を参照させていただきました。 その中でひらがなで表現された語句の一部のルビが、その語句に相当する漢字で表現されています。 (2) 本文中で数字を付された語句については、註解の文章で同じ番号を付して解説しています。 (3) 原文で欠字があったり、解読不能の文字がある部分については□で表現されており、その部分については、おそらくそうではないかと思われる語句をルビで示しています。 (4) 下人等の人名には現代文で、その上に「ヽ」を打って人名であることを示しています。 |
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又 さてけさか おほかたは人の下人にうちのやつばらのぐして侯は、よにところせき事にて候也。 巳上、 「 |
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恵信尼消息(現代文) |
| ◎ この文書は恵信尼から、わうごぜんに譲り渡そうとする下人の譲り状です。 現代からすると、下人の譲り状のごときは、決してあってはならないことですが、鎌倉時代においては、このような、下人の存在、およびその譲渡といったことが普通に行なわれていたことは史実の示すところであります。鎌倉時代の現実生活を如実に表現している恵信尼の文書を読み解くこと、聖人に一番近い、生活者としての恵信尼の現実生活を色濃く物語っているこの文書を読み解くことは、人々の生死出づべき道を模索した親鸞思想を追求する上で、むしろ必要なことではないかと思ったところです。 [註釈] 一 書き付け : 原文に「もんそ(文書)」とある。この書き付けは恵信尼から娘の「わうごぜん(後の覚信尼)」に与えられていた下人の譲り状である。これを火事に遇って焼いてしまったらしいので、あらためて書き送ろうというのである。 二 そちらに参ることになっているもの : 恵信尼が娘の「わうごぜん(覚信尼)」に譲り渡そうとする下人のこと。 三 けさ : 下人のなまえ、これらの名前については、現代訳の該当部分に「ヽ」のルビを示すことによって、なまえであることをはっきりさせた。 四 下人 : 下人は平安から鎌倉時代にかけて、武士、荘官、名主などに隷属した所有財産であって、相続・譲渡・売買などの対象とされた。 五 建長八年 : この年(1256年)、恵信尼は七十五歳、親鸞は八十四歳で、善鸞を義絶したのはこの年の五月二十九日である。 六 わかさ殿の : この行は、この手紙の裏の端書である。「わかさ」については、若狭の字を当て、覚信尼の侍女とする説が一般に認められている。 七 ちくせん : 「ちくせん」については筑前の字を当て、恵信尼の呼び名と見るのが一般。これによって、恵信尼が親鸞と結婚する前は、越後のだれか名家豪族のもとで侍女をしていたとする説があり、この時の名が若いころの晴れがましい想い出を呼び起こすものであったから、これを用いたのだろうと見られる。 |
【HP作成者感想】
いよいよ今月から恵信尼公の御消息を味あわせていただきたいと思います。
恵信尼文書は上記のように先ず「下人の譲り状」から始まります。現代においては、下人といった身分はあってはならないもので、そのことは上記の「注釈」の冒頭でも記したところです。親鸞聖人の生死出づべき道を追求する宗教者としての道程が、恵信尼文書が示す、このような厳しい社会と日々の生活の状態から生み出されていることは、親鸞思想を味わっていく上で、決して、ないがしろにしてはいけない事柄であって、その意味で、恵信尼のことばには現実の厳しくもたくましい生活者としての側面を見逃すことは出来ません。その意味でこの消息の中では、当時の社会の現実生活の中での親鸞思想をピックアップして考えていけたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
この文書は恵信尼から「わうごぜん」すなわち娘の覚信尼への下人の譲り状です。その譲り状は以前にも覚信尼へ送られたものと思われますが、それが、どういう訳か、覚信尼の方で、その文書を焼いてしまったようで、あらためて恵信尼が、譲り状の事実をしっかりと覚信尼に伝えるために、書いたものであると考えられます。ここでの恵信尼のことばですが、下人の名前の一覧を述べた後で、「さて、
この恵信尼のことばには驚くばかりです。親鸞聖人の書簡には決して出てこないような、いうなれば野卑な言葉です。このような恵信尼の言葉は、次の恵信尼の消息、すなわち第二通目にも顕れています。この文書も第一通の譲り状をさらに間違いないように確認しようと恵信尼が覚信尼に出した、同じ内容の譲り状ですが、その最後の部分に「
今月はこれで終わります。
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今回は原文を西本願寺注釈版、現代語訳はなんとか自分で納得できる訳文を自作させていただきました。 又、消息2につきましては、先月の消息1とほぼ同様の内容ですので省略し、第3通の初めの段落について掲載させていただきました。 |
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恵信尼消息(現代文) |
【HP作成者感想】
この手紙は、恵信尼の末娘、覚信尼からの手紙に答えられたものと見られます。覚信尼の手紙はどのような内容だったのでしょうか。推察の域をでませんが、法然聖人の御往生の際は紫雲がたなびくような奇瑞が見られたという人びとの話を聞いていたのかも知れません。しかし、多くの人々を真実の仏道に導いたと思われる尊敬する父の親鸞が、臨終には、何の奇瑞も見られず、多くの人々と同じような平凡な亡くなりようだったことを、いささか物足りなく思って、父に長年連れ添った母に、このことをどのように考えたらいいかと尋ねたのかも知ません。このような娘の思いに、恵信尼は、あなたの父は、間違いなくお浄土に往生されたのだということを「なによりもまず、殿(親鸞聖人)がお浄土へご往生になられたことは確かで、それについては、今ここで、あらためて申すまでもありません。」としっかりと伝えられています。その上で、夫の親鸞聖人が、若き時代に、いのちをかけて、ひとえに、比叡の山では果たせなかった「生死出づべき道」をどのようにもとめていかれたかを、懇々と語っているのが、この部分です。これは上の原文および現代語訳をお読みいただければわかります。また、このお手紙の発見によって、覚如上人が御伝鈔に記されている六角堂で親鸞聖人が聖徳太子の示現にあずかったという事柄の傍証がえられたということもうかがえます。
さらにまた注目すべきは六角堂に籠って95日目の暁に聖徳太子の示現をいただいてはじめて、法然上人の吉水におもむかれ、更にまた、照る日も降る日も、いかなる大事なことも投げうって、また百日のあいだ法然上人のもとへおもむかれ、上人が、善人であろうと、悪人であろうと関係なく、一筋に生死出づべき道を説かれる様子に無上の教示を受けて、上人の膝下で教えを受けることを決断されたということです。この事実はまた、その決断に至る親鸞聖人の悩みの深さをも顕していることにもなります。なぜなら、当時の法然上人はその声望の高さと共に、また聖道門からの強い糾弾の的になっていたからです。このことは親鸞聖人にとって、法然上人の膝下に参ずるということは、まさに命がけであったということをあらわしているのではないでしょうか。それだけに、このような恐怖と、躊躇を超えて、法然上人の教えのもとに就かれたということは、歎異抄第二条で、親鸞聖人が 「たとえ法然聖人にすかされまいらせて地獄に落ちようとも後悔すべからず候。」といわれたことにも合致します。そして、このことは、また、親鸞聖人が、関東から身命を顧みず京都にのぼってきて、関東における教えの乱れから生ずる疑問を聖人に次々とぶつけたであろう念仏者たちに対して、上のような「地獄一定」の厳しい答えをかえされたという歎異抄第二条における唯円の記述を傍証するものであり、恵信尼公のこの手紙が日本の宗教史上に示す凄さをあらためて、現代の我々に示しているということではないでしょうか。
今月はこれで終わり、来月に続けさせていただきます。。
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原文を西本願寺注釈版、現代語訳は今回も、なんとか自分で納得できる訳文を自作させていただきました。 今回も前回の続きとして第3書簡の途中から進めてまいります。 |
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〔三〕(先月の続き) さて されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、 |
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(恵信尼消息現代文)つづき |
【HP作成者感想】
先月に続いて、恵信尼公は今の茨城県の下妻というところの、さかいの郷というところにいた時に見た夢の話を語ります。そこでは、お堂の落慶供養のような場面が出てきて、鳥居のようなもののところに仏の絵像でしょうか、二対の仏さまが掛かっていました。そのうちの一体は、お顔はよく見えませんでしたが、その頭部から円光のような光が強烈に輝いていました。そばの人に「この仏さまは、どのような仏さまですか」と尋ねたところ「これはまさしくを法然上人さまです。」 という答えがかえってきました。そして「もう一体の仏さまは?」と尋ねたところ「あれは観音さまです。あれこそ善信の御房でいらっしゃいますよ。」という答えがかえってきて驚いたところで夢が覚めたと書いています。しかし、このようなことは人には言わないことだと聞いていた上に、尼である自分(恵信尼)がそのようなことを人に言っても真に受けないだろうからと、全く人にも、夫の親鸞にも言わずに、法然上人の御ことだけを殿(親鸞)に申し上げたと書いています。このあたりの、このような夢の話は誰に話しても、まともに聞いてもらえないだろうという判断は現代にも通じる、現実的で、常識的な判断であることが注目されます。しかし夫の親鸞聖人に対して、この人は尋常な人ではない、恵信尼自身にとっては観音菩薩にも等しい人であるという現実的・常識的な判断を超えた深い思いを持っていたことがわかります。また当然のこととして、夫が生涯かけて敬い讃嘆した師である法然上人に対しては頭部から円光を発する尊い仏として夢の中でも無上の帰依の心をいだいていたこともわかります。また、夫の親鸞が観音菩薩であるという夢を見たのは言わずに、法然上人のことだけを夫の親鸞に話したところ、「それは実夢である。法然上人が勢至菩薩の生まれ変わりだということはいろいろな所で言われている。」と恵信尼に話すあたりは、750年以上を経た現代においても目の当たりに見るような夫婦のこまやかな言葉のやり取りであることがわかります。そしてこのように見た夢の話と、親鸞聖人に対する自らの深い思いを娘の覚信尼に伝えることによって、このたびの父(親鸞)の浄土往生に対する疑問に答えようとはしています。これら娘の覚信尼との手紙のやりとりや、親鸞に対する妻恵信尼の無上の想いの表白は、上記と同じく、とても750年も前の情景であるとは思えず、昨日今日のことがらのように私には思えるのですがいかがでしょうか。
今月はこれで終わり、来月に続けさせていただきます。。
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今回も前回の続きとして第3書簡の最後の部分を読み進めてまいります。 この手紙は第三書簡の追伸にあたる部分で短い文章ですが親鸞聖人が比叡山で、どのように過ごしておられたかがわかる歴史的に大きな意味を持つ文章です。 |
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恵信尼消息(原文) |
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(恵信尼消息現代文) |
【HP作成者感想】
この追伸の部分、短いものですが、親鸞聖人をめぐる歴史的な事実を探究する上で、非常に貴重な部分です。親鸞聖人が比叡の山をおりて法然上人のもとに、はじめて参じられたのは、聖人が29歳の時だと言われています。このことは明治時代以前の段階で、多くの文書で伝えられていたところです。しかし、それでは比叡の山(天台宗
延暦寺)で一体何をしておられたかということは、史実の上からははっきりわかりませんでした。それどころか、親鸞聖人は、はたして実在の人物かどうか疑問だということさえ言い出す人もいたくらいであったということも聞いています。しかし大正10年に鷲尾教導師によって西本願寺の蔵から、いま読み進めている「恵信尼文書」が発見されて以来、親鸞聖人が間違いなく実在の人物であったことは元より、若き時代には比叡山延暦寺で「堂僧」をつとめられていたことまでが、史実的に間違いないものだということがわかったということは、現在広くしられているところです。まさにこの大発見のもとになったのが今回の恵信尼公の第三書簡の追伸部分にあったということです。それでは比叡山における「堂僧」は、どのような修業をしていたのでしょうか。調べましたところでは、このころの「堂僧」には法華三昧堂の堂僧と常行三昧堂の堂僧とがあって、聖人はおそらく常行三昧堂の堂僧をつとめていたものと見られています。それでは常行三昧堂における常行三昧の修業とはどういうものかといいますと、「九十日を一期として阿弥陀仏像のまわりを回りながら口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念ずるもので、昼夜続けるをいう「常行」の称があり、この三昧が成就すると諸仏をまのあたりに観ずることができるといといったものであったとのこと(「岩波
仏教辞典」より)。昼夜をとわずに念仏を続けるというまことに厳しい修業であったことがわかります。しかし上の恵信尼公の追伸をみますと究極の“生死出づべき道”を求めた聖人にとっては、このような厳しいだけの修業では真の意味で聖人が求める「生死出づべき道」を見出すことが出来なかったのでしょう。その結果、山(比叡山)を下りて六角堂に籠り、九十五日目の暁に聖徳太子の示現のことばにあずかったということで、このあたりのことは前々回、9月のこの欄で読み進めたところです。そこでは法然上人が、身分の上下を問わず、善人悪人をとわず、ひたすら“生死出づべき道を”説き続ける姿に打たれた親鸞聖人は自らの生涯を法然浄土教に全身全霊を投じたということでしょう。このような事柄を如実に史実の上から私たちに示してくれる、この恵信尼書簡の追伸文の凄さを今さらの如く感ずるところです。
ちなみに、この追伸で、恵信尼公が書簡の最初に“この
今月はこれで終わります。
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第4書簡は省略し、今月は第5書簡を読み進めてまいります。 高熱のインフルエンザともとれる重い風邪に見舞われた親鸞聖人が、熱にうなされ夢うつつの中で経の文字が1字も残らずはっきりと目に浮かび、懸命に大経を読んでいる自分に気が付き、念仏を指し置いて何故、経の読誦にはやるのかと気が付き、よくよく考えてみれば、十七・八年前に飢饉に苦しむ人々を何とか救いたいと三部経を千部読誦しはじめて、ふと気が付き、念仏のほかに、何の不足があって経を読誦しようとしているのかと思い返して読誦をやめ、自信教人信の道を念仏一筋にひたすら突き進んできた自分は間違っていなかった(「まはさてあらん」)ことをふりかえり、それにしても経の読誦に今に至っても自力執心する自分のこころに、あらためて驚くと共に、よくよく心すべきことを、噛みしめている聖人の様子を、そのときの状況と共にリアルに記録している恵信尼のすばらしい文章です。 |
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恵信尼消息5(原文) こうちやう三ねん二月十日 ゑ信 |
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(恵信尼消息5現代文) 弘長(こうちょう)三年二月十日 恵信 |
【HP作成者感想】
今回は第五書簡です。この書簡は寛喜三年、親鸞聖人が五十九歳のころの、重い風邪を引かれたときのことを振り返って恵信尼が覚信尼に書き送った手紙です。
手紙の内容は、現代語訳をお読みいただくことで、その時の状況を把握してください。現代ではあまり使われていない用語は、その現代語訳の後ろの( )内に原文用語を記しています。
この手紙で、私たちが注目すべきところは何といっても、風邪のときに高熱にうなされながら『大経』の文言が一字一句、目に映じて、これを読もうとしている自分に気づき、それで思い出したことだが、その時から十七・八年前、聖人が常陸への途上、武蔵の国だったか、上野の国だったか、とにかく、佐貫というところで、衆生利益のために『三部経』を千部、読誦しようと思い立って始めたけれども、念仏を称える以外に何の不足があって経を読もうとしているのかと、経の読誦をやめて、聖人は常陸に向かわれたということを恵信尼が語るくだりです。衆生救済のためには称名念仏一筋に自信教人信の誠を尽くすことが仏恩に報い奉る事であって、そのほかに何の不足があっての経の読誦かと、これ以後は念仏一筋に自信教人信(自ら信じ、信じた仏の教えを人にも伝える)の道を歩んできたところが、この度の風邪での高熱にうなされ、また経の読誦をしようと執着している自らを発見し、その自力執心の強さを噛みしめ、「まはさてあらん」と、念仏一筋の道を歩もうとする聖人の姿を、恵信尼は書きとどめています。第五書簡の、この部分こそ聖人の宗教的信条の核心を示すことがらであろうと考えられます。
では何故、念仏一筋の道が、衆生利益のための唯一の道なのかということです。私が考えますに、これはいうまでもなく、法然上人の「往生の業、念仏爲先」の教えをうけた親鸞聖人が念仏一筋の道を進み浄土に往生して仏となって、はじめて神通無礙に衆生を利益することができると信じていたからでしょう。このことは歎異抄第四条においても、「浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏となりて大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」という唯円が伝える親鸞聖人のことばもあります。唯円が聖人のことばとして伝えている、上の「 」内のことば“念仏していそぎ仏となりて”という部分については、いろいろ議論がある部分ですが、このことについては次回に検討していくことにして、いずれにしても、法然・親鸞の浄土教では、われわれ底下の凡夫がいのち終わって仏となる途はただ念仏以外にはなく、まず念仏して、仏と成って、衆生利益をすることが恵信尼公の第五書簡と、歎異抄第四条のどちらもが伝える親鸞聖人の中心思想であることがわかります。すなわち、恵信尼文書第五条のこのくだりこそ、親鸞聖人の二種迴向をあらわすことばではないかと思うところです。
今月はこれで終わります。