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新しい年を迎えましたが、いま少し、巨象「正法眼蔵」のほんの一部を撫でる作業をつづけます。ついては今回の「自証三昧」の巻、その言われんとするところを拙考するに
その全文をまず記した上で、私こと「HP製作者」の愚考を開陳させていただく以外に取る道がないことに思い至り、それには難解なる【原文】すべてを道元禅師に一旦
お返しし、私にとってなによりもすぐれた訳文たる【増谷文雄師による現代意訳】をまず冒頭に掲げ、それに基づいて、【HP製作者】の愚考文を開陳させていただくことにいたしました。
あしからずご了承の程、お願い申し上げます。 |
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とおきもろもろの仏や、かの七仏から、代々の仏祖たちが正伝するところ、それがすなわち自証三昧である。それは古いことばでいえば、あるいは知識によるものであり、あるいは経巻によるものである。 とともに、それはまた、仏祖の眼睛そのものにほかならない。だからして、かの曹谿の慧能古仏は、ひとりの僧に問うていった。「いったい、また、修行だ証得だということがなくてはいけないのか」 その僧は答えて いった。「修行だ証得だということがいらないわけではありませんが、また、いろいろいじくりまわして汚してもいけません」 それによっても知るがよろしい。まったく純粋にしてけがれのない修証、それがとりもなおさず 仏祖そのもの、もしくは仏祖の三昧のおもむきというものである。 〔知識に従うということ〕 さて、あるいは知識に従うという。まさしくその時には、あるいはその人の半面にまみえ、あるいはその半身にまみえる。またあるいは、その全面にまみえることもあれば、あるいは、その全身にまみえることもあろう。 あるいはまた、そのなかばは自己にまみえ、そのなかばは他者にまみえるということもあろう。あるいは、さらにいうなれば、すぐれた頭には毛がはえていることを見出したり、おそろしい面(かお)には角がはえていることに 気がつくこともあろう。そして、その類を異にしていても、やはり知識に従うということもあり、あるいは、おなじ枝から生じながらも、やはり変ってしまうということもあろう。だが、ともかく、こんな具合にして法のために 身を捨てた人々はその数もしれないし、あるいは、身のために法を求めたこともいく度なりしやも知れない。そしてそれらがすべて、いわゆる知識にしたがうことに他ならないのであるが、それらはまた、まことは自己に参じ 自己にしたがっているのである。かくて、はじめて、釈迦牟尼仏の瞬目に相見えたときに迦葉の破顔(はげん)がありうるのであり、菩提達磨の得髄を礼拝するにあたって三祖慧可の断臂(だんび)もありえたのである。 いったい、かの七仏のころから、かの六祖慧能の時代にいたるまで、よく自己にまみえることをえた善知識は、その数ひとりやふたりにはとどまらない。それに反して、よく他者にまみええたなどという善知識は、 むかしもいまも、一人も見ることをえない。 〔経巻に従うということ〕 また、あるいは経巻に従うという。そこで、自己の皮肉骨髄をどこまでも究めいたり、ついに自己の皮肉骨髄をさらりと脱ぎすててしまう。そのとき、眼睛はおのずからひょっと飛びだしてきて 桃華と相まみえる。 あるいは、耳はひとりでに雷鳴のごとく鳴りわたって竹の声をきくのである。 いったい、経巻というものは、それに従って学んでいるうちに、まことの経巻がでてくるといったものである。その経巻というのは他でもない、十方世界のすべてがそれであり、山河大地がそれであり、草木のあれこれが それであり、あるいは、飯をくらい、衣をまとうもそれであり、あるいは、かりそめの振舞いもまたそれである。そして、それら一々の経巻にしたがって道を学べば、さらに、いまだかつてなかった経巻が、幾千万巻となく、 つぎつぎに現れいでてわが前にいたるので ある。そのなかには、たとえば、是(ぜ)の字の入った句があって、そうだ、そうだと領(うなず)いているし、あるいは、非の字の入った偈があって、あらためて、ああそうだったのか と肯(うべ)なわしめる。人は、それらに逢うことをえて、よく身心をあげて学びいたるならば、長いながい時をついやしても、ついにはかならずその道理に通達するところがあろうし、あるいは、その身心をすてきって参じ学ぶな らば、とおい過去時をも抉りだしてそれを飛びこえても、やがてかならずその経を受持する功徳を生みだすことができるのである。 いま中国には、インドよりもたらした梵本を翻訳した漢文の経典が、おおよそ五千巻たらず 存する。これに三乗があり、五乗があり、あるいは、これを九部にわかち、十二部にわかつ。それらはみな、従うて学ぶべき経巻である。それに従うまいと思っても、とても避けることはできない。だからしてこそ、 それが仏祖の眼睛となるのであり、あるいは仏祖の骨髄とされてきたのである。頭から尻尾にいたるまで、徹頭徹尾正しいのである。ふとみれば、それは他よりこれを受け、あるいは、これを他に授けるようであるが、 それはただ、眼睛のはたらきであって、もともと自の他のということを超越したものである。いうなれば、それはただ吾が髄を付属するということであって、もうすっかり自他の別を抜けでているのである。 つまり、眼睛であろうと吾が髄であろうと、それは自でもなく他でもないからして、仏祖はそれを昔から昔へと正伝してきたのであり、また、今から今へと付属するのである。 その経には、また拄杖(しゅじょう)という 経もあって、縦むきにも説き、横むきにも説き、おのずからにして「空」をも破り「有」をも破る。あるいはまた、払子(ほつす)という経もあって、雪をもすすぎ霜をも清める。あるいはまた、坐禅という経も一、二本あるし、 袈裟という経も存している。それらは、いずれも、もろもろの仏祖たちが、今にいたるまで大事にして伝えてきたものである。すべて人々は、そのような経巻にしたがって、修行をかさね、悟りをひらいて、道をえてきたのである。 これを人についていえば、いろいろの人があり、これを時にあてていえば、月日をかさねて、すべてよく経巻にしたがって修行をかさね、その道を実現するのである。 しかるところ、それらはすべて、あるいは善知識にしたがい、 あるいは経巻にしたがっているにちがいないのであるが、まことは、また、すべて自己にしたがっているのである。その時、その経巻はおのずからにして自己の経巻であり、その善知識はおのずからにして自己の知識なのである。 だからして、あまねく天下の知識に参じて学ぶということは、つまり、あまねく自己に参学するということに他ならない。あるいは、百草を拈じてというは自己を拈じてということに他ならず、また、万木をとりてというは 自己をとりてということの他ではない。自己というものは、かならずかようにして参学すべきものと知らねばならない。また、このようにして学ぶことによって、はじめて自己を超えて、ああ自己とはこれかと合点することが できるのである。 〔自証自悟ということ〕 かくして、仏祖の大道には、自証自悟という道具があって、それは正しい嫡子たる仏祖でなければ正伝せられない。つまり、嫡子から嫡子へと相承する調度であって、仏祖の骨髄を得たものでなければ正伝をうけないのである。 そして、そのように心得て参学するのであるから、またそれを人に伝授するときには、あるいは、「汝はわが髄を得たり」というあのような付属となるのであり、あるいは、「われに正法眼蔵あり、それを摩詞迦葉(まかかしょう) に付属す」ということとなるのである。 いったい、人のために説くということは、かならずしも自他の問題ではないのである。他のために説くということは、とりもなおさず、自己のために説くことに他ならない。そこでは、 自己と自己とが鉢合せして、あるいは説きあるいは聞いている。一つの耳はきき、一つの耳はといているのであり、一つの舌は説き、一つの舌は聞いているのである。そして、眼も耳も鼻も舌も身も意も、また、六根も六識も 外なる対象も、みなすべてそうなのである。さらには、一つの身、一つの心なるものがあって、あるいは修行し、あるいは証得するということもある。だが、やっぱり、法を聞くには、耳はおのずからにあるいは聞きあるいは 説くのであり、舌はおのずからにあるいは説きあるいは聞くのである。そのありようは、昨日は他の人のためにああ説いたのに、今日はじぶんのためにはこうだと説くこともあろう。だが、ともかく、そのようにして日をつらね 月を重ねて絶えることがなければ、他人のために法を説き、法を修することが、いつしか生々をかさねて、自己が法をきき、法を理解し、法を身につけることともなる。今生においてだって、誠の心だにあれば、他のために法を 説くことが、自己の得法をやすからしめるであろう。あるいは、他の人が法をきくことを勧めたり、助けたりすれば、それがおのずから自分の法をまなぶ縁(えにし)ともなるのである。あるいは身にえにしを得、あるいは心に えにしを得るのである。それに反して、他人の聞法(もんぽう)をさまたげるようなことをすれば、それはそのまま自己の聞法をさまたげることとなるであろう。 また、いく生涯となく生を重ねて、法を説き法を聞くということは、つまり、世々に聞法することである。さきには前生において正伝をうけた法を、さらに今生でもまた聞くのである。それは、またいえば、法のなかに生れ、 法のなかに死するのであるから、この世界のいたるところに法を伝えているのであって、よく生々に法をきき、そのたびごとにその身に法を修するのである。とすれば、それはいいかえれば、生々に法を実現せしめ、いずれの 身にも法をあらしめるのであるから、極小の世界から極大の世界にいたるまで、一切の世界をして法を証しせしむるものということをうるであろう。であるからして、東のほとりにして一句をきくことをえたならば、 西のほとりにいたって一人のために説くがよろしい。それはとりもなおさず、一つの自己をもって、聞くことと説くことの二つを、ともにいとなむことに他ならないのであり、東の自己も西の自己も、ともにおなじく修行する のである。ともあれ、なんとしてでも、仏法・祖道にわが身心を近づけてそれを実践すること、それをのぞみとし、それを喜びとし、それをこころざしとするがよい。それを一時(ひととき)からはじめて一日におよび、 さらに一年から一生におよぷ営みとするがよい。仏法をわが魂としてたえず思いめぐらすがよい。それが、生々をむなしく過さないということである。 それなのに、まだ悟りをえないで他人に説くべきではないと思うのはまちがいである。悟る時をまったのでは、いつまで経ってもその時は来るものではない。たとい人間界の仏を悟ることができ ても、さらに天界の仏をも知らねばならない。たとい因果関係によって生ずるものを知りつくしても、さらに因果にこころも知らねばならない。たとい因果関係によって生ずるものを知りつくしても、さらに因果によらずして 生ずるものも知らねばなるまい。また、仏祖のほとりのことまでは知りえたとしても、さらに仏祖の彼方をも知らねばなるまい。それらのことを一生のうちに明らかになしおわって、そののち他人のために説こうなどというのは、 よい工夫というものではない。また、よき男子の考え方でもなく、仏教を学ぶものの思うべきことでもない。 いったい、仏祖の道を学ぶときには、一つの教法をまなび、一つの作法を身につければ、それが同時にまた、 他のために説かねばならないという気持ちをいよいよ高からしめる。だからして、また自他の別はいよいよなくなってしまう。そのうえで、さらに自己を学びいたれば、それがそのまま、いつしか他者を学ぶことになっている。 また、そうして他者を学びいたれば、それがそのまま、いつのまにか自己を学びいたることになっているのである。このような仏教の道理があるから、たとい生知であろうとも、それはやっぱり師のおしえがなくては本当には 身につかない。ましてや、生知ありとも、いまだ師に会わなければ、さらに不生知を知ることも、不生不知を知ることもできない。つまり、たとい生知であろうとも、仏祖の大道は知りうるものではない、ただ学してはじめ て知ることができるのである。 つまり、自己をも体得し、また他者をも体得する、それが仏祖の大道というものである。だからして、この仏祖の大道をゆかんとするものは、ただ、まさに、自己の初心のころの参学を思いめぐ らして、他者の初心の参学をいとしみ憐れむがよろしい。そして、初心のところから自他ともどもに手を相携えてゆくならば、ついにはまた手を携えて悟境にいたることもできる。おのれの修行のごとく、他にもまた修行を すすめるがよいのである。「しかるに、この道はみずから証しみずから悟るべきものときいて、世の愚かなる人々は、では、この道は、師に伝え受けるべきものではなく、みずから学ぶべきもので あろうとそのように思う。だが、それは大きな謬(あやま)りである。自己の理解する思慮や分別のみをふりまわして、まったく師の伝承というものがないのは、かの天竺にいうところの自然外道(じねんげどう)にほかならない。 それが判らないような連中が、どうして本当の仏教者といえるものか。ましていわんや、「自証」ということばを聞いて、ではそれは人間の色・受・想・行・識のはたらきであろうと考えるようであるならば、それは小乗でいう 自己調御にはかならないこととなる。大乗・小乗のわかちも判らぬ奴にして、なお仏祖の流をくむと称するものがたくさんいる。だが、明眼(めいげん)の人はとても瞞(だま)すことはできまい。 【語句解釈】眼睛:目玉、最も重要なもの。 知識:善智識 仏教の教えを導いてくれる人。 瞬目:まばたき、 教えの本質。 断臂:ひじを切断する ニ祖慧可が達磨に入門を求めたとき臂(ひじ)をきって強い決意を示したという故事。 三乗:経典の分類のひとつ(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)。五乗:三乗に人乗、天乗をくわえたもの。 生知:生まれながらの知恵 |
【HP作成者感想】
正法眼蔵「自証三昧」の前半についての増谷師訳を掲載させていただきました。
引用文は長いですが、HP作成者の感想として、ここで道元禅師が云われんとしていることは、次の二点であろうと思います。まず一点は真の信心に至らしめられるその端緒は、まずそのひとにそれを求めんとする強烈深奥なる求道の精神が
あること。そしてそれだけでは駄目なのであって、つぎに、その求道の精神が真なる信心に至るためには、真なる善智識と真なる経巻に出遇わねばならないこと。それなくして、いかに真なる求道があっても、その自己の内のみで思索をくり
かえしても、単なる思索のモンスターができるのみであること。逆に云うと、いかに真なる善智識と真なる経巻に出遇っても、それを真に味わい、咀嚼する自己の内なるものがなく、ただ金科玉条のように真なる
善智識の教えと、真なる経典の教えのみを口ずさんでも、それに生気を与える内なる求道のエネルギーがなければ、真なる信心に至ることはないと。すなわち、自己の内なるものと、善智識や経巻の教えが微妙に調和をもって融合してこそ、
はじめて真なる信心の世界が顕現するのだと。
このように道元禅師は教えておられるのだと、私は受け取らせていただきました。かくして、生死出づべき道を命がけでもとめた道元禅師は中国、天童山の如浄禅師に遇うことによって、また、十三歳から四十三歳まで
三十年の比叡山における悶々たる血の出るような求道の結果、法然上人は中国善導大師の遺した「観経疏」散善義のなかにある「一心専念弥陀名号」により一人の愚者となって本願他力の救いに遇うことができ、さらには
その法然上人の「称名念仏」の教えを生涯の教えとして弥陀の本願の信心に生きた親鸞聖人。いずれも、その内なる“生死出づべき道”を求める類まれなる求道の精神が、真の善智識と真の経巻とに出遇うことによって、800年後の
今に現前していることを、有難く、まことに有ること難く拝受することができます。
この「自証三昧」の巻には、このほかにも、いくつかの珠玉のことばを拝することができます。
たとえば上掲増谷師訳文中太字にさせていただいた「法のなかに生れ、法のなかに死する。(【原文】「法のなかに生じ、法のなかに滅する」)」。この一文は、生死を求道する一人の人間として、まさに身の深奥を揺さぶる珠玉のことばであります。
これをお読みいただいた方が反芻咀嚼されれば、お分かりいただけることだと思います。<br>また、次の言葉『いったい、仏祖の道を学ぶときには、一つの教法をまなび、一つの作法を身につければ、それが同時にまた、他のために説かねばならないという気持ちをいよいよ高からしめる。
だからして、また自他の別はいよいよなくなってしまう。そのうえで、さらに自己を学びいたれば、それがそのまま、いつしか他者を学ぶことになっている。また、そうして他者を学びいたれば、
それがそのまま、いつのまにか自己を学びいたることになっているのである』。(【原文】「およそ学仏祖道は、一法一儀を参学するより、すなわち為他の士気を衝天(しょうてん)せしむるなり。しかあるによりて、自他を
脱落するなり。さらに自己を参徹すれば、さきより参徹他己なり。よく他己を参徹すれば、自己参徹なり。」)。この言葉も実際にそのことに当った方であれば、まことに深い味わいをもって、迫ってくる珠玉の言葉であると思います。
| 増谷文雄師著「現代語訳 正法眼蔵」も最終第8巻を迎え、道元禅師讃嘆も、いよいよ今月で終わらせていただくことになりました。2008年の1月に「生死の巻」の “生死の中に仏あれば生死なし”からはじめさせて いただいた、この1年余の正法眼蔵探索でしたが、今月はその「生死の巻」の残り3つの項、増谷文雄師が現代意訳されているタイトルから「生死のほかに仏なし」、 「生と死について」、「生死は仏の御いのち」の三つを讃嘆せていただくことによって、その締めくくりとさせていただくことにいたします。少し長くなりますが、お付き合い願えれば、これにすぐる幸せはありません。 やはり、“生死の 一大事”は、あらゆる宗教の根源であると思いますので、この巻でこの正法眼蔵讃嘆を終わらせていただくのは、私、作成者にとりましても、大変意味深いことと思っております。この生死の巻の文章は 比較的一般人を対象に道元禅師が説かれた形跡があり、我々にも原文そのままでなんとか理解できそう ですので、増谷師の現代意訳にお世話をかけず、表示の文は原文の掲載のみにさせていただきます。ただし、 これも増谷師が指摘されているように、原文は一般人向きで読みやすくとも、その内容たるや、深い道元仏教の深奥を衝くものであり、凡情をもって簡単にうかがい、体験すべきことではないといわなければなりません。 |
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「生死のほかに仏なし」 もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すな はち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて 生死をはなるる分あり。 「生と死について」 生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあ り。故、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。 これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅の ほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらはただこれ生、滅来らばこれ減にむかひてつかふべし。いとふ ことなかれ、ねがふことなかれ。 「生死は仏の御いのち」 この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうし なはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也、仏のありさまをと どむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以て はかることなかれ、ことばをもっていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへに なげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをも つひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。 仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のた めに、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、 心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。 【語句私解】仏のありさまをとどむる:仏のありようこだわって、真のありようを見失ってしまう。 |
【HP作成者感想】
「生死のほかに仏なし」
この生死界のほかのどこか別の高いところに仏がおわすと考えることは、まったくまったくの見当違いだと道元禅師はずばり教えておられます。いつものことながら道元禅師のこの“ずばり”の一言は、まったく胸が空きますね。
“仏はいずこに生きるのか、仏はだれに生きるのか、仏はいつ生きるのか、今、ここで、汝のうえに”という現代の宗教者 住岡夜晃師(2005年1月の「こころのページ」で紹介)は、このことを云っているのでしょう。この生死界こそ
仏の世界だと、生死界、すなわち、生の世界のみでなく、死の世界も仏の世界だと道元禅師は云っておられます。生死すなわち涅槃、つまり生死界すなわち仏の世界だと私は受け取らせていただいています。
「生と死について」
端的にいえば、生というときは生のみ、そして滅すなわち死というときは死のみであって、滅すなわち死は、われわれの凡情で考える‘生’とは全く隔絶し、 まったく無縁な滅すなわち死であり、この死が再び生になることは、金輪際無いという、ごくあたりまえと思われることを道元禅師は云っておられます。 だから、仏法では生は不生であり、滅すなわち死は不滅すなわち不死であると。これは凄いですね。即ち、仏法では、われわれ凡情が考える生も そして死もないのだと。真の生であり命である生命は仏のみ、ということでしょうか。だから道元禅師は教えておられます。生きているときは、ひたすら生き尽し 死がくれば、その死にひたすら仕えなさいと。いずれもいずれも、仏の世界なのだからと。このように道元禅師は教えておられるように思います。
「生死は仏の御いのち」
仏は、この生死界の真っ只中に居られる。すなわち、仏はこの生死界そのものであり、生死界は仏の御いのちそのものである、ということでしょうか。 生死界でありますから。生の世界だけでなく、死の世界もふくまれていることを、再び付け加えさせていただきます。
したがって、この生死の世界を厭い捨てて、どこか高いところに仏を求めても、そこは仏の世界ではない。そしてまた、逆に、生死の世界に執着して、これを究めつくそうとしてもこれもまた、
結局、仏の御いのちを失ってしまうのだ。生死をいとうことなく、また執着することがなくなって、はじめて仏のこころにはいる。すなわち仏と一体となる可能性が生まれてくる。そしてそれには
どうするか、それは自分の身も心も、すべてそのありようを仏にお任せして、すべてのことが仏のほうからおこなわれて、これにしたがってひたすら生死していくとき、何の努力もなく、心をわずらわすこともなく、
生死をはなれて仏となる。このように道元禅師は教えておられように思います。ここのところで思い起こされるのは、明治の仏教者清沢満之が、その著「絶対他力の大道」で述べている
“自己とは他なし、絶対無限の妙用”に乗托して任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」ということばです。清沢満之の血を吐く思いからでてきたこのことばもやはりいのちのことばなのでしょう。
おそらく、道元禅師のこの生死の巻におけることばも、禅師自らのいのちの体験をまじえたことばであろうと思います。そして、このことばはこれはまさに、まぎれもない他力の
ことばであろうと思うのです。私はここに、道元禅師のお心の底に流れる、大きな他力の思想を拝受することができるように思うのです。以上昨年の1月から続けてきた、正法眼蔵。大変なところに
首を突っ込んだものと、後悔することしきりでしたが、このあたりで正法眼蔵の勝手探索を終えさせていただきます。 来月から、また新しいことばの探索に進みたいと思います。
先月までで、なんとか終えることができた「現代語訳 正法眼蔵」にはまことに手こずりました。身の丈に余る深遠な道元思想の鉄のような壁をよじ登ろう としたからでしょう。しかし、この身の程知らずの凡人であればこそ、この鉄のような壁をよじ登りたいという、気持ちも湧いてくるのではないでしょうか。めげずに今月から、また、あたらしい鉄の壁のまわりを つつく作業をはじめたいと思います。こんどは一転、親鸞の遺弟「唯円坊」が語る『歎異抄』です。親鸞が自らの命をけずって関東の人々へ伸べ伝えた教え、この教えが親鸞の没後、間もなき時代から、親鸞の真の教え とは異なった受け取り方をする人々がでてきている。その異なりを歎くあまり唯円が、なくなく筆を染めて書き上げた『歎異抄』。しかし、やはり800年の時代を経たその文言のひとつひとつは、この21世紀の 文明にどっぷり浸かった我々凡人の極みが真にそれを心の髄に受け入れるにはやはり、これも、鉄の壁であることには変りありません。 凡人であればこそ必要なこの鉄の壁、勇気を出して、まずその歎異抄第一条の 鉄の壁からよじ登ることにしたいとおもいます。 |
| 「第一条」 弥陀の誓願不思議 弥陀の本願 しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要 |
【HP作成者感想】
『弥陀
そのような次第で、今月はひとまず これで終わりたいと思います。
| 「第二条」 おのおの、十余ヶ国のさかひをこえて、身命 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言 詮 |
【HP作成者感想】
親鸞が京都へ帰った後、関東のの弟子たちの間で親鸞の教えとはことなる異義をとなえる者も出て混乱が極まったため、不安になった弟子たちが、当時の交通事情から考えて、それこそ命がけで京都の親鸞を
たずね、一体、親鸞の教えの真髄はどこにあるのかと問い質す、親鸞と弟子たちとの緊迫したやりとりが強烈な雰囲気を伴って描き出されているのがこの第二条です。そしてここでいう親鸞の教えの真髄とは何でしょうか、
それこそ、先月、私自身が大きな壁の前に立ち往生しなければならなかった第一条の「弥陀
まったくもって、とんでもないことになってきました。第二条の感想の書き始めは、もう少し、第二条の趣旨にものっとり、親鸞聖人の言葉を鑽仰したいとの存念でしたが、書いているうちにとんでもない脱線を
せざるを得ないようなことになってしまいました。このような脱線の修復には、はたしてどのような方向があるのでしょうか。考えてみますに、
第(1)は、そのような善鸞をも越すような、弥陀の本願への謗りと不信を公言するような人間であるからこそ、そうであるからこそ、弥陀の本願の救いの真っ先の対象なのだと。
これは、まさに正解かもしれません。唯除五逆、誹謗正法と十八願にありますが、弥陀の本願をそのままぐっと信じ込めない謗法の人間も弥陀の救いの対象となるのでしょうか。
いずれにしても、これは、まことに単純明快、自分でも気持ちよくなるような解釈ですが、ところが、現代のひねくりかえった精神状態にある私には、これで信心の中に、すっと入っていけるとは、まだいえないのです。
まことに、救われ難き現代の下根の生類たる私です。
そこで、第(2)として、弥陀の誓願を、もうすこし突き詰めて分析してみてはいけないでしょうか。分析などという現代の善にも悪にも通ずるようなことばを使うことをお許しください。
〔第十八願〕 設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
この文章で、まず何よりもさきに十方衆生に必要な要件は何かというと「至心信楽」です。何を「至心に信楽」するのか、これは私は本願をたてて成仏された阿弥陀仏を信楽すること、すなわち信じることだと思うのです。
誓願をたてられて成仏正覚されたのは、弥陀、すなわち阿弥陀仏なのですから、阿弥陀仏を信ずることが阿弥陀仏がたてられた誓願すなわち本願を信ずることだと思うのです。インドで生まれた大無量寿経にたまたま
載っていた四十八願のうちの第十八願、お経の中に書いてあるというだけで、この現代の泥流にもがいている私には、この本願をまるごと信じることは、今もできません。しかし阿弥陀仏を信ずるということは、できる
ように思うのです。もちろん、これは自分の力で信じることができるというわけではありません。すべて与えられたものとしてですが、いずれにしても、これをここで、これ以上、文章をつづけても、このような信心という
微妙な内心の問題は論ずれば論ずるほど支離滅裂になりそうですから、先日、あれこれと、あがいた結果の愚作の詩をもって、表現させていただきます。
| 考えてみれば、生まれたくて生まれてきたのではない そして、また、望んでいるわけでもないのに やがて死んでいかねばならぬ自分 一瞬一瞬を生かされ、そしてやがて死んでいく自分 全て、絶対他力の海の中で このような自分と それをとりまく全ての存在の生死の根源 生の根源でもあり死の根源でもある それを阿弥陀仏というなら そこに私は、親の愛というか慈悲というか 全てを自らの懐に、抱きとめようとする阿弥陀仏の慈悲 すなわち本願の愛(即ち慈悲)を感じざるを得ない すべて、与えられたものとして・・・ |
〔今月はこれで終わります〕
| 「第三条」 善人なをもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。」 この条、一旦、そのいはれあるににたれども、本願他力 煩悩具足 |
【HP作成者感想】
有名な悪人往生の章です。「善人なをもって往生とぐ、いはんや悪人をや」といいますが、善人などいるのでしょうか、自らをはじめとして、すべて、人といわれる存在は悪以外の何者でもないのではないでしょうか。
悪でなければ生きていけない存在、それが、この私なのではないでしょうか。このことは、全ての衆生(特に動物や植物)に対して、人間の振舞いで悪でないものがあるのかということでもあります。この悪でしかありえない
この私を救いとろうとする阿弥陀仏、ということでしょうが、親鸞聖人が第二章で「地獄は一定すみかぞかし」いい放たれたことばの深い意味を今一度振り返ってみる必要がありそうです。そうです、人間の行いを内省すれば、
地獄こそ私の行くべきところだと結論せずにはおられますまい。その意味で、親鸞聖人が愚禿悲歎述懐で「修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞ名づけたる。」と歎かれているのも、このような本来的悪人親鸞(すなわち私)
が行なう善行も所詮は虚仮の行であるという透徹した論理に基づかれているからでしょう。このような私であるけれども、そのような私を阿弥陀仏は一刻一刻生かし、はぐくみ、その無限に深い慈悲の懐にいだきとめて
くださっている。地獄一定ならその一定の地獄もまた、阿弥陀仏の懐の中なのではないでしょうか。 現代の念仏者東井義雄氏の詩に、つぎのような詩があります。
| どんなに恵まれた条件の中でも 地獄をつくらずにはおれない わたし しかし ああ その地獄ぐるみ ひっかかえて つれていっておくれる 本願の 特急列車 |
それでは、この地獄しかありえない自分でありますが、ならばいっそ、この私に造悪無碍は肯定されるのでしょうか?悪人往生である故、以後の生において、いくら悪を造っても往生まちがいなしなのでしょうか?
親鸞聖人も、この点で大変困られた様子で、御消息集でも「くすりあり毒をこのめ、とそうろうらんことは、あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう。」ときびしく戒めておられます。悪人往生なのだから造悪無碍
でよいというのは、自力であって、真実信心は他力であることをわきまえず、自分にまだ善人の要素があると思っているから悪を付け足すのではないでしょうか。善人などいるはずもないではありませんか。
ここのところは、きびしく親鸞聖人のいましめをしっかりいただき念仏すべきものでしょう。この造悪無碍をもなお他力というなら、いよいよ人間の悪性を顧み、親鸞聖人の「ただ、したからんことをばせよ、ふるまいなんども、
こころにまかせよといえるとそうろうらん、あさましきことにそうろう。この世のわるきをすて、あしきことをせざらんこそ、よをいとい、念仏もうすことにてはそうろう・・・」と仰せられてあることをこそ、私どもは深く受け止める
べきで、この親鸞聖人のいましめを深く聞信すること以外に私たちのとるべき道は無いものと思うほかありません。
| 「第四条」 慈悲に聖道 聖道のじひといふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。 浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心 今生 しかれば、念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべきと云々。 |
【HP作成者感想】
第四条は比較的目立たない章ですが、いろいろ考えさせていただくお言葉がある章だと思います。ここでは聖道門と浄土門の慈悲のありようが端的に表現されています。ものをあはれみ、かなしみ、
はぐくむなり、とは特に語句に対する現代的解釈はいらないと思いますが、要は聖道の慈悲というものが、苦悶する生きとし生けるものを一生懸命助けようとするということでしょう。生きとし生けるもの
に対して、そのように行なうことは、至難の業でありますが、しかし、ある限られた範囲において、例えば人類全体、あるいは身近な人々、さらには自らの家族にたいして、やむにやまれぬ気持ちで
なんとか助けようとすることは現代の普通の人間にもある事柄です。聖道門において、さらにこの事を宗教的な見地から成し遂げようとすることは尊いことだと思われます。勿論、悟りを開かん
ためにそのような行為をするのはもってのほかの行為であり、正しい聖道門の献身も、そのような偽善的な行為でないことはいうまでもありません。しかしそのような尊い行為をもってしても、
思うように助け遂げることはきわめて難しいことであるのは、日常の経験からもわかることです。
では浄土の慈悲はどうか。 「念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく、衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。」とあります。しかしこれこそ現代的感覚をもっては一朝一夕で理解し納得できることではありませんね。このことは、苦悶する衆生を横目に見て、なむあみだぶつ、なむあみだぶつと唱えながら通り過ぎることでは決してないことはわかりきったことです。勿論、普通の感覚からすれば、苦悶する
人があれば、なんとかしようと懸命に模索し、助けようとするでしょう。(ここで、ふと思うことですが、私は、必ずしも懸命に助けようとはせず、だまって見過ごしている場合が多々あるということ。
更には、衆生を人間だけでなく生きとし生けるものに広げれば、日常の食生活はいうまでもなく、生活一般についても、我々は環境を壊し、他の生物の生活の場を奪い、殺戮しつづけていることを、だまって
見すごすか、たまたま、生き物を大切になどと、それこそ空念仏のようなことをいって、口をぬぐって通り過ぎているのではないでしょうか。そしてまた、それをしなければ、生きて生けない現在の
我々になっているのではないでしょうか。人間の、そして私自身の悪魔性がここに厳然とあります。) このような、自分自身はどうあればいいのでしょうか。死ぬよりほかないのでしょうか。いや
死んでも、これは償えないでしょう。このようなやり場の無い自分に対して、親鸞聖人はいわれます「浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく、衆生
を利益(りやく)するをいふべきなり。」と。このことは、仏教思想の立場から正しい解釈の仕方があるものだとおもいますが、これを現代人の私は、どう読むか。簡単に読み、簡単に述べうること
ではありませんが、辛うじていわせていただくならば、「ご本願により大信心をいただいて、念仏させていただき、仏法によって、これらあらゆる生き物の苦悶の助けとさせていただく」としかいいようがないものと
思っております。これは、親鸞聖人のおことばを待つまでもなく、いずれの行もおよびがたき自分でありますから、畢竟、ご信心をいただくなかで、仏法によるすえとおったお救いを願うのみの自分であることを
かみしめることでもあろうと思います。
| 「第五条」 親鸞は、 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を |
【HP作成者感想】
第五条も第四条と同じ傾向の宗教的な境地をもった文章です。『親鸞は、
|
仏はいずこに生きるのか 仏はだれに生きるのか 仏はいつ生きるのか 今 ここで 汝のうえに 仏生き給うことに徹底せよ |
〔今月はこれで終わります〕
| 「第六条」 |
【HP作成者感想】
如来より賜りたる信心によって生きる念仏集団のあり方として、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という信念(仏を信ずる念)はまことに重要な指摘であることがわかります。その意味でこの条は、大変、私どもにとって
わかりやすいもっともなことがらであると受け取れます。しかし、この事は現代において、充分に把握され実行実現されているでしょうか。たとえば寺院における念仏集団でも、僧をいわゆる仏教のの専門家として在家非僧の
人間が頭から考えてしまっており、何らかの形で自分たちとは別の人間のように、専門家の語る言葉は、すべておおせごもっともと無批判に受け入れてしまったり、よくわからない理論として、難しくて我々素人には理解不能
のこととして人ごととして済ましてしまう傾向があるのではないでしょうか。勿論、仏説を聞くものとしての、謙虚な聞法は念仏者として無くてはならないものではあるのですが、しかし、自身における、深い検証が
あって初めて、まことの聞法も成立し、師に対する尊崇の念も生れてくるものだと思います。親鸞の法然に対する尊崇も、このような同朋同行のありかたをまさに指し示しているのではないでしょうか。以上は、
仏教、特に他力念仏における同朋同行のあり方として考えられることですが、このことは、他の分野、たとえば現代の学校教育においてもこのような同朋同行のあり方が求められるのではないでしょうか。すなわち、あまりにも組織化された教育体制において、おたがいに真実を追究する同朋同行として
のあり方が薄れ、教師は教師としてその枠の中にとどまり、生徒は、教師を、まったく別の遠い存在として、縁のない存在として見てしまっている傾向があるのではないでしょうか。居眠り教室、お騒ぎ教室、そして学力の低下
も、このような同朋同行の精神を忘れた、教師と生徒の関係の中で生れてくるのではないでしょうか。現代の教育においても、大それたことは申し上げられませんが、少なくとも教師が生徒の日常の真の生活の場の中に入って
生徒を理解する努力を欠いては真の教育は成りたたず、その意味で、教育における、同朋同行のあり方が、今、必須の条件として強調されねばならないのではないでしょうか。もちろん、この場合、生徒の自主性をすべて
正しいものとして、あいまいに許し認めててしまうのではなく、同朋同行であればこそ、教師の厳しい指摘もあり得るし、生きてくるのではないでしょうか。何もかも、生徒の自主性として、あいまいに認めてしまうことこそ、
真に生徒の日常に踏み込んでいない自信の無さの現われであって、真の同朋同行のあり方とは遠いものであると考えます。 以上、現代の学校教育という分野まで踏み込んでしまいましたが、この第六条で語られている親鸞のことばには、現代人として、深く反省、吟味すべき点が多々あるように思われます。
〔今月はこれで終わります〕
| 「第七条」 念仏者は |
【HP作成者感想】
“念仏者は無碍の一道なり”。800年前の鎌倉時代にこのようなすばらしい言葉が親鸞聖人を通して発せられたということは、釈尊に始まり七高僧を経て親鸞に結実した浄土真実の教えの、この上なき
すばらしさを何よりも物語るものであります。そして、“そのいはれいかんとならば”とつづき、“信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし”と一つの確固たる論理に続きます。
親鸞聖人が晩年につくられた現世利益和讃にも“南无阿弥陀仏をとなふれば、
さらにまた、“罪悪も業報を観ずることあたはず、諸善もおよぶことなし”という最後の言葉からは、今まで自らが煩悩に迷わされ、あるいは生きるために行ってきた諸々の悪を考えると、とても阿弥陀仏の救いなど
考えることもできず、ただただその業報におびえるばかりの人(私)も、その悪は悪のまま、全てをゆだねよという阿弥陀仏の大慈大悲心の前には、すべての自力の諸善もおよばないことが納得できます。
ただ、この全ての衆生をもらさず救おうという阿弥陀仏の大慈大悲心を誤解して、造悪無礙に陥る輩が昔からいたわけですが、この危ない解釈がまことに大きな間違いであることは大乗仏教が利他の教えであることを
考えれば、大乗仏教である親鸞の思想の中に造悪無礙は有りようもないことがらであることがわかります。この点をおさえて、第一条の“悪をも怖るべからず・・・”、“第三条の悪人成仏”、さらには
和讃や御消息集の文を読めば親鸞聖人の本意が奈辺にあったかをはっきりと教えられるところであります。この第七条によって、迷い多きこの娑婆世界を堂々と胸を張って明るく歩めるものであることを確信するもの
であります。
〔今月はこれで終わります〕
| 「第八条」 念仏は、行者のために、 わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに、他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには、非行・非善なりと云々。 |
【HP作成者感想】
念仏は念仏を修する人にとっては行でもなく、善でもない。なぜなら、自らの計らいで行ずるのではないから非行であり、自らの計らいでつくる善でもないから非善である。すべて、ひとえに阿弥陀仏の
大慈悲によって与えられた他力による行であるから、自らの計らいによる行でも、自らのはからいによる善でもないのだと、親鸞聖人はいわれます。すなわち、生きても死んでも、わたしたちの一挙手一投足はひとえに他力であるということであり
したがって、もっとも大切なことは信心も、すべて他力によって与えられるのであって、自らの力で獲得したものではないということです。このひとえに他力であるということがあって、はじめて、私たちが信じる信じないを
云々する前に、すでにご本願は私自身に届いているということがいえるわけです。親鸞の宗教に還相迴向という大変大切な要素があります。すなわち、私どもは往相迴向によってお浄土に生れさせていただくのですが、生れたらそのままお浄土で安楽に過ごすのかというと、そうではなくて還相迴向として、すぐにもこの娑婆に還って、衆生済度にいそしまねばならないということなのですが、命終の後、どのようにして、この世に還ることができるのか。私はこの点が今まで全く受け入れられなかったのですが、しかし、このことも、すべて他力の働きによるのだということになりますと、このとても受け入れられなかった還相迴向という事柄も自分では何の心配もなく、すべて阿弥陀仏のおてまわしによって成就される、ひとえに他力のおはたらきに依ることだということになりますと、それまでの“死んでからどうして”などという気苦労こそ、自力そのものであったということになります。このようにして、この第八条の最後の部分もつぎのように拝読することもできるのではないでしょうか。
念仏は、ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには、非行・非善なりと。
〔今月はこれで終わります〕
| 「第九条」 「念仏まふしさふらへども、 「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ、往生は 「また、浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか |
【HP作成者感想】
名にしおう、有名な歎異抄の一節です。念仏を称えていても躍り上がってよろこぶほどにもよろこべないのは何故でしょうという唯円坊の初々しい信心上の質問に対して、親鸞聖人も初心に還って、「私も同じだよ」と何のわだかまりもなく答えられる。まことにほのぼのとした、しかも人間の心の核心を突く師弟のやりとりです。この文章を読む者にも何ともいえないほのぼのとした安心感が湧いてまいります。 そうして、その上で、そのような人間をこそ救いとろうとされるのが阿弥陀仏の本願であるのだから、感謝が足りないのだとか、ましてや信心が足りないのだとか思い悩むことはないのだと、ねんごろに自らの思索と体験の真髄を愛弟子に一対一の人間として伝えておられます。
そして更に付け加えるように、むしろ、すこし病気にでもなれば死ぬんじゃないかと不安になったりするのも私たちの通常の思いであって
この苦悩に満ちた娑婆世界が捨てがたく、ましてや、一刻も早く死んで浄土にまいりたいなどとはゆめゆめ思わぬのが、煩悩に満ちたわれわれ普通の人間の思いなのだと、現代のわれわれの心にもよくよく通じる真理が説かれ、そしてそのような人間をこそめあてにして救おうとされるのが弥陀の大悲大願であって、躍り上がってよろこんだり、いそいで浄土にまいりたいなどどいうできあがった人間は阿弥陀仏が真っ先に助けとろうとする対象ではないのだと結論されます。
まことに論理からいっても、ほのぼのとした慈愛のことばとしても、800年の昔、鎌倉時代から、これを読む者に大いなる仏の大慈悲の安心をこれほど与え続けた文章は稀有といえるのではないでしょうか。
〔今月はこれで終わります〕
| 「第十条」 念仏には |
【HP作成者感想】
歎異抄の中で、最も短い文章です。しかし、この短い文章の中にこそ、宗教的真実の最も深い核心が語られています。
念仏には無義をもって義とす。「義」とは何でしょうか。私はこれを「計らい」と受けとらせていただきました。では「計らい」とは何でしょうか。
まず一つには「計らい」とは読んで字のごとく「計測する」ということではないでしょうか。それでは「計測する」ということは、どのように捉えたらいいのでしょうか。計測とはまさにこれは科学のことばです。
「計測する」とは「科学する」といいかえてもよいかもしれません。まことに結構なことばです。このことばは現代を謳歌しています。科学的方法の第一は計測するということです。この世に存在するあらゆる事物を
計測する。事物だけではありません。精神的活動までも計測する。すなわち定量化して、はじめて、科学的思考の対象となり、そしてそのことに基づいてこの世的に証明する。このことがあってはじめてそれは
科学的知見となります。しかし、しかしです。 人間は科学的知見だけでは、その精神活動を満たすことはできません。なぜなら、人間は死ぬからです。科学的知見はこの世の知見です。生きているものの知見です。決して生死を統合した知見にはなりません。
科学的思考はある時点で思考を停止します。すなわち、計測できず、証明できないことは、それ以上思考の対象にしません。すなわち幾何学でいう公理とします。その意味で科学的思考とは公理主義であるとともに
一種の功利主義でもあります。この世的意味がなければ切り捨てます。すなわち、そこから先は思考の停止です。たとえば「生きる意味は何か」。これは、この世的にはいろいろあります。子のため、家族のため、
公共のため、国のため、果ては世界のため。しかし、それが仮に「宇宙のため」となったとしても、それで生きる意味の答えになるのでしょうか。公共のため、国のため、世界のためということはまことに立派なことで
ありますが、しかし、そのことが生きる意味のすべてを表しつくしているとは私には思えません。究極的には「生きているから生きている」ということになるのではないでしょうか。ここに科学的思考、すなわち、
「計らい」の世界の限界があります。
念仏、すなわち宗教的真実の世界は、この「計らい」の世界を超えたところにあるのではないでしょうか。この世的「計らい」の世界を否定するのではありません。
この世的「計らい」の世界も包括して、しかもそれを超えたおおきな生死の世界です。これをもって、はじめて「念仏には、無義をもって義とす」という親鸞聖人のことばが、スッと私の中にはいってくるように
思います。さらにいうならばやはり「計らい」は「自力」と同義語になるでしょう。さきの計測とか証明ということも、自力の業そのものです。しかしこの世的には大切なことです。だから、このことも前項と
同じように、「自力」も包括し「自力」の限りを尽くした上で、更に大きな「他力」の世界に身をゆだねることこそ、「無義をもって義とす」ということになるのではないでしょうか。
〔今月はこれで終わります〕