(HP作成者)
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自己をはこびて万法を修証 万法すすみて自己を修証するはさとりなり。 迷を大悟するは諸仏なり 悟に大迷なるは衆生なり。 さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 (現成公案より抜粋) |
(HP作成者)
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仏道をならふといふは、自己をならふ也。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己 脱落せしむるなり。 (現成公案より抜粋) |
(HP作成者)
| 【原文】 いま道取する尽十方世界、是一顆明珠 尽十方といふは逐物為己 【増谷文雄師による現代語訳】 〔尽十方世界ということ〕 この「尽十方世界は、これ一顆の明珠である」という表現は、玄沙のはじめて吐いたことばである。この大旨をいわば、尽十方世界とは、広大というにもあらず、微小というにもあらず、 まるい四角いというにもあらず、中正なりというにもあらず、活潑潑地というにもあらず、炯々 つまるところ、尽十方というは、客体を追うて主体となし、主体を追うて客体となし、その尽くるところを知らぬのである。情が生ずれば智は遠ざかる。これを「隔」と表現する。 頭をめぐらして面をかえる。その時、事を展 (正法眼蔵「一顆明珠 |
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【増谷文雄師による原文和訳】 谿声 山色 夜来 他日いかんが人に挙似 【増谷文雄師による現代意訳】 谿の声はそのまま仏の説法にして 山の姿は清らかな仏身にほかならぬ 夜半にききえたる八万四千偈は さていかが人にかたればよいものか |
(HP作成者)
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【原文】 釈迦牟尼仏言 「明星出現時、我与大地有情、、同時成道」 【増谷文雄師による現代意訳】 〔大地有情、同時成道ということ〕 釈迦牟尼仏は仰せられた。 「かの明星が出現した時に、わたしと大地や生きとし 生けるものは、みな同時に成道した」 |
(HP作成者)
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【原文】 かくのごとくなる神通 大潙 大潙あるとき臥 仰山いわく、「慧寂 大潙おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、召 仰山、かうべをたれて聴勢をなす。 大潙いわく、「わがために原夢せよ、みん」 仰山、一盆の水、一条の手巾をとりてきたる。大潙つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香厳 大潙いわく、「われ適来 香厳いわく「智閑 大潙いわく、「子 香厳すなはち一椀の茶を点来す。 大潙ほめていはく、「二子の神通智慧、はるかに鶖子 仏家の神通をしらんとおもはば、大潙の道取を参学すべし。不同小小のゆゑに、作是学者、名為仏学、不是学者、不名仏学なるべし。 嫡嫡相伝せる神通智慧なり、さらに西天竺国の外道二乗の神通、および論師等の所学を学することなかれ。<中略> これ仏神通なり、仏向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外 諸仏は大神通を相伝す。これ仏神通なり。仏神通にあらざれば、盆水来手巾来せず。転面向壁臥なし、洗面了纔坐 この大神通はしかあらず。諸仏の教行証、おなじく神通に現成せしむるなり。仏神通にあらざれば、諸仏の発心・修行・菩提・涅槃いまだあらざるなり。 いまの無尽法界海の常不変なる、みなこれ仏神通なり。 【増谷文雄師による現代意訳】 いまより語ろうとする神通は、仏者にとって日常茶飯のことであり、もろもろの仏はいまもこれを怠ることがない。<中略> 大潙禅師は、釈迦如来からまっすぐ数えて三十七世の祖である。<中略> あるとき、その大潙が横臥していると、そこに仰山がやって来た。それをみて、大潙は、面をめぐらして 壁の方をむいた。 仰山がいった。「わたしは和尚の弟子でございます。ご遠慮なさらぬともよいではありませんか」 大潙はいささかひるむ色があった。 やがて、仰山が出てゆこうとすると、大潙は起きあがって、「おお、慧寂よ」と呼びとめた。仰山はかえってきた。そこで大潙はいった。「わしは、いま夢をみていた。ひとつ聞いてくれ」 仰山は頭をさげて聞いていた。すると、大潙がいった。「では、いまの夢を解いてもらおうか」 すると仰山は、つと立ちあがって、盆に水をいれ、手巾をそえて持ってきた。大潙はそれで顔を洗った。 洗面をおわって、やっと坐ったところに、香厳がやってきた。大潙はいった。「いましがた、わしは、慧寂と、一場の神通を行じていたところだ。ちっぽけな神通ではないぞ」 香厳がいった。「わたしは、あちらの室にありまして、よく判りました」 大潙はいった。「では、そなた、こころみに言ってみるがよい」 すると香厳は、一碗の茶を点 「そなたたち二人の神通の智慧は、はるかに舎利弗・目犍連よりもすぐれている」。 仏家の神通をしろうとするならば、この大潙のことばをよく学ぶがよい。まず「ちっぽけな神通とはちがう」という。だからこれを学ぶのが仏教を学ぶというもの、これを学ばずしては仏教を学ぶとは いえないというのであろう。つまり、仏祖の相伝してきた神通の智慧なのである。これを措 これは仏の神通であり、仏となる神通である。この神通をならおうとする者は、悪魔・外道に心うごかされてはならない。それは経師や論師のたぐいのいまだ知らざるところであり、聞いてもおそらくは 信じがたいであろう。小乗の徒や、外道・経師・論師などは、ただ小神通をなろうて、大神通をならわないのである。ただ、もろもろの仏だけが大神通を保持し、大神通を相伝する。それが仏の神通である。 仏の神通がなかったならば、一盆の水も来らず、一条の手巾も来らず、また、うとうとと壁に面を向けて眠ることもなく、面を洗いおわってやっと坐につく場面もないのである。この大神通のちからを 蒙 いま、このかぎりなき世界の常にして変わらざるも、みなそれは仏の神通である。 |
(HP作成者)
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【原文】 仏仏の大道、つたはれて綿密なり。祖祖の功業 【増谷文雄師による現代意訳】 仏祖の大道は綿々として間断もなく伝えられ、そのすぐれた業績は坦々 |
【HP作成者感想】 この大悟の巻も難解です。しかし、この〔仏祖と大悟〕の部分を読んで、峻厳極まりない道元禅師に、このような見解もあるのかと、なんとも云えない親しみをもってこの文章を読ませていただきました。
また、さもありなんという思いも、同時に湧いてくるのでした。と申しますのは、大悟した仏祖がゆるぎない悟りの境地にあるのは間違いないことであるが、しかし時に、悟りを、ああでもないこうでもないとこね回して時を費やす
こともあり、更には
“失悟放行”、つまり、悟りを失ったがごときふるまいをすることもあり、さらに極めつけは、“不悟至道”悟らずして道に至る、すなわち悟っていないような状態で、しかも禅道を極め大悟していると
述べていることです。つねに大悟徹底した振舞いを自己の内外で持続し、微塵もゆらぐことがない、このような悟りは、まるで“悟り”をインプットされセットされているロボットなら言えるかもしれませんが、それは生きた人間の
悟りなのでしょうか。いみじくも、そのことを、道元は、 関棙子
ちなみに、ご参考までに、原文にある難解語について、増谷師による注解および、中村元師著「仏教語辞典」からの解釈により、下記に記します。
・仏祖:仏教の祖である釋尊をさすばあいもあるが、この場合は釋尊の道を正しく体得した立派な禅僧
・関棙子
・泥団:泥のかたまり。それによって、ある時は人を意味し、またある時は山河大地をゆびさす
(HP作成者)
| 【原文】 |
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大宋国湖南長沙招賢 尽十方界、是 尽十方界、是 尽十方界、是 尽十方界、是 尽十方界、在 尽十方界、無 (中略) 生死去来 超凡越聖 作仏作祖 修証はなきにあらず、光明の染汙 草木牆壁 煙霞水石・鳥道玄路、これ光明の迴環なり。 自己の光明を見聞するは、値仏の証験なり、見仏の証験なり。 尽十方界は是自己なり、是自己は尽十方界なり。廻避の余地あるべからず。 (中略) 而今の髑髏 仏道に修証する尽十方界は髑髏 |
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【増谷文雄師による現代意訳】 湖南長沙 「十方の世界はことごとく沙門の眼 十方の世界はことごとく沙門の日常のことばである。 十方の世界はことごとく沙門の全身である。 十方の世界はことごとく自己の光明である。 十方の世界はことごとく自己の光明の中にある。 十方の世界はことごとくが一人も自己ならざるものはない。」 (中略) 生まれ来り死して去るのも光明の去来である。 凡を超え聖を超えるというも光明の彩りである。 仏となり祖となるというのも光明の色彩のことに過ぎない。 修行する証得するということがないわけではないが、それもまた光明のいたすところである。 草木といい牆壁といい、あるいは皮肉といい骨髄というも、 すべて光明の赤きであり白きである。 山水に霞たなびき、鳥飛んで天にいたるも、みな光明のめぐらすところである。 自己の光明を見聞するは、仏に値 仏に見 けだし十方の世界のことごとくが自己であり、 この自己こそは十方世界のすべてであって、もはやそれを避けて通る余地はありえない。 (中略) 詮ずるところは、この髑髏をささえる七尺の身が、 とりもなおさず全世界のすがたであり形である。 仏道においていうところの尽十方世界とは、 この髑髏・形骸・皮肉・骨髄のほかにはないのである。 |
【HP作成者感想】 難解な正法眼蔵にすこしでも触れようとする私としましては、この膨大な道元の悟りの書の中から、自分の感性でとらえることができる、そして自分の感性が感応するところがある箇所についてのみ
語るほかはないのです。そしてこの「正法眼蔵〔光明〕」を披見するに及んで、まず眼に焼きついてきたのは
尽十方界、是
ということばであり、
生死去来
ということばでした。
思うに、我々にとって永劫の時間、そして無限の空間からなるこの大宇宙の存在は、たとえそれが137億年まえのビッグバンによる生成であったとしても、
まったく、その全体が一大奇蹟のあらわれであり、不可思議の妙用としか言いようがありません。
これをあたりまえのこととして済ましていますが、苟
ちなみに、上記の【原文】および【現代意訳】にある”沙門”とは仏道に生きる者のことであり、その後に表現されている”自己”の意味と同じと考えていいのではないでしょうか。
(HP作成者)
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一句の道著は一代の挙力 たとひ強為の為 このゆゑに、いま如来道の三界唯心は、全如来の全現成なり。全一代は全一句なり。 三界は全界なり、三界はすなわち心 そのゆゑは三界はいく玲瓏 (中略) このゆゑに、釈迦大師道 いまこの三界は、如来の我有なるがゆゑに、尽界みな三界なり。 三界は尽界なるがゆゑに。 今此は過現当来なり。過現当来の現成は、今此を罣礙 今此の現成は、過現当来を罣礙するなり。 |
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「三界とはただ一つの心である 心のほかにまた別のものはない 心といい、仏といい、衆生というも その三つは別のものではない」 この一句の表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。 一代の総力を挙げるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである。 それは、凡夫にとっては、無理をしてやっとできることであるが、 仏にとっては、それがおのずからにしてそうなるのである。 だからして、いま如来がいう「三界唯心」とは、如来のさとれるすべてである。 一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。 そのさんがいとは、すべての世界のことである。 けっしてこの三界がそのまま心であるというのではない。 なんとなれば、この三界は、どこから見ても、あくまでも明らかになお三界である。 (中略) だからして、また釈迦牟尼仏はおおせられた。 「いまこの三界は、みなこれわがく有 その中の衆生は、ことごとくこれわが子である」 いまもいうように、この三界は如来にとって「わが有」であるから、 この世界のすべてが三界である。 三界がこの世界のすべてであるからである。 また、「いまこの」(今此)というのは、過去と現在と未来ということである。 過去・現在・未来があるということは、 だが、「いまこの」ということになると、 もはや過去だ現在だ未来だとはいえないことなのである。 |
【HP作成者感想】 うーむ。これも、まことに難解ですね。そして、此の部分もまた、道元の宇宙論であると私は受け取りました。「三界唯一心」といいますが、この唯一心とは決してわれわれの小さな心や精神ではないでしょう。
宇宙の心、いや宇宙そのものととらえてよいのではないでしょうか。道元もいっています、「三界は全界なり、三界はすなはちく心
そして、そのような如来の宇宙に過去・現在・未来はありません。常に今此(いまこの)なのです。釈迦牟尼仏は常に“今此の”時点において我々衆生を大慈大悲をもって見そなわしておられると捉えてはいかがでしょうか。
そして、
岩見く温泉津
ゑゑな、世界虚空はみなほとけ
わしもそのなか なむあみだぶつ
これが世界のなむあみだぶつ
これが虚空のなむあみだぶつ
わしの世界も虚空もひとつ
をやのこころのかたまりでできた
こんな、みなさん、もうたいない(もったいない)ことであります。
なむあみだぶつさんの、わたしを仏になさることわ
あらゆる世界虚空が、みなほどけ
この中に、この さいちの悪人が、こめてあること
なむあみだぶつ
(HP作成者)
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〔仏道〕 世尊在世に一毫 〔見仏〕 釈迦牟尼仏、告= 「若 |
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わたしとしては、世尊の在世のころに一毫もたがうまじとするのが日頃の念願である。だが、なお百千万分の一がほども及びえないことが憂えられる。しかし、すこしでも及びえたと思うときにはまことに心うれしく、 いよいよ違 〔見仏〕 釈迦牟尼仏は、普賢菩薩に告げて仰せられた。 「もしこの法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写する者があらば、当 |
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先師天童古仏上堂、挙 「世尊道 五祖山 仏性法泰和尚道 夾山圜悟禅師克勤和尚道 大仏道 |
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「示す。世尊は、一人が真を発して源 また、五祖山の法演和尚は仰せられた。 「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、がちゃんとぶっつかるであろう」 また、仏性法泰和尚は仰せられた。 「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、ただこれ十方の虚空である」 また、夾山 「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空は、錦上に花を添えるであろう」 また、わたくし大仏寺の道元はいう。 「一人が真を発して源に帰すれば、十方の虚空もまた、真を発して源に帰するであろう」 |