|
あれかこれかと思い計
だがそのどっちへどうころんでも御いのち 愁いの雲は愁いの雲のまま 悲しみの雨は悲しみの雨のまま 怒りのあらしは怒りのあらしのまま 大空が雲ぐるみの大空であるように すべて思いとしては片付かぬまま とにかく思い手放し百千万発 まっさらな大空 生 出直し 出直し―― まるで いまの息をいま息するように 息づいていればこそ 生きている いのちなのだから 思い滞らず生 思いが手放せれば問題なし そう簡単に思いが手放せなければこそ だれしも苦しみ悩むのでないか ところが拝むことは不思議 恰もいまの息をいま息せねばならぬと 息を凝 いのちに任 あたりまえ自然に呼吸しているように いまの生 いまの生 思いにかかわらず生 まことに拝むことは不思議 この生 この信心が観念 身行 この信心はまた口称行 世を観ずる音 南無御いのち 思いで煮たり焼いたりする以前を生 生 いつもこの生 生 |
|
内山興正師の“御いのち抄” いくらでも続けたくなるので、このあたりで終わりました。御いのち抄はまだまだ続くのですが、このあとは・・・・・・とさせていただきます。 ドングリ、ヘングリ、この私の小さな頭の中で反芻し、思いつくところ、興正師が終始 説いておられるところは、 生 煩悩によごれたこの小さな頭、小さな脳髄で考えるいのちではない この“御いのち”。 結局これこそ、“仏の御いのち”。天地いっぱい、鳥も草も、私もあなたも、彼も彼女も、大きな地球も、そしてもっと大きな太陽もそして、そして宇宙時空も、天地いっぱい みな一つに融けあう“仏の御いのち”。 まがいもなく“この生死 ― 今月をもって内山興正師“御いのち抄”珠玉の言葉集を一応の区切りと致します。また、来月から、次なる いのちの言葉を求めて、探索の旅を続けたいと思います。有難うございました。― (HP作成者) |
| 「みこころのままに」というのはどうか。 これらすべては大肯定の言葉だ。 この世のすべてが空しいから、すべてを肯定するという 極限の智慧である。 「みこころのままに」ということがよくわかったら助かるだろうと思う。 リクツがいやでも聖書をいやだというわけには行くまい。 「わが神 われを捨てたもうか」という絶叫がたしかにわかるか。 われを生かすものは我を殺すものだ。 われを捨てるものにゆだねつくすことが宗教の極限ではないか。 病気が治らねばならぬというのは窮屈だ。 治っても治らんでもよい。 神のみ心のままにまかせれば助かる。 天国へ行かねばならんのでは縛られる。 天国でも地獄でもよいとなったら助かる。 天国は案外退屈で地獄の方が面白いかもしれないではないか。 友人達が戦場で死んだ。私は生きながらえて生き恥をさらしている。 死ぬ者貧乏なら申しわけがない。二、三十年長生きしても同じ事だから ゆるされるのだと思う。 不生不滅というのは、永遠の生命ということだ。 キリストも言っている。十年の生命も百年の生命も同じ事だ ということだ。 何かこの世で事業をして青史に名を遺すというようなことではない。 そういうことなら、 ヒットラーにまさる永遠の人はいないことになるだろう。 何も出来ない凡夫でよいのだ。 凡夫も永遠の生命を生きている自覚が存る。 地球も太陽も生れていなかった昔から生きているものがある。 地球が冷えつくして人間が居なくなっても尚生きているものがある。 大宇宙永遠の生命である。 -「大道抄」133~134p- |
上記の文は、瀕死の病人に「助かるとはどういうことか」ときかれて、著者自身にはとても こたえる力はないと自覚しながら、それでも何とかして助かってほしいと思い、 何かすばらしい先人の教えや自己の発想ははないかと苦心惨憺し、病人の安心立命に 資することばを探した結果の表白だと思うのです。ちなみに、この瀕死の病人は聖書にも よく眼を通している人物であるが、なかなか、他者の意見を簡単には受け入れない、 シニカルな考えの持ち主でもあることは、本書の他の部分で著者も述べています。 上掲の文章は、そのような状況下で著者が一心につむぎだしたことばの結集であると いえます。 ところで、この著者の表白の中で、真っ先に私の目を引きつけたのは、 「わが神われを捨てたもうか」という絶叫がたしかにわかるか。 われを生かすものは我を殺すものだ。 われを捨てるものにゆだねつくすこと、これが宗教の極限ではないか。」と述べている ところです。「わが神、われを捨てたもうか」という著者の表現は、言うまでもなく、 新約聖書新共同訳によれば、マタイによる福音書27章46節の「わが神、わが神、なぜわたしを お見捨てになったのですか」という十字架上のイエスのことばです。そして著者は言います。 「われを生かすものは我を殺すものだ」と。これこそ、人類をはじめ、すべての生きとし生けるもの に対する神の意思であることは間違いありません。そしてこの我を生かし、同時に我を 殺す(捨てる)ものにすべてをゆだねつくすことが救いの極限ではないか。と著者は言います。 この表現を見るまで、私自身、マタイの福音書のこの部分のイエスの言葉に対するいろいろ な解釈に共感できるものを見つけることは、なかなか困難だったのですが、著者兵頭氏が 瀕死の病人の安心立命を願って必死に述べているこの考えには全面的に納得できるものが あるように思います。 この部分以外の上の文における著者のことばについては、わたしのくどくどしい解釈 は、いうまでもなく不必要で、お読みいただいく方々のご感想にお任せする以外に何も ありません。 (HP作成者) |
|
存るかとみれば消えてしまう。 うたかたの如き存在です。 本来の夢幻と感得するほかはない。 かくの如くあらしめ、かくの如く消滅せしめるものを 大いなる生命と感得する。 生かしめるものは死なしめるものである。 われを抱くものはわれを殺すものである。 われを死なすものにゆだねつくすことを 真の救済という。帰依という。 大自然にゆだねつくしてはじめて定まり安んずる。 |