今月からは、しばらく、聖書の中にある“ことば”から選ばせていただき、また、それについての独特のいささか変わった感想を述べていきたいと思います。聖書の言葉についての感想といえば、随分大それたことですが、勿論、学問的根拠などあるはずもない、単なる感想ですので、気軽に読み飛ばしていただくだけで結構ですので、しばらくお付き合いください。
◎今月の言葉(2004年6月)
◎今月の言葉(2004年5月)
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如何スベキヤ 業者間競争相手への憎しみ、不渡り倒産会社への憤り、 (昭和38・8・17) あけくれて手形のことは気になれど |
◎今月の言葉(2004年4月)
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南無阿弥陀仏 南無無限者 南無不渡仏 南無阿弥陀仏 南無無限者 南無税務署員 南無阿弥陀仏 南無無限者 南無煩悩具足者 |
税務署にとまどう心
あわれや
己が貪欲
照らす仏ぞ
苦悩の因は貪欲にあり、
名利にあり
不如意、不如意、不如意
如意の心が苦悩の因である。
◎今月の言葉(2004年3月)
今今今、永遠の今
天地一パイ南無阿弥陀仏
一足一足歩けども一処に留る
何処に行くにも非ず
やがて死するにも非ず
今生かされてあるこの不思議
百千万歩すと雖も半畳を出でず
只宇宙の一点に静止して安らけし
行住坐臥大悲摂取光中
息の絶えたところ
そのときがお浄土へ着いたとき
今はお浄土への道中
南無阿弥陀仏の中
死とは如来の中に消え
如来と一体となし給う時
・・・・ (昭和60・1)
(HP作成者)
◎今月の言葉(2004年2月)
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-法蔵菩薩- 個々は、仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とす。・・・・法蔵の願とは、個々の法蔵を開発して無量光寿を開示せんがためなり。法蔵の本質は、一切衆生の本体なり。人々神的欲望(求道心あるいは菩提心)は、これ法蔵の願なり。 |
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無量寿経にある法蔵菩薩の物語は、我々のような、
現代に生きる普通の人間には、とても、その宗教的真実を素直に受け取ることが出来ず、私なども、これはありがたいお経の中にあるフィクション、あるいは神話物語,程度にしか受け取ることが出来ませんでした。
したがって、その法蔵菩薩がたてられた願、すなわち四十八願などの意味も、単なるフィクション中の、無上殊勝なる願いとしてしかうけとれなかったのです。しかし、弁栄聖者は言っています。「これは、
現にいま生きるわれわれ一人一人の問題なのだ」と。なぜなら、我々一人一人は、「仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とする」からだと。「法蔵の願とは、個々の法蔵を開発して無量光寿を開示せんがため」であると。
したがって法蔵菩薩の願とは、現に今生きている、求道を志し、菩提心を渇望する我々一人一人の「あるべきよう」、すなわち「生きかた、ありかた」なのだと、説いています。いや、心の底から叫んでいます。
この法蔵菩薩の願いにもとづく振舞いこそ、弁栄聖者が身をもって行い指し示した生き方ではなかったかと思うのです。そして、それは、求道心薄く、菩提心からも、およそかけ離れた日々の過ごし方をしている、
我々平凡人を照らす光でもあるのではないでしょうか。 総じて、いま振り返って見ますと,弁栄聖者の依って立つ宗教的真実の根本は、ただ一つ。上の文章の例で言えば「個々は、仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とす。」にあるように思います。 そして、これはまた、明治の同時代の清沢満之の根本でもあり,内村鑑三の根本でもあったのだ、と思うのです。 以上、弁栄聖者のことばを、昨年12月から3ヶ月にわたって、掲載させていただきましたが、来月からは、また、新しい、宗教的真実をかたる言葉の探究を続けたいと思います。 -HP作成者- |
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◎今月の言葉(2004年1月)
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