◎今月の言葉(2002年1月)
清沢満之「他力の救済」より
| 我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け 我、他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉づ。 我、他力の救済を念ずるときは、 我、物欲の為に迷わさるゝこと少く 我、他力の救済を忘るゝときは、 我、物欲の為に迷わさるゝこと多し 我、他力の救済を念ずるときは、 我が処するところに光明照し 我、他力の救済を忘るゝときは、 我が処するところに黒闇覆ふ。 嗚呼、他力救済の念は、能く我をして迷倒苦悶の娑婆を脱し て、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し。 我は實に此の念によりて、現に救済されつゝあるを感ず。 若し世に他力救済の教なかりせば、 我は終に迷乱と悶絶と を免れざりしなるべし。 然るに今や濁浪滔々の闇黒世裡に在りて 夙に清風掃々の光明海中に遊ぶを得るもの 其の大恩高徳豈に区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。 |
◎今月の言葉(2002年2月)
清沢満之「我が信念」より抜粋
私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑もありそうであるが、私の信念は、そうでなく、此順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずる、と云う点があります。此自力の無功なることを信ずるのは、私の智慧や思案の有り丈を尽して、其頭の挙げようのない様になる、と云うことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、其が後から後から打ち壊されてしまうたことが、幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うている間は、此の難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものではない、我には何にも分らないとなった所で、一切の事を挙げて悉く之を如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。 私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。其如来は、私の信ずることの出来る又信ぜざるを得ざる所の本体である。私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は、何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私、随って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、ということのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらえも身動き一寸もすることを得ぬ私、此私をして、虚心平気に、此世界に生死することを得しむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私は此如来を信ぜずしては居られない。此如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。 私の信念は大略此の如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、如来は私に対する無限の智慧である。第三の点より云えば、如来は私に対 する無限の能力である。斯くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との實在を信ずるのである。無限の慈悲なるが故に、信念確定の其の時より、如来は私をして直ちに平穏と安楽とを得しめたまふ。私の信ずる如来は、来世を待たず、現世に於いて、既に大なる幸福を私に與へたまふ。私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此の信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世における最大幸福である。此は私が毎日毎夜實験しつゝある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ實験しないことであるから、此處に陳ぶることは出来ぬ。◎今月の言葉(2002年3月)
春の日差しがふりそそぐ季節となりました。先月は清沢満之の「我が信念」の一部を抜粋して掲載させていただきましたが、いかがでしたでしょうか。やはり全文ではありませんでしたし、その上、私の拙い注釈めいた言葉がよけいに不明な点を増幅させ、充分ご共感いただけなかったのではないかと反省しております。ちなみに全文は「我が信念全文」をクリックしていただきご覧頂くことができますのでご参照ください。清沢満之「絶対他力の大道」より
自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。◎今月の言葉(2002年4月)
桜の花がはや散り急ぐ今年の春。地球温暖化が急速に進んでいるのではないかと心配です。清沢満之の思想はこの世界的展開にどう対処するのでしょうか。清沢満之「絶対他力の大道」より(その2)
宇宙万有の千変万化は、皆な是れ一大不可思議の妙用に属す。而して我等は之を当然通常の現象として、毫も之を尊崇敬拝するの念を生ずることなし。我等にして智なく感なくば、則ち止む。苟も智と感とを具備して、此の如きは、蓋し迷倒ならずとするを得むや。一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。皆な彼の一大不可思議力の発動に基くものならずばあらず。色香のみならず、我等自己其のものは如何。其の従来するや、其の趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅亦た自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。◎今月の言葉(2002年5月)
季節の移り変わりが少し速いとはいえ、1年中で最も過ごしやすい季節となりました。咲き誇るつつじの花は、この好季節を色彩で表わす代表ともいえるようです。 今月は、同じく清沢満之の「絶対他力の大道」の第3番目の文章を掲載し、生死を超えて永遠を見つめる彼の言葉を皆様と共に味わっていきたいと思います。清沢満之「絶対他力の大道」より(その3)
我等は死せざるべからず、我等は死するも尚ほ我等は滅せず。生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。◎今月の言葉(2002年6月)
いよいよ6月の声をきくこととなりました。その間、世界的には瀋陽事件をはじめ諸々の政治スキャンダル、小さくは身の回りの不祥事など、心穏やかでないことが次々と起こります。「絶対他力の大道」によれば「我等は寧ろ、ひたすら絶対無限の我等に賦与せるものと楽しまんかな。」であるわけでしょうが、なかなか凡愚の身には、そうもいきません。そんなことを考えながら、今月も同じく、次の強烈な清沢のことばを味わいたいと思います。清沢満之「絶対他力の大道」より(その4)
独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死固より覚悟の事たるべし。既に殺戮餓死を覚悟す。若し衣食あらば之を受用すべし、尽くれば従容死に就くべきなり。而して若し妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先とすべし。即ち我が有る所のものは我を措いて先づ彼等に給与せよ。その残る所を以って我を被養すべきなり。ただ、我れ死せば彼等如何して被養を得んと苦慮すること勿れ。此には絶対他力の大道を確信せば足れり。斯く大道は決して彼等を捨てざるべし。彼等は如何にしてか被養の道を得るに到るべし。若し彼等到底之を得ざらんか、是れ大道彼等に死を命ずるなり。彼等之を甘受すべきなり。ソクラテス氏曰く、我セサリーに行きて不在なりしとき、天、人の慈愛を用いて彼等を被養しき。今我れ若し遠き邦に逝かんに、天,豈に亦た彼等を被養せざらんやと。◎今月の言葉(2002年7月)
清沢満之の「絶対他力の大道」の中の深い宗教性を持った幾つかの文章をあげさせていただきました。今月は、私事になって恐縮ですが、私自身が清沢満之に出遇うことができた経緯を述べることをお許しください。また、スペースもありませんのでいきなり本論に入ることもお許し下さい。本多顕彰氏の挙げておられる「我が信念」の部分
「私が如来を信ずるのは、私の知恵の究極であるのである。・・・少しく真面目になり来たりてからは、どうも人生の意義について研究せずにはいられないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると言うところに到達して、ここに如来を信ずると言うことを惹起したのであります。」「如来は、私に対する無限の能力である。かくして私の信念は、無限の慈悲と、無限の知恵と、無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なるが故に、信念確定のその時より、如来は、私をしてただちに平穏と安楽とを得しめたもう。私の信ずる如来は、来世を待たず、現世において、既に大なる幸福を私に与えたもう。・・・これは私が毎日毎夜に実験しつつあるところの幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることはできぬ。」◎今月の言葉(2002年8月)
今月から、また、元に戻って、個々の宗教的な言葉で、心に響いたものを掲載したいと思います。著書「東洋の叡智」において 薗田香勲氏
宗教というものは理屈を超えたものであり、又あるべきだ、という風に言われる。誠にその通りであろう。しかし、理屈を超えるということは、人間の小ざかしい理屈を超えるということであって、人間の小ざかしい理屈を超えた所にかえって更に大きな道理、自然のことわりというか法界の道理というかそのようなものが全現するように思われる。信心とはこのような道理に耳を傾け、このようなことわりに眼を開くことであり、それが亦、仏法そのものの持ち味であるとも言えるのではあるまいか。◎今月の言葉(2002年9月)
「極楽」について ー水谷教章師ー
極楽は「何処に」などと探すべきものではなくて、実は「みな人の成仏すれば、それが極楽」であって、今の今、今日の唯今という切実な「此土」「此界」そのものの上に、極楽を捉えなくては、人間にとって、極楽の問題は意味がないのであります。即ち、現実を極楽にするのであり、また極楽にしうるのであり、また、極楽にせんとするのであり、また極楽と受取りうる自己とするのであり、現実を極楽とうけとりうる自己にまで、自己を高めて育てることなのであります。若しそうでなかったら、どこの誰が、どういう風にして往生極楽するというのでありましょうか。◎今月の言葉(2002年10月)
我が生涯の目的は我れが完全に基督を解せんとするにあり、我に歓喜あり、悲哀あり、成功あり、失敗あり、希望あり、失望あり、心身を裂かるゝに等しき苦痛あるは、是れ皆我れが完全に我が主イエス キリストを解せんが為なり、故に我れ我が国人に誤解せられ、其石打つ所となり、ステパナの如き苦楚を嘗むる事あるも、我にして若し此辛らき経験に依って一層深くキリストを解するに至らば、我は益を受けし者にして害を蒙りし者にあらざるなり、我れ若し友の捨る所となり、彼等に罵られ、嘲けられ、面前に於て堪え難きの恥辱を蒙らせらるゝ事あるも、我れ若し之に依て一歩たりとも我が主に近づくを得ば、我は悲しむべき者にあらずして、喜び且つ感謝すべき者なり、永遠無窮の生命とはキリストに於ける生涯に外ならざれば、我をしてキリストを識らしむるものは、其如何に苦しき盃たるに關はらず、我は感謝して之を受くべきなり。◎今月の言葉(2002年11月)
艱難は之を受くる時に決して悦ばしきものにあらず、然れどもその忍耐の実を結びて、より高き信仰を吾人に供するに至て、吾人は艱難を我が姉妹なり、我が兄弟なりと呼ぶに至る、神の造りしものにして実は艱難に優るものはなけん、そは他の物は吾人に示すに神の力と智慧とを以ってすれども、艱難は吾人を導きて直ちに神の心に抵(いた)らしむればなり。◎今月の言葉(2002年12月)
我等神を信ずる者に取ては患難は懲治なり、是れ我等を殺さんため のものにあらず、我等を癒し、我等を活かさんためのものなり、患難 なき者は神に愛せられざる者なり,誰か父の懲めざる子あらん乎(や), すべての人の受くる懲治にして若しなんじらになくば、なんじらは私生児にして実子に非ず、また、われらの肉体の父は、われらを懲らしめし者なるに、われらは尚を彼を敬へり、まして霊魂の父をや、われらは彼に従いて生命を受くべきなり、・・・・凡ての懲治は其当時は悦ばしきものにあらず、否な、反(かえっ)て悲しと意(おも)わるる