今回も念仏の大行を讃嘆し論ずる行巻の中で【87】、【88】の親鸞聖人の御自釈に対する引文として、前回の【89】の『大経 下』からの引文に続いて、曇鸞が『論註の下』において『浄土論』の「荘厳不虚作住持功徳成就」すなわち「仏の本願力を観ずるに・・・」からはじまることばについて読み進めます。それでは早速読みに入りましょう。
【90】『浄土論』
(論註・下)にいはく、
「〈なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、
偈に、《仏の本願力を観ずるに、
遇うて空しく
過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を
満足せしむ》といへるがゆゑに〉とのたまへり。
〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。
いままさに略して虚作の
相の住持にあたわざるを
示して、
もってかの不虚作住持の義を
顕す。
(乃至)
いふところの不虚作住持は、
本法蔵菩薩の
四十八願と、
今日阿弥陀如来の
自在神力とによる。
願もって力を
成ず、力もって
願に就く。
願徒然ならず、
力虚設ならず。
力願あひ符うて、
畢竟じて差はず。
ゆゑに成就といふ」と。
【90】曇鸞は、その論註下において『浄土論』に記されている「荘厳不虚作住持功徳成就」とはどのようなことかと問いかけ、『浄土論』は偈で《仏の本願力に遇って空しく過ごす者はない。よくすみやかに功徳の大宝海が与えられる》と答えている、 そしてこのことが「荘厳不虚作住持功徳成就」ということなのだと云っている。この「不虚作住持功徳成就」ということは、とりもなおさず阿弥陀如来の本願力である。 今まさに虚(むな)しいこの世の有り方が真実の有り方ではないことを示すことによって、不虚作住持の意味を顕(あらわ)そうと云う。(中略)。 いわゆる「不虚作住持」ということは、もと法蔵菩薩の四十八願と、今現在は阿弥陀如来の無限自在の力とによるのである。すなわち法蔵菩薩の願(誓願)があるが故に 阿弥陀如来の本願力が成り立ち、本願力は法蔵菩薩の誓願が間違いなく成就したことを示している。だから法蔵菩薩の誓願は徒然すなわち無駄ないたずらごとではなく、 本願力は虚しく設けられたものでないのである。だから力と願お互いがはたらき合って究極的に一体となって食い違いがない。だからこのことを成就というのである。このように曇鸞は論註で述べている。
今月は曇鸞が、その著『浄土論註』において天親菩薩の『浄土論』で「荘厳不虚作住持功徳成就」とは①《仏の本願力を観ずるに、遇(まうあ)うて空しく過ぐる者なし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。》ということであると説いていることを、親鸞聖人が【90】において引文されています。この①のことばは親鸞和讃でも「本願力にあひぬれば むなしく過ぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし」と詠まれているところです。まことに、心の隅々まで満たされる仏のことばであると思います。ところで筆者は『浄土論』のこのことばについてPC上で「不虚作住持功徳」と入力してAIに対して、このことばの意味を問うてみました。その結果、AIはネット上に無数に出ている、この言葉に関する記事から、それらをまとめて、まことにすぐれた解答を返してきました。それによると「不虚作住持功徳とは、天親菩薩の『浄土論』に基づく言葉で、阿弥陀仏の本願力により、迷いの世界(人生)が空しく過ぎ去ることはなく、すべての苦悩が意味を持ち、功徳の宝海に満たされることを意味する。(浄土真宗の重要な教え)。」とし、その少し後ろに「無駄な人生はない」として『煩悩の濁水に沈むような日々であっても、阿弥陀仏の救い(名号)に出遇うことで、その人生が「無駄でなかった」と転換される』と解答してくれました。まことにすぐれた解答で、ネット上や仏教の参考書で他にも「不虚作住持功徳」について論義されていますが、これほどすぐれた答えは見当たらなかったように思います。余分な付け加えになったかもしれません。そしてAIの解答は全てを信頼はできません。なぜなら多くの情報ソースの中から間違った情報も拾ってさも事実であるかのように作文するからです。また、AIに信心のことを問うことは無意味でしょう。なぜならAIは人間のような生死は無関係だからです。AIはネット上から無数の情報を瞬時に収集整理する力はありますが、しかしその一方で単なるこの世のことについての物知りであるからです。創造力はありません。AIに宗教的なことを問う時には、このことをしっかり人間として頭に置いておくことが必要です。しかしAIというこの宗教的物知りの解答は、今回の場合『浄土論』のこのことばについてネット上の多くの記事の中から、最高の答えを抽出しているように思えました。しかし、このことはもちろんAIに対する単なる讃嘆ではなく、真実の根源は『浄土論』の天親菩薩の現代人の思索にも比すべき宇宙観、人生観を讃嘆するばかりであるということです。
本文にかえりますと、後半で『浄土論註』は、これら『浄土論』の「不虚作住持功徳成就」ということの本(もと)は法蔵菩薩の四十八願と、その願が成就して正覚の仏となられた弥陀の本願力によるものだということを強調しています。そして「法蔵菩薩の願(誓願)は弥陀の本願力を成り立たせ、「弥陀の本願力は法蔵菩薩の願(誓願)が嘘いつわりでないこと」を示している。すなわち願は徒然(いつわりごと)ではなく、本願力は空虚に設けられたものではないことをも強調しています。ことほどさように親鸞浄土教は「生死出づべき道」の全ては法蔵菩薩の誓願と、それが成就した弥陀の本願力にあることを示しているのです。
本日はこれで終ります。