仏教 こころの言葉

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今月の言葉(2026年2月)

『顕浄土真実教行証』行文類 本文30

はじめに

 今回も念仏の大行を讃嘆し論ずる行巻の中で、先月以来の【81】から【86】の文言を受けて、全てが一つの大行に収まる一仏乗たる大乗の至極を親鸞聖人が「海」ということばを使って表現されているところを読み進めます。
 今月は、それについての親鸞聖人の御自釈と大無量寿経下巻の「往観偈」からの引文をまず読み進めることにいたしました。 引文はその後も『浄土論』、『論註』、『玄義分』、『般舟讃』と続きますが、今月はとりあえず上記の【89】までを読み進め、【90】以降の引文は、特に理由があるわけではありませんが来月以降にさせていただきます。

読み下し古文

【87】 しかれぼ、これらの 覚悟かくご は、みなもつて 安養あんにょうじょう せつ大利だいり仏願難思ぶつがんなんじ とく なり。

【88】「かい 」といふは、 久遠おん よりこのかた。 ぼん しょう 所修しょしゅ雑修雑善ざっしゅぞうぜん川水せんすいてんじ、 ぎゃく 膀闡提ぼうせんだい 恒沙ごうじゃ 無明むみょう海水かいすいてんじて、 本願ほんがん 大悲だいひ 智慧ちえ 真実しんじつ 恒沙ごうじゃ 万徳まんとく大宝海水だいほうかいすい となる。 これを うみ のごときに たとふるなり。 まことに んぬ、 きょうきて 「煩悩ぼんのうこおり けて 功徳くどくみず となる」とのたまへるがごとし。 (以上いじょう
 願海がんかい二乗にじょう 雑善ぞうぜん中下ちゅうげ屍骸しがい宿やどさず。 いかにいはんや 人天にんでん虚仮こけ 邪偽じゃぎ善業ぜんごう雑毒ぞうどく 雑心ざっしん屍骸しがい宿やどさんや。

【89】 ゆゑに『 大本だいほん 』( 大経だいきょう )・ )にのたまはく、「 声聞しょうもん あるいは 菩薩ぼさつ 、よく 聖心しょうしんきわ むることなし。たとへば うま れてより めし ひたるものの、 おこな いて ひと開導かいどう せんと おも はんがごとし。 如来にょらい智慧海ちえかい は、 深広じんこう にして 涯底がいたい なし。 二乗にじょうはか るところにあらず。ただ ぶつ のみ ひと りあきらかに さと りたまへり」と。( 以上いじょう

現代意訳

【87】 だから、このようなことを、しっかりと さと ることができるのは,すべて大いなる 安心あんじん が得られる ほとけ の世界の 利益りやく であり、私たち有限なる衆生の思いを超えた弥陀の本願の至徳によるものである。
【88】「 海くかい というのは、 永劫えいごう の過去以来、自力修善の凡夫や聖人が修めるところの業が流す川水、更には 逆謗闡提ぎゃくほうせんだい ともいえる悪逆無道の無明の海水などを転じて、 本願大悲の真実の智慧を無限に備えた万徳の大宝海水となること。 これを海のように譬えるのである。
まことに知ることができた、経に説かれている 「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とはこのことだと。(以上)
本願の海は二乗雑善といわれる利他の心を持たない声聞や縁覚(中下の成仏できない徒)を摂(おさ)めとらない。 ましてや、人や天人の虚仮で偽物の善業や雑毒雑心の既に成仏できないで死んでしまっている輩(やから)が摂取されるはずがない。

【89】故に『大無量寿経・下』に「声聞や菩薩でさえも、仏のこころを知り究めることができない。 たとえば生まれながらに目の不自由な人が、 他の人を導こうとするようなものだ(有限の我ら衆生が無限の如来のこころを隅々までわかって人々を導こうとするようなものだ)。如来の智慧の海は深く、広く、 無限なのだ。声聞や縁覚など二乗の徒にわかるわけがない。 たゞ無限大悲の仏のみが独りお分かりになっていることだ。」と説かれている。

HP作成者感想

 【87】は古文もわかりやすく、現代意訳もお読みいただけばよくわかります。 そのなかで”覚悟”ということばが出ていますね。仏教のことばとして、このように使われていると なおさらよくわかります。現代人は”覚悟”ということばを「もう駄目だと覚悟した」とか、「このあと、ろくなことがないと覚悟せよ」とか場合によっては「観念しろ」という あまりありがたくない 意味で使われているようですが、【87】で使われているように「はっきりとまちがいなく覚る」というのが元々の意味なのですね。あゝそういえば 「観念しろ」なども、随分現代ではいい加減に 使われていることがよくわかります。それとこの【87】でも、やはりというか、いうまでもなくというか親鸞浄土教の救いの根幹は 仏願の無上の至徳であることがよくわかります。
 【88】は一転して「海」という仏教的用語についての親鸞聖人のご自釈です。仏教的用語としての「海」という語なのですが、三部経などの経典、更に七高僧の聖教など、 更に親鸞の教行信証の各巻における「海」という語の使われ方を調べてみました。生死海、智慧海、難度海など仏教的な思想表現のための「海」という語の使われ方のほかに海徳とか海雲慧遊仏といった 固有名詞の中の「海」という用語も含めていろいろな使われ方をしていますが、これらを大変雑な調べ方になりますが上記の三部経をはじめとして七高僧の聖教の中で使われている「海」という言葉の数で、 やはり一番多いのは『教行信証』のまさに、この行巻の93個が最多で、他の経典や聖教での使われ方を圧倒しています。そのほかにこれに近い親鸞聖人以外の著作物としては『往生要集 巻上』の74個ですが、それにしても親鸞聖人は「海」ということばに特別の思いを持って居られたように思われます。しかも親鸞聖人による「海」という用語の使われ方は、それこそ上に挙げました生死海、智慧海、難度海、・・・など親鸞浄土教思想を端的に表すために使われている例が多いです。以上の事柄も含みながらこの【88】の「海といふは、久遠よりこのかた・・・」に始まる文章を読み進めてみます。【88】における「海」とは、最初の三行にありますように凡聖所修の雑修雑善の川水が流れ込んだ逆謗闡提恒沙無明の海、すなわち諸々の煩悩渦巻く無明に満ちた川水が流れ込んだ海は、これまた汚れているのですが、更に大なる本願大悲智慧真実恒沙万徳の清浄なる大宝海に取り囲まれ、取り込まれ、摂取されるありさまを「海」ということばを使って譬えられ、表現されていることがわかります。まさに「煩悩の氷が解けて、弥陀の功徳の水となり」ということばに表されていることになります。そして【88】の最後の二行は、弥陀の本願の功徳に満ちた海には、上記にあらわされているように、大乗の海に気付かない声聞や縁覚の二乗雑善、ましてや虚仮邪偽の善業や雑毒雑心による業では、大いなる大宝海には摂取されないということを、親鸞聖人はこのご自釈で強く述べて居られるということになります。
 親鸞聖人は、以上の御自釈に対して、いくつかの引文を示して居られますが、今回は先ず大無量寿経下巻の「往観偈」の中から【89】のように、かの国に生れるためには、声聞、縁覚のようにな二乗の徒のごとく、いつまでも有限のこの世の行に終始し、大乗をこころ得ず、無限大悲のはたらきが全てであるという 他力本願に気付かない者は正覚を得ることができないことを示されています。

今月はここまでとします。