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『顕浄土真実教行証』行文類本文17
「はじめに」 |
| 【読下し古文】 【50】 ( |
| 【現代意訳】 【50】慈雲(別名 天竺寺の遵式ともいう)が、<ただ安養浄土への仏道である浄土教のみがさとりへの近道であり、この道こそ修めるべきである。もし道俗男女を問わず、すみやかに無明の闇を破り永く全ての五逆十悪の罪を滅しようと欲(おも)う者は、まさにこの法を修すべきである。 大乗、小乗の戒律を長く清らかに保つことができ、念仏三昧に専念し、菩薩の諸々の行を成就したいと欲(おも)うならば、まさにこの法を修めるべきである。臨終にのぞんで、もろもろの恐怖から離れしめ身も心も落ち着いて、しかも多くの聖者に囲まれ、手をとって 浄土に導かれる。そのときはじめて煩悩の繋縛から解かれ、生死の世界を離れ弥陀と一体になりたいと欲(おも)うならば、まさにこの法を学ぶべきであると言っている。古き先達の仏語に従うべきである。>以上、五つに分けて、その大略を述べた。 これ以上は述べず、くわしくは釈文にゆずろう。『開元の蔵録』によれば、この経、すなわち『観無量寿経』には二つの訳があり、初めの方の訳は既になくなっている。いまある『観無量寿経』は 【51】慈雲ともよばれる遵式が念仏を讃歎した文で云っている。<念仏の教えは真実中の真実の教えであり、欠ける所のない完全なさとりに導かれる>と。 【52】大智、すなわち元照自身も元照の『観経義疏』でいっている。「念仏の教えは唯一の完全なさとりに導かれる教えであり、純一で、あれこれと議論する余地はない>と。 |
| 【HP作成者感想】 【50】まず初めに現代意訳の方はそのままお読みいただくとして、書き下し古文の方を順を追って読み進めましょう。 まず「安養の浄業」というのは安養浄土に往生するための念仏行のこと、 「捷真」とは真実への近道ということでしょう。「四衆」とは僧・俗・男・女の四種類の衆生をいいます。「五逆十悪の軽重」とは五逆・十悪の重いのも軽いのも」といったところでしょうか。 「大小」とは大乗、小乗のこと、「戒体」というのは戒を受けることによって備わる止悪修善の力ということでしょうか。そしてこの「戒体」の功徳が「遠く、また清浄なること」の「遠く」とは「永く」という意味とすればいいでしょう。 「菩薩の諸波羅蜜」とは菩薩が行ずる 悟りにいたる諸々の修行のこと、「塵労」とは、心を疲れさせるもの、要するに煩悩の事。「長劫(じょうごう)」というのは長い時間。「無生を得る」とは難解な言葉ですが要は「生死出 づべき道を得る」と云うふうにうけとりました。「古賢」とはここでは元照が慈雲のことを指しているということで、元照(1048-1116年)と慈雲(964-1034)の生きた時代はそう離れていませんから上の現代意訳では元照から見て 「古き先達」と訳しました。「以上五門、綱要を略標す」とは、「以上五つに分けて、慈雲が念仏の教えを修すべきであるとしたその概略を述べたのである」と元照律師がいっているということ。『開元の蔵録」とは『開元釈教録』 のことで、この蔵録は中国、唐の時代に記録された後漢の時代から唐の開元十八年までに訳された経典などの目録のこと。 以上、書き下し古文【50】の文中の難解語について私見もまじえて説明させていただきました。次は【50】の文の中味について「私考」を述べさせていただきます。まず気になりますのは「すみやかに無明を破し、永く五逆・十悪・重軽等の罪を滅せんと欲(おも)はば 、まさにこの法を修すべし。」というところです。どうしてそのように簡単に言えるのか、いささか疑問です。悪人こそ救わるべきという親鸞浄土教を学ぶ者としては初歩的な疑問ですが、あらためてなぜ念仏浄土教において、それを修すれば、 五逆・十悪の罪が滅せられるのかということです。ここで思われることは、私たち人間は全て仏のはたらきによって生きているということ、そして、その場合の仏のはたらきは、すべて善であるということです。それではどうして悪が生じるのか、 自らを振り返りますと全てが善である仏のはたらきによって与えられているはたらきを、自分のはたらきであるとみることによって起るのではないでしょうか。そして自分のはたらきとは煩悩のことです。すなわち仏が絶対ではなく 自我が絶対と考える立場です。いかに善行功徳を尽くす人であっても自我によって、その善行功徳がおこなわれるならばそれは悪そのものになってしまいます。念仏の宗教は南無阿弥陀仏、すなわち全てが仏のはたらきであるとする 絶対他力の立場ですから真実の他力念仏行を生きれば、その生きざまは、五逆・十悪を滅する用(はたら)きがあるはずです。それでは全てが他力であるとすれば、どのような悪をしてもよいのかという疑問が出てきますがそれは違います。 どのような悪をしてもよいということでそれを行なったとたんにそれは自我を絶対とする煩悩にもとづく行ないになります。したがって自我を離れた仏のはたらきによって生きる絶対他力の立場は善であり、諸悪莫作として生きる 立場であるということも添えさせていただきます。 また「臨終にもろもろの怖畏(恐怖)を離れしめられるのも、すべてが仏のはたらきであるという南無阿弥陀仏ということからいえることで、臨終に臨んで生きても死んでもすべて仏の中、阿弥陀仏と 一体である、それが南無阿弥陀仏の意味であるとすれば、むしろ臨終の瞬間こそ、これから大いなるいのちに還る時、帰命する時なのですから、慶ぶべき時といってもいいのではないでしょうか。 最後にもうひとつ、この【50】にかぎらず、それまでも経典をはじめ七高僧が説かれている聖典においても 、そして今、元照や慈雲が念仏の浄土教を覚信をもって勧めているのもすべて、その人たちも生きても死んでも南無阿弥陀仏すなわち仏と一体であるという信の世界に住むが故に、そのように他力念仏の教えを覚信をもって勧めて居られるのだと思います 如何でしょうか皆様のご思索を待つところです。 次の【51】、【52】も共に「念仏の教えは真実中の真実の教えであり、唯一の完全な教えである」としているのは、【50】においてのように名号「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏と一体になることであるという真実に気が付けば、当然いえることであり、ここは【50】、【51】、【52】共に同じ念仏讃嘆の言葉であるということができます。 今月はこのあたりで終わります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文18
「はじめに」 |
| 【読下し古文】
【53】 【54】 律宗の用欽(元照の弟子なり) のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。(以上) |
| 【現代意訳】 【53】律宗の戒度(元照の弟子)が元照の『観無量寿経義疏』の註釈書『正観記』で云っている。名号はこれ法蔵菩薩の永劫の修行(薫修)の功が積まれて出来上がったもので、全ての徳が込められ、その徳はすべて「阿弥陀仏」という四字に彰(あらわ)れている。この故に名号を称えればまことに無限の利益(りやく)があるのだ。(以上) 【54】 律宗の用欽(元照の弟子)が云っている。今、もし私がその心と口をもって、弥陀の嘉号を称念すれば、修行時代(因)の法蔵菩薩と成仏された(果)阿弥陀仏の全ての功徳をいただき身に具わるのである。 【55】また云っている。全ての仏は計り知れないほどの時間を経て真実の相を覚(さと)られるが、それによってなにかこの世の利益を得ようとされるのでもなく、この世の不条理を解決するための大願をおこされるが何か奇跡 のような行いがあるのでもなく、自らのためにさとりをえるというのでもなく、極楽の愉悦にひたるのでもなく、ましてや神通力などとは縁遠く、只々あるのは縁起による仏のはたらきのみであると真実の説法(舌相)を大千世界に示して『 阿弥陀経』を勧められるのである。どうして凡夫のわれわれに、とやかくいえるところがあろうか。わたくし(用欽)に云わせれば諸仏の不思議の功徳、これはとりもなおさず阿弥陀仏と浄土のすばらしさに帰せられるのだ。 弥陀の名号を称える行の中には阿弥陀仏が自ずと収まっているのである。(以上) 【56】 三論の祖師 嘉祥(かじょう)が云っている。問うて云うに、念仏三昧はどうして、このような多くの罪を滅することができるのか。 それに答えて云おう。仏には無限の功徳がある。この仏には無限の功徳があるゆえに、その無限の功徳を念ずれば無量の罪を滅することができるのだ。 【57】法相(ほっそう)の祖師 法位(ほうい)が『大経義疏』で云っている。「諸仏はその徳を、その名号に整えている。だからその名号を称すれば、その徳を称することになるのだ。徳はよく罪を滅して福を生じる。名号もまたこのように仏名を信じれば、よく善を生じ、悪を滅すること疑いなきところである。称名して往生する、このことに何の惑いがあろうか。」 【58】 禅宗の飛錫(ひしゃく)が『念仏三昧宝王論』で云っている。念仏三昧の仏道、これが最上である。万(よろず)の行の元首であるから、これを三昧王という。」 と。(以上) |
| 【HP作成者感想】 前回は主に元照の念仏浄土教讃仰の文が引文されていましたが、今月は更にその弟子や、中国における他宗の祖師の念仏讃仰の引文が続きます。 古文の方には相変わらず難解語や難解文がありますので、はじめに古文の中の分かり難い用語や文章の検討から始めます。 まず【53】の「仏名はすなわちこれ劫を積んで薫修(くんじゅ)しその万徳を攬(と)る。すべて四字に彰(あらわ)る。」という部分です。「仏名は~万徳を攬る」の中で「劫を積んで薫修し」という部分の主語は、 はじめは衆生のことかと思っていましたが、 劫を積んで薫修することなど衆生にはできることではありませんので、これは法蔵菩薩のことであると分かりました。したがって「万徳を攬る」とは法蔵菩薩が永劫の修行の結果 得られた万徳を我々衆生に回向された(攬られた)と解釈すべきでしょう。 だからその回向された万徳は四つの文字すなわち「阿弥陀仏」という仏名に彰(あらわ)れているということになります。 【54】では「わが心口をもって」という場合の「わが(我が)」という「我」、これは衆生のことでしょう。心口というふうに口のみではなく、心が添えられているのに意味がありますね。信心をもって口で称えるということでしょうか。 更に「因より果に至るまで」という部分の主語が省かれていますので 難解ですね。これは法蔵菩薩(因)が永劫の修行の結果、阿弥陀仏(果)になられるまで、その間の限りなき功徳を、その嘉号(弥陀の名号)を称念することによって衆生の身に具わるということでしょう。 【55】 同じく律宗の用欽のことばです。「実相を了悟して」とは仏が生死の真実を悟ってということでょうが、しかしそれによって何ものをも仏は得ることはないのに、それでもなお無限の功徳のある大願を発し、修めた無上の行の成果を仏みずからのために求めず、 それどころか自らは成仏さえも求めず、浄土に往生してそこにとどまることすら求めず、無上の妙なる修行の結果得られる無限の力も奇蹟を起こす力などではなく、普通の縁起にもとづく大いなる能力をもって世界の隅々まで無限に長い舌をもって説きすすめ、 それも事々しく説くのではなく、衆生が自ずから納得するように説き、この名号の教えである『阿弥陀経』をお勧めになるのである、どうして詮索したり、口々にあれこれと論ずることがあろうか、ということでしょう。 次に「諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳に収む」とはどういうことでしょう? これはこのように自らのためには何物をも求めない仏の功徳は論を待たずに(須臾)に弥陀と浄土の素晴らしさ(荘厳)をもたらしたということでしょう。 最後の「持名の行法はかの諸仏の中に、またすべからく弥陀を収むべきなり。」 これも難解な文ですね。 私(HP作成者)はこれを「南無阿弥陀仏と称える念仏の行を保つという行法(持名の行)は、上で示した諸仏を阿弥陀仏一仏に象徴する行であるということだと思うのですがいかがでしょうか。すなわち諸仏はすべて阿弥陀仏一仏に収まるということです。 【56】 この項は「念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや」 というまことに大きな課題を含んでいますので、この項については後ほど論じたいと思います。 【57】 この項全体もまことに、浄土三部経全体を顕すような凄くもすばらしいことばが述べられています。これも後ほど論ずることにいたしましょう。 【58】 以上本日の引文を【57】まで読んでくれば、【58】において念仏三昧の行が万行の王であることがわかるでしょう。したがってこの項はこれでこのまま受取らせていただくことにします。 以上、今月の【53】~【58】までの項を読んできましたが、ここで【56】と【57】を振り返るのと、さらに全体をもう一度振り返って論じてみたいと思います。 まず【56】です。ここでは念仏三昧が、煩悩熾盛の凡夫の多くの罪を滅することができるとなっています。なぜそうなのかということに対してこの項では仏に無量の功徳があるからということになっています。仏に無量の功徳があるからということで、 さも簡単に私たちの犯した罪は消えると納得できるのでしょうか。私にはとても納得できません。それに対して、その様に納得できないのは、多くの罪を犯すのは全部自分以外の他人が犯す罪だから納得できないのだという意見もあるかもしれません。 それでは自分自身がそのような罪を犯したとしても、やはり私は納得できません。仏の無限の功徳があるからと、安閑としておられるはずがありません。それではどうすればいいのでしょうか。「仏が衆生のどのような罪も滅することができる」と いうのはどういうことなのでしょうか。これは勿論、現世、世俗の時空の中で法律的にその罪が滅せられるということではない筈です。これは何としても自ら犯した罪は、どのような過酷な刑罰といえども服して当然であり、また そのように過酷な刑罰に実際に服して地獄の苦しみに逢った時に、これはやむを得ない報いの苦しみであると納得した時にはじめて仏の救いに遇えるのではないでしょうか。それでは犯した罪に苦しみながらも 誰にも分らずに具体的な報いも受けずに生涯を終えるということもあり得るかもしれません。しかしそれで報いの罪をうまく逃れられるのでしょうか、それについては、その時は不信のままでの死が待ち受けています。死は煩悩にとって全ての否定になるのですから、これは罪の源泉である煩悩にとっては地獄である筈です。生死の源泉である仏は、このようにして、死をもって、その人の煩悩に対して地獄の報いを与え、その時はじめて真の救いが生じるのではないでしょうか。皆さまのご思索を待つところです。 次に【57】です。ここでは諸仏は徳を名に施こすとなっています。これはどういうことでしょうか。たとえば南無阿弥陀仏です。このいわれは我々衆生が阿弥陀仏に帰命するということでしょう。帰命しているといってもいいでしょう。すなわち阿弥陀仏と 一体だということです。阿弥陀仏と一体であるということは生きては弥陀に摂取され、いのち終れば弥陀とそれこそ純粋に一体となる。いのち終れば煩悩がまじらないからです。これ以上の救い、これ以上の福があるでしょうか。大いなる永遠のいのちと 一体になるのです。称名念仏とともに生きるということはそれを憶念し、称えることによって生き、そしていのち終わって大いなるいのちに生れるということではないでしょうか。勿論このいのち終わればこの煩悩の生はなくなるでしょう。 なぜなら生きるとは煩悩なのですから。だからこの煩悩の自分は完全になくなってしまうでしょう。しかし無限に大いなるいのちである阿弥陀仏と一体となっている。なんという素晴らしいことではないでしょうか。 〇そしてこの時点でもう一つ全体を振り返って書かせていただきたいことが あります。それは、この行巻の念仏讃嘆は第十七願の「無量寿経」に始まり、『無量寿如来会』やそのほかの経典、そして龍樹に始まり、善導に至るまでの論や釈を とおしての無数の念仏讃嘆と讃仰がありますが、行巻の念仏讃嘆は七高僧に終らず、 さらにそれ以外の祖師たちの讃嘆、讃仰を網羅し、最近では善導の後を継ぐ念仏の祖師や、そのまた後継者や孫弟子、あるいは念仏以外の他宗の祖師の 念仏讃仰の引文まで、よくぞここまで引文されたものと思ってしまいます。まことに不遜な云い方ですが いささか辟易するほどです。このような凄い数の引文の書は、他はよく知りませんが、珍しいのではないでしょうか。何故このように無数の引文が続くのでしょうか。このような『教行信証』の基調は親鸞聖人においては、どのようなところにその源泉があるのでしょうか。 目を閉じて、ふと気が付くことは、これはやはり法然浄土教に対する旧仏教がわの批判、例えば貞慶の『興福寺奏状』や明恵の『摧邪輪』のような批判に対して、法然浄土教にはこれだけ多数の讃仰者、往生者があるではないかという反論が込められているのではないでしょうか。この強烈なやむにやまれぬ動機がこの先月今月の引文をしてこれら善導の後継者やそのまた弟子たちの念仏讃仰の言葉を言わしめているのではないでしょうか。そういえば『教行信証』全体が、法然・親鸞浄土教はそのような旧仏教側の批判はものともしないという、いうなれば厳然とした文章となっているのではないでしょうか。以上、この時点で思ったことを書かせていただきました。 今月はこのあたりで終わります。 |
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『顕浄土真実教行証』
行文類本文19 「はじめに」 |
| 【読下し古文】
【59】 『 |
| 【現代意訳】 【59】『往生要集(源信作) 下』にいわれている『双巻経(大経は上下二巻に分かれているので このようにいう)の下』の三輩(上輩、中輩、下輩=その人の宗教性の浅・深を表す)の行に浅深があるけれども、いずれも皆<そろって専ら無量寿仏を念ず>といっている。 三番目には四十八願の中に念仏門の中で特に一つの願(第十八願)を発(おこ)して、いわれている。<衆生が名号を十念して、もし浄土のさとりを得られないようなら、私(法蔵菩薩)は仏に成らない(乃至十念 若不生者 不取正覚)>と いわれている。 四番目には『観経』には<極重の悪人は他に救われる手立てがない。たゞ称名念仏すれば極楽に生まれることができる> と。 【60】また『往生要集 上』では「『心地観経(しんじかんぎょう=心をよく観察して妄想を滅し、仏道を成就することを説く経)』でいわれている。六趣の功徳ある存在に依るべし。一つには田畑のような無上の功徳の源(無上功徳田)に、 二つには大いなる恩徳の源である「無上大恩徳」に、 三つには、「いろいろな足の数を持つすべてのいのち」の源泉である尊い存在に、 四つには、きわめて稀(まれ)なる優曇華のような、たとえば釈尊のような方に、五つには、この大千世界を超えた大いなる存在に、六つには世間と、出世間の功徳にみちた存在に、 総じてこのような六種の功徳の源泉に依るべきで、 これらの大いなるいのちの源泉は全ての衆生を利益し給うのである。 【61】 この六種の功徳によって源信和尚(信和尚)が往生要集上巻でいわれるには、 「一つには、仏に帰命する一声の念仏で皆仏道が成就する(一称南無仏皆已成仏道)が故に、無上の大功徳田ような阿弥陀に帰命し礼拝させていただく。 二つには大悲の眼を以って、平等に一子のように衆生を見ておられる大悲の母(極大慈悲母)に帰命し礼拝したてまつるのである。 三つには十方の菩薩が弥陀尊を崇めたてまつるように、私(源信)も衆生を超えた無上の存在(無上両足尊)である仏に帰命します。 四つには、名号のいわれを聞き信ずることは優曇華の花が咲くのを見るよりも稀なのだから、私(源信)は値(あ)うことが極難な阿弥陀仏(極難値遇者)に帰命し礼拝し奉ります。 五つには、この無量寿仏(阿弥陀仏)は三千大千世界(一百倶胝界)で唯一の方である(二尊並んで出でたまわず)。その故に私(源信)は稀なる大法王である無量寿仏に帰依し礼拝し奉ります。 六つには、また、あらゆる徳を収めた仏法の世界は過去・現在・未来を通じて一体である。故に私(源信)はあらゆる徳を収めた無限の存在である阿弥陀仏に帰命し礼拝するのです。 【62】 また同じく『往生要集 上』で次のようにいわれている。「忉利天(とうりてん)にあるという 【63】また次のようにいわれている(同 下)。「一斤(現代では340g)の錬金術の液(石汁)はよく千斤の銅を金にしてしまう。雪山に生える |
| 【HP作成者感想】
源信の『往生要集』は僧・俗・貴・賤の誰もが求める往生極楽の仏道を浄土教の立場から上中下三巻十門に分けて説いたものです。十門の内容は①厭離穢土②欣求浄土③極楽証拠、 ④正修念仏、 ⑤助念方法、⑥別時念仏、⑦念仏利益、 ⑧念仏証拠,、⑨往生諸業、⑩問答料簡になっています。 今月の『往生要集』からの引文は十門の内、まず【59】で第八番目、「念仏証拠」について 説いた文の中から第二・第三・第四文が引文されています。この「証拠」という言葉が面白いですね。現代では証拠はいうまでもなく事実に基づく根拠という意味ですが、 源信が生きた平安時代には証拠というのはお経に書いてあるかどうかで判断したのですね。考えてみれば「証拠」ということばの意味するところは事実に基づくか、お経に基づくか、どちらが正しいかということは、その時の時代の風潮によるものであって、 言葉の意味から考えるとどちらかが間違っているとは言えないでしょう。 先ず 第二文で、『無量寿経』では、人には上輩・中輩・下輩という宗教的感性の浅深があるが、そのどの段階の者も皆、一向に専(もっぱ)ら無量寿仏を念ずることが必要であると説かれている。 第三文では念仏の法について特別に第十八願という一つの願を発(おこ)して十念の念仏を必要としている。 第四文では『観経』では極重の悪人は他に方法が無いが、たゞ弥陀の名号を称念することによって極楽往生できることが説かれている。 以上三文によって往生極楽の根拠が念仏にあることを説いています。ところでここでふと気が付くことは、この【59】の引文は第二文から始まっていますが、どうして第一文は無いのだろうということです。引文だからどこから引用しようと関係がないと云われてしまえばそれまでですが、いくら引文であろうと、第一番目は省略して、第二番目からの引用というのは、どうもしっくりしません。何か理由があるのかと思ってしまいます。そこで元の『往生要集』のこの念仏証拠の部分を読んでみますと、第一文には、弥陀を念ずるのみではなく達摩や僧伽まで、しかも二十万遍も一百万遍もの数を称えることを求めており、これはあきらかに自力の念仏であることが明らかなために親鸞聖人が第一文は省かれたのだろうと思います。更に念仏証拠には、第五文以降第十文までありますが、これも引用が省かれているのは、殆どが観仏や仏の来迎といった第十八願の弘願門以外の自力の念仏行が説かれているので親鸞聖人は省かれたのでしょう。 ところで上の第四文は『観経』で極重悪人で下品下生の衆生が臨終に先立って善知識の教えを信じて十念の称名をすることによって無事極楽往生を遂げることを指して、そのことが引文されているわけですが、ここで思い出されるのは『正信偈』における「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」という部分です。この親鸞聖人による『正信偈』の文章は源信の思想を表わす最も優れた表現です。[ところでこの場合の我亦在彼摂取中・・・以下の文章は、今の場合の第四文にはありませんが、『往生要集 中巻』の「正修念仏」の観察門の雑略観に源信和尚が直接書かれた文章が出ています。漢文では「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我身」となっており、親鸞聖人の『正信偈』では「常照我」で終わっていますが、往生要集では「常照我身」と「身」の字が付け加わっています。どちらも同じ意味でしょう。あらためて両方を拝読しますと源信和尚も親鸞聖人も『観経』の下品下生の極重悪人の位置にそれぞれの身を置いて居られることがわかり、まことに感動的で以って瞑すべき言葉であります。 次に【60】では『往生要集』上巻の第四門の「正修念仏」から引文されています。「正修念仏」は世親菩薩の五念門(礼拝、讃歎、作願、観察、回向)を修めて浄土往生を願う形になっています。【60】ではその内、礼拝門を説く中で『心地観経』の六種の功徳を 礼(らい)することを紹介し【61】では、【60】の『心地観経』の六種の内容を源信が補足説明している形になっています。【60】、【61】ともにその内容は上記古文と、現代意訳をお読みいただければわかりますが【60】の『心地観経』が説くところを【61】で源信が補足説明を したものです。要するに正しく礼拝し念仏せよということです。 次の【62】も同じく「正修念仏」でいわれている五念門の中の作願門に含まれる讃歎文です。「波利質多樹の花は一日、衣に薫じ付けると、世間で香りが強いと言われる 最後【63】の引文は、今度は『往生要集下巻』の第十門「問答料簡」の臨終念相からの引文です。「一斤の石汁(メッキ液か?)よく千斤の銅(あかがね)を変じて金(こがね)となす。雪山に生える忍辱という草を牛が食べれば醍醐という美味なる食品が 得られる。 また、ねむの木(尸利沙)がスバルの星を見るとすぐに果実を実らせる」という譬えです。仏法の不思議において念仏の功徳を軽んじてはならないという見地から説かれている面白い譬えです。 以上で今月の【HP作成者感想】をおわります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文20
「はじめに」いよいよ親鸞聖人の直接の師である法然聖人の『選択集』からの 引文とそれについての親鸞聖人の釈文を読み進めることになりました。どのように展開するのか、それでは早速読みに入りましょう。 |
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【読下し古文】 【66】 あきらかに |
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【現代意訳】 【64】『選択本願念仏集』(源空集)にいわれている。 「南無阿弥陀仏 往生の業(ごう)は念仏を本とする。」 と。 【65】 またいわれている。「速やかに煩悩生死の世界を超えたいと願えば二種の優れた仏道の中で、先ずは聖道門は差し置いて、選んで浄土門に入るべきである。浄土門に入ろうと欲(おも)えば自力の心で行なう雑行は止(や)めて、 浄土三部経など往生経にもとづく他力の正行に帰すべきである。正行を修めようと欲(おも)うならば五つの正行の中で称名以外の四つの行は助業とし、正定の業である称名を専修すべきである。正定の業とはまさに仏の名を称することである。 称名はかならず浄土に生まれる因となる。何故なら仏の本願によるからである。 【66】 今、あきらかに知ることができた。この念仏行は凡夫か聖人かを問わず自力の行ではない。だから衆生の方からの回向ではないから
不回向の行となづけるのである。大乗、小乗の聖人も、重い罪を背負う悪人も、軽い罪で済んでいる小悪人も、皆同じく斉(ひと)しく選択本願の大いなる宝の海に帰命して念仏成仏をすべきである。
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| 【HP作成者感想】 遂に親鸞聖人の直接の師である法然上人の『選択集』からの引文になりました。 それにしても、 七高僧の中の他の祖師からの引文に比べるとなんと簡素で少ない引文なんでしょう。『選択集』からの引文が二つ、そして親鸞聖人のご自釈から【66】の一文です。これは何故なのかと考えてしまいます。結論は一つ、
法然聖人の教えはまことに単純明快なのです。「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす。」これだけです。たとえその教えの根源に仏教的に深い意味があっても、表面に現れている教えは、この一文に尽きます。なぜか?、
それは これ以上の複雑な教えを説いても、日々生きていくのに精一杯の大多数の人々には判(わか)らず、結局、浄土往生とは無縁の存在のまゝで生涯を終らねばならないからです。聖道門から『選択集』は仏道修行に必須の菩提心
を 軽んじているという非難がありました。菩提心は大乗仏教においても、最も根本的な仏道ですが、やはりそれにはそれなりの修行も必要です。今、上に挙げたような、その日その日を生きていくだけで精一杯の、
いわば最下層の人々が救われるには先ず念仏する。なぜ念仏するのか、それは『大経』四十八願中の第十八願に三心(至心・信楽・欲生)をもって乃至十念すれば浄土往生がかなって、全ての人が救われると仏のことばで
書かれているからです。平安・鎌倉時代には、経典は全て仏のことばであるが故に絶対です。だから先ず念仏するのです。そしてそのことがひいては菩提心の発露にもなるということではないでしょうか。妙好人讃岐の庄松に
「俺(おらあ)が捨てた念仏を拾うてよろこぶ者が居る」という言葉があります。随分乱暴な言い方ですが「俺が称えた念仏を聞いて、一緒に称える者が居る」ということでしょう。共に仏のもとへという菩提心の発露ということではないでしょうか。
そのための念仏爲本であるが故に、まず念仏為先なのです。そのことを親鸞聖人も『教行信証』において強調して居られるのではないでしょうか。 【65】で法然聖人は云われます。「まず聖道門を差し置いて、浄土門に入りなさい。
その浄土門においても正行と雑行のなかで、雑行は抛(なげ)うって、正行に帰しなさい。ここで雑行とは 浄土往生を目的として戒律を守ったり、坐禅や瞑想に耽(ふけ)ったり、同じく往生を目的として善行功徳に励むことなどを云い、
正行とは同じく浄土往生を願うことを目的として読誦(浄土教の経を読む)、礼拝、観察(心の中に 仏や浄土をありさまを思い描く)、称名、讃歎供養(弥陀や釈尊を崇め物心を供え、ほめ讃える) などを云います。そして正行の中でも称名することを
正定の業として、これ一つを専修するのみで浄土往生はかなうというのです。何故か 仏のことばが書かれているとされている経典に、浄土往生を心から願って念仏すれば必ず救うと、はっきり書かれているからです。平安・鎌倉時代において仏のことばである経典は絶対だからです。
いずれにしても、これによって【66】の親鸞聖人の『大無量寿経』に基づくご自釈の意味をこの小さな私も、なるほどそのとおりだと有難く拝受することができます。いや弥陀の本願力によって与えられ拝受させていただくことができるのです。なお、【66】にいわれている「不回向」についてですが、回向というのは一般的に衆生の方から自分が築き上げた善行(仏道修行)を仏に捧げることをいいますが、法然・親鸞浄土教では、仏が築き上げた功徳を仏の方から衆生に差し向けて与えることをいいますので、ここでいわれている「不回向」の意味は衆生の方から仏に捧げる回向ではないということです。したがって仏の方から衆生に回向されることが「不回向」の意味であるとも言えます。 ここまで書いて結論がでたようになりますが、ところがそうではないのです。 現代人の私には、このようなHPを造りながら、久遠の昔に法蔵菩薩が誓われたという本願、そしてその生起本末によって阿弥陀仏になられ 浄土が建立され、人々は本願を信ずることによって浄土往生が成就し救われるという、 この物語が信じられなかったのです。いうならば法蔵菩薩の誓願とその成就から阿弥陀仏の本願へという仏願の生起本末が 信じられなかったのです。なぜか、これは釈尊没後500年前後に誰かが書いたといわれている物語の中の一つである法蔵菩薩の生起本末が信じられなかったからです。法然聖人の、念仏一つで救われる、 何故なら浄土の経典にそのように書いてあるからという論理と私(HP作成者)の一世紀前後に作られた物語としての誓願成就への不信は、どう嚙み合うのかという問題です。 そのことについて今まで随分考え続けてきました。 そのことを端的に更に申し上げますと、私たち衆生は永劫の過去からの因と縁すなわち無数の縁起のはたらきによって ここにこうして生きていること、すなわち私という存在は出る息、入る息、三業・四威儀すなわち身口意の はたらきから 行住坐臥のすべて、更には一念一念の心の起滅に至るまで永劫の過去からの無数の因と縁のはたらきによってここにこうして絶対他力のはたらきとして、今、ここに、こうして息をしている。そしてこの因と縁の根元が私たち衆生から宇宙の全てまで、今ここにこうして有らしめられている現象の 真実の親であると感じ、この根元的真実の親を阿弥陀仏として信じることでなんとか過ごしてきました。このことと法蔵菩薩の誓願がどう結びつくか、それが最大の問題だったのです。何故なら法然・親鸞浄土教は仏願の生起本末を信じることが 全てなのですから。 ところで『唯信鈔文意』の中の本願寺出版社の『真宗聖典』註釈版ですと、その【四】に「涅槃をば滅度という。無為という 安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなはち如来なり。 この如来、微塵世界に満ち充ちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、 この信心すなはち仏性なり」ということばがあります。そしてその中に、私(HP作成者)自身が今まで考え信じてきた根元的いのち、すなわち、真実の親としての根元的いのちと、法蔵菩薩の仏願の生起本末とが結びつくことができないかと考えました。 今、上の下線を施した部分の文章を読んでみますと。「この如来、微塵世界に満ち充ちたまへり、すなはち一切群生海の心なり、この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなはち仏性なり」の 「この心に誓願を 信行するがゆへに、この信心すなはち仏性なり。」 このすぐ左の「 」内の文章、現代人として考えてみますと、その意味がスッと受取れず要は分らないのです。皆さまはその意味わかりますか?私(HP作成者)はわかりません。ところが、この部分について注目したり解説したりしている『唯信鈔文意』の 解説書に私は今まで出会ったことがありません。おそらく皆無ではないでしょうか。「この心に誓願を信楽するが故に」という表現は鎌倉時代の表現です。現代語ではありません。現代人には現代語として通じないと思います。 このことを問題にしないで、どうしてこの文章がわかるのでしょうか?これがスッとわかる人は現代人ではなく、その方は鎌倉時代の人です。そこで思い切って、この部分を以下のように読んでみました。現代語としてです。 すなわち「この心に誓願を信楽する」という文章を「この心によって、誓願を信楽する」 と読むのです。そうすると「この心」と「誓願を信楽する」ということばが私(HP作成者)が納得できる現代語となるのです。 古典文法を調べましたところ、このように「この心に誓願を信楽する」ということばを「この心によって誓願を信楽する」と読むことは、「この心に」の「に」という助詞を格助詞として「によって」とか「において」とか「にて」とか現代語訳するのが正しいとわかったからです。すなわち、微塵世界に満ち充ちたまえる如来の心は一切群生海の心であり、その「一切群生海の心」によって「誓願を信楽する」のです。このことはすなわち因と縁の根元であり、それ故に真実の親である阿弥陀仏が、そのはたらきの成果である微塵世界、 すなわち無数に輝く星々が展開する宇宙世界に満ち満ちている。この微塵世界に満ち充ちている如来の心は 一切群生海の心であり、その心によって誓願を信楽するのです。一切群生海の心は上記で親鸞聖人が説かれているように仏性です。その仏性である群生海の心が誓願を信楽することにより、はじめてこの群生海の心である仏性は仏性として活性化するのです、はじめてはたらき始めるのです。仏性の仏性たるはたらきが誓願を信楽することによってその衆生の中で活性化して、はたらきはじめるのです。それ故に、この「信心すなわち仏性なり」なのです。そして更にこのことは逆に誓願の方から言えば、誓願の内容は上に述べていますように如来の他力を構成する因と縁すなわち縁起の究極的根元を親として、仏として信ずるということ、これが誓願の内容にもなるということです。 真実の親の慈悲と誓願の衆生救済の慈悲が一致したのです。これほど嬉しいことはありません。これによって仏願の生起本末は、浄土往生という宗教的真実に導く方便の教えであり、そして、それれによって導かれる真実を心の底から信じられるということになるからです。 このように申し上げると、どこからか「お前が羅列してきた言葉の全ては自力の言葉ではないのかという声が聞こえてきそうですが、待ってください。一衆生としての私は、自分から段取してこの世に生まれ出てきたのでもないし、 自らの出る息入る息、一念一念のこころの起滅もすべて永劫の過去からの因と縁の結果として、ここにこうして居る。私の存在の全ては、皆さまと同じように、絶対他力すなわち仏に摂取されて生かされている存在だと思っていますので、その絶対他力による存在が 納得し、言わせていただいているので、自力の発言ではないと思っています。 【HP作成者感想】の後半が、このような記述になってしまいましたが、これも、経典に書いてあることを絶対の真実とする法然・親鸞浄土教に対して、現代人 として、どう向き合うかということをひとえに模索し願わせていただいた結果です。 以上で今月の行巻の読みを終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文21
「はじめに」行巻の初め、『大経』第十七願に始まる称名念仏称揚の文は、前回の法然聖人の『選択集』からの引文と親鸞聖人の ご自釈をもって一区切りを迎えたのでしょうか。今月からは、また曇鸞大師の『論註』からの引文によって、念仏帰依の文が始まるように思うのですが、どうでしょうか。それでは今月も読み始めましょう。 |
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【読下し古文】 【68】 しかれば、 |
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【現代意訳】 【67】 そこで『論註 下』に「彼(か)の安楽浄土は阿弥陀如来が正覚を成就された結果顕れた さとりの世界にほかならない。これと同じように念仏するのであって、このほかに別の道はないからである。」と説かれている。 【68】 だから、真実の行(念仏)と、それを信ずる心を獲(う)れば、心は歓びに満たされるので、この状態を修道階位41階位の歓喜地と名づけるのである。
なぜ、52階位の仏まで大分差がある41階位の初果の菩薩を歓喜地に喩(たと)えるのかといえば、これら初果の聖者は、その後、修行中に眠ったり、いささか怠けたりしても、輪廻を二十九回も繰り返す二十九有を
経めぐることなく、二十八有で、まちがいなく仏になれるというので、喜びに満ちた歓喜地の菩薩であるというのである。 |
| 【HP作成者感想】 【67】は、よくわかる文章ですので、そのままお読みいただけばいいのですが 【68】には、少し分かり難い表現があります。それは、菩薩の修道階位の41階位を初果(または初地)というわけですが。まだ最高位の52階位が成就された仏までは大分差があります。それでも、この階位を歓喜地とするのは、この初果の聖者が、 まだ修行中に少し居眠りしたり、いささか怠けたりしても、初果の階位というのは不退の階位でもあるので、初果に至れば、52階位の仏の座の一つ手前の51階位の、必ず仏になる等正覚の階位と同じわけです。だから二十九有まで輪廻を経験しなくとも、 その一つ手前の二十八有を切(きり)として、必ず仏に成れるということに例えられる階位であるということです。 それで41階位の初果になれば無限の歓喜が湧くので歓喜地というのです。 次に「いかにいはんや十方の群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず、ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつる」というところで、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわなければ、なぜその仏を阿弥陀仏と名づけ奉るのか、ほかの仏、 たとえば薬師仏、あるいは大日如来、それぞれ皆、衆生を摂取して捨て給わないと思われるのに、なぜ、ここで摂取して捨て給わないのを特別に阿弥陀仏と名づけるのか、ちょっと戸惑うところですが、後で考えれば何のことはない、 それはこの行信とは第十八願の行信であり、この第十八願によって衆生を摂取して捨て給わないのは、まさに阿弥陀仏だから であって、ほかの諸仏ではないということでしょう。 そして「これを他力という。」と親鸞聖人はいわれます。他力とはほかでもない阿弥陀仏のはたらきだからでしょう。親鸞浄土教では、この阿弥陀仏のはたらきを本願力といい、これを他力とするのです。 そして、弥陀に摂取されて、もはや捨てられない、不退転の位になることを、龍樹大士は『十住毘婆沙論』の「易行品」で「即時入必定」とされ、曇鸞大師はこれを「入正定聚之数」と名づけられ、親鸞聖人はこれらを、この世で生きて絶対他力の摂取の中に ある境涯として「現生正定聚」と名づけられたのです。 そして最後に親鸞聖人は「仰(あお)いでこれを憑(たの)むべし、専(もっぱ)らこれを行ずべし。」といわれます。ここで「これを憑むべし、これを行ずべし」といわれていますが、「これ」とは何を指すか、 これは「他力」を指すのであって、他力を憑み、他力を行ずるのです。他力を行ずるとは、変な表現ですが、これはもはや、それを行ずる人と、それを行じさせる弥陀が一体となって、絶対他力としてはたらいている姿に他なりません。 以上で今月の行巻の読みを終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文22
「はじめに」 今月も親鸞聖人は名号の因と光明の縁を我々衆生の慈父と慈母に譬えられ、この二つに、大慈悲を顕わす仏の誓願を信じる心が加わって、その衆生の真実の往生浄土が成就するのだと言われます。今月の【HP作成者感想】では、この信心という事柄について考察して行きたいと思っています。それでは本文に入りましょう。 |
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【読下し古文】
【69】 まことに |
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【現代意訳】
まことに知ることができた。 名号という慈父がいなければ往生の因は欠けるであろうし、光明という慈母がそれを受けてあらゆる世界を照らさなければ往生の縁は離れていくであろう。しかしこの二つの因縁がそろっても、衆生に信心の火が灯らなければ、 衆生の往生浄土は叶わないだろう。衆生に灯る信心の火が内因となり、光明名号の慈父母が外縁となって、この内外の因縁が和合して衆生の往生浄土が成就するのである。宗師善導は、その書『往生礼讃』で「如来は光明・名号をもって 全ての衆生を摂(おさ)めとり導いて往生を成就せしめられるので、私たち衆生はただ、そのことを信じ念仏するのみである。」といわれている。また、『五会法事讃』では「念仏して成仏するのが真宗である。」といわれ、 また『観経疏 散善義』では「真実の教えに遇うことはまことに難しい。」ともいわれているではないか。知るべきである。 |
| 【HP作成者感想】 ここで、往生浄土への因と縁を、それぞれ慈父と慈母にたとえて、両者の因と縁が和合して往生浄土への大きな契機となると、 まず親鸞聖人は確認されます。しかし、この慈父と慈母の因縁があっても、衆生の心に信心の火が灯らなければ衆生として浄土に生まれることは適わないと、親鸞聖人は言われます。したがって親鸞聖人は更に、この信心の火としての内因と、慈父母の因縁という外縁とが和合して衆生の真実の往生浄土は成就されるのだと結論されます。そして、法然浄土宗の師ともいえる善導大師の『往生礼讃』での「如来は光明・名号をもって普(あまね)く十方の衆生を摂取し浄土に導き給う。だから私たち衆生は、たゞそれを信じ念仏させていただくばかりだ」ということばを紹介されます。そして更に善導大師は『五会法事讃』で「念仏し成仏するのが真実の仏道である」とし、また、『観経疏
散善義』で「この真実の仏道に遇うことが、人々にとって大変難しいことなのだ」とも言われているということを親鸞聖人は最後に強調され、このことをしっかり知りなさいといわれて、この【69】の章をひとまず終わられます。さて、このように親鸞聖人は【69】の終られますが、この時点で筆者には考えさせられる点があります。それは上の『観経疏
散善義』で「この真実の仏道に遇うことが、人々にとって大変難しいことなのだ」と善導が言われていることです。せっかく慈母・慈父ともいえる光明・名号の因縁をいただいて、それに信心の火が灯れば私たち衆生の往生が決定(けつじょう)するといわれ、大いに希望をもって如来のはたらきを信じ、そして念仏して、往生を果たしたいと願っている衆生にとって、最後に「真実の教えに遇うことは、はなはだ難しい」といわれれば、どうすればよいのだろうかということです。このことの一つの理由として、善導は、当時の時代背景の中でどのように思って、このように書いたのかということを考えますと、善導がこの書こそ「古今楷定の書(古今の仏道の手本となる書)」であるとした自らの著『観経疏』の中で云っていることばとして、自身が開いた仏道は、それまでの聖道門仏道では、中々出遇うことが困難であったけれども、私(善導)はまさに今、その困難を克服した新しい仏道を開いたのだとして、「このような真宗(真実の教え)に出遇うことは、それまでの硬直した聖道門仏道では難しかったのだという意味で、このように書かれたのではないかということです。 しかし、もう一つ問うべきことがあります。それは『大無量寿経』の下巻の最後に、この法に出会うことは「難中の難、斯(これ)に過ぎたるはなし(難中之難無過斯)と説かれていること、あるいは、親鸞聖人の『正信偈』においても、 「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といわれており、このことをもって「真宗遇いがたし」といわれているのかとも思われるということです。このことについて、筆者は、今、気が付いたことですが、『大経』の 下巻で、この法に出会うことは「難中の難、これに過ぎたるはなし(難中之難無過斯)と説かれているのは、その前後の文章「釈迦如来が世に現れることは稀な中にも稀なことで、だから直接その教えに遇うことはまことに困難であり、 また、その他の諸仏の教えも得難く遇い難い、・・・・中略・・・・、善知識に遇って、その教えを聞き、行ずることも難である。そうであるからこそ、 私(釈尊)は、この法を、このように示し、このように説き、このように教えたのである。 あなたがた衆生は、一心にこの経を信じて、この法(教え)の如く行ずるべきである。」と読むべきであって、決して、「真宗(真の教え)に遇い難し」と 突き放すのではなく、であればこそ、この『大経』の説くところをよく聞き分けて信じ、行ずれば、 必ず往生浄土は適うだろうと説かれているのだと思います。また親鸞聖人の『正信偈』にしても「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」と いわれていますが、この二句の前に「邪見憍慢悪衆生」という句があり、これを入れると「邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」となって 、信楽を受持することが甚だ難である衆生は「邪見憍慢悪衆生」すなわち、この世が全て、仏の世界などは認めないという自力の驕慢な人間には「難中の難、これに過ぎたるはなし」ということに なるのだ、だからこそ、この世が全てという自力の心から、本願他力の教えを説く『大経』の教えをよく聞いて、間違いなく往生浄土を成就すべきである。という見解も考えられます。しかしそれにしても現代においても、信心は与えられるものだから、やはり信心の火が自らの中に灯るのは難中の難だという見解が、親鸞浄土教を学ぶ者の中でも一般的です。 しかし果たしてそうでしょうか。親鸞聖人も、信心は与えられるもので、自分にはまだ与えられていないと思われていたのでしょうか。そのような中で、このような膨大な『教行信証』を著わされたのでしょうか。 わたしはそうは思いません。そこで最近、私が思うことは、少し前にも、書きましたが、親鸞聖人の『唯信鈔文意』における記述です。 これは以前の4月号にも、この部分に関連した記述を、このHPで掲載していますが、『唯信鈔文意』に次のような親鸞聖人のメッセージがあります。「涅槃をば滅度という。無為という 安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界に満ち充ちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、 この信心すなはち仏性なり」この文章を注意して読むと、まず涅槃を無為とか安楽とか実相とか法身とか真如とか一如とか多くの言葉で表し、 その最後に「仏性という」として、涅槃を仏性という言葉で表されています。そしてその次に間も置かずに「仏性すなはち如来なり」といわれ、更に「この如来、微塵世界に満ち充ちたまヘリ、一切群生海の心のなり。」といわれているのです。 すなわち仏性は如来であり、その如来はあらゆる微塵世界に満ち満ちておられ、そして、その如来(仏性)は一切群生海の心、すなわち我々衆生の心でもあると言われているのです。 このことは聖道門、浄土門を問わず昔から「一切衆生悉有仏性」という言葉であらわされているのと同じです。そして親鸞聖人の『唯信鈔文意』が、更に言う「この心(一切群生海の心)に、誓願を信楽するが故に、 この信心すなわち仏性なり」の中の下線をほどこした助詞にを中心に、上の「 」内の文章は今年の4月の「仏教 こころの言葉」でも書かせていただいていますように、この下線部のには古文でいう格助詞として 「によって」とか「において」という意味になると私(筆者)は考えますので「この心によって誓願を信楽する」、或いは「この心において誓願を信楽する」と受取ることができます。すなわち仏性である「一切群生海の心」が誓願が信楽するわけです。宇宙創成の根元の時から無数の因縁の集積によって、 ここにこうして生きている一切群生海の心、すなわち今、ここに、こうして仏性を持って生きている衆生の心によって信楽された如来の誓願への信心は、まぎれもなく仏性なのです。なぜなら一切群生海の心は仏性なのですから。そしてその仏性は、その衆生の中に灯った信心によって、はじめて活性化されるのです。すなわち正定聚の念仏者の誕生です。 この衆生は衆生ではありますが、宇宙創成の時からの無数の因縁の集積によって、ここにこうして生かされている衆生、すなわち一切群生海の心なのですから、絶対他力そのものによる存在なのです。 すなわちこの絶対他力によって生かされている一切群生海の心である衆生の心、すなわち仏性が信心として、ここで今、活性化したのです。すなわち正定聚の念仏者の誕生とはそういうことです。こう考えますと、衆生としての私(筆者)や皆さんは一切群生海の心の持ち主であり、 仏性の持ち主でもあるのですから、その心のままで、全てが因縁によって与えられている絶対他力の手中にもあるわけで、宇宙創成のその時からの因縁によって今ここにこうして生きているということに納得すれば、その納得が信心そのものであり、 信心は与えられるものだから自分で獲得するものではないというふうに堅苦しく考えずに、むしろ信心はすでに与えられているものとして、全てが如来のはたらきであるという絶対他力に納得することが信心の世界に住み遊ぶということになるのでは ないでしょうか。『安心決定鈔』でも、出る息、入る息、三業四威儀、すべて南無阿弥陀仏であるということです。大阪八尾の光蓮寺の稲城選惠師は「本願は今、既に私たちに届いている」といわれていました。そのとおりなのではないでしょうか。絶対他力に納得すれば、そうなります。 以上で今月の【HP作成者感想】を終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文23
「はじめに」 |
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【読下し古文】
【70】 おほよそ 【71】 ゆゑに『 |
| 【現代意訳】
【70】おゝよそ往相回向の行と信についていえば、行にはすなわち一念ということがある。 また信にも一念ということがある。行の一念 というのは、 いうならば称名の回数でいえば【71】において釈尊が弥勒菩薩に言われているように、最初の一念でよいのであって、これこそ如来が選びとられた選択易行の至極を明らかに示すものである。 【71】それ故『大経・下』で、釈尊は弥勒菩薩に次のようにいわれている。<だから、 かの阿弥陀仏の名号を
聞き信ずることによって喜び溢れて、わずか一念することがあれば、その人は人生のこの上なき利益を得ることを知るべきだ。すなわち無上の功徳を具えることになるのだ。>と。 |
| 【HP作成者感想】 【68】の龍樹大士の歓喜地に至れば即時入必定の功徳、および【69】の善導の光明・名号の解釈について親鸞聖人は慈母・慈父の行信を経て、この【70】では、『大経上巻』の第十八願における至心・信楽・欲生の信にもとづく、乃至十念の行、 および下巻の本願成就文「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の行信にもとづき往生浄土が成就するという御自釈のむすびです。したがって今月の【71】~【73】ではその御自釈を更に裏付ける『大経 下』、および光明寺善導の釈文による一念成仏を証する引文を置かれています。その中で【73】では『集諸経礼懺儀』で善導の『観経疏』の三心釈から「深心」部分を引文して、自身の救われ難き内実を超えて、往生浄土を成就させるという弥陀の 「本弘誓願」の力を引文されているところに親鸞聖人の行信観が如実に顕れているところが何よりも注目されるところです。次回は、更に称名における「乃至」および「下至」の御自釈から始めて一心・一念の行信を論じていかれます。 親鸞聖人による御自釈と引文の共鳴が次回にも読み取っていけるところが楽しみです。 以上で今月の【HP作成者感想】を終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文24
「はじめに」 今回の本文24では、後の「まとめと感想」にも書いていますように、【68】からの「行信釈」と、そして 光明・名号の慈父母による両重因縁を経て【70】から始まった親鸞聖人の行一念釈があらためて振返られ、 【71】の『大経』における「乃至」と、【72】の善導の『散善義』における「下至」の意味が言(ことば)は異なっても、その意味は同じであり、あらためて『大経』でいわれている「乃至」とは『大経』【47】の釈迦牟尼仏が弥勒菩薩に託された(付属された)ときの「一念」と
、『大経』上巻の四十八願中第十八願の「乃至十念」とが、どちらも同じ(一多包容)の意味をもっていることを強調されます。そして、これらの文意はともかくも、ここで「まことに知んぬ、大利無上は・・・」以下の文章は、まざまざと親鸞聖人の体験のほとばしりとして、親鸞浄土教の結論が一乗真実の利益(りやく)として『南無阿弥陀仏』に結釈されるのだと一点の曇りもない晴れやかな結釈として述べられていることです。そしてこのことは下の【75】のごとく、「しかれば、 |
| 【読下し古文】
【74】『 |
| 【現代意訳】 【74】称名念仏の回数について『大経』では「乃至」といゝ、善導の『散善義』では「下至」という。「乃至」と「下至」と、 その言葉は異なっているが、その意味は一つである。 |
| 【HP作成者感想】 【74】のここでは、親鸞聖人のひとつのまとめの御自釈になります。すなわち【68】からの往生浄土のための「行信釈」そして 光明・名号の慈父母による両重因縁を経て【70】から始まった親鸞聖人の行一念釈があらためて振返られて、この【74】では 【71】の『大経』における「乃至」と、善導の『散善義』における「下至」の意味に言及され、このふたつは言(ことば)は異なっても、その意味は同じであり、あらためて『大経』でいわれている「乃至」とは『大経』【47】の釈迦牟尼仏が弥勒菩薩に託された(付属された)ときの「一念」と 、『大経』上巻の四十八願中第十八願の「乃至十念」とが、一と多で表現が異なっているけれどもどちらも同じ(一多包容)の意味をもっていることを強調されます。そしてこの後は「大利」、「小利」。「無上」と「有上」のことば等で宗教的な意味合いが説かれていますが、これら【74】、【75】の文意は上に既述の【読下し古文】および【現代意訳】で領解いただければよいわけです。ここで筆者の述べさせていただきたいことは【74】の後半で釈尊が弥勒菩薩に託された(付属された)「一念」は一声であり一行であり、正行であり 正業であり正念であると続く最後に、これらは念仏は、すなわち「南無阿弥陀仏」であると決釈されているところ、まことにこのところの一行一念論義は最終的に「南無阿弥陀仏」、すなわち、人間の有りようのすべては最終的に大いなるいのちである阿弥陀仏に摂取融合されて 「南無阿弥陀仏」となるということ、すなわちこれこそ【75】でいわれている「無明の闇を破し無量光明土に至りて大般涅槃を証することであることが胸に大きく響き渡るところです。そして更に何よりも、ここにおける親鸞聖人の御自釈は単なる釈に留まらず 親鸞聖人御自身の瑞々しい体験の脈打ちそのものが一衆生たる私の胸に直接響いてくるということです。まことに親鸞聖人の御自釈の一つ一つは親鸞聖人の脈打つ体験そのものがここにこうして発せられているということです。 以上で今月の【HP作成者感想】を終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文25
「はじめに」 今月は【70】以来から論じられて来た 称名念仏の意味についての総括であるとおもっています。それはどのようなことなのでしょうか、それでは、読みはじめてください |
| 【読下し古文】
【76】 『 【77】これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無礙の大行なり、知るべしと。
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| 【現代意訳】 【76】道綽の著わした『安楽集上』にいわれている。 「十声の念仏を続けて往生すると仏がいわれているのは一つの数の例であるにすぎない。一筋に念仏し他事をふりかえることがなければ往生は成就するということである。わずらわしく念仏の回数を気にすることはないということだ。 またこうもいわれている、長く念仏生活を営んでいる人は念仏の回数を気にする必要はない。 またもし念仏行を始めて間もない人は、自分に合った念仏の回数を考えるということもあり得る。これも聖教にも云われていることだ。 【77】 上に示された教えは皆、真実の念仏行を表わす証(あかし)となるものである。 |
| 【HP作成者感想】 今回は、【70】あたりから論じてきた論じてきた念仏行についての、一つの総括というべきものです。
すなわち念仏は回数の多少を問わず、ひとえに専心、専念、「南無阿弥陀仏」を称名することに尽きるということです。すなわち、南無阿弥陀仏、すなわち阿弥陀仏に南無する。つまり帰命することによって、生きている今も、
弥陀に摂取され、いのち終ればまさに弥陀に摂取されるという、そのことをひとえに称名することによって生きれば煩悩のはざまにあって、称名することによって、自ずとこころが刻み取られることではないでしょうか。
これは決して、称名によって洗脳されるといったことではなく、もともと生きても死んでも弥陀の御いのちの中にあることを煩悩熾盛の中にあって確認させていただけるということではないでしょうか。
以上簡潔ですが、今月の【HP作成者感想】とさせていただきます。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文26
「はじめに」 今月は【78】の「他力といふは如来の本願力なり。」で始まります。そしてこれに基づいて次の【79】は大変長文になりました。【78】は【77】以前の念仏行のあり方において称名念仏の回数にはこだわらないということゝ共に 、そもそも称名念仏行は弥陀の本願に基づくものであるがゆえに、他力であるということから【78】の「他力といふは如来の本願力なり。」ということばが出てきて、その他力について【79】の『論註』 の長文がはじまるというわけです。しかし、この【78】は単に念仏行の他力についてのみでなく、行と共に信についての他力でもあるわけで、そのことを念頭に置いて、 この長文を読み進める必要があるものと思います。 |
| 【読下し古文】
【78】 |
| 【現代意訳】 【78】他力というのは如来の本願力である。 |
| 【HP作成者感想】 【77】までは念仏の回数は上一形から下一声に至るまで称える念仏の数によらず、すべてが 正行であるということが論じられてきました。【78】で親鸞聖人は「他力と言うのは如来の本願力なり」といわれ、これら上一形から下一声に至るまでの称名念仏はすべて如来の本願力すなわち他力によるものであると自釈されています。その上での【79】の『論註』から引文です。まず本願力というのは法蔵菩薩が色もなく形もましまさぬ法身の中で、仏道そのものの心的状態(三昧)で居られて、種々の方便法身の姿で、人間の形をとられたり、種々の神業(神通)、そして真実を解き示す説法をされたりしますが、これらも皆、本願力によるものであると曇鸞はいいます。そしてこれは阿修羅が持つ琴が、誰も演奏しようとする者が無くても自然に奏(かな)で始めることに譬えています。そしてこの琴が自然に奏で始めるということが、『浄土論』の五念門(浄土往生のための五つの必要行)の第五の圓林遊戯地門、すなわち往生者がこの世に還って、縦横無尽に人々に共に浄土往生しようと説く法門であることに譬えられていることに注目すべきでしょう。何故なら、法蔵菩薩の衆生救済の発願も、誰から勧められたことでもなく、もちろん強制されたものではない、自然に、そうなる、ということですから。次に引文は自利を成就する四種の門(五念門の内の最初の四門<礼拝・讃歎・往生のさとりを願う(作願)・仏や浄土の荘厳と功徳を心に思い観る(観察)の各門)と、利他を成就する最後の第五門(回向門)をあらためて紹介することにより、法蔵菩薩は自利と利他を成就された、すなわち自利なくして利他は成り立たない。また利他があって初めて自利が成就することが強調されています。そしてそれによって初めて往生浄土の阿耨多羅三藐三菩提すなわち初めて浄土に生まれることができると『論註』のこの部分はいっているのです。次に曇鸞は阿耨多羅三藐三菩提を「無上正遍道」として中国語の翻訳を紹介します。阿耨多羅三藐三菩提は古代インド語の音訳ですから中国語の方がその意味をよく理解することができます。要は阿耨多羅三藐三菩提、すなわち無上正遍道は仏のさとりの世界ということです。それでは具体的にどのようなさとりかといえば、「生死出ずべき道」をさとるということです。この場合、生死いずべき道とは単にこの肉体の生き死にのことだけではなくて、自分とは何者か、どのような存在なのか、宇宙とはどのような存在なのか、これをさとるということでしょう。この世の感覚のままですとこれは絶対にさとれない、だからこれを無明というのでしょう。この無上正遍道を曇鸞が説明する文章を読みますとこれは親鸞聖人の唯信抄文意の中の極楽無為涅槃界を表す文章て次の言葉が思い出されます。「法身は色もなし形もましまさず、然れば心もおよばれず言葉もたえたり」そして「涅槃をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、真如といふ~仏性といふ、仏性すなわち如来なり、この如来微塵世界にみちみちたまへり、一切群生海の心なり。」ここの部分と曇鸞の「遍に二種あり一つには聖心、あまねく一切の法を照し知ろしめす、二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり」。 どちらの文章もこれは仏が宇宙のどのようなところにも、だから我々衆生の心にも、すでに宿っているということでしょう。以上は無上正遍道の中の「遍」についての曇鸞の説明です。次は道についての説明です。道は無礙道なり。華厳経に言われている「十方の無礙人一道より生死を出(いで)たまへりと。一道は一無礙道なり。」 これはどういうことなのでしょうか。これは「法然親鸞浄土教が優れた一つの仏道なのでこれによって生死いずべき道開かれた」といったことでは決してないですね。では一道とはどういう道なのでしょう? 無礙の一道、これはその次の文章に示されています。 「生死すなわち涅槃なり」と知ること、これこそ無礙の一道でしょう。すなわち何億と居る我々衆生も、地球も、月も、太陽も、そして銀河系宇宙も、空(そら)には無数の銀河系と同じような星雲の集合体である大宇宙も、皆一つの実体の根源の表現だ、といっているのです。これを仏といっていいのでしょう。全ての有りようの根源であり、いうなれば真実の親なのですから。そして私はこの親のこと、すなわち「仏と仏の大悲のこと」、これを方便法身として現れた法蔵菩薩てあり、弥陀であり、弥陀の本願だというのです。親鸞聖人は法蔵菩薩もその誓願も浄土もみな方便法身であると捉えています。(たとえば唯信鈔文意)、そして親鸞聖人はこの方便である弥陀の誓願を信じることを私たち衆生に切々と説かれます。根源は仏性であり、そしてその仏性たる法身を阿弥陀仏とし、浄土とし、法蔵菩薩とする方便法身として表しているのですから。たゞ信ずべしです。それはそうでしょう。これを証明するこの世の如何なる事実も方法もないのですから。これは信じる他にどのような手段もありません。そしてこのことは、この世のすべてが他力によって、つまり真実の親である仏の働きによって、ここにこうして有るということ。そのことを、自らも無数の因縁の結果として他力の存在である現代人として納得できれば信じることができるのです。 次になぜ速得阿耨多羅三藐三菩提なのかという問いかけがあります。それに対してそれは菩薩が五念門を修めて自利と利他を成就したからだと述べてその次に、そしてそれもみな阿弥陀仏の増上縁(仏の働きが速やかに成就するように助けるはたらき)によるのだと結論しています。要するに弥陀と弥陀の本願と本願力によるということになるわけです。これは当然のことで親鸞浄土教は天親菩薩の優婆提舎願生偈すなわち『浄土論』も、それを解説した曇鸞の『浄土論註』も、法然親鸞浄土教の数々の聖典も、全て『大無量寿経』の解説書なのですから、しかも親鸞浄土教として、もっとも基本的で大切な事柄です。 次に他利と利他のことが論じられています。利他についてはよくわかります。他を利することですから、 仏の立場だと衆生に利益を与えることです。そしてこの他利と利他の比較では衆生を救うはたらきを指しています。次いで、少し分かりにくいのは他利です。他の利と受け取りますとこれは衆生の立場からいうと、仏が与えてくださる利益と言うことになって、衆生からみて他である仏が衆生に与える利益、すなわち仏が衆生を救う働きを衆生の立場からいえば他利ということになるのです。 次の文も現代人から見ると面白い表現ですね。「おおよそ浄土に生まれるとか、生まれるために、いろいろ衆生がなす行為の根源もすべて阿弥陀仏の働きだということで、まことにそのとうりなのですが、その次の言い回しが面白いです「もしこれが阿弥陀仏の働きでなかったら四十八願は何のために設けられたのか、意味がなくなるではないか」と曇鸞は言うんですね。「この料理美味しいと食べてくれなければ私が作ったレシピが全部無駄だったということになるのではないか」と言っているのと同じですね。まるで現代人が言っている家庭内の愚痴のように聞こえます。いやはやこれは少し言い過ぎかもしれませんが、ことほどさように浄土往生ということは阿弥陀仏の誓願ということが根本なんだと強調しているわけです。まことにそのとおりなのですが考えてみればこれも天親に始まる優婆提舎願生偈(うばだいしゃがんしょうげ)が大無量寿経の解説書であったわけで、その書の解説を書いた曇鸞の『浄土論註』も全く同じ大無量寿経の立派な解説なのです。したがってすべてが弥陀の誓願によるという言葉は当然出てくるわけです。だからすべてのことが阿弥陀の本願によるという他力の真髄を否定しては『大無量寿経』の四十八願の意味がなくなるという言葉は当然出てくるわけでしょう。 次には第18・11・.22の三つの願が並べて説かれます。これは、これら三つの願が、速得に阿耨多羅三藐三菩提が成就される証(あかし)となる願であることを示すために並べられているわけでしょう。まず第十八願についての曇鸞の説明は、十念念仏すれば浄土に生まれることができる、という簡単なものです。何故か三心と唯除が省略されています。現代人から見ますと簡単であるだけにそんなことで往生の証となるのかという思いにもなりますが、そこは阿弥陀仏の本願が無限の力を持つので可能であるということなのでしょう。二番目は第十一の願です。国の内の人天(すなわち人間と天人、これらはどちらも煩悩を持った存在です)が定衆すなわち正定衆にならなければ私は仏にならないというのです。正定衆と言うのは必ず将来仏になるという存在ですから速得阿耨多羅三藐三菩提が成就するということでしょう。ただここで一つ注目すべき点がありますそれは「国の内の人天」という点です。浄土の阿弥陀仏が誓願を発せられたわけですから国の内というその国は浄土ということです。親鸞より前は衆生は浄土に往生してからこの娑婆とは違う浄土の良い環境で修行をしてそこで初めて正定衆になるということでありました。親鸞聖人はこれを衆生が浄土に往生する前のこの世で生きている内に正定衆になるとされ、現生正定衆と思い切って言われたわけですからこれは凄いすばらしいことです革命的です。比叡のお山がこれを聞いたら驚き慌てて大反発するはずです。まことに親鸞聖人の勇気を称えるばかりです。現生正定聚こそ、私たち現代人にとっても、こころから納得と安心が得られる いのちの言葉ですから。 三つ目は第二十二願です。これを読みますと、前半の「他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生
して究竟して必ず一生補処に至らん」の部分と後半の「その本願の自在の所化」から~「普賢の徳を修習せん」に至る部分に分けられます。まず前半にある他方仏土というのは浄土以外の仏土ということですから、この娑婆世界も他方仏土の一つです。いずれにしても前半の他方仏土である娑婆世界から、わが国すなわち浄土に往生した者は最終的に一生補処すなわち、必ず釈尊の次に仏となる身にならせようというのですが、これら往生者はまだ仏ではありません、単なる往生者てす。法然以前の大無量寿経における往生者は第十八願で念仏して浄土に生まれたばかりの人たちでまだ正定衆ではありません。だから一生補処にすると仏にいわれても、まだ正定衆でもありませんしこのままでは仏にもなれません。でもこれらの人の中から大乗の往生者のあり方として浄土に往生した菩薩のままで、もう一度娑婆に還って人々を浄土に往生させようという救いの働きをするのです。これを還相回向の働きと言いますがこの働きがあってはじめて大乗の往生者として一生補処、すなわち仏になるべき身となるのです。これが第二十二願の要旨です。曇鸞は、仏の働きである他力ということを考えると、この三つ願は往生を速やかにさせる推進的な事柄すなわち増上縁になる証(あかし)であると説いています。 次に曇鸞は自力と他力の具体例を挙げて説明します。まず三途を畏る→禁かい受持する→禅定を修す→神通を修習→四天下に遊ぶ、としてこれが自力の往生道であるとしています。その一方でそんな神通を持たない劣夫でも驢馬にまたがって転輪王に従って行けば、たちまち天空をかけめぐって四天下(してんげ)に遊ぶことができると説きます。曇鸞はこれを名づけて他力であるとします。そして曇鸞は自分以後の仏教者に、この他力こそ信心に通じるものであると強調してこの文を終わります。 以上、曇鸞の『論註』からの引文【79】は、衆生救済のはたらきをなす称名念仏の真実は、全て弥陀の誓願成就の賜物であることを表しているわけですが、あらためて考えますと、弥陀の誓願成就の結果のはたらき、すなわち他力は、単に念仏行のみにとどまらず親鸞浄土教における「信心」も他力によることはいうまでもないことです。さらに言えば、私たちがここにこうして生きていることの全て、更には世の中の動きから、地球の有りよう、更には宇宙全体の有りようもすべて他力を根源とするものであることをここではっきりとおさえておきたいと思うのです。 今月は以上で終ります。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文27
「はじめに」 先月は曇鸞にはじまる他力思想の展開を『論註』からの引文で読み進めましたが、今月は、それに次いで中国は宋の時代(1048~1116年)に生きた元照律師が自力と他力のさとりへの道筋について説かれた『観経義疏』からの引文を読み進めます。この引文は自力と他力のさとりへの道を説く短い文章ですが、これを読みますと自力、他力、両者の関係について大変興味深い記述がなされていますので、短い文章ではありますが、今月はこの引文について考えてみたいと思います。 |
| 【読下し古文】 【80】 |
| 【現代意訳】元照律師が、その著『観経義疏』で 云っている。「ある場合には、この世(この方)で惑(まど)いを断ち、生の真実を悟れば、これは自らの力(自力)による悟りということになる。このことは昔から大乗、小乗の経文として説かれている。 しかしまた、浄土に往生して、そこで仏の教えを聞いて仏道の証(さと)りを与えられるということは他力を憑(たの)むということであり、このことは往生浄土の法として説かれている。 この自力、他力の法が異なっているというけれども、どちらも仏道の真実に至るための方便の法である。どちらも私たち自らの心を真実の仏道に至らしめようとするはたらきである。 |
| 【HP作成者感想】 「はじめに」でも申し上げましたが、この【80】の引文は 【79】の曇鸞の他力思想を受けつぐ意味で仏道には自らのはたらき(力)でさとりを開こうとする自力の求道と、仏のはたらき、すなわち他力によって浄土に往生し、そこで仏の教えを更に聞き成仏する。元照律師は、この二つの道があることを説いています。ところでこの引文では自力、他力のそれぞれの特徴を説いた後、
この両者について次のような言葉で結んでいます。「彼此異なりといへども方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり」。 元照律師によれば、自力、他力と求道の方法が違っているように見えるが、実はどちらも方便であると説いています。この「方便」という言葉の意味は真実そのものではないが、真実に至らせようとする手段であるとして、考えてみると①自力の修行の場合は、その修行の行程が方便ということになりますし、②他力浄土教の場合は弥陀の誓願によって信心が与えられ、念仏する行程が方便ということになります。ところが、この点について本願寺出版社発行『真宗聖典』の『教行信証 現代語版』のこの部分の表現では「自力の法門と他力の法門との違いはあっても、どちらも、わたしたちにさとりを開かせるための、如来のたくみな手立て(方便)である」と訳されています。こうなると、元照はさとりへ至る方便は、自力と他力によって異なっているのではなく、どちらも「わたしたちを真実のさとりに導く仏のたくみな手立てであると云っていることになります。仏のたくみな手立てということになりますと、これは自力も他力もどちらも大きく言えば他力の宗教であるということになります。
これは【79】の曇鸞の 『論註』からの引文にもなかったことで、元照はここで、自力、他力について一つの新しい見方を示したということになります。 私(筆者)はこの見解に賛成です。なぜなら自力修行も他力求道も、いずれも仏の世界に生きようとする願いが基(もと)になっているわけですから、仏の世界に生きるためには仏のはたらきに委ねる他力求道でなければならないわけですから、求道の有りようは大いなる他力でなければならないからです。 それでは「自力」ということの意味は どうなるかということになりますが 、私(筆者)は、自力というのは、私たちが生きていく上でこの世の有りようが全てで、仏の世界などを考えることは、まさに世を迷わす元凶である。 宗教は阿片である。とした思想もあるようですが、 この世が全て、この世が絶対であり、仏の世界は認めないという思想からは親鸞聖人のいわれる真実の「生死出づべき道」は決して得られないということではないでしょう。 個々の私たちのみならず宇宙をも超えて全てを包み込んだ 大いなる根源的いのち、すなわち仏のいのちに生きる、すなわち生きても死んでも弥陀の摂取の中で生死するというのが真実のいのちを生きる ということではないでしょうか。 以上、今月の【HP作成者感想】とさせていただきます。 |
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『顕浄土真実教行証』行文類本文28
「はじめに」 |
| 【読下し古文】 【81】「一乗海」といふは、 【82】『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、 【83】またのたまはく(同。徳王品)、 |
| 【現代意訳】 【81】「一乗の世界」(一乗海)というのは大乗仏教の世界だということである。すなわち、これはひとえに万人を仏たらしむる教え(仏乗)だということである。一乗の教えが身と心に付くということは、仏のさとり(阿耨多羅三藐三菩提)を得るということである。阿耨菩提とは、すなわちこれは仏の世界ということである。究極的な法身の世界ということであり、仏そのものということである。またこのことはとりもなおさず一乗を究める、すなわち必ず仏になるということである。このことを除いて、これよりほかに如来もなく法身もない。如来はすなわち法身である。一乗の法を究めつくすことは、因と縁つまり縁起を超えた、すなわち時間と空間を超えた無限の(無辺不断の)さとりを得ることである。大乗には二乗や三乗の教えはない。二乗・三乗は一乗の教えに入らしめようとする方便の教えである。一乗は、すなわち第一義の教えである。すなわち、これは弥陀の誓願に乗托されて必ず仏になるという教えである。 【82】 『涅槃経』(聖行品)にいわれている。善良な者よ究極的な真実である真如実相は名付けて大乗という。大乗でないものは真実の教えとは名付けない。善良な者よ真実の教えとは仏が説かれた教えであって魔物が説いた教えではない。魔物が説いた教えは仏説ではないから真実の教えとは名付けない。善良な者よ真実の教えは唯一清浄な教えであって、他にあることはない。【83】 またいわれている(同・徳王品) 「どうして菩薩は一乗の教えに信順するのか。菩薩は、仏が一切衆生をして全て一道すなわち大乗の法に導くことをよく知っているからである。すなわち一道とは大乗の教えのことである。仏や菩薩たちは、いろいろな衆生たちを最終的に仏にするために、方便として声聞・縁覚・菩薩の三乗に分けて導かれるのである。この故に菩薩は一実不逆の一乗の教えに信順するのである。 |
| 【HP作成者感想】 前回、元照が【80】で云う結論は「自力の法門と他力の法門との違いはあっても、どちらも、わたしたちにさとりを開かせるための、如来のたくみな手立て(方便)である」でした。 こうなると自力・他力のどちらの法門も、 如来の巧みな手立て」であるということになれば、この二つを大きな大乗の立場から見ればどちらも仏の本願他力のはたらきということになるわけです。このように【80】までは読み進んできたのですが、 今回【81】で親鸞聖人は「一乗海といふは「一乗は大乗なり、大乗は仏乗なり」と、どちらも大乗仏教である聖道門と浄土門ともに仏のたくみな手立てによって衆生を仏に導こうとされる道であると おさえられます。なぜなら大乗は仏乗なのですから。仏乗であるが故に阿耨多羅三藐三菩提、すなわち衆生が仏のさとりにいたることができる道であることを示されます。そして、この阿耨多羅三藐三菩提の 世界は究竟的にいえば法身の世界、真如の世界、一如の世界、親鸞聖人が色もなくかたちもましまさず、こころも及ばず言葉も絶えたりとする究竟法身とも無辺不断ともいわれる空間と時間を超越した 世界であり、真実の仏そのものの世界であることを示されています。そしてこの究竟法身の世界に衆生を直接導こうとする法門こそ二乗・三乗の法門ではなく、一乗の法門であることを示され、 この第一義乗の世界こそ、『大無量寿経』の四十八願、中でも第十八願の誓願一仏乗の世界であると結論付けられます。 そして【82】以降は【81】の親鸞聖人ご自身のご自釈を支えるための引文です。まず【82】、【83】は『涅槃経』からの引文です。その中で【83】の「いかんが菩薩、一実に信順する。 菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしむと了知するなり。」の部分で、菩薩は何を了知するのか、これは現代語訳にもありますように一切衆生をしてみな一道に帰せしむという部分の主語は 仏でありますので、このことを菩薩は了知するということでしょう。一道に帰せしむの主語がありませんので少し分かりにくいところです。 さらに、同じくそのあとの「諸仏・菩薩、衆生の ためにこれを分ちて三つとするという「三つ」とは声聞・縁覚・菩薩の三つで、これを三乗とするのですが、この三乗の内の菩薩は大乗の修道者ですので当然一乗である不逆の法門を信順すると 受取ることができると考えますがいかがでしょうか。 このあと【84』以降も【81』のご自釈に対する引文が続きます。 以上、今回はこれで終ります。 |