|
『顕浄土真実教行証』行文類本文6
「はじめに」行巻に入った昨年6月以来、親鸞浄土教の行、すなわち称名念仏について、『大無量寿経』、『無量寿如来会』などの経文、そして龍樹の難行道、易行道の意味、 そして天親の『浄土論』、曇鸞の『浄土論註』等から親鸞聖人の引文をとおして浄土教の行の持つ意味を読み進めてきました。今月は親鸞浄土教の淵源を追って 次の時代、すなわち道綽禅師の名号観を、その著『安楽集』からの引文に沿って思索していきたいと思います。それではさっそく『安楽集』からの引文の 読み進めに入ります。 |
| 【読下し古文】
【19】 『 |
| 【現代意訳】 【19】 『安楽集 上』にいわれている。「『観仏三昧経』に<釈尊は父の浄飯王に念仏に心を集中させるという 念仏三昧の行を勧められた。そこで父王は釈尊に《仏の根源は色もなく形もましまさず、心もおよばなず、 言葉でも表現できないという真如実相という一つの真実であるといわれているのに、どうして仏弟子をしてこれを 観ずる行を させないのだろうか》と問われた。 釈尊はそれに答えて《諸々(もろもろ)のほとけのさとりの徳は無限に深く絶妙なる 世界であり、その無限の力は 人間業を超えたものであります。したがってこれは凡夫の行じ得る世界を超えています。 そのようなわけですから 父王には人間にも行ずることができる、無限の慈悲と、無限の智慧と無限の能力の 根源である仏を念ずる三昧 を行ずることをお勧めするのです。》と答えられた。そこで父の王は釈尊に 《念仏の功徳はどのような形で 顕れるのだろうか》と問われた。釈尊はその答えとして《伊蘭という悪臭を 放つ木の林が四十由旬四方(一由旬は 牛車が一日で進める距離)の広さがあるとき、一本の(一科の) 牛頭産の栴檀がまだ根と芽のみで 地上に芽が出ていない段階では伊蘭の林は只々悪臭のみで、もしその 華や実を食べたり(噉)すると発狂して 死んでしまいます。ところがその後栴檀に根や芽が成長してすこし樹木らしく なると、その清らかな香が 増々盛んになってついにこの林の悪臭を清らかな香気があまねく林全体にいきわたる ようになります。 これを見る衆生は皆この香気にうたれて稀有な素晴らしい思いをいだくことができます。》 といわれた。 さらに釈尊は父王に《すべての衆生も伊蘭林にも例えられる生死の世界の中にあって栴檀にも例えられる 念仏という行の功徳もまた同じであります。ただよく思いを込めて念じ続ければ、栴檀が伊蘭林を清らかな 香気の林に変えたように、まちがいなく生死の世界から浄土の仏の世界に生まれることができるでしょう(業道成弁)。 そして一たび浄土に生まれることができれば、たちまちよく一切の虚無の悪心に替えて 大慈悲心を成就する ことができるのです。》と言われたと>と説かれている。。 ここで<伊蘭林>とは衆生の身にこもる貪欲・瞋恚・愚痴 など三毒といわれるもの・煩悩に起因する迷い、悪業、 そして其の結果の苦、すなわち三障といわれる衆生が 持っている限りなき重罪に喩えたものであり、<栴檀>とは まさに衆生の念仏する心に喩えたものである。 <だんだんと栴檀が成長した樹(き)になろうとする>というのは いわばすべての衆生がたゞよくこころに 仏を念じて断(た)えることがなければ浄土のさとりが成就するということをあらわしているのである。 問うていう。一人の衆生の念仏の功徳のすばらしさを見て、すべての衆生についての功徳のすばらしさも 推しはかることができる。それにしても一本の栴檀の樹が四十由旬四方の広大な伊蘭の林を かぐわしい栴檀の香りに変えてしまうように、一念の念仏の功徳が全ての障りを断つことができるのだろうか。 答えとして、さまざまな大乗経典(諸部の大乗)によって念仏三昧の思いはかることもできない不可思議を顕してみよう。 たとえば『華厳経』に<或る人がいて、獅子の筋肉で作った琴の弦で音を鳴らせば全ての他の弦は切れてしまうと いうようなものだ。すなわち人が菩提心をもって念仏三昧を行じれば一切の煩悩、一切の障りはことごとく断滅 するようなものである。また或る人が牛・羊・驢馬などもろもろの乳を搾り取って一つの器(うつわ)の中に入れたとき もし獅子の乳一滴(一 また『安楽集 下』には、竜樹が著わした 『大智度論』(摩訶衍)の中に<念仏三昧以外のいろいろな三昧は三昧ではあるけれども、 たとえばある三昧は貪りは除くけれども、怒り(瞋)や愚痴を除くことができない。あるいは、或る三昧では ただ怒り(瞋)はのぞけるが愚痴や貪欲を除けない。あるいは愚痴は除けるが怒りは除けない、またある三昧では 現在の障りは除けるけれども過去や未来の障りは除けないといったようなものである。ところが、もし常に念仏三昧 を常に修めておれば現在・過去・未来の一切諸々(もろもろ)のどんな障りでもみな除くことができるのだ>と説かれて いるとおりである。 |
| 【HP作成者感想】 今月から道綽の『安楽集』の読み進めに入ります。道綽禅師について注目すべき点は、それまでも仏教の教義としてあった末法思想を、まさに自ら生きている時代が 既に末法の時代に入っているという強い危機感というか、そのような認識の上に立って宗教活動を行なった人である事。 また彼のすこし前の時代に生きた曇鸞が住んだ玄忠寺を訪れ、曇鸞は既に没して年月が経っていましたが、その碑文を読んで 曇鸞が最後に帰依した浄土教に触れ、その後自らも終生浄土教に生きた人であるということ。 また浄土教に帰依する前には『涅槃経』の研究に没頭していたと伝えられています。したがって道綽の浄土教には『涅槃経』の 影響が色濃く残っているということが言えます。ここで素人考えで疑問に思うことは、『涅槃経』は親鸞聖人の『教行信証』にも度々引文される優れた経なのに、 その後浄土教に進んだのは何故だろうかということですが、これは現代から考えて浄土教は浄土教、涅槃経は涅槃経というような二者択一の考えをするから 疑問に思えるのであって、涅槃経を研究した素地が更に発展して、浄土教を受け入れることになったと柔軟に考えるべきだと思うのですがいかがでしょうか。 さて、ここで親鸞聖人が引文されている『安楽集 上』からの文に入りましょう。 まず釈尊の父の浄飯王<ここでは釈尊の父王は、釈尊の教えを学ぶいわば弟子であるという構成です。> が 釈尊に質問します。 「仏地の果徳、真如実相第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」 すなわち「仏のさとりの功徳は 真如実相で第一の義(真実)である空を認識することにあるのにどうして弟子に それを行じさせないのだろうか」と いう父王の質問です。これはもの凄く大切な質問で、いわば仏教の根本を 衝く質問と言ってもいいでしょう。なぜなら大乗仏教においてはこの真如実相第一義空すなわち 一般的に言われる真如であり、仏そのものである最も根本的な第一義の問題だからです。 すなわち親鸞浄土教でいえば色もなく形もましまさず、こころも及ばず、ことばもたえたりとする真如であるからです。 これこそすべての他力の根源、衆生が永劫の過去からの無数の縁起によってここにこうして 仮の姿をとどめている 根源、おなじように宇宙がこの世界にこうして顕れている根源であるからです。 しかし、釈尊は答えます。 「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界に あらざるがゆえに、 父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる。」すなわち「諸仏のさとりは、無限に深い世界で あり、 その無限の力は 人間業を超えたものであります。したがってこれは凡夫の行じ得る世界を超えています。 そのようなわけですから 父王には人間にも行ずることができる、無限の慈悲と、無限の智慧と無限の能力の 根源である仏を念ずる三昧 を行ずることをお勧めするのです。」と答えます。この釈尊の答えを見て、 皆さまは どのようにお考えになりますか。私(筆者)はここで父王の、何故「真如実相第一義空」を行じ させないのか」という質問と釈尊の念仏三昧を行じることを勧めるというという答えは同じことである思うのです。 なぜなら親鸞聖人は真如とは色もなく形もましまさず、こころも及ばず、言葉も絶えたりとされている法性法身であり、 阿弥陀仏とはそのような真如の方便法身としての現われだといわれています。だから真如実相を行じるということは 阿弥陀仏を念じる、すなわち念仏三昧を行じるということだからです。 次いで父王は問われます。《(釈尊のいわれる)念仏の功徳とはどのようなものなのか》と。そこで釈尊は 次に四十由旬もの広大な範囲に生えている悪臭を放つ伊蘭という植物の林の中に、ほんのすこしの栴檀が 生えたことにより、伊蘭の悪臭が栴檀の香気に変わってしまう例をあげて、生死無明の俗世における衆生の 生きざまが、念仏三昧を行じることによって仏の世界に変わるということを説かれます。この詳細は比較的平易に 説かれていますので古文と現代意訳によってお読みください。このたとえ話は更に続いて、獅子の筋肉で 作った琴の弦の譬えや獅子の乳の効能の話まで動員してう菩提心をもって念仏三昧を行じることによって 一切の悪魔や障りが消滅すること、また華厳経によると、ある薬 最後に『安楽集 下』に念仏三昧が上記のように大きな力をもつことを、摩訶衍といわれる龍樹の『大智度論』の中に、念仏三昧 以外の三昧はたとえば貪欲は除くけれども瞋恚や愚痴は除けないというように一部の障りを除くことができるが 全ての障りを除くことができないが、念仏三昧は全ての障りを除くことができると説かれていることが紹介されています。 それはそうでしょう、念仏三昧は真如を三昧することですから、すべての根源、自らの根源であり、宇宙世界の根源であり、そして 煩悩の根源の三昧でもあるからです。生も死もすべてがその中に納まる根源なのですから。 今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文7
「はじめに」先月に引き続いて今月も道綽禅師の『安楽集 下』からの引文です。 道綽は中国において曇鸞の次の時代の人で、そもそも彼が念仏門に入ったのは、48歳の時、曇鸞が住んだ石壁山(現在の山西省呂梁市交城県)の玄中寺を訪れ、そこにある曇鸞の石碑を見て感ずるところあり、それまでの自力修道の道を捨てて、浄土門に入ったと言われています。それだけに【20】のはじめのあたりは曇鸞の讃阿弥陀仏偈を熱烈な想いで語っています。また後半は『目連所聞経』をもとに人間が生老病死から逃れられない不条理を説いているあたり、道綽の人となりが滲み出ているきがします。それでは【20】の読みに入りましょう。 |
| 【読下し古文】
【20】 またいはく( |
| 【現代意訳】 【20】また同じく『安楽集 下』では曇鸞大師が作られた『讃阿弥陀仏偈』の『大経』を讃えた偈を紹介しています。それは<もし阿弥陀仏の功徳の御名(徳号)を聞きわけて歓喜し讃仰して心から帰依すれば、わずか一声念仏するだけでも大きな利益(りやく)を得てたちまち功徳の宝を身に付けることができる。こうなればたとえ全世界が火に包まれるようなことがあっても、弥陀の名を聞けば、この火を怖れることなく潜り抜けて弥陀と一体になることができるのです。南無阿弥陀仏のいわれを聞けば決してこのような火をも怖れ退くことはないのです。このゆえに、心から頭を地につけて礼拝するのです。>というのです。 また「『目連所問経』で<釈尊が弟子の目連に言われた《たとえば無数の大きな川に草や木が流されていて、前に流されている草木は後ろを流されている草木を顧みることなく、また後ろは前を顧みずに、お互いひしめき合って、全てが大海に流れ込むようなものである。世の中も同じで、身分が高く富み栄え自由に楽しむことができる人であっても、すべて生老病死を免れることができない。「仏」とその教えを説いた「経」を信じなければ後世に又人に生れ変わり、困り果て、結局千の仏が居ます浄土に生れることはできない。人は自らの力で修行して、永遠のいのちの浄土に生まれようとするのだけれども、それは無理で結局九十五もあるといわれる仏教以外の外道に陥ってしまうことになる。だから私(釈尊)は、このようなひとを真実を観る目がなく、真実を聞く耳を持たない人と名づけるのだ。》>と説かれている。このような自己を絶対と思って行なう修行道の難点は捨てて、全ては大いなるいのちのはたらき(南無阿弥陀仏)を信ずる易行道に依らないのだろうか」と『安楽集 下』に説かれている。 |
| 【HP作成者感想】 また『安楽集 下』で道綽は先ず自らの浄土門への道を開いてくれた曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の『大経』を称える讃偈で、『大経』の中にある「本願成就文」が説く一念往生の功徳を讃嘆した上で、もしこの功徳を身につけることができれば、たとえ全世界が火に包まれようと、弥陀の名を聞き信ずることによって、その火を怖れることなく、その中を潜り抜けて阿弥陀の国にいくことができる。このように曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』は強烈でしかも生死を超えたことばを述べています。この故に曇鸞は、生死を超える信と名号で表される弥陀の大悲に対して稽首礼拝の極みを尽くします。そして道綽は弥陀の限りなき大悲をあらためて安楽集で確認強調しているのです。このことは私個人の想いで言えば、これは今若し地球が太陽に吞み込まれてしまうようなことがあっても、その結果恐怖の極みにはありながらも、どこかでいのち終って弥陀と一体になれる自分を想い浮かべることができるのではないかと想像するところです。 次に道綽は『安楽集 上』において「『目連所聞経』で釈尊は無数の大河の激しい流れの有様を弟子目連に示します。例えば嵐や大雨で増水した大河は上流の多くの大木や大量の草を巻き込んで流します。この流れの有様を言えばどのような大木で あろうが小木であろうが、どのような美しい花が咲く草であろうが、醜い花や香りしか持たない草であろうが、どれもこれも構うことなく前の流木や草は後ろの流木や草を顧みることなく互いにもつれ合って結局、全て最後は大海に流れ込む。これと同じように 世の流れも同じで、結局は皆、時期が来ればいのち終ってこの世とおさらばしなければならない。どんなに地位もお金もあり、好き放題な生き方ができても結局は皆、生老病死を免れることはできない。このように、「ほとけ」とその教えを説いた「経文」を 信じなければ結局次の世でまた有限の人間に生れてきて、煩悩にまみれ、限られた生命に恐怖し、自らは何者であるかも分からない存在のままで生死していくしかなく、無量寿の仏がいる国(浄土)には生まれることができない。これはすべからく「名号のはたらきである南無阿弥陀仏」と「仏の教えに対する信」がないまゝで、 いくら修行を積んでみても結局、仏教以外の外道に陥(おちい)ってしまうことになるからだと『目連所聞経』で釈尊は弟子目連に説いていると『安楽集 上』で道綽は述べています。 そして更に、『安楽集』が紹介する『目連所聞経』のその次のことばが鋭く真理を衝いています。このような人を真実を観る目がなく、真実を聞く耳がないと。これは、いかに世渡り上手で地位と名誉と富貴を得た人であっても、仏による他力真実を観る目と 聞く耳がない人には自らのいのちの意味を知ることはできないと『安楽集』は紹介し、それを親鸞聖人は引文としてこの教行信証で採用されているということです。そして最後に道綽の『安楽集』は「『目連所聞経』のような経典でもこのように解かれているのに どうして人々は難行道にこだわって、このような真実を観る目、真実を聞く耳を与える易行道の依ることをしないのであろうか」と結んでいます。 このようにして【20】で道綽の『安楽集』は七高僧の歴史的経緯の順に曇鸞の『論註』に続いて他力の真実を述べているのです。すなわち道綽は『安楽集』の中で自らの易行道に対する考えを、曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』と『目連所聞経』をもとに説いているのです。すなわち曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』からは大千世界が火に包まれてても その中を臆せずに浄土に向かって進む易行道の念仏者の力強い生き方の例を挙げ、また『目連所聞経』からは世の中の全ての人間が生老病死を免れない不条理を、あたかも大河が大木も小木もおかまいなしに全て大海に流し込むことにたとえています。 いずれも我々の胸を打つ譬えで語っているところが特徴的です。その中で易行道である浄土教が、世の無常に対する仏道の真実を観る目と真実を聞く耳を持つものであることを『安楽集』からの引文によって親鸞聖人がここで示されているということは、聖人も私と同じ気持ちを、『安楽集』が引く二つの物語に感じられたのではないでしょうか。 今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文7
「はじめに」今月も行巻の文章として念仏の讃嘆が続くのですが、その中で古来から行ぜられている、心を静めて雑念を離れて瞑想し仏を観ることができることによって浄土往生を遂げる、いわゆる「観仏」の行に対して、称名念仏の中に仏を観る、仏に遇うということがあり得るということを善導の『往生礼讃』が引用する『文殊般若経』の中で言われているということがわかりました。此の事によって私(筆者)の私考ですが、念仏と観仏の距離が近づき、さらにこのことは第二十願の果遂の誓いにも関連して来るのではないかという想いが私(筆者)には湧いてきました。皆さまのご査読を願うところです。 |
| 【読下し古文】
【21】 |
| 【現代意訳】 光明寺の善導大師がその著『往生礼讃』で「また『文殊般若経』には<念仏一行に集中する三昧について明らかにしようと思う。この場合独り静かな場所で散乱した意(こゝろ)を捨てて一仏を観ようとする行などではなく、専ら彼(か)の名号を称えれば、すなわち心の中に阿弥陀仏および一切の仏をみることができる>と説かれている。 そこでこの際、問うて言う、心を集中して仏を観る行をしないで、専ら名号を称える行をするのは何故なのか。 答えてみよう。つまり衆生の心は雑念だらけで心を静めて微妙な行を実行するには心が粗雑で動揺しやすく、あちこちに想念が移って、仏を観るなどということは、普通は達成できないからである。それ故に釈尊は憐(あわ)れに思って、直接に仏の名号を称えるという容易な行を勧められたのである。まさに称名は行じ易いことに由って相続(継続)して行ずることができる結果、浄土往生が成就するのである。(ここで「由」の字は本願の一道で行くという意味の行の字、他力の念仏を用いるという意味で用の字、相い続く念仏を経ることを意味する経の字、本願の一道に従(よ)り往生するという意味で従の字のことである。) 問うて申し上げるに、すでに専ら阿弥陀一仏を称名するのに、どうして多くの仏がたが眼の前に現れるのか、これは間違った仏との遇い方なので、一仏と多仏が雑然と現れるということではないのか。 答えて言おう。一仏も、そのほかの多仏も皆同じさとりの境地にあり、その違いは無い。だから一仏を念じて多仏を観ることになるのが何の仏の道理に背くことがあろうか。 また『観経』にいわれているごとく座って精神統一し仏に遇うような行のときも、礼拝し念仏して仏に遇おうとするときも、かならず西方に顔を向けて行ずるのが最もすぐれているというべきである。先の方が曲がっている樹が倒れる時は必ず曲がっている方に倒れるものだ。だから障りがあって西方に向けないときは、せめて西方に向けて行ずる想いをなせばまた往生を成就するようなものである。 問うて言う、一切の諸仏は三身(法身<色もなく形もましまさず、心も及ばず、言葉も絶えたりという親鸞聖人が言われている真如法身のこと>、報身<法蔵菩薩の誓願成就によりその報いとして現われた仏(阿弥陀仏)>、応身<報身としての仏が仮にこの世に現れた姿(釈尊)>)共に同じであることは間違いなく、無限の慈悲と無限の智慧が欠けるところなく備わっている二つとない仏である。どの方角に向かって一つの仏を恭しく念じても浄土に往生することができるだろうに、どうしてひとえに西方のみを讃歎して専(もっぱ)ら礼拝し称念するのはどの様な意味があるのか。 答えとして申し上げよう。諸仏のさとりはみな等しく一つであろうが、そのさとりへ至る因縁経緯は違いがあるはずである。ところで阿弥陀仏は法蔵菩薩として修行中のとき根源的に尊い誓願を発(おこ)されて、それを成就され、その光明と名号をもって全ての衆生を摂取し 教化し救済することをなさった。したがってこの誓願を信じて浄土往生を願えば長くは生涯にわたり、また短くは十声、一声の念仏に至るまで容易に往生を成就することができる。この故に釈尊およびもろもろの仏がたは特別に西方に向くことを勧めておられるわけである。またこれは弥陀以外の仏を称名念仏しても障りを除いたり、罪を減じたりすることはできないということではないということも知ってほしい。いずれにしても、もしよく以上のごとく念仏生活をいのち終るまで相(あ)い続ければ十人は十人ながら、 百人は百人ながらみな浄土往生ができるということである。何故そうなるかといえば、仏のはたらき以外のあらゆるはたらきとは無縁の、真実の信心を得ているが故に、仏の本願に基づき、その教えと異なることがなく、仏のことばに随順するが故である。 」といわれている。(以上) |
| 【HP作成者感想】 今月も善導の著『往生礼賛』からの念仏を讃歎する章が続きます。讃歎の文章ですから、いままでと同じく変わらない讃歎文に終わるのかと思っていたのですが、この【21】では今まで知らなかったことを今回はじめて 知ることができたということがいえます。 それは善導が『文殊般若経』から引文している上記「読み下し古文」の初めから二行目の最後から始まる< >内の文章、すなわち< あとの文章は、弥陀の本願にすべての基盤をおいた称名念仏の讃歎文になっていますので皆様に【読み下し古文】と【現代意訳】をお読みいただきご理解いただくことができるものと思っています。それでは今回の【HP作成者感想】はこのことをもって終わらせていただきたいと思います。 今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文8
「はじめに」 ここではまた念仏の功徳の素晴らしさを善導の『往生礼賛』から引き文されています。もちろん弥陀の本願は仏の言葉であるがゆえに真実であるという基本から説き述べられていることはいうまでもありません。簡単な文章が三つ続きますが読み進めてみましょう。 |
| 【読下し古文】 【22】 またいはく( 【23】 またいはく(同)、「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。万年に三宝滅せんに、この経住すること百年せん。その時聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。(抄要) 【24】 またいはく(礼讃)、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と。(以上)
|
| 【現代意訳】 【22】 また『礼讃』でいわれている。「ただひとえに念仏の衆生を見護(みまも)って摂取して捨てないから阿弥陀と名づける」と(以上) 【23】同じく、いわれている(礼讃)。「弥陀の智慧は無限に深く広く限りがないから、御名を聞き信じて、その力で浄土のさとりを得たいと願えば、 みなすべて彼の国に生まれることができる。たとえこの世界が火だるまになっても臆することなく進んで仏に摂取されているいる自分を観よ。 摂取の心光の中にある自分に気付けばすでに浄土に往生している自分を観ることができる。末法万年の末、法滅の時になっても、この『大無量寿経』の教えは、いつまでも続くので、信の喜びの瞬間に、皆、彼(か)の浄土に生れることができる。」 と。 【24】またいわれている(礼讃)。まさに現実に生きる生死の凡夫、煩悩に狂わされ罪深く地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を輪廻して、その苦しみは、いうに覚えず。今、善知識に遇って弥陀の本願の名号を聞くことができた。まさにその時、信の一念に称名して往生を願い求めよ。願うところは弥陀が大慈悲をもって誓われた本願をお捨てになることなく、全ての仏弟子を摂取されることである。 |
| 【HP作成者感想】 前回に引き続いて親鸞聖人は善導の『往生礼讃(以下『礼讃』と略します。)』から称名念仏を讃嘆する文章を引文されています。 まず【22】では、「ただひとえに念仏の衆生を摂取して捨てざるが故に阿弥陀と名づく」という『礼讃』の文章です。 この善導の文章、味わってみますと阿弥陀仏は念仏の衆生を摂取して捨てないが故に 名づけられた御名が「阿弥陀仏」なのです。阿弥陀仏以外の、たとえば「無限のいのち」でもいいのです。その意味で『大経』では「無量寿如来」 という呼び方もなされるいるのです。また「大いなるいのち」でもいいのです。でも「大いなるいのち」では有限で小さすぎるとなれば、やはり上の 「無限のいのち」になりますか。要は、ことほどさように、これは親鸞聖人が『唯信鈔文意』でずばり指摘されているように方便の名なのです 阿弥陀仏は方便法身なのです。でもやはり「阿弥陀仏」という御名が、仏教の名前としては、最高の御名ですね。 【23】 同じく礼讃の文です。人生の根本問題である生と死の意味も完全に見透して居られる無限の智慧と無限の能力をもった 弥陀如来でありますから、南無阿弥陀仏の真実を信じる衆生が往生を願えば、皆ことごとく浄土のさとりの中にあるわけでしょう。 そうして曇鸞の讃阿弥陀仏偈からの引き文 【20】の『ことばが再び出ました、 「たとひ大千世界に充(み)てらん火をも過ぎゆきて・・・」、すなわち全宇宙が火に満ちても、 その中を過ぎて弥陀の名を聞き讃歎し信じて称名するものは弥陀と一体になれるということでしょう。 そして、『大経』にあるごとく末法万年の末、法滅といわれる時期が来ても、そのときこそ信心発起する一念において、皆まさに 浄土のさとりの中にあるだろうということです。善導も曇鸞と一緒にこのような気持ちを持っていたのでしょう。 【24】 更に『礼讃』からの称名讃歎の引文です。 まさに生の意味も死の意味もわからず、六道を輪廻する罪悪生死の凡夫をこそ 弥陀は 大慈大悲を信ずる衆生をその本弘誓願によってお捨てにならずに、衆生が善知識に遇ってその教えにより名号を信じ称えれば、この仏弟子を自らの中に 摂取されるのだといわれているとの部分を親鸞聖人は引文されています。 今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文9
「はじめに」 今月は行としての称名念仏が親鸞浄土教の根幹をなすものであるかを親鸞聖人が『往生礼讃』からの引文で強調されている段です。この引文を読んでいると、他の全ての引文もそうですが、引文というよりも、これもやはり親鸞聖人ご自身が書かれた文章と見ることもできるという感慨が湧いてきます。では本文に移ります。 |
| 【読下し古文】
【25】 またいはく( |
| 【現代意訳】また いわれている。(礼讃) 「問うていうが、阿弥陀仏を称念し、礼拝し心に思い浮かべて現世にどのような功徳や利益(りやく)があるのだろうか。 答えて言おう、もし阿弥陀仏を称名すること一声で、八十億劫という長い期間生まれ変わり死に変わりして今まで来た、その間の空恐ろしいほどの無数の罪が除かれるというのである。弥陀を礼拝したり、 心に念じたりすることでもまた同じように滅罪されるのである。『十往生経』という経典に、もし衆生があって、阿弥陀仏を念じて、浄土往生を願えば、阿弥陀仏は即刻、二十五人の菩薩を遣わして、 念仏する衆生を行住坐臥、昼も夜も、一切の時と処で護り続け、一切の悪鬼や悪神を寄せ付けないのである。 また『観経』にいうごとく<もし阿弥陀仏の名を称え礼拝し念じて、かの国に往生したいと 願えば、弥陀は即刻に無数の化仏(衆生を救うためにこの世に現われた仏)、化観音・化勢至菩薩(同じくこの世に現れた観音・勢至)を遣わして、行者を護らせ給う。 また同じく二十五菩薩を遣わして 、行者を護るべく一切の時と処において常に行者を包み込んで離れ給わない。>のである。 この瞬間に既にこのような勝れた利益(りやく)がある。 まさにこの功徳に依り憑(たの)むべきである。 もろもろの行者よ、それぞれが如来のまことの心(至心)をいただいて浄土往生を求めるべきである。 また、『無量寿経』に <もし私(法蔵菩薩)が仏になるとき、あらゆる衆生が私(弥陀)の名号を称えるとき、小は十声にいたるまで称えて、もし浄土に生まれることができなければ、私は仏にならない>と言われている。 この法蔵菩薩は今、既に成仏されて現に阿弥陀仏となって居られる。この仏の重要な誓願は真実である。衆生は称名念仏すればかならず往生することを知るべきである。 また『阿弥陀経』に<釈尊が阿弥陀仏のことを説かれるのを聞いたならば、衆生は即刻に名号をしっかり称えるべきだ。すなわち一日、あるいは二日、乃至七日、それぞれ一心に仏を称名して乱れることがなければ、いのちが終ろうとするとき、阿弥陀仏は多くの聖者と共にその人の前に現れてくださる。だから、この人は心が顛倒せずに、すみやかにかの阿弥陀仏の国に往生することができる>といわれている。釈迦如来は舎利弗に<私はこの素晴らしい利益(りやく)を目の当たりにすることができたので、このように言うのだ。もし衆生が居てこの教えを聞くものは、まさに、かの阿弥陀仏の国に往生しようと願うべきである。>と告げられた。そして次に<東方の、ガンジス川の砂粒にも譬えられる諸々の仏方(ほとけがた)、南西北上下のそれら一つ一つの方角の、これまたガンジス川の砂粒ほどにも無数におられる諸々の仏方が、それぞれの国において真実のことばでもって、広くその世界にいきわたる教えを説いて<あなた方、世の人々よ、みなこの全ての諸仏が、あなた方を護り給うというこの経を信じるがよい>といわれている。どうして『護念』と名づけるのか、それは、もし衆生が居て、もしくわ七日、また一日、更には一声乃至十声の少なきにいたるまで阿弥陀仏を称名し念じれば、必ず往生できるからである。このことをこの経は証明してくださるから、この経を『護念経』と名づけるのである。そしてその後の文に<もし仏を称名して往生する者は、常に全ての方角である六方、すなわち東西南北の方角や上方、下方の方角の諸仏によって護念される。故に『護念経』と名づけられる。>と説かれている。 このように今、既にしてこの功徳がこの上もなく増す弥陀の誓願があるのだから、このことにこそ依り憑(たの)むべきであって、仏の道を歩む子らよ、どうして意(こゝろ)勇んで往生の道を歩まないのか、今まさに歩むべきである。」 以上は智昇法師の『集諸経礼懺義』の下巻の善導和尚の『往生礼讃』である。(親鸞いわく) 引文はこれに依った。 |
| 【HP作成者感想】 以上は、上記現代意訳の最後に親鸞聖人が書いて居られるように智昇法師の『集諸経礼懺義』の下巻を構成する善導和尚の『往生礼讃』から親鸞聖人が引文されたものであるが、全体が「称名念仏」がいかに親鸞浄土教において欠くべからざる、根幹をなす行であるかを強調し讃嘆するものであります。この段の真意はこれに尽きるものであって、これ以上の少子が付け加えるべき何ものもないというのが、この【HP作成者】の感想です。 今月は以上で終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文10
「はじめに」 今月も、行巻の初めから延々と続く弥陀の名号の素晴らしさを讃える文章が続きます。今月も先月に引き続いて親鸞聖人は善導の著作から『観経疏 玄義分』、『観念法門』、『般舟讃』と縦横に引文をして、
名号を讃嘆されています。それでは早速読みに入りましょう。 |
| 【読下し古文】 【26】 またいはく( |
| 【現代意訳】【26】また言われている(観経疏 玄義分)、「仏の誓いというのは 『大無量寿経』が説くごとく、『善悪全ての凡夫が浄土に生まれることができるのは、みな阿弥陀仏の本願力に乗じて
(乗の字は大乗ということ、勝(すぐ)れものだということ、往生道を登るということ、そして衆生を摂取(覆)して護る(守)と いうこと)その結果浄土往生を遂げられないということは絶対ない。(必ず浄土往生は遂げられる。) 【27】 またいわれている。(同じく玄義分) 「南無阿弥陀仏」の内、 「南無というのはすなわち帰命のことである 。またこれは発願回向、 すなわち如来が発願して衆生を浄土に帰えそうとする心である。 「阿弥陀仏」というのは そのようにする仏のはたらきである。このようなわけであるから、必ず衆生は浄土に往生 できるのだ。 【28】 また観念法門には 「摂生増上縁」というのは『無量寿経』の四十八願の中には<仏がいわれた《もし 私が仏になるとき、あらゆる衆生が私の国(浄土)に生れたいと願って、私の願いの力を信じてわたしの名を少なくとも 10回称えて、その結果浄土に生まれることができなかったら、わたしは仏にならない。》>と説かれている。 このことはすなわち往生を願って信行する者は命が終ろうとする時、本願の力に摂取されて、その力で往生を遂げる ことができる。故にこれを摂生増上縁と名づけるといわれている 【29】 また「善悪の凡夫がこゝろをひるがえして仏を信じ称名念仏ば、これらの衆生をことごとく 浄土に往生させたいと欲(おも)う。これを必ず往生することを証明する縁」であると『観念法門』で説いている。 【30】 また「法門ごとに異なるおしえが八万四千もあるが、自らが何ものかもわからず、 生きている意味も わからぬ無明とその無明が伴う苦(果)と煩悩から生ずる罪業の迷いとを断ち切るための利剣は とりもなおさず 弥陀の名号である。一声称名するに罪は皆除かれる。すなわち無数の過去の悪業と世俗の浅智慧も皆除かれる。そうして真如の門、すなわち全てが仏のはたらきであるという絶対他力の世界に入る ことが できる。娑婆の永劫の過去からの難を免れること得るのは、まことに善知識である釈尊のご恩のお陰である。 種々の智慧ある巧みな手立てで、釈尊は多くの法門の中から弥陀弘誓の法門を我々衆生が得ることができる ようにして くださった。」と善導の『般舟讃』は説いている。(以上重要部分を引文した。<親鸞>) |
| 【HP作成者感想】 【26】は善人も悪人も 弥陀の浄土に生まれることができるのは阿弥陀仏が仏道修行をされているときに建てられた本願力によって、 それを何よりの縁とすること以外には考えられないということであるとする『観経疏玄義分』の文章を引文されて
います。このとき面白いのは親鸞聖人が「乗」の字の意味をここで付加されている部分です。 すなわち「乗」 の字を「駕」とか「勝」とか「登」とか「守」とか「覆」とかの意味があるとのこと、その中で特に面白いのは「駕」ですね。
馬という字があるのですから、馬に乗るというのが最も適当な意味合いだろうと思うのですが、まさに大乗の 意味合いですかね。「大乗」とは大きな船に乗って共に浄土にいたるという意味でしょう。また馬に乗るのですから
他力 でもあると、つまり大乗とは他力そのものであるとしてやっ と落ち着くのではないかと思った次第です。 「乗」の字の そのほかの意味合いは現代意訳の方で訳しておきました、ご査読ください。
次に増上縁ということばも世俗では あまり耳慣れないことばです。仏教語大辞典によれば「阿弥陀仏の本願が 衆生が往生するための強い力となること」
となっています。私(筆者)はこれで、この言葉がここに使われている ことに納得できた次第です。 【27】 この章は「南無阿弥陀仏」が意味するところを説いている章でしょう。『玄義分』で善導は言います。 「南無」とは帰命のことである。なるほどこのように定義されると、なんだか分かるような気がします。では帰命とは どのようなことか、たとえば「命を帰する」ではあまりにも自力的表現ともとれますが、「いのちに帰する」とすると 大いなるいのちに帰するというのですから自力的表現はすこし弱められたような気もしますが、それでも「帰する」 ということであれば自分の意思で帰するとも受け取れますので同じことかも知れません。ところで【27】においては 「南無とは帰命なり」としたあとで、「またこれ発願回向の義なり」としています。帰命についての発願回向ですから この帰命は人間が行なう帰命ではありません、完全に仏が発願され回向される帰命です。すなわち仏が発願され それを衆生に回向される、いうなればまさに、親鸞聖人が言われたように帰命は仏の勅命であるということになります。 如来が衆生に対して帰ってこいよといわれる、如来の勅命であるということになります。 そうして、その次の文章です。「阿弥陀仏というは、すなはちこれその行なり」。このことば、はじめはこの部分だけ ピックアップして読みましたので、とたんにその意味するところが分からなくなりました。阿弥陀仏が行だって? 仏が行であるということはどういう意味か?ということです。随分頓馬(とんま)な読み方でした。気が付いたのは この「阿弥陀仏というは、すなはちこれその行なり」という部分は、あくまでも南無阿弥陀仏という言葉の中で阿弥陀仏 とはどういう意味をあらわすのかということです。すなわち今は南無阿弥陀仏ということばの意味を考えているのです。となると、その中で阿弥陀仏の部分は「行」、つまり「はたらき」、すなわち 阿弥陀仏ということばは南無阿弥陀仏ということばの中で如来のはたらきを表しているのだということです。すなわち全体を次のように受取る ことができます「南無阿弥陀仏という言葉の意味は阿弥陀仏のはたらきに帰命するという意味である。すなわちこのことは如来の勅命 を意味するのだ」ということではないでしょうか。したがってこの引文では南無阿弥陀仏が意味するところの力によって衆生は必ず往生を 得ると善導の『観経疏 玄義分』は説いているということです。 【28】 これも同じ善導の『観念法門』からの引文です。「増上縁」の意味が【HP作成者感想】【26】の最後に説かれているように るように「阿弥陀仏の本願が衆生が往生するための強い力となること」すなわち「本願力」を表す事柄で あるならば、【28】冒頭の「摂生増上縁」の意味は衆生を摂取して浄土に生まれさせようとする本願力ということ になります。そして【28】ではこのことを端的に顕わすのが『大無量寿経』の四十八願中第十八願が示すところで あって、浄土往生を願う衆生が命終わろうとするとき、如来の本願力がこの衆生を摂取して浄土に生れさせようと する。このことを摂生増上縁と名づけるのだと、わずか十声の念仏にも浄土往生を可能にする絶大な力があるのだと いうことを説いています。 【29】 また同じく『観念法門』からの引文は『観無量寿経』に出てくる韋提希夫人が釈尊に「わたしに清浄浄土の荘厳を観じさせてください」 また、「わたしに真実を思惟できる力と仏を正しく受容する力の源泉を教えてください」と懇請したところ 釈尊は定善、散善の行をお与えになったところ、韋提希はそれによって回心し定善・散善を行じて浄土往生を 成就した。このことによって「善悪の凡夫もこのように回心起行しすればかならず往生浄土が果たされること」を 釈尊は韋提希の事例をもって証明された。これを証生増上縁というのだと【29】は説いているのだと筆者は 受取らせていただきました。 【30】 善導の『般舟讃』からの引文です。仏教の法門は八万四千もあるが、この世の無明とその結果の苦と 業因とを滅するための利剣は弥陀の名号を置いて他にはない。すなわち称名念仏は他の法門に類例を見ない最高の利剣であるといいます。すなわち称名念仏の最高の讃嘆です。ここまではわかりやすいのですが、 その次の「微塵の故業と随智と滅す」というところです。この読み下し文は親鸞聖人がお書きになっている 漢文にもとづいてこのように読み下されているのですが、この元の漢文は「微塵故業ト随智 ト滅ス」となっており、これも聖人が送り仮名をこのように打たれたわけ でしょう。これでは上のような読み下し文になるわけですし、現代語訳をすれば、「一声の念仏で微塵の過去の悪業と それに随(した)がう世俗の浅知恵を無くす(滅す)」と訳しました。参考書の中には、この部分を「微塵の過去の悪業が一声の念仏による仏の智慧によって除かれると訳しているのもありますが、いささか無理な訳とも考え、また親鸞聖人が自身が書かれた漢文に付けておられる送り仮名のとおりに受取るべきだと考えこのように訳しまた解釈しました。 そして次の「覚へざるに真如の門に転入す。」 の部分、すなわち「真如の門」ということは真実の絶対他力、すなわち、全てが仏のはたらきの世界に転入すると いうことになります。そして、 それ以後は【30】の終りまで、すんなりと読み進め読み終わることができるものと思います。 以上【30】の終りをもって 今月の【まとめと感想】は終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文11
「はじめに」親鸞聖人は行巻が始まって以来、仏のことばである『経』、菩薩が説く『論』、『釈』(論は印度の菩薩、釈は中国、日本の 菩薩)が説く名号讃歎の文を集め、また前回には【27】において善導大師の六字名号南無阿弥陀仏の解釈(六字釈)を引文され てきました。 今月はあらためて親鸞聖人御自身の六字釈を伺うことになりました。この御自身の六字釈から私たちはどのような信の心を いただくことになるのでしょうか。それでは以上のような前掲を踏まえた本文を読み進むことに致します。 |
| 【読下し古文】
【31】 しかれば、「 |
| 【現代意訳】 だから「南無」という言葉は「帰命」という言葉である。
このうち「帰」の字は至(いたる)という意味で、またこれは「帰説(きえつ)という意味で「よりたのむ」という意味である。
説の字は悦(えつ)
と読む。また帰説(きさい)すなわち「よりかかる」という意味である。また説(せつ)の字は税(さい)とも読む。
悦税二つともに告げると読む。述べるということである。
人が意図するところを述べ宣(ひろ)めることで、この場合阿弥陀仏がその思うところを延べ伝えられるという事である。 「命(みよう)」の意味は業(ごう=はたらき)である。阿弥陀仏が招き引く意味であり、阿弥陀仏が衆生を使うという意味 であり、阿弥陀仏が衆生を教え導く という意味であり、阿弥陀仏のはたらきの大いなる道という意味であり、阿弥陀仏から 与えられる信ということであり、阿弥陀仏の計らいということであり、 阿弥陀仏が私たちを招かれるということであり、 要は「帰命」というのは阿弥陀仏が私たちにまことの仏の世界に還ってこいよといわれる勅命なのである。 発願回向というのは阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に衆生救済の誓願を発(おこ)され、その行を私たち衆生に回向してくださる という事である。 「即是其行」というのはまさに選択本願である第十八願が表す乃至十念ということである。 「必得往生」というのは、必ず浄土に往生することが定まるということを顕すことばである。『大経』ではこのことを「即得」と いう言葉で表され、龍樹などの菩薩が説かれた釈には「必定」といわれている。 「即」という言葉は仏のはたらきを信じたその瞬間に浄土往生が決定(けつじょう)する時刻の極限を明示する言葉である。 「必」という言葉は、間違いなくそのようになるということであり、衆生に金剛心が確定成就した有様をいうのである。 |
| 【HP作成者感想】 親鸞聖人は「しかれば」ということばで前回までの名号讃歎の引文にもとづき、ご自身の解釈をここで披露されます。 私たちはこれによってどのような名号に対する思いをいただけるのでしょうか。 まず「帰命」のついて親鸞聖人は「帰」の字、「命」の字などの解釈から始められます。いろいろ難解な字釈が このあと、並びますが、要は古文初めから6行目の「帰命は本願招喚の勅命なり」ということに尽きるでしょう。 「発願回向」というのは如来が衆生救済の発願をされ、修行されたその成果を衆生に与えるということでしょう。 さらに親鸞聖人は「即是其行」は選択本願これなりと続けられますが、選択本願とは、この場合第十八願を 指すのであり、そこで誓われているのは至心に信楽し浄土に生れたいと欲(おも)えば、十念の称名でそれを叶えると いうことです。 すなわちこれは如来の行、すなわち如来のはたらきです。衆生の努力ではありません。即是其行とは如来の行、 すなわち如来のはたらきということであります。 如来は自ら果たされた行を衆生に回向されるのです。「必得往生」ということは必ず浄土に生まれることが定まるということです。『大経』では「即得」といい、龍樹の易行品では、 「必定」といっています。 南無阿弥陀仏全体の意味するところは我々衆生の有りようは全て如来のはたらきに帰するということであり、 生きている今も如来のはたらきの中にあるが、いのち終ればまさに仏となり、煩悩にわずらわされることなく 仏(=如来)と一体となって無量寿のいのちを生きるということでしょう。 「即得」の「即」の字は浄土に生まれるのが時剋極促の瞬間であることを表わし、また「必」という言葉は審(つまび)らか(徹底的に 明確)ということ、そのように必ず浄土に生れさせる(然らしめる)ということであり、生きている内は正定聚という位に定まるということで 要はその人が生きて金剛心の境地にあることを表すのだということを親鸞聖人は最後に強調して居られます。 来月は諸仏および七祖以外の浄土教の念仏者の名号讃歎を読み進めることになります。今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文12
「はじめに」行巻では『大経』の第十七願を始めとして『如来会』や他の諸経、および七高僧の釈文など、親鸞聖人は次々と大行である念仏行の讃嘆を続けてこられましたが、今月からは七高僧以外の法照法師をふくむ十人の仏教者の大行讃歎の文を引文されています。そこには浄土教以外の他宗の仏教者もふくまれていますが、親鸞聖人は、そのような自宗・他宗というこだわりは一切示されず大行である念仏の讃嘆一つにしぼって引文されているお心に真実の浄土念仏者の姿を見ることができます。 |
| 【読下し古文】 【32】 『 |
| 【現代意訳】 中国、唐代の浄土教の僧 法照の撰述による 『浄土五会念仏略法事儀讃』でいわれている。「如来が衆生を導かれる場合には広く詳しく説くか簡略に説くかは、 衆生の素質に随って決められる。これはどのような素質の衆生をも、最後は仏の真実に至らせようというおこゝろだからである。 真にさとりを得た者に、そのような教えを与える必要はない。 このひたすら念仏する教えは、真(まこと)にこの上なき、深い教えなのである。 全ての法の王である阿弥陀仏は四十八願を成就された御自身の名号のはたらきによって衆生を救われるのである。(中略) 釈迦如来は常に永劫の大悲(三昧海)の中で父の王(釈尊の父である浄飯王)に手を差し伸べて(網綿の手を挙げ) <父の王よ、今静かに坐してまさにたゞ念仏をしてください。無相無念というような高度の修行をたっせいできるでしょうか(できません。) 眼の前の煩悩の生を超えて、煩悩の無いさとりの生を求められましょうか(求められません) 形あるこの世を超えて、色もなく形もなく、こころも及ばぬ法身を求められましょうか(もとめられません) 方便としての経文を超えてさとりを求めるようなことができましょうか(できません。)>と申し上げた。(中略) まことに究極の理である真如の法、一つの理法をもって森羅万象を顕し、世の人々を摂取し救う。諸仏の誓願は それぞれ違いがあるが、わが釈尊はこの五濁の世に生れ出で、そのお悟りそのものである阿弥陀さまは浄土に出(いで) 給いました。両者生まれ出たところは穢土と浄土というように違っているけれども衆生を不条理から拯(すく)うという点では 同じ一つのことです。若し浄土往生を願うなら行じ易く、その果報も得易いのはまことに浄土の教門だけです。このように 西方浄土は他にくらべられるものがないくらいに殊に妙なる所で、無数の宝である蓮の華で厳(かざ)られ この蓮は衆生の素質に応じて九種(九品)にひらいて、人々を摂取してくださる。まことにこれこそ仏の名号 南無阿弥陀仏のはたらきである。>(中略) 『称讃浄土教』による 法照法師の偈 <如来の尊号(名号)は、まことに明らかなり その無上の真実は十方世界にあまねくいきわたっている たゞ念仏称念するだけで、皆往生できる 観音・勢至、自(おの)ずから来て迎え給う 弥陀の本願、殊(こと)に超え勝れている 大慈大悲をもって巧みに凡夫を浄土に導く 一切の衆生、みな解脱の光輪に摂取される 念仏称名すれば速やかに煩悩の罪が消除される 凡夫がもし西方浄土に往生を成就できれば永劫の過去からの罪が消え去る 末永く老病は除かれ、無常を離れる> 『仏本行経』による偈 (法照法師) 何をもって正法とするか 仏の道理にかなっておれば、それは真の教えである その教えの善し悪しは、まさに生きているい今、決める(決沢)べきである 一つ一つその教えの詳細はいい加減ではいけない 正法は俗世にあっても俗世べったりではない その中で持戒・坐禅も正法と名づけるが 特に念仏成仏、これこそが真実の教えである。 仏のことばに依らない者を外道という 因果の道理を否定する見解は意味のないものである 正法はよく世間を全てとする迷いを超える 俗世から逃避する坐禅や戒律の修行は、はたして正法なのか 俗世の中での念仏三昧こそが真実の仏道だ この世の無常を見て(性を見)、一心帰命の信が仏道だ どうして仏道の真理にふさわしく(相応)しようとしないのか> 『阿弥陀経』によって作られた偈 <西方浄土は、さとりに向かって進むには、娑婆よりはるかに優れている 煩悩による欲望および、仏道を妨げる魔者はいないからだ 仏に成るのにさまざまなこの世の善業を労することもない 蓮の華たる仏のはたらきに乗托して弥陀を念じるだけでよい 五濁の世に在って、その下(もと)で激しい修行をしても 多くが退転してしまう それよりも念仏して西方浄土に往生するのが最も善い 浄土に至れば自ずから仏となる そうして苦海に再び還り、浄土への橋となり、また渡し場となろう あらゆる行の中で最も迅速な要を得た教えで浄土門以上のものはない ただ単に本師たる釈尊の金言にあるのみならず 十方の諸仏も共に伝え証(あか)されている教えである この世において一人の人が仏の名を念ずれば 浄土に一つの蓮の華が生じる 生涯退転せず弥陀を信ずれば、その一つの蓮の華は この世に来迎して、その人を浄土に迎え給う>(以上概略まとめ) 『般舟三昧経』による偈(唐代の僧 慈愍) <今ここにお集まりの人々よ お互いが永劫の過去から 無数の因と縁たる縁起を重ねて 今ここに、こうして居るのだ このようにして人の身となったことは お互い無上に得難き存在ということだ たとえば優曇華がはじめて開くがごとし まさしく浄土の教を聞くことができるのは 稀にして、この上なき幸運(しあわせ)と いうものだ まさしく念仏の法門が開かれるに出遇ったのだ まさしく弥陀の弘誓が喚びたまうに出遇ったのだ まさしく人々に与えられた信心あるが故の 弥陀の回向なのだ まさしく今日、この『無量寿経』によって 身の幸せを讃歎することができたのだ まさしく弥陀の誓によって人々が 仏となって蓮華の台座に身を結ぶことに 出遇ったのだ まさしく健やかな身で、皆が無事道場に、こうして来ることができたのだ まさしく七日間の念仏の功徳成就に 出遇うことができたのだ 弥陀の四十八願は必ず信ずる者を浄土に導く 道場の同行の人たちに仏の道を勧めいざなう みなさん、努めて回心(心をひるがえ)して仏を信じ ひたすら専修念仏せしめられれば 瓦礫変じて黄金とせしめられる 今ここにこうして集(つど)う大衆に告ぐ 同じ仏縁で結ばれた先人がこの世を去ったならば その人の跡を速やかに尋ねようではないか どのようなところを尋ねて去(いこ)うとするのか 報(こた)えて言おう、弥陀の浄土の世界へだ 問う、どうすれば弥陀の浄土に往生できるのか 答える、念仏が自ずから浄土への道を開く。 問う、生きるのに随分罪を造った どうして浄土へ生まれることなどできようか 答えていわく、仏を信じて、その名を称すれば罪は消滅する たとえば暗黒を照らす明るい光のようなものだ 問う、この罪多い凡夫が浄土に生まれることなどできるのか どうして一度の念仏で暗闇を完全に明るくすることなどできるのか 答えていえば、疑いを除いて多く念仏すれば 弥陀は必ず自然に親しく摂取し給うと 以上要点を述べた 『新無量寿観経』による (法照) <十悪・五逆極まりない愚人 永劫に煩悩に沈んで止むことなくとも 弥陀を信じて、その名を称して浄土に至れば 間違いなく仏になれるのだ>」 |
| 【HP作成者感想】 先ず唐代の法照が編んだ『浄土五会念仏略法事儀讃』からの引文です。 この引文の最初に当然のことといえば当然、印象的といえば印象的なことが説かれています。 「如来が衆生を導かれる場合には広く詳しく説くか簡略に説くかは、 衆生の素質に随って決められる。これはどのような素質の衆生をも、 最後は仏の真実に至らせようというおこゝろだからである。 不生不滅のさとりを得た者に、そのような教えを与える必要はない。」 まことにそのとおりで、読下し古文では「広略根に随う」となっていますが「衆生の素質によって詳しく精妙に説くか、あるいは、そのように説いては余計にわからなくなるような衆生には、簡略に少々正確さが欠けてもわかり易く説く。」 これは浄土教における如来の説き方が方便を心得た説き方であることを如実に物語っています。方便という説き方が人々を真実にたどり着かせる優れた説き方であることを示しています。且つ又、浄土教の教えを受ける 対象が煩悩に満ちた衆生であることを物語っています。同時に、このことは賢・愚を問わず、この世しか認識できない人間という存在が方便によってのみ正しく導かれる存在だということを物語っています。『大無量寿経』はまさに この経が初めて説かれた一世紀前後の人々を仏の真実に導く方便の極致として説かれた経文であることを示しています。この方便の極致から見ても真のさとりを既に得ている者には、精妙・簡略いずれにも説く必要は無いということも、 方便として当然のことでしょう。そのことが、その次の、無上のさとりを得た釈尊が、その父ではあるが、まだ覚りとは無縁の浄飯王に、念仏の必要性を 説いていることをも象徴的によく顕しています。このことは煩悩の濁世に釈尊を、そしてその釈尊の覚りの結実である阿弥陀仏を浄土に、それぞれ出現させた浄土の真法であり、かりそめのこの世の賢・愚あわせた人類という 存在を一まとめに著わした九品すべての救いを、覚りの世界に導く浄土の教えでもあるということです。『歎異抄』第九条で唯円房が親鸞聖人に「念仏を称えても踊躍歓喜のこゝろが起らず、またいそぎ浄土へ 往生したいというこゝろも起こらないのはどうしてでしょう」と師の親鸞に思い切って尋ねた時、親鸞は、私も同じで、そのような煩悩のこゝろから抜け出られない者をこそ、弥陀は救いの対象とされるのだ。」、「踊躍歓喜のこゝろも充分あり、 急いで浄土に往生したいなどと思える人には煩悩が無いのではないかと、不審に思うのだ」と、煩悩の感覚もなく、自分こそ浄土へいつでも行けると思っているような人を如来は救いの対象とはしない。」と答えています。 この親鸞聖人のことばこそ、本願念仏の浄土の教えの真髄を語って居られるということがわかります。 また 『般舟三昧経』による唐代の僧 慈愍の偈で <今ここにお集まりの人々よ お互いが永劫の過去から 無数の因と縁たる縁起を重ねて 今ここに、こうして居るのだ このようにして人の身となったことは お互い無上に得難き存在ということだ たとえば優曇華がはじめて開くがごとし まさしく浄土の教を聞くことができるのは 稀にして、この上なき幸運(しあわせ)と いうものだ まさしく念仏の法門が開かれるに出遇ったのだ まさしく弥陀の弘誓が喚びたまうに出遇ったのだ この慈愍の偈を読みますと、まさに、今ここにこうして日々を生きている私たちですが 永劫の過去、いうならば138憶年の昔である宇宙創成の過去からの因と縁、すなわち縁起の集積によって今、ここに、こうして存在していることを考えると 私たち現代人の一人一人が無上の得難き存在として、ここにこうして生きている。煩悩の雲に覆われた存在であるといいながら、かくもまれなる存在として 貴重な生をいきる自らを考え、さらに優曇華がまれの極致として花を開かせるのとおなじく、まれなる浄土の教えを聞くことができたという幸せを考えれば ここに脈々と仏の教えが息づいていることを感じないではおれないということです。 このように感動的な文章を含めて、今回の親鸞聖人の引文は基本的に浄土念仏「南無阿弥陀仏」の讃嘆であるとともに、それらは いずれも法蔵菩薩の誓願成就、そしてそれに基づく弥陀の衆生救済という『大無量寿経』の基本思想が脈々とその底に流れているということでしょう。 今月はこれにて終ります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文13
「はじめに」今月も先月に引き続いて七高僧以外の仏教者の大行讃歎の文を引文されています。各項目とも比較的短い引文が続きます。それでは以下読みはじめたいと思います。 |
| 【読下し古文】 【33】 |
| 【現代意訳】 【33】憬興師(新羅 の人、法相宗 の 僧) が『大経』の注釈書『述文讃』で「釈尊が広く説かれた『無量寿経』は前後で二つの内容に分かれている。初めの方は 阿弥陀仏の浄土の因果、すなわち法蔵菩薩の願と行の成就が説かれ、後半は広く衆生の往生の因と果、すなわち阿弥陀仏が衆生を摂取され、お救いになることを顕している。」と説いている。 【34】 また『悲華経』の<諸菩薩本授記品。>で<その時に宝蔵如来が後に阿弥陀仏となられる転輪王を褒めたたえて≪まことに善いことである。(中略)大王よ、西の方角を見ると 百千万億の仏の国を越えたところに一つの世界がある。「尊善無垢(汚れなく尊き善の世界)」と名付けられている。その世界に仏が居られ「尊音王如来」と名付けられている。(中略) 今、現在、 諸々の仏道を求める菩薩のために正法を説いて居られる。(中略)穢れなき純一の大乗の法で異物の雑じるところがない法である。その中の衆生は皆平等に浄土に生まれる。 またその世界に 女人は居らず、その名前もない。その世界は素晴らしく穢れなく清浄そのものである。ことごとく大王の願いのとおりで異なる所がない。(中略)、いま、あなたの名を改めて「無量清浄」 としよう≫>といわれた。 『無量寿如来会 上』に<広大でこのような大弘誓願を発(おこ)して、みな既に成就された。この世では稀なることである。 この誓願を発(おこ)し終って真実の世界に住んで、さまざまなな功徳をもって 優(すぐ)れた徳に満ちた清らかな仏の世界(浄土)をととのえられた。>と説かれている。 【35】 『述文讃』に、また「福徳」と「「智慧」の二つの功徳を成就されたので、まことに懇切に(つぶさに)、平等に、 衆生に行を施し与えられたのである。自らの修めた行によって衆生を利益(りやく)され それによって衆生が功徳を成就できるようにされたのである。 【36】十劫(永劫)の過去の法蔵菩薩の誓願成就の因によって、私たち衆生は仏に出遇い、仏法を聞いて慶ぶことができるのである。 【37】また同じく『述文讃』に「そこに住む人々は皆聖者であるという浄土はまことに妙(たえ)なる国である。だからこの国に生まれるために皆力を尽くすのである。如来によって与えられる全てをもって 浄土に生まれることを願え。衆生救済のために善なる四十八の誓願を建て、そしてそれを既に成就されているのである。どうして自ずとその成果が衆生に顕れないことがあろうか。だからこれを自然(じねん)という。 身分の貴賤を簡ばず、みな浄土に往生ができるのだ。ゆえにこれを「著無上下(明かに上下なし)」というのだ。」 と説かれている。 【38】 また、同じく『述文讃』で「浄土は来る者は拒まない国であるのに、往き易くして人無しといわれている。これは煩悩のせいで、「この世が全て」という心があるためである。南無阿弥陀仏と念仏することにより 浄土へは自ずから牽かれるように行くことができる。往生の因である念仏を行ずれば、まちがいなく往生できる。念仏を行じなければ生ずることは難しい。念仏を行じて浄土に生まれる者の願いは必ず叶えられる。 だから「易往(いきやすい)」のである。」と説かれている。 【39】 また同じく『述文讃』で「<本願力の故に>というのは、浄土に生まれることができるのは、法蔵菩薩が衆生救済の誓願を成就され阿弥陀仏となられた結果で、それを本願の力だというのだ。 <満足願の故に>ということは、願いとして欠ける所が無いということである。<明了願の故に>というのは阿弥陀仏がこの願いを懸けられるわけは明了であるが故にということである。 <堅固願の故に>というのは、本願はどのような縁にあってもそれによって壊れるということがないからである。 <究竟願の故に>というのは必ず果たし遂げられる願であるということである。」と説かれている。 【40】 また同じ『述文讃』で「要するに、これらの浄土往生讃歎のことばは、凡夫をして浄土往生を願わしめようと思うが故に、すべからく如来が彼(か)の土すなわち極楽浄土が素晴らしい所だと衆生に心得させるが故に ということを顕しているのだ」と説かれている。 【41】 また同じ『述文讃』に「すでに<この娑婆世界で菩薩の修行をした。>と云われている。すなわち法蔵菩薩はこの娑婆世界に居られた。 後に釈尊となられた宝海梵志(修行時代の釈尊)もこの世界に居られたのである。」と述べられている。 【42】 また同じ『述文讃』に「仏の無限の徳を聞き信じたが故に多くの菩薩は不退転の心を得たのである。」と述べられている。 |
| 【HP作成者感想】 今月は【33】から【42】まで親鸞聖人は7世紀後半に朝鮮半島新羅の国で法を説いた憬興師の著『述文賛』を中心に引文しておられます。『述文讃』とは詳しくは『無量寿経連義述門賛』のことで『大経』の注釈書です。 これら引文全体は当然のことながら阿弥陀仏と浄土を讃歎し、法蔵菩薩の誓願成就を因として阿弥陀仏の本願力によって衆生往生が成就されることを強調する文になっています。中でも興味深いのは 【38】で「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽 (往き易くして人無しというが、浄土は来る者を拒まず、水か高所から低所に流れるように往生を望む者が自然に落ち着くべき所だ)」として、親鸞浄土教でいえば浄土は法蔵菩薩の誓願という因を信ずれば たちまちに仏のはたらきで往生できるが、この「信」がなければ生まれることはできないと説いています。このことは現代においてもまったく同じで、いやむしろ現代のような更なる末法の時代ではなおのこと「易往而無人」は 大きな壁になっているようです。現代においてこそ、自らの有りようを振り返って、永劫の過去からの仏という大いなるいのちのはたらきに出遇わせていただく必要があるのではないでしょうか。 さて、今月の一連の引文で説かれている浄土に生まれるということ、救われるということとは一体、具体的のどういうことなのでしょうか。これはやはり自らの「無明」から救われる。つまり、いったい自分とは何者なのか、 生きて死ぬということはどういうことなのか、何もわからない自らの有りようを、親鸞浄土教的には阿弥陀仏という大いなるいのちのはたらきに摂取されている自分に気付かせていただき南無阿弥陀仏と合掌させて いただければ、 という事ではないかと思うのです。皆さまはどのようにお考えになるでしょうか。 今月はこれで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文14
「はじめに」あらためて申し上げますが、私たちは、『教行信証』の行文類を読み進めているわけですが、この行の巻の『大経』にはじまり、龍樹、曇鸞、道綽、善導とつづく念仏讃嘆の文を読み終えた後、現在はそれ以降の諸師の念仏思想について読み進めています。今月、親鸞聖人は、まず【43】で中国は宋代の書物『楽邦文類』に記されている総管の張掄という人物の思想を紹介されています。総管とは現代でも警察のトップを警視総監というように、このひとは軍隊の司令官で、俗人であったという事になります。しかもほゞ親鸞と同時代の中国人というわけですから、その思想に注目すべきところがあります。また、その次の【44】は中国大陸の山陰という地方に住んだ慶文法師という方の文章で、この人の出自は不明ですが、この人の思想を世に紹介したのが、同じく中国の元照(がんじょう、1048-1116)という律宗の僧ですから山陰の慶文法師は少なくとも元照と同時代の人、随って法然・親鸞の時代より少し前に生きた人でしょうか。その思想の特徴はやはり『大経』における法蔵菩薩の衆生救済の誓願にその信仰の立脚点を置いているところでしょうか。皆様のご査読を待つところです。 |
| 【読下し古文】 【43】 『 |
| 【現代意訳】【43】『楽邦文類』という書物<南宋の宗暁しゅうぎょうが、慶元六年(1200)に西方浄土に関する経論の要文などを集めた文集> でいわれている。「総管の張掄(生没年代不明、南宋(1126-1276)の人、軍の司令官であると同時に念仏を尊んだ仏教者)が言っている。<厳しい修行と戒律の仏教と違って仏の名号は大変保ち易く、浄土に生れることも容易である。
八万四千を数える膨大な法門の中で浄土のさとりの世界へは大変往き易い近道である。まことに朝から晩まで世事ばかりに没頭するのをやめて究極の永遠不滅の宝をたくわえるべき仏事にたずさわるべきである。このことは
僅かな力で、永遠の尽きない功徳を得ることができる。衆生は一体何が苦しくて、このようなすばらしい教えのもとに生きようとせず、それを捨てて顧みようとしないのか。あゝ、この世の生は夢幻にして真実ではなく、
寿命は、はかなく、永く保つことができない。まるで一呼吸の間に終ってしまう無常のいのちだ。一たび人身を失ってしまえば永遠に元にもどらない。今、仏の無限の教えに目覚めなければ、仏としても、このような衆生をどうすることもできない。
願わくば、深く、この無常を観じて、いたづらに後悔を胎(やど)すようなことのないようにしなさい> と、念仏の居士たる張掄は仏の道をあゆむことを勧めている。 【44】 台教の祖師である中国大陸の山陰という地方に住む慶文法師(慶文は天台の流れを汲む天台傍系の仏教者であるが、正系の天台僧ではないので天台宗とか台宗とかいわずに台教と表現されている)が言っている。<まことに仏の名号は真実の法身、 真実そのものの仏が建立されたものであり、海のような大慈悲から建立されたものであり、仏の衆生救済の誓いから建立されたものであり、仏の智慧の海から建立されたものであり、真如の法の海から建立されたものであるが故に、だからたゞ専一に一仏の名号(南無阿弥陀仏)を称えれば、全ての仏の名号を称えることになる。その功徳は無上のものであるから、人生の不条理を消滅させる。そして大いなるいのちである浄土に生れさせてくださる。よくよく考えれば疑いを起こす余地は無いのだ。> と。 |
| 【HP作成者感想】 浄土念仏行を説く親鸞聖人の今回の引文は、まず念仏浄土教の功徳を説く念仏者、総管の張掄の珠玉のことばです。上の現代意訳でも述べていますように、張掄は、軍の司令官にもあたる職業をもった世俗の人です。世俗の念仏者であるが故に、かえって此の人の言葉にはその一つ一つが私たち世俗の人間の思考形態に共通するところがあるのでしょうか、私たちの胸を打つ要素があります。まず彼は言います。「仏号はなはだ保ち易し、浄土はなはだ往き易し、八万四千の法門、この捷径にしくなし。たゞよく清晨俛仰(せいしんめんごう)の暇(いとま)を輟(や)めて、つひに永劫不壊の資(たすけ)をなすべし。これすなはち力をを用(もち)ゐることは、はなはだ微にして、功を収(おさ)むること、いまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあれあばか、みづから棄てゝ、せざらんや。」、すなわち、どうしてこのように優れた浄土の教えがあるのに、何ゆえに、これを捨て去って、このすばらしい教えに生きようとしないのかと慨嘆しています。そして、このように張掄をして言わしめたのは、この後の張掄のことばにあります、「あゝ、夢幻にして真にあらず、寿夭(じゅよう)にして保ち難し、呼吸のあひだにすなわちこれ来生なり。一たび人身(にんしん)を失いつれば万劫にも復せず。」、このことばこそ人間共通の生の不条理を如実に顕しています。この不条理こそ仏の力をいただかなくては、いかに科学が進んでも解決しないことでしょう。そしえ張掄は言います。「この時、悟らずは、仏もし衆生をいかゞしたまはん。」 今、このことを解決しなければ、いつするのか。これはすなわち、今、仏に遇わなければいつ遇うことができるのか、生きている今こそ仏に遇い、仏によって、仏と一体にしていただかねば永遠にこの不条理は解決しないだろうということです。そして張掄は最後に「願わくば、深く無常を念じて、いたずらに後悔を胎(のこ)すことなかれ」と結んでいるのです。まことに仏のない世界の無常で不条理のありさまと、それに対する救いの道を張掄は見事にここで説いているのです。ちなみに総管の張掄という人は南宋(1127-1279年)の人であります。この年代は何と親鸞聖人の生きられた時代とほとんど重なるではありませんか。この同時代の張掄の論文を親鸞聖人は引文として『教行信証』に載せておられるのです。750年も過去の鎌倉時代に、なんと速い情報伝達の事実があったことに驚かされるばかりです。 さて【44】に移ります。今度は中国大陸の山陰に住んだ慶文法師のことばからの引文です。この慶文法師という方の生没年代は不明ですが、このあとに登場する元照律師という法師が、【49】において上の慶文法師が書かれたという「正信法門」という書物を紹介しているところを見れば、親鸞聖人と同時代の人とは言えないでしょう。ちなみに元照律師の生没年代は(1048-1116年)となっていますのでこの元照律師より前の人という事になります。いずれにしてもこの人は 「浄土念仏の教えの中心である仏名すなわち名号は仏の真実に応じて現われた姿であり、仏の慈悲の姿であり、仏の誓いによって顕 れた真実であり、仏の無限の智慧によって建立されたものであり、無数の法門の世界を経て建立されたものであるから、もっぱら阿弥陀一仏を「南無阿弥陀仏」と称えれば、その他のすべての仏の名を称えたことになる。そのように無限の功徳をもった名号であるから、それを称えることによって、かならず煩悩の罪や、さわりを滅することができるので、決して疑いを生ずることがないのだ」と結論しています。このことは、すなわち浄土教における法蔵菩薩の誓い、そしてその誓いが成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏という仏となられた、その仏の本願力がすべての衆生の不条理を解決して、衆生を浄土に生れさせるのだということを固く信じた人が、この山陰の慶文法師であったことを物語っています。 今月はこのあたりで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文15
「はじめに」 今月から中国は北宋の時代の念仏者 元照(1048-1116)の浄土思想について学びます。 元照ははじめ戒律を重んじる律宗の僧でしたが、自らの重病が契機になり、人生の生死の問題を強く意識するようになり浄土教に帰依し、それ以来、戒律と浄土教の研鑽と教化に励んだとされています。
親鸞聖人はこのあとしばらく元照関係の文献から引文して居られ、私たちもその思想を味わっていきたいと思います。 |
| 【読下し古文】 【45】 |
| 【現代意訳】【45】 律宗の祖師 元照がその著『観経義疏』で「今、言うべきことを言おう。 われらが大いなる慈悲の仏 釈尊 は浄土の教えを 丁寧に 普(あまね)くお示しになり、もろもろの大乗の教えをお勧めになっている。ところがこれを目に見、耳に聞いても、ことさらに疑いと、謗(そし)りを生じ、この世がすべて、自分がすべてと迷い果てて、それを超えた偉大なさとりにいたることを慕(ねが)わない人々がいる。
釈迦如来はこのような人々を憐れんで、仏の世界を説き示されたのである。これらの人々はまことに、この法門が特別に常を超えた教えであることを知らなかったからである。すなわち、人々を賢愚によって区別せず、僧であるか俗人であるかも区別せず、
修行を積んでいるか積んでいないかを問題とせず、過去に作った罪の軽重を問わず、唯々ひたすらに決定の信心があるかどうかで浄土往生がきまるのだ」と言っている。(以上) 【46】 また同じく『観経義疏』で次のように言っている。「いま浄土の諸経にはどれもみな悪魔のさまたげなどということはいっさい説かれていない。すなわち、このことは、この浄土の法門では悪魔のせいだとか魔物のしわざだということはいっさい 言わないのだ。中国大陸の山陰に住む慶文法師の『正信法門』がこれを、大変詳しく論じている。今、そのために、くわしくこの問答を引用例示して言ってみよう。<ある人が云うのに《臨終に仏や菩薩が光を放って蓮の花の台座を持って現れるのを 見たてまつり、その時清らかな天の音楽が鳴り響き、妙なる香りが漂って仏の来迎にあずかって浄土往生する》といったことは皆、魔物の仕業(しわざ)だという、このようなことはどう受取ればよいのかと>。この問いについて答えてみよう。『首楞厳経』に よって瞑想(三昧)の修業をする際に、ときにはその人内部に心理的な魔物が現れることがある。また『大乗起信論(摩訶衍論)によって瞑想(三昧)を修(おさ)めるとき、ときには、外部から天魔が現れることがある。また『摩訶止観』によって瞑想(三昧)を修めるとき 老少、男女、鳥や獣になって魔物が現れ修行者を魅惑し修行を妨げるといったことがある。これらはみな自力によって三昧を修するという点に焦点をあてると、そこに魔の忍び寄る原因があることがわかる。どうしても自分の力で修行を完成せねばならない というあせりが魔物を自分の中で作り出す原因となるのである。この点をよく心得て対処すれば、速やかにこのような魔を除くことができる。自分の力で聖者になったなどと思い上がると、そのとたんに魔の障りに取り憑かれるのだ。 以上、このような自力によって 悟りの道へ入ろうとする場合のことを明らかにした。つまりこのような自力の修道に魔物が付きまとうのだ。 ところで今、この念仏による三昧ということについていうと、衆生が仏の無限の力をたのむということであり、したがって魔物たちをも自分の家来にしている帝王の近くに衆生が居れば魔物たちも近づけない道理だ。 阿弥陀仏というのは、けだし仏の慈悲の力、 仏の誓願の力、仏の智慧の力、仏の統括の力、仏の邪悪を打ち砕く力、仏の魔物を引き降ろす力、無限に遠くのものを見ぬく力、無限に遠くの音を聞く力、すべての存在の心を読む力、 光明あまねく照らし、衆生を摂取する力、これらのすべてをお持ちに なっているが故にこのような不可思議のはたらきがあるのだ。どうして念仏の人を護っていのち終る臨終の時に、もろもろの障りがないようにすることができない ということがあろうか。もしお護りになれなかったなら、阿弥陀仏に慈悲力があるといえようか。 もし魔物の障りを除くことができなかったら無限の智慧の力、三昧の力、無限の威力、邪悪を打ち砕く力、魔物を降伏させる力など、 どうしてお持ちになっていると言えようか。もしこれらを見届ける(観察する)ことができずに魔物の障りを被(こう)むるような ことがあれば、無限の遠くを見通せる力、無限に遠くの音を聞く力、全ての存在の心を読む力が どうして阿弥陀仏にあるといえようか。《阿弥陀仏そのものから発する光明があまねく全ての世界を照らし、そこにいる衆生を摂取してお捨てにならない。》と『観経』に いわれている。もし念仏して臨終に魔物の障りを被ったりすることがあれば、 仏には、その光明が普く衆生を照らして摂取する力がありますとどうしていえようか。いわんや念仏の人が臨終の時に仏が来迎されるという事は、多くの経に出ている。みなこれらの 『経』のことばは仏に言葉である。 どうしてこの来迎が魔物の仕業だということができようか。今、その爲に、そのような間違った疑いをきっぱりと打ち破った。今や正しい信心が衆生の心の内に生じるべきである。(以上は慶文の『正信法門』に書かれている 文である。) |
|
【HP作成者感想】今月の【45】と【46】の引文は元照の著書『観経義疏』からの引文です。まず【45】で「浄土の教えを信じようとせず、 疑いと誹謗に満ちて、この世のみに未練を持ち、この世を超えた仏の世界を慕(ねが)わない衆生を憐れんで、釈尊は、大乗経典である浄土三部経(『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)で懇切に仏の世界を説き示された。そして【45】の古文や
現代意訳をお読み頂けばおわかりのように、この教えこそ、人の賢・愚を問題とせず、僧であるか俗人であるかも区別せず、ましてや仏道修行の長短も問わず、犯した罪の軽重をいわず、ただ人が人たることによって救われる道はただ一つ。
それは信心があるか、ないかによってきまるのだということを、親鸞聖人は元照の著『観経義疏』からの引文によって示されています。この引文を読むと、念仏行が主題である、『教行信証』の行巻において、念仏をさしおいて信心が往生の要因(因種)
であることを強調している点です。それならこの引文は行巻ではなく信巻において採用されてもいいはずなのですが、これをどのように考えればいいのでしょうか。親鸞聖人はこのような元照の文を、どうして行巻の引文とされたのでしょうか。よく考えてみますと、これらはみな自力によって三昧を修するという点に焦点をあてると、そこに魔の忍び寄る原因があることがわかります。
念仏行とは称名念仏と考えてもいいでしょう。称名念仏とは「南無阿弥陀仏」を称えること。「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀仏に帰命するということ、すなわち阿弥陀仏に帰ること、阿弥陀仏に一体となること、このことを信じることが信心であることを
考えれば、信の心からは自ずと「南無阿弥陀仏」の声が漏れ出るということになります。これが行巻の引文に往生の要因(因種)が信心を置いてほかにはないということが親鸞聖人による引文となったのではないでしょうか。 今月はこのあたりで終わります。 |
|
『顕浄土真実教行証』行文類本文16
「はじめに」前回の【45】、【46】は元照律師の『観経義疏』からの引文でしたが、今月は同じ元照律師の『阿弥陀経義疏』からの引文です。どちらも「義疏」でありますから『観経』および『阿弥陀経』の註釈書として、念仏行の徳を讃歎したものです。来月以降もしばらく元照の義疏からの引文が続きます。それでは今月の念仏行讃嘆の引文を読み進めることにいたしましょう。 |
| 【読下し古文】 【47】 また |
| 【現代意訳】 【47】また、元照律師の『弥陀経義』の文において「一乗教(大乗の唯一無比の教え)の究極の拠り所は阿弥陀仏の浄土である。 あらゆる行の円やかに修まるところは何といっても名号に勝るものは無い。 阿弥陀仏は菩薩(因)の時から真実の心をもって願を建てられ た。そのこころざしを守って修行し無限の時間にわたって衆生救済の慈悲のこころを懐かれた。 芥子粒ほどの小さな衆生の苦難にも捨身の心をもって臨まれた。 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの慈智(六波羅蜜)を教化して余すところがなかった。自らの心身をもって、さらに物施を衆生の求めに応じて必ず施された。 機が熟し縁が生じて行が満足し、その成果(功)が現れ(満じ)、一時(いっとき)に円(まどか)に法身・報身・応身の徳(三身の徳)が証(あらわ)れ、無限の徳が阿弥陀仏の四字に彰(あらわ)れた。」といわれている。 【48】 また次のようにいっている。(阿弥陀経義疏) いうまでもなく、わが弥陀は名号を以って衆生(物)を摂取し給う。この故に(ここをもって)名号を耳に聞き、口に称えれば無限の聖なる徳が衆生の心に入り満ちて永く成仏の種(因)となって速やかに永劫の過去の因縁による 罪が除かれて無上のさとりを間違いなく獲得する(獲証)。まことに知ることができる、これは少々の善根ではなく無限の功徳なのである。 【49】 また阿弥陀経義疏に 「正しい浄土の教えでは、凡人の臨終には、その心には仏心が入っていないので、平生の善悪の行為を因とする心の乱れが生じないわけがない。場合によっては悪念を起こしたり、よこしまな見解が起ったり、 あるいは愛着の執心が起こり、あるいは狂乱状態を示すこともある。これらはみな迷いの果ての状態と名づけざるを得ない。常々その前から、名号を称える心になり、永劫の因と縁による罪障を仏の力によって滅せられ、仏のはたらきが 身の内に納まり、外からは慈光に摂せられ、苦をまぬがれ、真実の楽を得ることがほんの一瞬で成就する。阿弥陀経(小経)は、この後の文で、まさに発願して浄土に生まれることを勧めている。だから諸々の利益(りやく)はこの小経に 説かれているのである。 |
| 【HP作成者感想】 先ず今月の最初【47】では仏に成る唯一の教えである一乗教の究極の功徳も浄土に往生し阿弥陀仏と一体となって仏に成ることを指し示しています。そうして、仏道修行のすべての行が円(まどか)におさまって、もっとも勝れているのが 弥陀の名号であるというのです。何故でしょうか。 【47】では、まずこのことが論じられなければなりません。ところで【47】の最後のあたりでは名号を阿弥陀仏の四字で表わしています。親鸞聖人は名号を「南無阿弥陀仏」あるいは「帰命盡十方無碍光如来」ともあらわされています。南無とは帰命、還ること、何に還るか 尽十方無碍光如来であるところの阿弥陀仏に還る、すなわち絶対無限の大いなるいのちに還るという事です。私たちが今ここにこうして在る根源のいのちに還るということです。「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」はそのような意味合いがありますが、この【47】でいわれている直接に「阿弥陀仏」の四字であらわされる名号との関係はどのように受取ればいいのでしょうか。私は次のように考えます。阿弥陀とは梵語でアミタ―と表され無限のいのちを感得した時の人間の大いなる感嘆のことばと捉えていいと思いますから、阿弥陀仏の四字の名号にも南無や帰命の意味がそのまま備わっていると考えていいものと受取っています。このようにいずれも無限のいのちと一体となると考えて喜びに満ち溢れれば、自ずと口に名号が顕れ称名念仏 になるでしょう。すなわちすべての行の徳を円(まどか)におさめているのが名号を称えること、すなわち称名となるだからです。このことを、法蔵菩薩が衆生救済の誓願を発し、五劫思惟の修行の結果、阿弥陀仏という仏に成り、その本願力により全ての衆生をこの世の不条理から救い 挙げようとする如来の慈悲に結実していることを象徴的に物語っているの四十八願中の第十八願だと思うのです。 名号の無限の功徳と弥陀の本願力とのかかわりを、この【47】の元照が説く『阿弥陀経義疏』からの引文の意味もここにあるものと考えます。 次に【48】においても、そのような無限の徳をもった名号のいわれを聞き、口に称えることによって仏のいのちに生きることができるようになれば、永劫の過去から背負ってきた自我中心の煩悩の罪の世界から解放されるということになります。 【48】の引文は、まことにこのことは煩悩の世界を生きる衆生にとって少々の功徳といったものではなく無限の徳が成就されると述べています。 【49】ではこのように名号のいわれの無限の徳をいただく正しい浄土教から見ると、いまだその徳を与えられない凡夫が臨終を迎えたとき、その凡夫の中に南無阿弥陀仏という心の主(あるじ)がないため平生の善悪の行ないが原因となり 色々な思いが交錯して、こんなはずではなかったと邪悪な心が起こったり、物心両面の愛着から解放されず、挙句の果ては狂乱状態になり、大いなるいのちにいきる仏のこころとは真逆の顛倒した心の状態でいのち終るということになりかねない。 このようになる前かに、名号の徳をいただき、自我中心の心から遠ざかり、内外ともに仏に摂取された心が起これば、自ずと称名がその人の口から漏れ出ることになり、一刹那で罪障が除かれ苦を脱(まぬ)がれ、心の平安を得るようになる。そして最後に「下(しも)の文に生を勧む」とあります 「下の文」とはどのような文なのか、調べてみましたところ、これは本願寺出版社発行の註釈版の中の『阿弥陀経』【5】の最後のあたりに「舎利弗(しゃりほつ)、 もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)ありて、 阿弥陀仏を説くを聞きて、 名号を執持(しゅうじ)すること、 もしは一日(いちにち)、 もしは二日(ににち)、 もしは三日(さんにち)、 もしは四日(しにち)、 もしは五日(ごにち)、 もしは六日(ろくにち)、 もしは七日(しちにち)、 一心(いっしん)にして乱れざれば、その人、 命終(みょうじゅう)の時に臨(のぞ)みて、 阿弥陀仏、 もろもろの聖衆(しょうじゅ)と現(げん)じてその前にましまさん。 この人終(おわ)らん時、 心(しん)顛倒(てんどう)せずして、 すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得(う)。」とあります。【49】の元照律師の『阿弥陀経義疏』からの引文は、この『阿弥陀経』【5】の最後のあたりの文章と同じことを説いているわけですが、その後に「舎利弗(しゃりほつ)、 われこの利を見るがゆゑに、 この言(ごん)を説く。 もし衆生ありて、 この説を聞かんものは、 まさに発願(ほつがん)してかの国土に生るべし。」と説かれています。この文が【49】の「下の文」を指して、その利ここにあり」としているわけです。 いずれにしても、名号のいわれを聞いて、名号「南無阿弥陀仏」あるいは「帰命尽十方無碍光如来」とは私たち他力によって生きる衆生が、今ここにこうして在ることの根源である無限に大いなるいのちに、今も摂取され、やがていのち終ればその根源のいのちに還ることなのだと、気付かされることが、私たち衆生の真の開放であり、救われることなのだなということであると、私「HP作成者」は考えています。 今月はこのあたりで終わります。 |