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『顕浄土真実教行証』信文類本文29
「はじめに」 先々月以来、衆生が根底から救われる道、すなわち生死出づべき道は法蔵菩薩の誓願と五劫にわたる修行によって果たされた生起本末の宗教的真実を聞くことによって信じる、すなわち如来回向の大信心に摂取されるということによって法然・親鸞浄土教は成り立つことを説かれてきました。そして、曇鸞の論註からの引文によれば、この衆生の大信心は如来回向の大菩提心であり、大菩提心は願作仏心であり、願作仏心は度衆生心であり、これを横超の金剛心というと説かれます。そして、このような大菩提心を発(おこ)さずして、ただ浄土の安楽のためだけに往生を求めるならば、これは果たされないだろうと警告されます。さらに元照律師は、『大経』の如来回向の念仏は易行でありながら、この末法悪世にも関わらず世間の常識に照らして、考えも及ばないような稀有なる無上の果報をもたらす、このことが、かえって世間甚難信であること。そのほか律宗の用欽は易往而無人を説き、『楽邦文類』も「浄土を修するもの、つねに多けれども、その門を得てたゞちに造(いた)るものいくばくもなし」と、その難信のありさまを説いています。このような「世間甚難信」といわれる如来回向の大信心が我々衆生に、どのように顕れるか、その有様を「信の一念』の事実をもって我々に示されたのが先月冒頭の親鸞聖人のことば「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。 一念とはこれ信楽開発の時剋(じこく)の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」であります。このことばをじっと窺(うかが)うと、これは、どう考えても親鸞聖人ご自身の体験から語られていることばであると言わざるをえません。すなわち比叡の山で、 ひたすら聖道門の修行と常行三昧堂における不断念仏行に励まれた聖人ですが、どうしても生死出づべき道に出遇うことができず、悶々とした長い日々を過ごされた結果、同じ比叡の山の聖覚法印の導きがあったのか、または比叡の山にも漏れ聞こえてくる法然上人のうわさに導かれたのか定かではではありませんが、その声に促(うなが)されて山を降り、六角堂に百日参篭の中で九十五日目の暁に、聖徳太子の示現に接して、 一も二もなく法然上人の膝元に馳せ参じたところ、親鸞の妻、恵信尼が『恵信尼文書』に書いているように、法然上人は「たゞ後世のことは、よき人にも、あしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、たゞ一すじに説かれている」のを聞いて、 無上の宗教的真実に出遇って、法然上人の進まれる道であれば、たとえそれが悪道であろうとも、つき従っていこうというこころに衝き動かされ、上人の説かれる教えを一語一語をも聞き逃すまいと聞くなかで三願転入の結果「一念の時剋の極促」に弥陀迴向の信心に満たされた、そのようなまざまざとした体験から語られたことば、これが「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。 一念とはこれ信楽開発の時剋(じこく)の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」ということばであったのではないでしょうか。したがって、親鸞聖人のこのことばは決して単なる知識の披露ではなく、それまで知識の上ではよくよく承知していたが、理屈の上(いわゆる自力)では到底信じることのできなかった法蔵菩薩の誓願成就の由来と、その結果の本願力回向によって、突如、一念という時剋の極促の内に親鸞自身が弥陀の摂取のまっただ中にあるという真実への信に目覚めた、その体験が、この「信楽開発の一念の時剋の極促」ということばに顕されているものと考えます。 このあと、『教行信証』は、この信一念を証する文として『大経』と『如来会』の第十八願成就文、同じく『大経』下の「その仏の本願の力、名(みな)を聞きて往生せんと欲(おも)はん」という文、『如来会』の「仏の聖徳のみ名を聞く」、涅槃経の聞不具足の誡め、そして最後に光明寺の和尚(善導)の「一心専念」「専心専念」の文を引文して一念の信心(すなわち「聞」)開発(かいぼつ)の証とされました。 さて今月は、以上の流れの中で【65】において親鸞聖人は「聞」即「信」の義、一念の如来回向の「信」。そして金剛の信を獲得すれば現生十種の益(やく)の中に生きることができる、その一々について説いていかれます。それでは今月の【65】以降の読みに入りたいと思います。 なお、今月から【現代語訳】と題していたのを、もっと適切な意味を含んで【現代意訳】と題することにしました。 |
| 【読下し古文】
<『大経』下の本願成就文において云われる「聞(もん)=聞く」とは、「信心」とは、「歓喜」とは、「乃至」とは、「一念」とは、どのような意味をもつか> 【65】 しかるに『 <金剛の真心を獲得すれば現生に十種の益(やく)が顕れること> <語釈>
[1]仏願の生起本末:仏が衆生救済の誓願を発(おこ)し、更にその誓願が成就され現に我々衆生を生死の苦海から救い上げつゝあること。 [2]貌(かおばせ):かたち、外にあらわれた様子。 [3]乃至といふは、 [4]清浄報土の真因:往生浄土のまことの原因。 [5]横(おう)に:通常の段階を踏まずに即の時(たちまち)に。 [6]五趣八難 五趣:五悪諏のこと、五道ともいわれ、地獄・餓鬼・畜生・人間・天の世界を表す。仏の世界ではない。 八難:八難処ともいい仏や、仏と全知識の説いた正法を見聞することができない八つの境涯。地獄・餓鬼・畜生の他、長寿天(長寿を楽しんで求道心が起こらない)、世俗弁聡(世俗智にたけて、かえって仏道に向き遇えない)、辺地(楽しみが多すぎてやはり仏道に向き遇えない)、仏前仏後(仏が世にましまさぬ時)など八つの道。 要は、五種八難の道とは娑婆世界の仏の世界から離れたいろいろな相のこと。 [7]冥衆護持:梵天・帝釈天・鬼神・閻魔王など眼に見えない諸天善神に護られること。 [8]至徳具足:名号の無上の徳が具わっているということ。 [9]諸仏称賛の益:真実信心を与えられた人が諸仏(釈尊を含む)に称賛されるという利益(りやく)。 [10]心光常護の益:阿弥陀如来に摂取され、その光明に照らされて常に護られる利益。 [11]知恩報徳の益:南無阿弥陀仏の恩徳を知り、常にその徳に報いようとする益。 [12]常行大悲の益:私たちは、常に大悲を行ずるというよりも、常に自我を行じながら生きている。そのような私が我を行ずるのではなく、仏恩を報じて人々を利益できるという行を行じることができるという利益。 [13]正定聚の益:現生において往生浄土の暁には永遠の命たる仏になれるという益。 |
| 【現代意訳】 <『大経』下の本願成就文において云われる「聞(もん)=聞く」とは、「信心」とは、「歓喜」とは、「乃至」とは、「一念」とは、どのような意味をもつか> 【65】さて、『大経』下の本願成就文において、「聞(もん)」というのは私たち衆生を生死の苦海から救い上げようとする仏の本願のいわれ(南無阿弥陀仏)を聞いて、まったく疑心がないということを「聞」というのである。 「信心」というのは本願力によって与えられた「信心」である。「歓喜」とは身と心がよろこびに充ちるすがたを顕す。「乃至」というのは称名の一念、多念のどちらをも摂して救おうというのである。また本願成就文における一念とは二心(ふたごゝろ)がないが故に一念というのであって、このことを一心と名づけるのである。一心こそ天親菩薩が浄土論で云われている「世尊よ、私は一心に無碍光如来に帰命し浄土に生まれることを願います。」といわれたように浄土に生まれる真実の因である。 <金剛の真心を獲得すれば現生に十種の益(やく)が顕れること> このように金剛の真実心を獲得すれば、たちまちにして、娑婆世界を超えて、必ず生きている間に十種の利益(りやく)を獲るのである。どのようなことをもって十種とするかといえば、一つには梵天・帝釈天・鬼神・閻魔王など眼に見えない諸天善神に護られること(冥衆護持の益(やく)。 二つには南無阿弥陀仏に込められた無限の徳が身に具わること(至徳具足の益)。 三つには衆生が罪悪の身を転じて善を成就することができる利益(転悪成善の益)。 四つには釈尊や、釈尊と同じように大いなるいのちの真実の中で生きた仏がたに護られる利益(諸仏護念の益)。 五つには、上のような仏がたに、わたしたちとこころを同じにする友であると称賛される利益(諸仏称賛の益)。 六つには、常に阿弥陀仏(心光)に摂取され見守られているという利益(心光常護の益)。 七つには、心によろこびが充ち溢れる利益(心多歓喜の益)。 八つには、如来の御徳を体験して、この御恩に報いる利益(知恩報徳の益)。 九つには、常の行動が自分のためだけの私が、他者と共に信心をよろこび往生浄土を願い働きかけることができる利益(常行大悲の益)。 十には、常に如来の大悲に摂取された身であるという不退の正定聚にはいる利益(正定聚の益)。 以上の十種の利益が信心の衆生に満たされる。 |
| 【HP作成者私考】 今月冒頭の「はじめに」の文でも述べましたように、今月は親鸞聖人の身と心に起こった如来回向の信心開発の「一念」の事実に基づき、その流れの中で、上記の『【65】しかるに「経」(『大経』下)に「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞(もん)というなり。「信心」といふは、すなはち本願力迴向の信心なり。・・・』の文は展開されます。これはたしかに『大経』下の始めの本願成就文「諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心迴向願生彼国即得往生住不退転」(諸々の衆生は大いなるいのちに帰するということを顕す名号のいわれを聞いたその時に仏の大悲が回向され直ちに往生し不退転の境地になる。)の中の「聞」の意義を説くところから始まり、続いて「信心」の意義を説くことに続きます。ここで思われることは、この【65】からの文章は、全体の位置づけとして、この時点で本願成就文の「聞」とか「信心」、そのほかのことばの本願成就文における意義を確認するとはどういう意味をもっているのかということです。これは毎回、確認せねばならないことですが、今回は特にそれが気になって、今月の冒頭の文章で先々月あたりからの、文章の流れを追ってみたわけです。それによってわかったことは、再び繰り返しますが先々月以来、大信心の無上のよろこびと共に、その一方で「易往而無人」といわれ、あまりにも世間的には考えも及ばない如来の無上の恩徳であるが故に、かえって信じることができない難信の教えであることを自らも、その体験をとおして同じ思いを持ち続けておられたのが、ほかでもない親鸞聖人であったこと。そこで、この難信の思いが、どのような経緯(いきさつ)で吹っ切れ、大信心の海のまっただ中に住することができるようになったのか、その横超の経験を述べられたのが【60】の「一念とはこれ信楽開発(かいぼつ)の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰(あらわ)すなり。」という文章だったのではないでしょうか。すなわち、親鸞聖人の信心開発のありさまを、まざまざと銘記されているのがこの【60】の文章であったのではないでしょうか。そして、その「信楽開発の時剋の極促」の場面が、何時(いつ)親鸞聖人に起こったのかは、これだけではわかりません。それは親鸞聖人が若き日、どうしても生死出づべき道に出遇えないまま、比叡の山から京都吉水の法然上人の庵に参じ、そこで法然上人が「よき人にも、悪しきにも、おなじように生死出づべき道をばただ一すじに仰せられている」その姿を見、その説かれる教えを聞いたときかも知れませんし、また、流刑の越後での心胆嘗め尽くしす苦難の日々の中なのかも知れません。あるいは、それよりもっと後の日であったのかもしれません。しかし、それが何時(いつ)なのかは分からずとも、親鸞聖人の身と心に大信心が開発(かいぼつ)された、その瞬間、いや時間ではなく、その時剋の極促をあらわしているのが、この【60】のわずか二行に充たない「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰わすなり。」という文章の中に表現されているのではないでしょうか。 このように如来回向の信心が、自らの中に開発したことの証として親鸞聖人は『大無量寿経』と『無量寿如来会』の本願成就文において、一念の信の有様を証し、また、それは、如来の名、すなわち南無阿弥陀仏の謂(いわ)れを聞くことにあると証されます。更にそのことから聞不具足を諫(いさ)め、「聞」の重要性を説き、【64】では善導の一心に称名し、専ら称名に専心して如来の法を聞くことの重要性を説かれます。 このようにして【65】では本願成就文「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念・・・ 」において「聞」とは、「信」とは、「歓喜」とは、「乃至」とは、「一念」とはの語義を一つ一つ説き進め、このようにして、如来回向の本願が衆生において成就すれば、五濁の娑婆にありながら、五濁を超えて現生に十種の益(やく)を獲得することを説き勧められます。 以上が【60】の信心開発の一念という親鸞聖人の体験にはじまる、一連の文章の流れの中での【65】の文章の立ち位置であります。そしてこの流れは更に来月以降【66】~【69】と続き三心とは一心、すなわち「大信心」であるとの親鸞聖人の【71】の結論に導かれます。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文30
「はじめに」 昨年11月のこのページの【54】において元照律師が『阿弥陀経義疏』が説かれたことに始まり【59】の楽邦文類の説くところに至るまで、ひとえに本願他力をたのみ、往生浄土を願う親鸞浄土教において、なんといっても「易往而無人」といわれるほど仏の本願を信じることが衆生にとっては「難信」であるという信心のありようを、親鸞聖人も体験的に、いやというほど味われていたのでしょう。それだけに【60】の一念の信という自らの体験をもまじえ、【61】では、その信の根源である『大経』や『如来会』の本願成就文に立ち返って「信」のありようを証されます。更には【62】では『涅槃経』において聞不具足が論じられているのを受けて【65】において「聞」とはどういうことか、それは衆生が本願のいわれを聞いて疑心あることなし、これがすなわち「聞」ということ、すなわち「聞」とは「信」の裏付けがあってはじめて浄土教における意味をもつものであると論じられます。 更に【64】には光明寺の和尚すなわち善導大師が「一心専念」といゝ、「専心専念」といわれたことを引文されます。 今月は、【66】において、この善導大師がいわれている専心専念ということについて説明される中で信心とはいかなるものであるかを更に転開し詰めていかれます。今月は、この部分を読み進めて行きたいと思います。 |
| 【読下し古文】
【66】 <語釈>
[1]一行:→ひたすら称名念仏の行一つによって往生浄土を成就すること。念仏爲本。 [2]「 専心」 といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば、 第十八 願成就 文)の「 一念」はすなはちこれ専心 なり:→現代意訳のこの部分をご参照ください。 [3]一心:→ひたすら二心(ふたごころ)なく仏願の生起本末(法蔵菩薩の衆生救済の願いの謂(いわれ))を信じること。 [4]深心(じんしん):→仏に等しい境地を自己の心中にあたえられること。大信心。 [5]深信(じんしん):→深く仏法を信ずること。理論的理解を条件としない信仰。ひとえに阿弥陀仏を信じること。 [6]無上上心:→この上もなくすぐれた最上の心(WikiArcの解説より)。他力信心のこと(真宗大辞典より)。 [7]真心:→他力の信心を指して真心という、何故なら信心獲得は如来のはたらきによるからである。 [8]相続心:→余念をまじえず阿弥陀仏だけを憶念する心が間断なく継続すること。 [9]淳心:→虚飾のない、まじりけのない心(仏教語大辞典)。本願名号のいわれを聞信して疑雲まじわる事のない信心<香月院深励> [10]憶念:→心に念じて保つこと。 [11]無量光明慧:→はかり知れない阿弥陀仏の智慧。 [12]願海:→阿弥陀仏の本願を海に喩えたもの。 [13]発心:→他力の信心。 [14]道(どう):→浄土のさとりへの道。 [15]大慈悲 :→仏の慈悲。仏に与えられた慈悲道。 [16]仏道の正因 :→浄土に往生し仏となる正因。 |
| 【現代意訳】 【66】宗師善導大師が「専念」といわれたのは、ひたすら称名念仏の行一つによって往生浄土を願うことである。また専心とわれたのは、これは二心のない一心ということである。 すなわち一心とは信心の極致であり、これはまさに第十八願成就文において「乃至一念」といわれた一念にあたる。なぜなら【60】において「一念とはこれ信楽が起こる時剋の極促を顕す」とした、この一念であり、 上の「 」内のことばは、まさに一念が信楽が起こる極致であることをあらわしている。すなわち、一心と一念とが同じものであるということをある。したがって専心は一心をあらわし、これが信心の極致であるならば、 同じく信心が起こる極致をあらわす「第十八願成就文」の一念はあらためて専心ということになる。 専心は、深心、すなわち仏と等しい境地を自己の心中に与えられること、すなわち深く信ずるこゝろであり、だから深心は同時にひとえに阿弥陀仏を信じること、すなわち深信である。 そして、深信は善導の散善義で「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異学、異見、別行の人等のために動乱破壊(どうらんはえ)せられず」といわれているように何ものにも破壊されることのない 堅固な信心である。 更に堅固深信は決定心、すなわち決定(けつじょう)して阿弥陀仏の本願を固く信じることであり、決定心は無上上心、すなわち往生浄土が成就するこの上なき他力の信心である。 この無上上心は真心、すなわち金剛不壊の大信心であり、真心は、まさに相続心、すなわち真心ならばまさに仏のこゝろであるから生涯この身をはなれず相続するこゝろである。 そしてこの相続心はまさに淳心、すなわち本願名号のいわれを聞信して疑惑の雲の混じる事のない信心であり、淳心は憶念、すなわち常に信心がこの身をはなれないこゝろである。 憶念は真実の一心、すなわち他力真実の一心であり、真実の一心は、まさに大慶喜心、すなわち、人と生まれた意義が納得でき、この上なき慶こびのこゝろである。 だから、大慶喜心こそ真実信心、すなわち仏の大信心そのものである。 真実信心は、金剛心である。なぜなら仏に回向された信心であり、絶対に変化することがないからである。 金剛心は願作仏心である。なぜなら金剛心とは揺るがぬ信心のことで、回向された揺(ゆ)るがぬ信心とは仏になろうとする揺るがぬ心であるから。 願作仏心は度衆生心である。なぜなら仏になろうとする心は、仏に成って衆生を済度しようとする心であるから。すなわち、度衆生心は衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心であるから。 この度衆生心こそ大菩提心である。なぜなら大菩提心は衆生を仏にしようとする仏のこゝろであり、衆生が仏になって人々を真実信心の世界に導くことであるから大菩提心こそ大慈悲心にほかならない。 この心は、まさにこの宇宙のすべてを了知する阿弥陀仏如来の智慧(無量光明慧)によって生ずるが故に、また、如来の本願の海はすべてを平等に救う海であるが故に、衆生は等しく他力の信心(発心)の世界に摂取される。 等しく他力の信心の世界に摂取されれるが故に、等しく仏道を歩むことが出来る。 等しく仏道を歩むことができるが故に、仏道である願作仏心と度衆生心の道を歩むことになって、等しく大慈悲の道を歩むことになる。大慈悲こそ、仏道成就の正因そのものであるからだ。 |
| 【HP作成者私考】 今月も善導の散善義から専念・専心の釈義を述べることに始まり、特に専心は一心をあらわし、一心は大信心をあらわすことから、大信心をいろいろな方面から多彩に表現し讃歎する文章が展開されます。しかしその前に法然・親鸞浄土教では専念と専心は常に一体の事柄として、専念すなわち称名念仏には必ず専心すなわち信心が伴(ともな)い、専心すなわち信心にはかならず専念すなわち称名念仏が伴なうという親鸞浄土教の骨子があるということであります。そして今読み進めている信巻において今月は、その内の専心、つまり大信心をいろいろな方面から多彩に表現して讃歎されて(これを転釈というそうですが)、易往而無人といわれる 他力浄土教でありますが、往生を成就させる鍵となる信心の意味をいろいろな言葉で表現されてその意味を深められているのがこの【66】の文章であると思います。 親鸞聖人は、このように多彩な転釈を展開し、真実信心の姿を、広く深く私たちに届けてくださることによって、【54】~【59】にいわれている、一言でいえば「易往而無人」といわれる難信の他力浄土教が、なんとか私たち衆生の身につくように 導こうとされているのが今月【66】の趣旨ではないかと思うところです。そしてその内容は多彩に転釈することによる信心の讃歎であり、また、その信心の根源は無量光明慧、すなわち如来の摂取の中から湧きだしてくる他力迴向の力によるものであり、これこそ五濁無明の衆生を救い上げようとする仏道の根源であり、如来の大悲の根源であるという親鸞聖人のメッセージではないでしょうか。 今月は以上のように学ばせてい
ただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文31
「はじめに」 今月の文章は、先月の【68】の大信心の一連の転釈を受けて、その意味するところを、更に深く考えなさいという親鸞聖人のメッセージが入った部分であると考えます。そしてそれは先ず、曇鸞大師の『論註 下』からのことば「かの安楽浄土に生まれんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」から始まります。それでは、以下の【読下し文】そして筆者拙訳の【現代意訳】をお読みいただき、更に【HP作成者感想】が皆様の思索の叩き台になり得れば幸いです。 |
| 【読下し古文】
【67】 『 【68】 またいはく( 【69】 れ 【70】 ゆゑに [1]無上菩提心:衆生と共に仏に成ろうとする心。法蔵菩薩が衆生の完全な救いができなければ自らも仏に成らないと誓いを建てられ五劫にわたる思惟の結果、その誓いを成就された一連の生起本末(経緯)の心を指す。 大菩提心と同じ。 [2]是心作仏:如来回向の衆生の信心は衆生が仏に作(な)る因(いわれ)であるということ。 [3]是心是仏:如来回向の信心は仏性であるということ。 [4]光明の:中国唐代、光明寺の善導の。 [5]この心これ仏なり:如来回向の信心の本質は仏心である。 [6]一心これを如実修行相応と名づく:如来回向の信心は法蔵菩薩の真実の修行そのものである。 [7]金剛真心:如来回向の信心を言い、如来回向であるが故に決して壊れることのない信心を指して金剛真心という。例えば信巻の序に「真心を改選することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり」といい、信巻本文の初めに「金剛不壊の真心」といい、高僧和讃に「真心撤到するひとは金剛心なりければ」とあるのは、これをいう。 |
| 【現代意訳】 【67】曇鸞大師の『浄土論註 下』には「かの安楽浄土に生まれたいと願う者は必ず無上菩提心を発(おこ)すのであるといわれている。 【68】またおなじく『浄土論註 下』には「是信作仏というその意味は、信心がさとりを開く正因であるということであり、是信是仏とは信心あってはじめて仏が見えるということである。たとえば火を仏、木を衆生の信心とすると火は木が燃えることによって火になるように、仏は衆生の信心の世界に間違いなく居られるということであり、衆生は信心の世界にあって初めて仏に遇うのである。」ともいわれている。 【69】また善導大師は観経疏 定善義で「この信心が衆生が仏になる因となるのであって、この仏の信心の世界こそ南阿弥陀仏の世界であって、この南無阿弥陀仏の世界以外に仏の世界はない。」といわれている。 【70】故にまことの信心は法蔵菩薩の真実の修行そのものであることがわかる。すなわち法蔵菩薩の生起本末(法蔵菩薩の大願とその成就)こそ正しい教えであり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解で あり、正しい生き方であり、これこそ正に仏の智慧である。
【71】 至心、信楽、欲生の三心は信心の一心にきわまり、信心の一心 はすなわち決して壊れることのない真実心であること、これで答え終わった。知るべきである。 |
| 【HP作成者私考】 今月は【67】曇鸞の『浄土論註下』にいわく、「かの安楽浄土に生まれんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」との引文から始まります。これは一つ前の【66】の願成就文の一念から始まる大信心の転釈(言い換え)において「真実信心は、すなはちこれ金剛心なり。金剛心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心、すなはちこれ大菩提心なり。」とある大菩提心が無上菩提心のことにほかならないことを示しています。そうすると、これをよくよく考えると、この大菩提心、すなわち無上菩提心は仏になりたいと願われた法蔵菩薩が四十八の誓願において、全ての衆生を完全に救済できなければ、私は仏に成らないと誓われ、その誓いを見事に成就され仏に成られた誓願成就の生起本末(経緯)をあらわわしていると思うのです。すなわち【66】の大菩提心、【67】の無上菩提心こそ、ほかでもない、この法蔵菩薩の誓願成就の生起本末そのものを根源としているのではないでしょうか。そのようにして曇鸞大師は【67】において「かの安楽上に生まれんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」といわれます。ところが、そうなると、この末法の世の煩悩にまみれた私が仏と同じさとりに至りたいというこゝろはあれども、法蔵菩薩の生起本末と同じ修行を果たさねばならないのかということになりますが、五濁の煩悩にまみれた衆生の私には到底できないことです。しかし法蔵菩薩は、そのことを充分に心得られていて、その第十八の誓願で「若し私が仏に成るときは十方の衆生が至心に信楽の上、私の建立する浄土に生まれたいと願い、乃至十念すれば間違いなく私が修行の結果建立した西方浄土に生まれさせましょう。若しそれができないようなら、私は決して仏にはなりません。」と誓われ、そしてその誓いは成就され、法蔵菩薩は阿弥陀仏という仏に成られました。法然上人はこの法蔵菩薩の誓願を信じ念仏すれば、法蔵菩薩と同じ大菩提心を身に受けて浄土に往生し思うが如く衆生を救済する仏になることができると結論されました。ここに願作仏心と度衆生心が融合した創造的生き方が法然上人によって創成されたことになります。親鸞聖人は法然聖人が聖道門の深遠すぎて一般庶民には理解できない菩提心の定義をさしおいて、『大無量寿経』の第十八願を信じて、念仏して弥陀にたすけられ参らすべしと念仏為本の浄土教によってまず浄土に往生し仏に成り、誓願を成就された法蔵菩薩と同じように共に衆生の往生を助ける道を歩むことこそ、大菩提心そのものであること、すなわち、法然浄土教の称名念仏こそ『大無量寿経』の本願の信にもとづく大菩提心の実現にほかならないことを親鸞聖人は見事に世に示されたのではないでしょうか。 このように、法蔵菩薩の誓願成仏道こそ大菩提心そのものであり、この大菩提心があらわした第十八の念仏往生の道を信じ称名念仏することこそ、私たち衆生が浄土に往生し仏になり大菩提心を実現する道であることを親鸞聖人は明らかにされました。更に親鸞聖人は【68】において〈是心作仏〉とは上記の信心の道こそ私たち無明の衆生が仏に成る道であり、この信心がすなわち仏の道であること、そして火を仏、木を私たち衆生の信心とする『論註下』のたとえは親鸞聖人が明らかにされている「信心よろこぶそのひとを如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」という和讃そのものであり、これは【69】の善導大師が『観経疏定善義』でいわれている「この心 作仏す、この心これ仏なり。」ということばも同じであります。そして【70】において親鸞聖人のいわれる「一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり」ということばこそ法然聖人の仏道が大菩提心の仏道であることを、あらためて示されたのではないでしょうか。そして【71】において「第十八願の至心・信楽・欲生の三心は本願の信にもとづく念仏道であり、大菩提心であり、金剛の真心であることを、ここに宣言し信巻における親鸞聖人の三心釈を終えられたのだと考えます。 今月は以上のように学ばせてい ただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文32
「はじめに」 先月最後の一つ手前の【70】で親鸞聖人は「 このことはまさに『歎異抄』にあるごとく法然親鸞浄土教の根底である「本願を信じ念仏すれば仏に成る」ということを結論付けられたことだと思うわけですが、親鸞聖人は、この後も、この本願他力の信において欠かすことのできない菩提心について今月は論じられます。今月は短くなりますが、この部分にとどめます。 |
| 【読下し古文】
【72】 『 <語釈> [1]止観:「摩訶止観」のこと。西暦594年に中国荊州(けいしゅう。現在の湖北省)玉泉寺で天台智顗(てんだいちぎ)によって講義され、弟子の章安灌頂によってまとめられた天台教学の指南書。 [2]質多 [3]道(どう):智慧のこと。 [4]天竺:印度のこと。 [5]慮智:思慮分別する心。 |
【現代意訳】
『摩訶止観』に「菩提ということばは印度のことばで中国のことばでは道(みち)という。質多とは印度のことばの発音である。中国のことばでは心(こころ)という。心とは思慮分別することである。
| 【HP作成者私考】 上の、「はじめに」で述べましたように、三心すなわち一心であるとして金剛の信心こそ三心をあらわすものだと、明確に結論付けられた親鸞聖人は、次にここで、止観からの引文によって、あらためて菩提心ということに言及されます。三心釈を見事に終えられた親鸞聖人は、まだ、真の浄土教における菩提心の問題で言い足りなかったことをここで披露されたのでしょうか。そして、ここでは結論的に菩提心すなわち菩提質多において、質多ということばは、この方すなわち中国では心という意味であり。ここで心の持つ意味は慮智心(りょちしん)という心であると確認されます。これはどのようにうけとればいいでしょうか。そこで慮智心という意味を調べてみますと、中国では心を慮智心とするほかに、第一義心といった、仏教教義の理を尽くした心という理詰めの意味をもった言葉がありますが、それに対して、慮智心の慮とは配慮とか慮(おもんばかり)りといった意味に使われるように、理詰めでない情を含んだ人間の心をあらわす意味を持っています。したがって菩提心の心というのは、自らが救われると同時に、同じく他者も救われ共に往生浄土へという、血も肉もあるのが菩提心の心の真相であるということだと思います。親鸞聖人は、三心一心の三心釈を終わった後においても、このことをここで付け加えたかったのではないかと筆者は思うところです。 今月は以上のように学ばせてい
ただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文33
「はじめに」 法蔵菩薩の衆生救済の基盤である『大無量寿経』第十八願の中の至心、信楽、欲生の三心は信楽である一心に極まるとして三心釈を結論された、この一心のこゝろは同時に菩提心であるとし、この菩提心のこゝろは慮智心であるとされた親鸞聖人は、この慮智心は単なる理義の面のみを持つこゝろではなく、自分だけが浄土に往生してそれで善しとするのではなく、皆で共に浄土に生まれようとする、他を慮(おもんばか)る心であることを示されました。 今月からは更に、この一心たる信心が法然・親鸞浄土教の根本的なこゝろをあらわすものであるとして、親鸞聖人は横超断四流、真の仏弟子、そして抑止門に進まれます。この内、今月は、「横超断四流」のはじめの「横超」について法然・親鸞浄土教のこゝろを説かれます。 |
| 【読下し古文】
【七三】「 【七五】 またのたまはく( [1]玄義分:「玄義分」は、善導の『観経疏』のはじめにあり、『観無量寿経』の要義をあらかじめ述べたもの。 [2]迂:遠回り。 [3]回(え):回り道 [4]大乗真実の教:聖道門における実教(真実の教え)のこと。聖道門の天台宗では大乗の真実の教を法華経とし、天台宗以外の所依の経典は真実の教えではなく権教すなわち悟りに導く方便の教えとする。親鸞聖人はこの分類にしたがって述べられた。但し、仏教全体における真実の教は勿論『大無量寿経』にもとづく法然浄土教であると考えられていたと思う。 [5]権方便の教:真実の道に導くための仮に設けられた教え。衆生が真実の道に入ったら廃される方便の教え。 [6]二乗:声聞乗と縁覚乗の二つをいう。乗は乗り物の意。 声聞とは師の教えによってさとる人で、仏(釈尊)の教えを直接聞き、その道理によってさとる人たち、及びその立場。 縁覚とは道理を体得して自らさとる人で仏(しゃくそん)の教えによらず一人で道理を観察してさとる人たち、及びその立場。この人たちは自己の完成に留まって多くの他人の救済に向かわないから大乗ではなく小乗であるとみる。小乗仏教における聖者。 [7]三乗:仏教において声聞、縁覚、の他に菩薩を加えた三つの実践の仕方。三者それぞれの能力に応じて、さとりに導いていく教えを乗り物に例えたもの。 [8]願成就一実円満の真教:本願が成就して万人を平等に成仏せしめる絶対唯一の真実円満の教え。 [9]真宗これなり。:この場合は法然の浄土宗にあたる。 [10]横出:他力浄土門の中で、善行を積み重ねることによって、他力によりながらもなお自力心が残っている教え。真実の浄土に往生するための一つ手前の方便化土に往生し、ここで更に真実の他力に出遇う時間が必要。 [11]三輩:無量寿経で極楽往生人をその資質によって三段階に分け、上輩、中輩、下輩(げはい)としたもの。 [12]九品:観無量寿経などにもとづき、浄土へ往生する人のあり方を九種類に分けたもの。 [13]定散:定善と散善のこと。 定善:瞑想の結果、精神が統一され、あるがままの真理をみきわめるという善を身につけるということ。 散善:こゝろは瞑想などで統一されず散乱したままだが、全ての悪業を捨て善業を実行することを身につけるということ。 [14]化土:阿弥陀仏が方便により自力の行者のために仮に現した浄土。第十九願、第二十願の自力の行者が往生する仮の浄土。真実報土といわれる真実の浄土ではない。 [15]懈慢:慢心して怠け、熱中しないこと。仏語では懈慢界として用いられ、極楽往生の願いを自力で達成しようとする者が生まれる世界。快楽が多く、極楽浄土に生まれるという本来の目的を見失うという。 [16]迂回の善:さとりにいたるにも遠回り、回り道をしなければならない善(仏教行為)。 [17]大願清浄の報土:法蔵菩薩の衆生救済の大願に報いて現れた真実の浄土。 [18]品位(ほんい)、階次(かいじ): 品位→衆生の資質を九段階にわけた上品上生~下品下生にいたるまでの九つの位。 階次→仏を最高位として以下修行の程度を52段階にわけたもの。 [19]一念須臾のあいだ:一念という短い瞬間に。 [20]無上正真道:この上なきさとりの世界(阿耨多羅三藐三菩提のこと)。 [21]無上殊勝の願:「第十八の念仏往生の願(若し私が仏に成る時に、十方の衆生が至心に私の願いを信じ、浄土に生まれたいと願って、十回程も念仏して、もし浄土に生まれることが出来ないようならば、私(法蔵菩薩)は決して仏に成らない。)」を指す。 [22]【75】の「 [23]去(す)つる:輪廻の世界を去る。 [24]横(おう)に:横(よこ)ざまに。 即時に。 [25]五悪諏を截(き)り:地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五つの生存のあり方を截(た)って。 ”この世が絶対”の世界を截って。 [26]悪諏:苦の生存。悪業の結果として受ける生存。 [27]道に昇(のぼ)るに窮極(ぐうごく)なし:無限のさとりの世界に昇ることが出来る。 [28]往き易くして人無し:この文章の前は[27]のように、後は[29]のように、いずれも浄土往生を肯定的に捉え、妨げるものがないように表現されているのに、この部分のみ「往き易くして人無し」と否定的な表現になっているのは何故か。これは[29]の更に後を引文もとの『大無量寿経』で読むと「なんぞ世事を棄てて勤行して道徳(仏道)を求めざらん。」のように人々が目の前の世間の雑事に没頭し、これを絶対として仏道をかえりみないからだという文言が続いている。したがって、このように[28]の前後を広く読めば[28]の「往き易くして人無し」の部分がほとんど往く人がないというよりも、そのようにこの世を絶対視してうつゝをぬかしていてはいけないということを示している。 [29]逆違せず:逆らわず、違わず。 [30]大阿弥陀経:大無量寿経の異訳。 [31]支謙三蔵:生没年(195~254) 支謙:中国、三国時代の呉(ご)国で活躍した訳経家。生涯を在俗のまま過ごした。大月氏(だいげっし)からの帰化人の子孫で、そのためもあってか語学の才に秀で、多くの西域(さいいき)語に精通していたという。 三蔵:①仏教の聖典を三種に分類した、経蔵・律蔵・論蔵の総称。経蔵は仏の説法を集成し、律蔵は仏徒の戒律を集成し、論蔵は経典の注釈研究を集成したもの。 ②また①に深く通じた高僧に対する敬称。更に①の三蔵の翻訳者をもいう。(例)玄奘(げんじょう)三蔵、『西遊記』の三蔵法師など。 [32]五悪道:[25]における五悪諏と同じ。 [33]道に昇るに窮極なし:[27]を参照。 [34]往き易くして人無し:『無量寿経』の異訳の、この『大阿弥陀経』においても、この部分の解釈は『無量寿経』の[28]の解釈と同じ。 |
| 【現代意訳】 【73】「横超断四流」(玄義分)について、「横超(おうちょう)」の「横」は「竪超(しゅちょう)」、「竪出(しゅしゅつ)」の「竪」に対することばで、「竪」は「縦(たて)の意味をもっており、階段を登るように縦に順番を踏んで段々とさとりに近づくという意味であるのに対して「横(おう)」は横ざまに、あるいは一足飛びにという意味を持つ。次に「横超」の「超」は遠いという意味を持つ「迂(う)」に対し、まわるという意味の「回(え)」に対することばである。
【74】『大無量寿経 上』に法蔵菩薩は「世を超えて勝れた衆生救済の願を誓われた。」と述べられている。「竪超」とは天台聖道門で大乗真実の教とするもので、法華経がこれにあたる。「竪出」とは天台聖道門で大乗権方便の教といわれ、これには師の教えに忠実に従ってさとりを開こうとする声聞や、師によらず自ら独自にさとりを開こうとする縁覚など、いずれも自らの救いに専心して修行する二乗、また、大乗の立場から、上記二乗に加えて他の救済に専念し、他と共にさとりの世界に進もうとする菩薩を加えた三乗などの教えで、天台聖道門では法華経の教え以外を信奉する法門がこれであたるが、これらはどれも仏の無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力を信じることができない者への方便の教えで、長い自力の修行によって、さとりに至ることが必要で遠回り、回り道の教えである。 横超というのはすなわち『大無量寿経 下』の本願成就文に示されているように本願が成就して万人を平等に成仏せしめる絶対唯一の真実円満の教えで、法然上人が始められた真宗がこれである。 また、浄土に生まれようとするのに「横出」という道がある。これは『観無量寿経』で三輩や九品が説かれている教えで、坐禅や瞑想によって、こゝろを鎮めて仏を見ることができるとする定善や、生きているうちに善行功徳を積んで、それを仏に捧げて浄土往生を願う散善の行を行なうもので、これらは直ぐには真実の浄土に生まれることができないので、まず化土、懈慢界といわれる仮の浄土に生まれるというものであり、さとりに至るにはやはり遠回りとなる仏道である。 法蔵菩薩の衆生救済の誓願成就に報いて建てられた浄土に往生する教えは三輩や九品、菩薩の修行の階位などを問わず、一念という瞬時、横ざまに絶対他力によって、無上の往生道を超証するものである。故に横超というのである。 【75】またいわれている(同じく 上)「私は仏になるために世を超えた衆生救済の願いを誓う。そして、かならず仏になる。しかし「南無阿弥陀仏」の名号が、あまねく世界の隅々まで聞こえることがなかったら、私は決して仏にならないと誓う」と。 【76】またいわれている(大経 下)。「必ず迷いの世界を超え離れて浄土に生まれ無限大悲の他力によって横ざま、瞬時に地獄・餓鬼・畜生・人間・天という五悪諏の輪廻を離れ、無上のさとりの道に昇ることができる。ところが阿弥陀仏の大いなる本願力によって、容易に浄土往生を果たすことができるにもかかわらず肝心の往く人がいない。これは、世事に埋没して大いなるいのちである仏の世界に気づかないからだ。しかしそれでも、仏の衆生救済の本願力は違背せずに、仏の無限の力を信ずることによって自ずと浄土への道は開かれているのである。 【77】『大阿弥陀経(下) 支謙三蔵の訳』にもいわれている。「仏の大悲によって生死出づべき道を得ることができる。阿弥陀仏の浄土に往生すれば、たちまち五悪道(五悪諏の輪廻に同じ)を離れて、自然にこの輪廻は閉じる。無上のさとりの道に昇るのに、これ以上は無理という極限はない。」 このように浄土への道には支障がなく、往き易いのに、実際に往く人がいない。これはこの世を絶対として、それを超える道があることに気付かないためだ。 しかし、それでも、浄土は、そのような人にも背を向けずに、本願他力の世界へ導くのである。 |
| 【HP作成者私考】 今月、親鸞聖人は善導大師の『観経疏 玄義分』に書かれている「横超断四流」という事柄の内、先ず「横超」とはどのような事かを説くことから始められます。ここでも先月、菩提心の中で重要な事柄は、それが慮智心であることを示されたように、第十八願の三心を極めた一心である「信楽」すなわち「信心」の要素を親鸞聖人は更につきつめて考究、讃歎されます。 そこで「横超(おうちょう)」ということですが、その意味を「竪超(しゅちょう)」「竪出(しゅしゅつ)」という、自力聖道門の仏道と対比することによって説き始められます。「横(おう)は竪超、竪出に対す」。これは竪という漢字は縦をあらわす、すなわち、階段を力を入れて一段一段と縦に登っていく自力修行の道をあらわす言葉です。それに対して「横超」の横は横っ飛びという意味です。そして「超は迂(う)に対し回(え)に対す。」ということですが、迂とは迂遠の地ということばがあるように遠いという意味で、それに「回」すなわち回るという意味が加わって「迂回」とは回り道という意味でしょう。そういえば現代でも回り道を「迂回ルート」ということばでも表します。したがって「横超」とは「竪超」や「竪出」のように階段を縦に昇るように順を踏んで段々と「さとり」に至るのではなく、人間の自力を超えた、弥陀の本願力という他力によって横っ飛びに時間を超えて、さとりに至る。このような意味ではないでしょうか。法然聖人や親鸞聖人は、このように法蔵菩薩が誓願成就の結果、阿弥陀仏という仏に成られ、その阿弥陀仏の本願力という他力による横超の教えを真実の大乗の教えとして説かれたということになります。 ところが、「竪超とは大乗真実の教なり。」と述べられます。さて、ここで私たちは戸惑ってしまいます。なぜなら、親鸞聖人も法然聖人も浄土三部経を所依の経典とする「横超」の法然・親鸞浄土教こそ大乗真実の教えであると当然考えられたはずなのに、ここでは「竪超」の教えを大乗真実の教としています。これはどのように考えたらいいのでしょうか。調べてみますと、どうやらこれは聖道門天台宗の考え方が入っているようです。すなわち天台宗では『法華経』こそ八万四千といわれる仏教経典の中で最高の教え、真実の教えであるとし、これが大乗真実の教えとして、その他の宗派の教えは全て方便の教え、すなわち、ここでいわれている「大乗権方便の教え」としています。いわば法華経こそ最高の教えで、それ以外の教えを一段低く見ているという事です。しかしこれはあくまでも自力聖道門の中の仏教分類によるもので、聖道門仏教から離れて新しく創造された法然・親鸞浄土教は法華経こそ最高の大乗真実の教えとする聖道門の分類法には関係がないということになります。そして「竪出」とは大乗権方便の教、二乗・三乗 迂回の教なり」というのは、当然聖道門の中の分類ですから、さとりに至るのに遠回りの迂回の教であるというのは、法然親鸞浄土教には当てはなまらないということになります。 そして、横超の仏教とは、法蔵菩薩が誓願成就の結果、阿弥陀仏という仏に成られ、その阿弥陀仏の本願たる南無阿弥陀仏の一実円満の真教こそ、真宗すなわち法然聖人や自分(親鸞)が説いている教えであると宣言されます。 また、浄土教の中には弥陀の本願を頼むのだが、三輩、九品などの階位を設け、定善、散善など自力の行によって浄土往生を願う「横出」の仏道もあり、これらは化土や懈慢界を迂回する教えであるとされます。 ところが法蔵菩薩の大願成就に報いて現れた浄土への往生を説く法然浄土教こそ、このような三輩、九品の位や修行の階位を問わず、弥陀の本願が説く念仏と信心のみで、一念須臾という瞬(またゝく)く間に、本願力によって、この上なき浄土のさとりの世界に入ることができるのであって、まさに横超の宗教であることを宣言されます。 【74】そして上記の法然・親鸞浄土教の大信心は「横超」の宗教であることを証する引文として、この【74】で親鸞聖人は、『大無量寿経 上』で法蔵菩薩が世自在王仏の示される二百一十億の諸仏の国土の善し悪しをことごとく見るを得た上で無上殊勝の願を超発されたことを引文されてます。 【75】その上で、法蔵菩薩が四十八の衆生救済の願を建てられたのち、「われ超世の願を建つ。かならず無上道に至らんと。名声十方を超えて、究竟して聞こゆるところなくば、正覚をならじ。」と重ねて誓われた『大無量寿経』の中の「重誓偈」の部分を親鸞聖人は引文されます。 【76】続けて親鸞聖人は『大無量寿経 下』において釈尊が浄土往生を勧められ、娑婆こそ絶対との考えを棄て、その結果、阿弥陀仏の大悲に摂取され、横ざまにこの世を超えて(横超)、さとりの世界に導かれることを説かれた部分を引文されています。すなわち「かならず超絶して去(す)つることを得て、安養国に往生して、横(おう)に五悪諏を截り、悪諏自然に閉じん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人無し。その国逆違せず。自然の牽くところなり。」の文章です。 そして【77】においても『大無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』で、【76】と同じ意味の部分を引文され、ここにも「横に五悪道を截りて」と「横超」にあたることば使われている部分を示しておられます。 以上、【74】~【77】が親鸞聖人が示された【73】の「横超断四流」の内の「横超」という意味を証する引文です。 ところで鎌倉時代に生きた法然聖人も親鸞聖人も、『大無量寿経』が、生きた釈尊が説かれた経であり、そこで説かれている法蔵菩薩の誓願も釈尊が説かれたが故に真実であると信じておられたわけですから「横超」ということを証する基盤の引文として【74】や【75】は必須のものと考えられたでしょうし、さらに【76】や【77】で『大無量寿経』や『大阿弥陀経』に「横に五悪諏(五悪道)を截る」という意味のことばが使われていますので、これを「横超」ということがらの根拠を示すものとして引文されたことは間違いありません。 ところで、ここで現代人としての筆者は「横超」の意味を次のように考えてみたいと思います。 まず、この世に起こることは宇宙であれ人間においてであれ、全て因と縁による、すなわち縁起によるものであること。これは仏教の基本的考え方です。そしてこの因と縁はどう考えても大いなるいのちすなわち浄土敎的にいえばこの因と縁の根源である「大いなるいのち」の働きによるということ、そしてこの因と縁の根源である「大いなるいのち」こそ無限のはたらきをもった阿弥陀仏であるということが現代人として親鸞浄土教を信奉する者の宗教感覚であるということです。この結果いえることは大は宇宙の生成流転から、小は私たち衆生の一挙手一投足、出る息、入る息、一念一念の心の起滅まで、すべて大いなるいのち、すなわち阿弥陀仏のはたらき、すなわち他力によるということです。そして、このことが納得できれば、その瞬間に、それが納得できた人は、阿弥陀仏に摂取されているということが実感できるわけで、まさにこの瞬間に阿弥陀仏によって信心が定まるということです。すなわち阿弥陀仏に帰命されている自分、南無阿弥陀仏の中にいる自分を発見する瞬間です。このことこそ 、煩悩に満ちた娑婆世界から横ざまに、すなわち横超に阿弥陀仏に摂取された自分を発見する瞬間ではないでしょうか。すなわち親鸞聖人の云われている「信心定まる時、往生また定まるなり。」という瞬間ではないでしょうか。清沢満之のことばに「我、他力の救済を念ずるときは、我(われ)が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るゝときは、我(われ)が世に処するの道閉ず。我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲の為に迷わさるゝこと少なく、我、他力の救済を忘るゝときは、我、)物欲の為に迷わさるゝこと多し、われ他力の救済を念ずるときは、我が処するところに光明照らし、我、他力の救済を忘るゝときは、我が処するところに黒闇覆う。嗚呼、他力救済の念は、能く我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し、我は実に此の念によりて現に救済されつゝあるを感ず。若し世に他力救済の教えなかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざりしなるべし。然るに今や濁浪滔々の暗黒世裡にありて夙(つと)に清風掃々の光明海中に遊ぶを得るもの、其の大恩高徳豈(あ)に区々たる感謝嘆美の及ぶところならんや」。この清沢の文章を見ますと、彼は正直に、他力を念ずる、すなわち他力のはたらきに気付いた時は、その瞬間に大いなるいのちである弥陀に摂取され救済されている自分を感ずるけれども、この他力に気付かない時は、相変わらず煩悩の世界にいるという。それでは完全に救済されていないではないかと思われる向きもあるかも知れませんが、これこそ、まさに仏ではない煩悩に生きる現実の人間として当然のことであるが、自らを摂取する他力の大悲に気が付けば、仏の世界を垣間見ることが出来る。これこそ、煩悩の中にあって、信心が定まる瞬間であって、このように横ざまに(横超に)信心が定まるときというのは決して難中の難ということではなく、この世のありよう全てが大いなるいのちである阿弥陀仏のはたらき、すなわち他力によるということが納得できれば、その瞬間に信心の世界に摂取されている自分を発見するということではないでしょうか。そうして親鸞聖人は『浄土真宗聖典 註釈版246頁【103】に見られる如く、私たちのいのちの終わる臨終一念のゆうべ、大般涅槃を超証する。これこそまさに全ての煩悩から離れ、横超に仏の世界に直入することではないでしょうか。だから【76】や【77】でいわれている「往き易くして人無し」というのは、この世のすべてが他力ではなく自力で動いている、あるいは動かしていると考えることから起こるのであって、全てが阿弥陀仏のはたらき、すなわち他力であるという世界に納得できれば、今回の【76】と【77】にあるように「その国逆違せず、自然の牽くところなり。」ということで信心が横超に定まるということになるのではないでしょうか。 今月は以上のように学ばせてい
ただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文34
「はじめに」 今月は先月の「横超」に引き続いて「断四流」の部分を読み進めることになります。もちろん、これは「横超断四流」と一つにまとまったことばとして読んでいるわけですが、親鸞聖人のもとの文でも、それぞれ「横超とは・・・」という部分と「断といふは・・・」という部分に分かれて説いておられますので、ここにおいても、今月は「断といふは・・・」から始めさせていただきたいと思います。 |
| 【読下し古文】
【78】 【79】 『 【80】 またのたまはく( 【81】 『 |
| 【現代意訳】 【78】「横超断四流」の「断」というのは、阿弥陀仏に摂取され必ず浄土に往生できると信ずる他力の信心が発起するが故に、もう迷いの生をくりかえすことはない。
もう迷いの六道を輪廻することもない。このような輪廻の因も果も亡滅するので、即時に欲界・色界・無色界といった三界の生も断絶し生死出づべき道が開かれる。故にこれを「断」というのである。
四流というのは四暴流(【語釈】[7]を参照)のことで、これはまた生老病死のことである。
【79】『大無量寿経 下』に「かならず、まさに仏道を成就して広く輪廻の生死の繰り返しを超えなければならない。【80】平等覚経にも「かならず、まさに仏となって一切の衆生を生・老・死の苦海から救い上げねばならない。」といわれている。 【81】『涅槃経』の獅子吼品にも云われている。「また一切の煩悩が消えた涅槃の境地を洲渚(しゅうしょ=大地そのものである島)とする。なぜかというと四暴流(【語釈】[7}を参照)によって流されたり漂ったりすることがないからである。四暴流というのは欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流である(【語釈】[7]を参照。)」 【82】光明寺の和尚(善導)が『般舟讃』でいうには「もろもろの行者に申し上げる。凡夫は生死に執着して厭わないということがあってはならない。また、弥陀の浄土を軽んじて欣(ねが)わないということもあってはならない。煩悩の生死に執着せずこれを離れれば、娑婆の苦から末永く遠ざかることが出来る。弥陀を欣(ねが)えば、浄土に常に居(こ)す(住む)ことになる。煩悩の生死を超えればすなわち六道(【語釈】[3]を参照)に落ち込む原因が亡くなり、輪廻という煩悩の繰り返しが無くなる。このような因果がすでに亡くなれば迷いの身と、その状態も速やかに絶えてしまうのである。 【83】また善導大師は『往生礼讃』で、「一切の浄土往生を願う皆さん、よく自らの身の程を考えなさい。この世において、かの浄土に生まれようとを願う者は、行住坐臥に必ずすべからく心を励まし、おのれを戒めて昼夜にわたって念仏を称えるのを廃する(忘れる)ことがあってはならない。いのち終るその時まで、生涯にわたって、そのように努めることは、いささか苦しいことのようだが、念仏を称える一念ごとに娑婆を離れ、称えるごとに、かの浄土を見ることができ、永くそれを繰り返せば、常に因縁を超えた真実のいのちである仏の世界に触れることが出来る。そのようにして、臨終一念の夕べいのち終って成仏するまで輪廻の世界を経めぐることはない。まことにこれ以上の果報はあるまいということをよく心に嚙み締めなさい。」といわれている。 |
| 【HP作成者私考】 先月は、三心釈の済まされたあと、大信心の追釈としての菩提心釈に次いでの「横超断四流」の前半、「横超」についての追釈でした。今月は、その後半の「断四流」についての追釈を読み進めています。 【78】「断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。諏としてまた到るべき諏なし。すでに六趣・四生、因忘(もう)じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。」と先ず一気に親鸞聖人は釈されます。 ここで、いえることは、この文章の中の「生としてまさに受くべき生なし。」から最後の「ゆゑに断といふなり。」まで、生とか、趣とか、四生、とか三有とか、いろいろありますが、すべて、まとめて仏教に古くからいわれている輪廻ということでしょう。親鸞聖人は先ず、四生という胎生、卵生、湿生、化生などの生き物の生まれ方の輪廻、あるいは六趣(六道)のように地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という苦をともなう人間の生死の輪廻、更に欲界、色界、無色界を経(へ)めぐる三有という輪廻、これらを断つということでしょう。 これらは、どのようにして断つことができるのでしょうか、親鸞聖人は「往相の一心を発起するがゆゑに。」といわれます。「往相」すなわち阿弥陀仏の浄土へ直入できるという大信、仏に成るという大信が発起されるからだということでしょう。もう四生や六道、そして三有のような迷いの世界を輪廻することなく、阿弥陀仏の浄土に直入して仏に成る。これほどはっきりした「断」はありません。親鸞聖人は、まずこれらを「断」というなりと、はっきり締めくくられます。そして次に「四流とはすなはち四暴流なり。また生老病死なりと付け加えられます。四暴流とは何でしょうか。欲暴流、有暴流、見暴流、、無明暴流と四つありますが、これらの意味は【語釈】[7]で見ていただくとして、いずれも激しい煩悩の暴流でしょう。また、生老病死も、それこそ煩悩のかたまりです。ところが親鸞聖人は、この部分には断ということばを使っておられません。私(筆者)が推測するところでは、生きている限り煩悩は死ぬまで断てないのが親鸞聖人の思いですから、ここの部分では断ということばを控えられたのではないかと思っています。ところで善導はその著『観経疏 玄義分』において「共に金剛の志を起こして横に四流を超断すべし」と、きびしく表現しています。これはどのように考えるべきでしょうか。 このあたりについて、藤場俊基氏は、その著『親鸞の教行信証を読み解く』 において、興味深いことを書いておられます。「煩悩をすべて消滅させなければならないのならば、それは生さることを否定するに等しい。四暴流を超断するというのは、煩悩そのものが無くなるということではありません。暴流に翻弄されなくなるという意味です。煩悩の正体がはっきり見えてくるということによって煩悩に振り回されることがなくなるという意味です。例えば暗闇の中を歩こうとすると、どこにどんな穴があるかもしれないと思ったら怖くて歩けません。けれどもそこが光に照らされて、全部の障害物がはっきり見えればもう怖くありません。簡単にそれをよけて歩くことができるからです。しかし穴や障害物そのものがなくなったわけではないのです。煩悩の問題はそういう仕組みになっています。人間は、障害物があるかないかわからないから怖くなる。見えさえすれば右往左往することもなくなります。浄土教というのは煩悩を消そうとしても絶対に消えないという大前提に立って、それでもなおかつ仏教の精神を実現する道はあるかというところから起こってきました。親鸞もそういう人間観を前提としています。」 筆者もこの「横超断四流(横に四流を超断すべし)」の考えに賛成です。これを読むといつも申し上げますが「我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉ず。我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲に迷わさるゝこと少なく、我、他力の救済を忘るゝときは、我、物欲に迷わさるゝこと多し、我、他力の救済を念ずるときは、我がこころに光明照らし、我、他力の救済を忘るゝときは、我がこころに黒「闇覆う。嗚呼、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し、我は実に此の念によりて救済されつゝあるを感ず。若し世に他力救済の教えなかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざりしなるべし。然るに今や濁浪滔々の暗黒世裡に在りて、夙(つと)に清風掃々の光明海中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳豈に区々たる感「謝嘆美の及ぶところならんや。」という清沢満之の言葉が思い出されます。 【79】つづいて、引文にはいります。まずこの【79】には『大経 下』から「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流れを度すべし」とあります。「生死の流れを度す」というのですから、これはやはり衆生を輪廻の繋縛から開放するということでしょう。 【80】次に【80】では「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし。」とあります。「生老死」はまさに生の苦、老の苦、死の苦であるわけですから基本的な煩悩です。だから「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし。」ということは四暴流すなわち激しい煩悩の繋縛から救い上げようということでしょう。なお【80】で「世尊となりて」ということばがありますが、これは「仏となりて」というふうに受取るべきであると思います。また、【79】と【80】で、一方は輪廻、他方は煩悩の繋縛からの開放というように筆者は受取るのですが、生死の流れである輪廻も煩悩の世界の繰り返しと考えれば、どちらも煩悩すなわち四暴流を指しているのでしょうか。「横超断四流」というのですから。 【81】ここで「涅槃を名づけて洲渚とす。」といわれています。【語釈】[13]にありますように洲渚とは「島」のことですから、島はどのような煩悩や輪廻の嵐の海にも、泰然と動かず、船のように沈んだりしません。往相の一心の究極である涅槃においては、まさにどのような輪廻や煩悩に襲われても金剛のごとく動かず変わらず泰然としている様を述べ、これも往相の一心に由来するものであることをここで証しています。 【82】最後に善導大師の『往生礼讃』からの文章を引いて、往相の一心には称名念仏を伴うことが何よりも大切であることを証されます。この中では先ず「畢命(ひつみょう)を期(ご)として、上一形にあるは」の部分が、やや訳しにくい部分です。「畢命を期として」は「いのち終るまで」と受取ればいいのですが、そのあとの「上一形にあるは」について一形とは【語釈】[21]にあるように一生涯のことです。これに「上」という字がついてどのような意味になるのか分かりにくいのです。これは【語注】[21]にもあるように、「念仏を称える回数を上一形から下一称、十称に至るまでと表現し、上は一生涯の長きにわたって、下は一回乃至十回の念仏に至るまで、その価値は同じだという意味のことばがある、ここでは、『上一形から下一称、十称に到るまで・・・』の初めの上一形だけがピックアップされて表現されているので分かりにくいが、上一形を一生涯と受取るのが妥当である。」とあるので、上一形を一生涯と受取ればよいわけです。 次に「前念に命終して後念にすなわち彼(か)の国に生じて」をどのように読むかです。これはこのあと信巻【103】の「念仏の衆生は横超の金剛心を究むるがゆゑに臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」という親鸞聖人のことばがあります。すなわち正定聚の念仏の行者の姿を表わしているのだと思います。つまり生きて生涯を信の念仏生きた念仏者の臨終は、いのち終った瞬間には浄土に往生し大般涅槃を超証し長時永劫、常に無為の法楽を受けるということではないでしょうか。まさに妙好人才市翁の「さいちや いつまいる へえ わたしゃなむあみだぶに、いままいらせてもろうておりまする いのちの門が あくばかり ごおんうれしや なむあみだぶつ」。すなわち「今、信の一念にまいらせてもらっている才市は、いのち終れば、真実のいのちの門が開いて大般涅槃に入らせていただくということではないでしょうか。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文34
「はじめに」 先々月と先月は大信心の追釈としての横断四流について親鸞聖人の御領解を学ばせていただきました。今月は、それに続いて親鸞聖人は「真の仏弟子」とは如何なる存在であるかを説かれます。
真の仏弟子釈では親鸞聖人の釈文のあと十八個の引文が先ず続きますので今月は、その内の『安楽集』からの引文まで八個の引文を読み進めることにします。なお既にお判りのことと思いますが、今月の古文初めの例の 「 |
| 【読下し古文】
【84】「
【85】 『 <語釈>
[1]真の仏弟子:〇本願を信じ念仏するものは阿弥陀仏の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の教意に随順するものであるから真の仏弟子といわれ、また分陀利華(白蓮華)に喩えてほめたたえられている。(註釈版 教行信証 信巻 補註より) [2]金剛心の行人:如来によって与えられた、すなわち他力であるが故に不退転の信心の行人。 [3]大涅槃:大般涅槃の略。完全なさとりの境地。 [4]「 」内の文:四十八願中の第三十三願。 [5]身心柔軟:摂取の光明に包まれた者は貪・瞋・痴の三毒の煩悩に毒されることなく、身も心もやわらぐこと。 [6]人天:人間と天人(どちらも仏でないので煩悩を持つ) [7]超過せん:超えるであろう。 [8]「 」内の文:四十八願中の第三十四願。 [9」]名字:なまえ。名号。南無阿弥陀仏のこと。 [10]無生法忍:仏の世界は不生不滅であることを認めること。「忍」とは認可,認知のこと。仏の世界は空であり,実相であるという真理のうえに心を安んじ不動であること。 [11]深総持:深いさとりの智慧。 [12]無量寿如来会(むりょうじゅにょらいえ):『大無量寿経』の異訳。 [13]有情:人間や動物など心・感情・意識をもつもの。衆生と同じ。 [14]照触せらる:光に触れ照護される。 [15]菩提:仏の悟りの境地 、極楽往生して成仏すること 、悟りの智慧 などを意味する仏教用語 。 [16]至心:浄土教で説かれる三心の一つ。阿弥陀仏を心の底から信頼し,帰依し尊重すること。浄土真宗では, 阿弥陀仏を信じる心は実は阿弥陀仏から与えられたものであるから,それを仏のはからいであるとする。 ここでは『大経』の至心・信楽・欲生は「信心」の一心に極まるという観点から信心と受取るべき。 [17]智慧:この場合の智慧は無明の闇を超えて物事の真実を見る心のはたらき。 [18]広大勝解者:他力信心の人。[17]のような智慧の人。 [19]〇大威徳の人:仏のすぐれた徳を与えられている人。 〇広大異門に生まる:仏教の中でそれまでの教えと異なった浄土教という広大で比べるべきもない法門に生まれる。 [20]分陀利華:白蓮華(字のごとく白い蓮の花。仏教では浄土に咲く花とされている。)) [21]諸部の大乗:いろいろな大乗経典。 [22]説聴の方軌:教えを説く者と聴く者の心得。 [23]醍醐:牛乳を加工して造った五種の食品の内、第五番目に位置する最も美味な食品を意味して醍醐(だいご)と名づけた。例語として「醍醐味を味わう」などがある。 [24]増長勝解:仏教を説く人の言葉の中に「世間虚仮唯仏是真」の心をよく領解し、その心が育つこと。 [25]愈病の想いをなせ:娑婆の迷いの病いが癒える想いをなせ。 [26]仏法を紹隆するに堪へたり:仏法を盛んに(紹介)することができる。 [27]仏前に生ぜん:浄土に往生する。仏に摂取される。 [28]聚落:在家の村落。 [29]受施:施しを受ける。功徳を受ける。 [30]大智度論:『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書。著者は竜樹。 [31]三番の:三つの。 [32]法身:真理そのものとしての仏身。真如。色もなし形もましまさぬ。 [33]智身:真実の智慧を持つ身。合理的にして因果律を超えた智慧を持つ仏身。 [34]大慈悲身:この世において大慈悲を行ずる仏身。釈尊。 [35]長養:育て養う。 [36]禅定:心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想。 心を統一して静かに対象を観察し、思索して真理を悟ること。坐禅によって 無念無想になること。 [37]行願: 身の行ないと心の願い。修行 と誓い。自利利他の完成を願うこと。 [38]波若(はにゃく):般若に同じ。般若=仏道を修めることによって現れてくる真実の智慧。 [39]一時:ある時。 [40]菩提:仏の正覚の智、さとり 、仏の悟りの境地 、極楽往生して成仏すること。 [41]作仏:仏になる。 [42]法界に周遍せん:すべての世界にいきわたる。真如に通じる。 [43]未来際(みらいさい)を尽(つく)す:未来のはてまで至る。 [44]二乗の障(さわり):完全な仏ではない声聞、縁覚にとどまる。 [45]無始生死の有輪を傾(かたぶ)く:永劫の過去からの生まれ変わり死に変わりする輪廻と無縁になる。 [46]展転してあひ勧めて:諸国を巡って人々に勧めて |
| 現代意訳】 【84】真の仏弟子というのは、真という言葉は偽(ぎ)に対し仮(け)に対する言葉である。
【85】大無量寿経上巻にいわれている。「もしわたしが仏になることができたなら、すべての数限りのない仏の世界の
衆生の類(たぐい)が私の光明に照らされてそれを身にうけたなら 身心ともに融通無礙になって人間や天人を
超えることが出来る。もしそのようにならなかったならば私は仏にはならない。」と。弟子とは釈尊や様々な仏の弟子ということである。如来のはたらきそのものの他力の信の行者である。この信と念仏行によって 必ず真実のさとりを不可思議の弥陀のはたらきによって証するが故に、これを真の仏弟子というのである。 また「もしわたしが仏になることができたならば、すべての不可思議な諸仏の世界の衆生の類(たぐい)が、 わたしの名を聞いて菩薩が成仏したときの、もろもろの深い智慧を身にすることができなければ、私は仏にならない。」と。 (以上) 【86】『無量寿如来会 上』にいわれている。「もしわたしが仏になることができたなら、まわり全てのこの不可思議の世界の あらゆる生ある者たちが、仏のすぐれた光明に照らされて身心ともに安らいで、そのようすは人間や天人をこえた ありさまになるだろう。もしそうならなければ、わたしは仏にならない。」と。(以上) 【87】また『大経 下』には「仏法を聞いて、それを心にとどめ、仏を仰いで、信心を得て大いに喜ぶことができたならば この人は、わたし(釈尊)の善き親友である。」といわれている。 【88】またいわれている(『『大経 下。』)「仏の信心があって浄土に往生したいと願えば、無明の闇を超えて物事の 真実を見る智慧とすぐれた功徳を身にいただくことができる。 【89】また『如来会・下』には信心の念仏者は「広大な智慧の人であり他力の念仏者である。」といわれている。 【90】また『如来会・下』には「このような人はすぐれた徳をあたえられている人であり、浄土教というそれまでの教え とは異なった広大で比べるべきもない浄土に往生できる人である」といわれている。 【91】また『観経』にいわれている。「もし念仏する人があれば、その人はまさに知るがよい、この人はまぎれもない 人中の分陀利華(白い蓮華)のような素晴らしい人であると。 【92】『安楽集・上』にいわれている。いろいろな大乗経典によって、教えを説くものと教えを聞くものゝ心得を明かすと 『大集経』に「説法の人においては自らを勝れた医者であると想うようにせよ。患者の苦しみをなくそうという想いをなせ。 説くところの仏法は、甘い不死の霊薬であると想うがよい。説くところの教えは牛乳で作った最高の味わいである 醍醐であるという想いをなせ。 また教えを聴く人は、その教えによっていや増しに信心が深まる想いをなせ。病いであれば必ず治るとの想いをなせ。 もしよくこのような説者と聴者であれば、みな仏法が身に付き盛んとなる基(もとい)を築くことになり、目の前に常に仏 が居られる浄土に生まれることができるであろう。」 と。 また『安楽集・下』で「『涅槃経』の記述によれば《もし人がたゞよく信心のもと念仏三昧の生活をすれば十方の諸仏は 常にその人を見護ること、あたかも目の前におわす如くである》と仏がいわれているとある。この故に『涅槃経』には 《もし善良な男女が常によく信心のもと、もっぱら念仏三昧の生活をするなら、その人々が山に籠っていようと、 人々が多く住む町中にいようと、もしくは昼であれ夜であろうと、もしくは坐わっていようと臥せっていようと、どんな時にも 諸々の仏がたは常にこの人を見護って常に傍に居られるが如くに、この念仏者のために施しを与えるのだ。》と 仏(釈尊)が迦葉菩薩に告げておられる。 また、『大智度論』によると三つの解釈がある。<第一には、仏はこれ無上の法王である。菩薩はその法の臣下である。 尊ぶところ、重んじるところは、ただ仏である。この故に、まさに常に念仏すべきである。 第二に、多くの菩薩が自ら云うのに《私は永劫の過去から仏によって私たちが今在ることの根元や成立のいわれを 知らせていただき、そして仏の大慈悲によって私たちの身を長く養い育てていただいて今ここにあることを知った。 第三に多くの菩薩が居て、またこのようにいう《わたしは修行中のとき、悪い教えを説いて誤った道に導く者に遇って 仏法を謗り、悪道に堕ちていた、そして無限の時間をかけて仏道以外の行を修めても、どうしても生死出づべき道を 身につけることができなかった。後にある時、善知識の教えを聞いたところ、私に念仏生活を送れと教えられた。 そのことによって、能(よ)く併せて、もろもろの障(さわ)りをまさに解脱することができた。この大いなる利益(りやく)がある ので、仏道の成就を願って仏から離れないのである。》> と。 また、(安楽集・上)『大経』・下』でいわれている。<おおよそ浄土に往生したいと欲(ねが)えば必ず菩提心に もとづくべきである。何故なら仏道のさとりということは、無上仏道の名、すなわち実体そのものだからである。 もし仏になろうと発心するならば、この心は広大で真如に通じるものである。この心は永劫の時間に通じ未来の際(はて) まで通じるのである。この心は広くすみずみまで不完全なさとりである声聞・縁覚という障りを離れることができる。 もしよく仏になろうと発心すれば永劫の過去からの生まれ変わり死に変わりする輪廻と無縁になる。 また、(安楽集・下の記述)『大悲経』にいわれている。<どのようなことを名づけて大悲とするのか。これはすなわち、 もしもっぱら念仏生活を続けて断(たえ)ることがなかったなら、その人がいのち終る時、安楽に浄土往生ができること が定まるのだ。更に、もしよく諸国を巡って人々に念仏を行じることを勧める人々は、仏の大悲を行じる人と名付ける ことができる>(以上『安楽集』からの抜粋) |
| 【HP作成者私考】 今月は大信心の追釈として「真の仏弟子」についての親鸞聖人の解釈を伺います。 ところで、今月の読下し古文最初の部分は<「真の仏弟子」(散善義)といふは>となっています。 その後は「真の言は偽に対し、仮に対する・・・」と続くわけですが、 最初の部分「真の仏弟子」の直ぐ次に (散善義)となって います。この(散善義)という部分はどのような意味を持っているのでしょうか。ちなみに、この(散善義)という部分は 親鸞聖人が 書かれた元の文章にはありません。それにしてもこの『真の仏弟子』のすぐ後の(散善義)はどのような意味をもっているのでしょうか。 結果として考えられることは、この「真の仏弟子」ということばを最初に使っているのは実は善導大師の『観経疏 散善義』において なのです。それで『散善義』のこの部分をピックアップしてみますと「 また ところで、 この文章は、今まで読み進めてきた「こころの言葉 2020年6月」に善導大師の『散善義』からの引文で 至誠心、深心、回向発願心の三心の内、深信について述べられている中で、このような深信者こそ 真の仏弟子であると されているものを親鸞聖人が引文として掲載されているのです。したがって、 既に大信心の本釈で引文として載せているものを、再度追釈としてのこの文章で重ねて引文として、 ここに載せることを控えられたものと考えられます。 今、親鸞聖人が 真の仏弟子釈としてここで論じておられる際に親鸞聖人のおこゝろの中には、『散善義』の 真の仏弟子がはっきりとイメージされて いたのは間違いありません。筆者はこの『散善義』における「真の仏弟子」の 定義こそ、仏のはたらきに全てを委ねる絶対他力の大信心を具体的に顕す「真の仏弟子」 であると思うのです。 もうこれで「真の仏弟子」の全てを顕すものであると思うのです。 さて、親鸞聖人は『散善義』における真の仏弟子については、自らも、また教行信証を読み進めている私たちに おいてもよく承知しているという前提のもとに、ここで、あらためて真の仏弟子の「真」という意味から説いていかれます。 真とは偽に対し、仮に対する言葉であると説かれます。 まず真に対す偽の意味ですが、『聖典セミナー 教行信証 信の巻』の著者である梯実円師によれば、 真の仏弟子に対する偽の仏弟子というのは「外面は仏弟子のようなふりをしているが、内心は仏教以外の 宗教(外道・外教)を信奉しているような者をさしていました。 和讃の『愚禿悲嘆述懐』のなかに『五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり』 『かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす。』 といわれるものは、正しく偽の仏弟子を指弾された言葉といえましょう。」と言われています。まことに仏教ではない 陰陽道の吉日とか易道の卜占など仏教以外の現世利益を仏弟子と称する僧侶が行なうのも偽の仏弟子の行為と いうことになるでしょう。 次に仮の仏弟子とはどのような仏弟子でしょうか。同じく梯師は「聖道門と、浄土門内の方便である要門と真門が それです。したがって、仮の仏弟子とは、そのような権仮(権も仮も同じ仮という意味。 方便という意味。)の教えを真実であると執着して、真実の教えにまだ気づいて いない行者のことです。後に「仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり」 といわれたものがそれです。 」と述べておられます。ここで要門とか真門というのは真宗では、浄土の法門に真実・方便の二つを分け、 真実は第十八願の絶対他力の念仏であるのに対し、その方便には要門・真門の二つを立て、要門は第十九願の諸行、 真門は第二十願の自力の念仏によって浄土に往生しようとするものです。 このように真の仏弟子に対して偽と仮の仏弟子とは如何なるものかを論じられた親鸞聖人は、弟子とは、私たち 衆生に先立って弥陀の本願を讃歎されたのが娑婆に生まれた釈尊と十方世界の諸仏であるわけですから、 私たち衆生の中の真実信心の人は釈迦と諸仏の弟子であるということです。そうしてこのような人は、上記の『散善義』 でいわれているように弥陀の本願にすべてをゆだねる絶対他力の人ですから、親鸞聖人はこれを「金剛心の行人であり、 この信心と称名によって、かならず大涅槃を超証することができるので、これを真の仏弟子というのだ。」 といわれて います。 次に親鸞聖人は『大経』や『如来会』の経文道綽や善導その他の釈文を引文することによって真の仏弟子であれば どのような功徳があるか、どのようなはたらきがこの娑婆においてなされるかなどを示されます。 その様子は表示の読下し古文、および現代意訳によってお読み頂けばいいわけですが、ここでは、その主なものに ついて筆者の私見を述べてみたいと思います。 先ず【85】においては四十八願中第三十三願(触光柔軟の願)および第三十四願(聞名得忍の願) また、【86】においては、『無量寿如来会 上』の同じく『無量寿経』の第三十三願に相当する「身心安楽の願」に よって衆生が真の仏弟子であることの要件が固められ また【87】~【91】では『無量寿経』、『無量寿如来会』、『観経』などから、他力による金剛心の行人、すなわち 真の仏弟子を『大経』をはじめとする経文が讃歎していることが述べられています。 さらに【92】においては道綽の『安楽集』からの引文では、真実の他力の金剛心を備えた仏弟子の有りようや、 どのような状態においても仏弟子として常に如来大悲に摂取されているありさまが縷々(るゝ)のべられています。 一説によればこれら仏弟子であることの功徳やはたらきは本年1月の「こころの言葉」で読み進めさせて いただいた 真実信心の衆生に与えられる「現生十種の益」そのものであるといわれています。これら「現生十種の益」 をもう一度以下に挙げますと、 『<金剛の真心を獲得すれば現生に十種の益(やく)が顕れること> このように金剛の真実心を獲得すれば、たちまちにして、娑婆世界を超えて、必ず生きている間に十種の利益(りやく) を獲るのである。どのようなことをもって十種とするかといえば、 『一つには梵天・帝釈天・鬼神・閻魔王など眼に見えない諸天善神に護られること(冥衆護持の益(やく)。 二つには南無阿弥陀仏に込められた無限の徳が身に具わること(至徳具足の益)。 三つには衆生が罪悪の身を転じて善を成就することができる利益(転悪成善の益)。 四つには釈尊や、釈尊と同じように大いなるいのちの真実の中で生きた仏がたに護られる利益(諸仏護念の益)。 五つには、上のような仏がたに、わたしたちとこころを同じにする友であると称賛される利益(諸仏称賛の益)。 六つには、常に阿弥陀仏(心光)に摂取され見守られているという利益(心光常護の益)。 七つには、心によろこびが充ち溢れる利益(心多歓喜の益)。 八つには、如来の御徳を体験して、この御恩に報いる利益(知恩報徳の益)。 九つには、常の行動が自分のためだけの私が、他者と共に信心をよろこび往生浄土を願い働きかけることができる利益(常行大悲の益)。 十には、常に如来の大悲に摂取された身であるという不退の正定聚に入る利益(正定聚の益)。 以上の十種の利益が信心の衆生に満たされる。 』 これが真実信心の衆生に生きて与えられる十種の益ですが、これは真実信心の金剛不壊の信心の人は当然 真の仏弟子でしょうから、生きている今、現生において与えられる無上の益です。これ以上のすばらしい ことはありません。 以上、さらにその具体的姿としての真の仏弟子のありようは、この「現生十種の益」も念頭におきながら 上記「読下し古文 」、「現代意訳」によってお確かめください。今月はこれぐらいにして、 以降の引文については【103】の真の仏弟子の弥勒等同の引文に到るまで 来月に読み進めていきたいとと思います。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文35
「はじめに」 法然・親鸞浄土教の根幹である第十八願の至心・信楽・欲生の三心について、これを信心の一心に究められた親鸞聖人は、あらためて大信心を重ねて「横超断四流」において讃歎し論じられたわけですが、先月からは、これに続くものとして「真の仏弟子」とは如何なるものかということを論じられ、そのあと、それを証する多くの経釈を引文として引かれています。ただここで引文が単に親鸞聖人の論述を証するものとしてのみ捉えられがちですが、私(筆者)は、親鸞聖人が挙げられている引文の意味は、それだけでなく、それによって思い浮かぶ経・論・釈の様々な要文をここに挙げることによって単に自らの論述の証明だけでなく、それによって大信心の世界を、さらに讃歎し、深める役割を詠っておられるように思います。そのような意味で私(筆者)も現代人の立場から、これらの引文を味わい、楽しませていただきたいと思っています。 さて今月は先月の道綽禅師の『安楽集』からの引文につづいて、その弟子である善導大師からの引文を読むことによって、「真の仏弟子」の有りようを聞かせて頂きたいと思います。たゞ、「真の仏弟子」についての引文は、今月でも終りません。親鸞聖人は「真の仏弟子」については、自身は、はたして「真の仏弟子」に値するかという深刻な思いも込めて、このような多くの引文の展開になったものと思われます。 なお、今まで、【読下し古文】の中の、ふりがな等と一緒に[1]とか[2]とか・・・の番号をつけていましたが、これは【語釈】番号であって、【読下し古文】の最後に、同じ番号について、その番号の語句の【語釈】を掲載しています。今月から、この本文中の青色にマークされた番号をクリック(またはタップ)していただきますと、その番号に相当する【語釈】が一番上の行に表示されます。またそれぞれの末尾の(元に帰る)をクリックしていただきますと、また元の文章の行に返るように設定しました。古文中の語句についての【語釈】が見やすくなっています。ご活用いただければ幸いです。 |
| 【読下し古文】
【93】 |
| 現代意訳】 【93】 光明寺の和尚である善導大師が、その著『般舟讃』でいわれるには、「たゞ、残念なことに、衆生が疑うべくもないことを疑うことである。浄土は、往生を願う人を、なんら拒むところなく、全てを受け入れてくださるところだ。阿弥陀仏が摂取してくださるか、して下さらないかを論ずることはない。たゞ専(もっぱ)ら私たち衆生がこの世がすべての思いをひるがえして他力に帰するか、帰さないかにかかっている(中略)。だから、このようにいうこともできる。今から仏のさとりに到るまで、長く仏を讃(たゝ)えて、その恩徳に報ずべきだと。弥陀の衆生救済の大慈悲力を蒙(こうむ)らなかったら、いつまでたっても生死出づべき道にすすむことはできないだろうと(中略)。ところで、如何にして今この瞬間に、すばらしい浄土(宝国)への往生を果たすことを期待できるのかといえば、これはひとえに、この世に降臨された釈尊その人の力である。もし釈尊の『大無量寿経』における勧めがなかったら、弥陀の浄土に如何にして入れようぞ。」と。 【94】 善導著『往生礼賛』にいわれている。「釈尊が生きておられる世(仏世)にたまたま出遇うことはめったにない。信心の智慧(信慧)に恵まれることも、まことに少ない(あること難(かた)し)。たまたま稀有の仏法を聞くこと、これまた最も難しい。自ら信じ これを人に伝えて信ぜしむることは、まったく想像をこえて、困難なことである。しかし仏の大悲をあまねく伝えて人々を教化(きょうげ)する、このことは、まことに仏恩に報ずることになる。 【95】 また『往生礼賛』にいわれている。「弥陀のお姿は黄金の山のようである。お顔から放たれる光明はあまねく世界を照らす。そして念仏する者は、その光明に摂取される(蒙る)。まさに知るべきである、仏の本願の大慈悲こそ、 最も強力であることを。十方の如来は真実のことばで(舌を舒べて)証(あかし)される。何を証されるかといえば、ひたすら名号を称える者は真実の(西方の)浄土に往生することが出来、かの浄土の蓮の花の台座に座って 仏の直接の法を聞くことができ、仏になる直前の 菩薩の修行の成果が自然に明らかとなる。 【96】 また同じく善導の『観念法門』で云われている、「たゞ阿弥陀仏を専ら念ずる衆生のみが、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂取し護って(摂護(しょうご)お捨てにならない。すべて、専修念仏以外の雑行の行者を照らして摂取されるとはどこにも論じられていない。これもまた現生で専念の行者をいや増しにお護りくださる(現生護念増上縁)といわれる由縁である。 【97】 また『観経疏 序文義』で云われている。「<心歓喜得忍(しんかんぎとくにん)>という、これは阿弥陀仏国の清浄の光明が、たちまち眼の前に現れることであって、どうしてこれを踊躍(大いなる喜び)でないといえようか。この喜びによるが故に、すなわち、自らの因って立つところ、自己とは何ぞやということが仏の智慧によって知らされ、大いなるいのちのもと、永遠の生命に浴することができる(無生法忍)ようになることが明かされる。これを善導は、法を聞いて安心して喜ぶこゝろ(喜忍)、自分とは阿弥陀仏に摂取された存在であるということを悟ったこゝろ(悟忍)、全ては阿弥陀仏のはたらきによること(他力)を信ずるこゝろ(信忍)の三つに分け、三忍と名づける。これを一般論で大雑把に論じても、この三忍がどのようにして得られるかということは、はっきりしない。これを釈尊は韋提希夫人という一人の凡夫の心の変遷をもってはっきりと示された。すなわち釈尊の教えによる韋提希の深い内省によって顕れる(悟ることができる)ものである。このことは、十信という菩薩の修行の段階でもっとも悟りから遠い韋提希のような凡夫の中に現れる悟りへの道である。すなわち十信を超えた高位の菩薩の悟りへの道ではない。」と。 |
| 【HP作成者私考】 【はじめに】でも申し上げているように、先月以来親鸞聖人は「真の仏弟子」についての論述に対して経文、釈文から多くの文を引いて引文とされています。『教行信証』を読むとき、その文章構成は先ず親鸞聖人の重厚な自己の領解文(りょうげぶん)から始まり、そのあとに、その領解文の真実性を証する文章を経・論・釈の中から親鸞聖人が引文され、それによって、親鸞聖人の最初の領解文の宗教的真実性が証明され、その結果が私たちの胸に確実性をもって迫ってくるものと受取っていました。例えば、今回の「真の仏弟子」釈についても 最初に「<真の仏弟子>といふは真の言は偽に対し仮に対するなり。・・・」という親鸞聖人の領解文からはじまり、そしてその領解文のあとに、まず『大無量寿経・上』 の第三十三願から、そして、その次に第三十四願、さらには『無量寿如来会』から、さらにまた『大無量寿経』、『無量寿如来会』から、『観無量寿経』からと経文からの引文と続いた後、こんどは道綽の『安楽集』さらには善導の『般舟讃』や『往生礼賛』・・・と釈文からの引文が続きます。これらの引文を読むに ついて、私たちは、最初の親鸞聖人の「真の仏弟子」についての領解文の真実性を証するために、これら引文はあるものと思って読みますが、どうも全ての 引文に、はっきりと最初の領解文の意味を証する部分を見出しかねて、いたずらに神経を悩ませ、最後には『教行信証』とは、なんと退屈な本ではないかと、見当はずれの結論に 達してしまうというけしからぬ思いを持つことも、少なくとも私(筆者)の場合はありました。しかし、あらためて今、考えてみると、なるほど『大経』の四十八願からの引文には、たしかに、 最初の親鸞聖人の領解文の内容の根拠となり、親鸞聖人の領解文を証する要素をもった要文もありますが、すべてがそのような証明の要素をもった文章が引文として引用されているのでは なく、むしろもっと人間的な宗教的感動や同感の要素をもった文章を親鸞聖人は、その感動を紡ぐような気持で、そこに引文として引用されているのではないかと、強く思うところです。 『教行信証』は論理と証明のみの幾何学の教科書のではありません。親鸞聖人は、自らの宗教的領解を重厚で美しいともいえる文章であらわした後、その思いがほとばしるように 聖人自身が学んできた経・論・釈の中の要文を選び出して引用されているのが『教行信証』の引文のあり方であって、それを、最初の親鸞聖人の領解を証明するのは、何処だ、どこだと 引文の中を探し回って、直接の証はどこにも感じられないと悲嘆にくれたり、興味を失ったりするのは、まことに『教行信証』を読む読み方として間違っていることに 私(筆者)も、やっと気が付いた次第です。そのように引文自体が、親鸞聖人の宗教的感動の産物であり、証明証明と幾何学を説いているような読み方から離れると 、こゝろも安らかになり、なごやかになり、引文自体の宗教性を楽しむ余裕もでき、『教行信証』を読む興味も尽きないものになるのではないかと強く思うところです。 このような気持ちで私(筆者)自身も、今月の引文を読ませていただきたいと思っている次第です。 このように思って、まず今月の【93】の引文から読み始めたいと思います。 したがって、引文全体の意味するところは、上記の古文および現代文によって ご理解いただくことにして、ここでは、古文の中で現代文に訳し難かった部分とか、文章の中で筆者が、宗教的な深い意味合いに触れさせていただいたと 感じた部分について、述べさせていただきたいと思います。 【93】で、古文としての意味が受け取りにくかった部分は【93】二行目の「浄土対面してあひ忤(たが)はず、弥陀の摂と不摂とを論ずるところなかれ」というところです。 特に「対面して」ということばは、現代的には人と人とが対面するというような使い方しか筆者はしませんでしたから、これはちょっと実感的に受け取り 難かったのですが、「対面して」を目の当たりにしてというふうに、島根県温泉津の才市さんのように、念仏して目をつむれば浄土、目を明ければ娑婆といった ような、そういう浄土に出遇った経験、これを浄土に対面してというのだなと思うと、次の「あひ忤(たが)はず」はことばとしては今は、あまり使いませんが、調べれば 「さからわず」とか「拒絶せず」とかいう意味になるでしょうから、現代意訳に書いた如く「浄土は、往生を願う人を、なんら拒むことなく、全てを受け入れてくださるところだ。」 ということになります。 さて次に同じく3行目の「意(こゝろ)専心にして回(え)すると回せざるとにあり。」というところです。注釈書には「回する」は「自力の心を捨てて 他力に帰する」とあります。なぜ「他力に帰する」ことが「回(え)する」ことになるのか、ちょっとつながりがわかりにくいところです。しかし これは「回する」を「この世がすべて、この世のほかに真実は決して認めない」というような心から、「世間虚仮、唯仏是真」という聖徳太子のおこゝろのように 「この世、絶対」から「仏の浄土の世界もみとめる」というふうに、心をひるがえすことを「回する」というふうにとらえることが できるのではないでしょうか。そこにこのことばの宗教性がしっかりと浮き出してくるのではないでしょうか 。仏の浄土の世界が、この世のどこか遠い十万億土のかなたに、この世と同じように実在するということでは、もちろんありません。この世を超えた大いなるいのちとしての真実、このように浄土を捉えることが大切なのではないでしょうか。 【94】に移ります。最初の「仏世はなはだ値(もうあ)ひがたし」。これはそのとおりです。仏とは、この場合、釈尊でしょうから、生きた釈尊と同時代に生まれ、釈尊にめぐりあうことは、まことに難いことでしょう。なるほど、これはそのとおりです。しかし、その次はどうでしょう。「人、信慧あること難し。」 これは信心をもつこと、他力の立場から、そういって悪ければ、信心をいただくこと、つまり信心の人であることは、まことに難(むづかし)い。なるほどこれも、そのとおりですね。私たちは、自分は全て自分の力で生きていると思っています。いうなれば確固とした絶対として生きていると思っています。つまり、「この世、絶対」です。だから、今のいのち終れば全てが無になります。しかも永遠に。これは、まことに科学的にそのとおりでしょう。なぜなら、科学はこの世が絶対であるとするところから出発するのですから。だから無量寿だとか、永遠のいのちだとかいう仏のことは信じられない。そのとおりですね。「人、信慧あること難し」そのとおりです。しかし、よくよく考えてみると、自分の心臓は自分で心得て一回一回打たせているのでしょうか。息も入る息、出る息一回一回、意識してコントロールしているのでしょうか。それより何より、自分が生まれてくるのは、全て生まれる前から、自分が段取りして生まれて来たのでしょうか。そうではありません。ことほど左様に、私たちは、大きな因と縁のはたらき、いわば大いなるいのちに生かされ生きているのです。まさに仏のはたらき。私(筆者)はこれを信じます。いや信じないようしようとしても、信じざるを得ないのです。私は「信慧あること難し」という、善導のこの言葉に対して、このように答えたいと思います。 【95】次も『往生礼賛』からの引文です。「弥陀の身色(しんじき)は金山のごとし」。すなわち黄金の山のごとしとあります。これは喩えでしょう。しかし、喩えとしては現代では小さすぎます。宇宙のかなた138億光年の先まで現代人は科学的に観測しているのです。弥陀の身色は無限です。鎌倉時代でも、親鸞聖人は、「この如来、微塵世界に満ち満ちたまヘり」といわれたのです。現代の都会では見られませんが、あの夜空いっぱいに微塵のようにちりばめられた星々を見てください。その微塵のような星々の世界に如来は充ちみちているのです。このことを考えると弥陀の光明は単にこの小さな地球のみ当たっているのではないのです。そうなると「弥陀の身色(しんじき)は金山のごとし」はいささか規模が小さいのではないですか。このあとの「相好の光明は十方を照らす。そのとおり。これは微塵世界に満ち満ちたまへりと同じです。 次は「舌を舒(の)べて証(しょう)したまふ。もっぱら名号を称して西方に至る」です。「舌を舒(の)べる」とは仏が真実を語るということでしょう。経典で仏の舌は長いといわれ、「仏は長い舌を使って真実を語る」と受取るべきでしょう。次に「西方に至る」というのは、浄土教では西の方、夕暮れの落日の方向を浄土に喩え、西方十万億土といった伝統的な浄土教の表現を善導がここで採ったということでしょう。もちろん西方十万億土に、この世と同じような世界があるということでは決してありません。すべて宗教的世界の問題、すなわち他力の「信」の問題です 【96】ここでは「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて世の雑業の行者を照らし摂(おさ)むと論ぜず。」の部分です。これは仏心の光、すなわち仏の光明は専修念仏者のみを照らして、その他の雑行を修する行者は照らさないということです。なんだか専修念仏者の我田引水のように聞こえなくもありません。しかし、この場合、これはそうではなくて、専修念仏者は他力の信に生きて弥陀一仏を信じる人であり、余の雑業の行者とは、他力を信ぜず、自らの、この世の力で浄土往生を遂げようとする人でありますから、この世の力は、この世を超えた仏の世界には通じず、やはり仏の世界に生きる、すなわち絶対他力の世界に生きる人に仏心の光が届くということは当然のことであって、これは決して専修念仏者の功徳のみを強調する我田引水の言葉ではないことが分かります。 今月の最後は【97】の『観経疏 序文義』からの引文です。ここでは「無生の忍」についての論述が述べられています。「無生忍」とはどういうことでしょうか。「無生」とは、人間にとって、生きていない、生まれていない、ということでしょうから、「無生の忍」とは因と縁を超えたさとりとも言えます。「忍」ということは「さとり」と受取ってよいでしょう。因と縁の結果、すなわち因果を超えるということは因果の根源、すなわち仏のことを指すわけでしょうから、「無生忍」とは、生死出づべき道をさとるということになります。法然聖人が「生けらば念仏の功積り、死なば浄土にまいりなむ。とてもかくても、この世には想いわずらうことぞなき。」といわれています。このことは生きれば如何に生きるかの見極めがつき、死ねば無量寿仏のもと、すなわち時を超えた永遠の生命のもとに還る。まさにこのことを云っているものだと思います。また、喜忍、悟忍、信忍の三忍は、上記の「無生法忍」をこのように分けたものと考えられますから。阿闍世の暴虐に悩む韋提希夫人も観無量寿経において、釈尊からこの無生法忍のさとりを与えられ、生死出づべき道の心眼を与えられて救われたということもこの【97】の引文の内容だと思います。 以上、今月は親鸞聖人が引用されている引文の読み方について筆者の考えを述べました。またその考えに基づいて、引文の一つ一つの中に書かれている要文について宗教的観点から取り上げてみたい部分をピックアップして述べてみました。筆者は今後もこのような見方で引文を読んでいきたいと思っています。このようにして筆者自身も『教行信証』の大部分を占め<る引文についての、その読み方に一つの光明を見出しましたので、今後の読みに余裕をもった楽しみを以て読み続けていきたいと思います。 今月は以上のように学ばせていただきました。 |
●今月の言葉(2022年9月)
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【読下し古文】 【98】 またいはく( |
| 【現代意訳】 【98】 また『観経』の流通分に「若念仏者当ㇾ知此人是人中分陀利華、観世音菩薩、大勢至菩薩為ニ其勝友一当下坐ニ道場一生中諸仏家上 (若し念仏者がいるなら、まことにその人は、白蓮華のような人であって観世音菩薩や大勢至菩薩がその人の勝れた友となり、仏の家に生まれ、まさにその勝れた友と共に、その修行の道場(すなわち浄土)に坐すべき人である)」とある。 その「若念仏者」~「生諸仏家」に至ることばこそ、まさしく念仏三昧の功徳は、すべてを超絶しており、雑善などの行とは比べるべきもないほど勝れていることを顕しているのである。そうして、このような念仏者の在り方に五つの有りようがあることを説いている。 一つには、これら念仏者は何を置いても弥陀仏の名を専ら念ずるのであること。 二つには、このように念仏する人を諸仏は称讃するということ。 三つには、このように絶えず称名念仏する人は、まことにこの世に稀なる人とされる。そしてこのような衆生は、比べるべきものすらないほど、すばらしい人であるから、蓮の花の中でも最も高貴な白蓮華に喩えられる。分陀利華というのは、華の中でも勝れた華というように、このような人は人々の中でも勝れた人ということである。また稀なる華に喩えられるように人々の中でも稀に勝れた人ということができる。また人の中でも最高の、妙なる人とも名づけられる。また千の白蓮華を束ねたともいえる妙なる好(よ)き人である。すなわち人々の中の好(よ)き人であり、妙好人である。 四つには弥陀の御名を専ら念ずれば観音・勢至の常に傍にいて親友のように、善知識のよう影の形に添う如く護ってくださる。 五つには生きている今、すでにこのような利益を得るのに加えて、いのち終っても、生きていたそれまでと同じように弥陀に摂取されて諸仏の家にいるようなものである。すなわちこの家とは浄土のことである。この浄土に至って常に法そのものとなり、仏を讃歎供養することができ、このようにして成仏の因縁が円やかに結実し仏となる事が遠い先のことではないことが明かされる。 【99】 中国宋代の浄土教者の王日休(1105-1173)が『龍舒浄土文』で云っている。「私(王日休)が聞くところでは<衆生あって、この阿弥陀仏の名号である南無阿弥陀仏を信じ称名することによって喜びが溢れたまさにその時、浄土に生まれたいと願えば即時に浄土に往生することができ、もう決して退かない位となる。>とある。不退転ということは梵語では阿毗跋致(あゆいおっち)のことである。『法華経』には<弥勒菩薩が、その長い修行によって報われた位である。>といわれている。念仏者は時到って横超(即時)に往生する、これは長い修行の結果仏となる弥勒菩薩と同じである。仏のことばは真実であって、この『大無量寿経』の説くところは、まことに往生に至る近道であって、死後が虚無ではないことがわかる不思議な有りようを示すものである。皆が皆、信じ領受すべきものである。 【100】 『大経 下』にいわれている。「釈尊が弥勒にお告げになった。<この世界から六十七億の不退転の菩薩がいて、彼の国に往生するだろう。一人一人の菩薩は既に今まで念仏によって、結果として無数の仏を供養しているからである、これらの菩薩は弥勒よ、そなたと同じである>と。 【101】 また『無量寿如来会 下』にいわれている。「釈尊が弥勒に告げられた。<この世界の中で七十二億の菩薩がいて、かれは、まさに無数の仏たちのところで、数限りない念仏の功徳を領受して不退転の位に登っている。これらは皆、阿弥陀仏の浄土に生まれるだろう。>と。 【102】律宗の用欽が云っている。「教えの深さにおいて『華厳経』の説くところ、また『法華経』の説くところに如(し)くもの(それ以上のもの)はないという。しかしそれでもなお、その教えが普(あまね)くいきわたって、 その教えが実現するわけではない。となると、念仏の教えは衆生がこの世で生きているうちに、あまねく弥勒と同じになれるという、このことは、まことに、云うに云えない不思議なことである」と。 |
| 【HP作成者私考】 今月も先ず【98】で真実の念仏の衆生を浄土に咲くという最も高貴な白蓮華にたとえ、人の中でも最高の妙なる人として「妙好人」と名づけ、この世のいのち終れば真っ先に浄土に往生する人として 讃え、このような人々を真の仏弟子と示唆しています。 更に【99】では『龍舒浄土文』の記録にある中国宋代の浄土教の信奉者「王日休」の文を引いて、真実信心の念仏者を、五十六億七千万年後にこの世に顕れて釈尊のあとを継ぐ弥勒菩薩にたとえ、 「真の仏弟子」のイメージに重ねています。【100】から【102】においても、真の仏弟子としての念仏者は現生において信心が定まった時に正定聚として、いのち終ったその瞬間に浄土に往生し仏となる存在であることを 南無不可思議光として讃えています。すなわち、【102】において、中国律宗の用欽師は「仏教の極致のさとりは華厳や法華の教えに如(し)くはないといわれている。たゞ、これらの教えによってさとりにいたる人は厳しい修行を経たごく一部の人であって、普(あまね)くとはいえない。ところが浄土念仏の教えは、それを行ずる普(あまね)くの人々に 仏教の極致を与える者であって不可思議の功徳の利益(りやく)としかいいようがない。」と云っています。親鸞聖人も、このことを如来の本願に基づいて、ここに引文されているわけですが、これは、とりもなおさず『正信偈』の劈頭において 「帰命無量壽如来 南無不可思議光」と表現されている、ずばりそのことであるということができます。すなわち、親鸞浄土教のすべては「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」。 現代的に云えば「思議を超えた 宇宙の全ての根源である大いなる永遠のいのち無量寿如来に一体となります。」ということでしょうか。 そしてこのことが何故仏教の救いの極致であるということになるのでしょうか。これはとりもなおさず、この大いなる根源のいのちと一体になるということ自体が私達衆生にとって無上で最高の救いであるということではないでしょうか。このような意味で讃歎された上で親鸞聖人は次回の【103】において、親鸞浄土教の大きな柱ともいえる信心の根底を明らかにされます。 今月はここで終わります。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文37
「はじめに」 今月は、いよいよ「真の仏弟子」についての親鸞聖人の結論的メッセージを先ず掲載しています。そのあと、更に「真の仏弟子」を讃歎した引文が二つほど続いて、信巻における「真の仏弟子」釈は終ります。今月は、引文ではなくまず親鸞聖人の「真の仏弟子」とはいかなる存在かを示すメッセージから始まります。 |
| 【読下し古文】
【103】 まことに
【104】 禅宗の智覚、念仏の行者を讃めていはく(楽邦文類)、「奇なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。 |
| 【現代意訳】 【103】 まことに知ることができた。弥勒菩薩は衆生界にあって、仏に次ぐ等覚という不滅の心を究めることができたので五十六億七千万年後の暁に仏の悟りを得てこの世にあらわれ龍華樹という木の下で三回の説法をするといわれている。 ところが念仏の衆生はこの世を超えた如来回向の金剛心を獲ることができる故に、いのち終るその瞬間にこの仏のさとりである無上覚を得ることができる。それ故に他力の念仏者のことを弥勒と同じ(便同)というのである。 しかもこれだけでなく金剛心を獲るものは、とりもなおさず釈尊によって、生死とは何かということのさとりに導かれた韋提希夫人と等しく、他力の信(無生法忍)である、喜び(喜忍)と生死の真実を悟ること(悟忍)と、 それらの根本である仏力(たりき)を信じること(信忍)の三つ(三忍)を与えられる。そして、これらはすべて、仏のはたらきが、私たち衆生に迴向されるという、究極の、仏のまことの心に導かれるからであり、これこそ私たち衆生には思いはかることもできない法蔵菩薩の正覚成就による衆生救済の誓いの力によるが故である。 【104】中国の唐が滅亡した直後の時代を生きた禅宗の智覚が『楽邦文類』という書物で念仏の行者を讃(ほ)めていうには「まったく有りえないほど素晴らしいことだ。このように念仏の行者が、私たちの思いを超えた仏のはたらきによって、次々と生死の 迷いを離れることができるのは、古今を問わずいまだかって、なかったことだ。」 と。 【105】中国律宗の元照師が同じく『楽邦文類』で云っている。「経の教えを明らかにし、仏を観ずることにおいては、善知識の智顗(ちぎ)師に勝る者はあるまい。その智顗においてすら、いのち終る時に臨んでは『観経』の素晴らしさを仰ぎ、 浄土を讃歎して永遠の大いなるいのちに還った。また、華厳宗の第一祖である杜順も、存在の根源である真如の理法を究めつくしした人物である。彼もまた仏道の修行者に念仏の素晴らしさを感じて、これを勧め西方浄土に往生した。 また、禅の修行により自己の本性を究めた人々として中国は唐の時代の高玉や智覚が居た。皆、共々に集まって仏を念じて、ともに仏に近い人となり、浄土に往生した。儒学者で才能のある人としては劉(りゅう)・雷(らい)・柳子厚(りゅうしこう)・白楽天(はくらくてん)の右に出る者はいないが、 これらの人も皆、仏教の真実に気付き、それを文章にあらわして浄土に生まれたいと願った。(以上) |
| 【HP作成者私考】 七月以来、親鸞聖人は「真の仏弟子」とは、どのような存在であるかについて多くの引文を引くことによって論じてこられましたが今月は【103】において、いよいよご自身の、このことについてのお考えを示されることになりました。親鸞聖人はここでまず【99】の王日休の『龍舒浄土文』から「 すなわち、【103】において、まず「 まことに 更に、このあとの文章で「しかのみならず金剛心を 以上、親鸞聖人は上のような画期的な仏教を展開されたあとも、更に【104】の禅宗の智覚や、更には【105】の律宗の元照律師の他力念仏の行者に対する讃歎を載せておられます。これらは上記本文の「読下し古文」および「現代意訳」を お読みいただくとわかりますが、親鸞聖人が如何に「真の仏弟子」について強い求道の精神をお持ちであったかということを強く思うところです。 さて、最後の結論として、「真の仏弟子」とはどのような存在かを親鸞聖人のことばをたどって考えますと、それは結局【103】におけるように「絶対他力のはたらきによって横超の金剛心を得て、臨終一念の夕べに大般涅槃を超証する存在」ということに帰結するのではないかと、強く思うところです。 今月は以上で終わります。 |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文38
「はじめに」 先月まで親鸞聖人は「真の仏弟子」とはいかなる存在かを、まことに徹底して説かれました。そこで、「仏弟子」についての、親鸞聖人の思索はこれでひとまず終りかと思っていたら、さにあらず、今月から親鸞聖人は「真の仏弟子」に対する「仮の仏弟子」あるいは「偽の仏弟子」とはいかなる存在かを追及されます。実はこの方が「真の仏弟子」の探求よりも更に厳しく、親鸞聖人は自らの有りように対する慚愧もふくめて実例をあげて論及されます。その実例が『涅槃経』の中で語られている古代インドのマガダ国の王である阿闍世です。 今月は、この阿闍世が登場する前段です。先ず【106】における親鸞聖人の「仮の仏弟子」とは何かということからはじまり、さらに「偽の仏弟子」とはいかなる者かを例を挙げながら論じられます。さらに最後に親鸞聖人は上記の真、仮、偽の仏弟子の有りようから、日常の自己の仮とも偽ともとれる有りようを振り返って、正覚成就への道とは如何なることかということを模索し我々に示しておられるように思います。今月はこのように来月の阿闍世王の登場にしっかりと備えた部分を読み進めることになります。 |
| 【読下し古文】
【106】 【107】 ゆゑに 【108】 またいはく( 【109】 またいはく( 【110】 【111】 『 【112】 【113】 まことに知しんぬ、悲しきかな 【114】 それ仏、 [1] 機=教えを受ける人。(元に帰る) [2] 方便の仮門=真実の教えに導くための手立てとして仮に仏が設けられた法門。(元に帰る) [3] 漸教=煩悩を否定する苦しい修行を積み重ねて段々と長い間かかってさとりに至る教え。(元に帰る) [4] 六十二見、九十五種の邪道=仏教以外の外道の教え(見解・思想)を六十二に分けたものを六十二見といい、同じく仏教以外の外道の実践の道が九十五種あるというのが九十五種の邪道。 同じ外道であるのに六十二と九十五のように数が違っているのは、六十二見は見解・思想の違いの数。九十五種は思想や見解ではなく、実践の道程の違いが九十五種あるということ。(古文の元に帰る) (現代意訳の元に帰る) [5] 清閑(しょうげん)=浄らかで平安であること。(元に帰る) [6] 愛欲=愛憎にまつわる煩悩。(元に帰る) [7] 名利=人よりも勝れたいという思い。(元に帰る) [8] 定聚=正定聚。(元に帰る) [9] 真証の証=真実のさとり。(元に帰る) [10] 涅槃経=小乗の経典と大乗の経典の2種がある。今の場合は大乗の涅槃経を指す。(元に帰る) [11] 謗大乗=大乗経典を誹謗すること。(元に帰る) [12] 一闡提=仏法をそしり、成仏する因をもたない者。(元に帰る) [13] 瞻病=病人を看護すること。(元に帰る) [14] 随意の医薬=名医とその処方する薬。仏の本意に喩えたもの。(元に帰る) [15] 聞治=法を聞き、仏教上の病を治すこと。(元に帰る) [16] 阿耨多羅三藐三菩提心=仏のさとりの心。(元に帰る) |
| 【現代意訳】 【106】仮(け)の仏弟子というのは、すなわちこれ聖道門の人々であり、浄土門にあっては定善・散善を努める自力の人々のことである。
【107】そこで光明寺の善導大師が、その著『般舟讃』で「仏教には八万四千もの法門があり、これはまことに膨大な数である。これはまさしく衆生の資質が、さまざまに異なっているからである。」 といわれている。【108】また、法事讃下でいわれている。方便仮門の教えといわれるものはどれも同じような法門で、真実の法門への入り口にはなり得ても所詮真実の法門ではない点で異なることがない。 【109】また、般舟讃でもいわれている。「上のように多くの法門の間で、どれも異なることがない仮の法門を漸教と名付ける。万劫といわれる長い年月の間、苦行に苦行を重ねてさとりの境地に至ろうとする法門である」 と。 【110】 偽というのは、すなわち六十二の見解・九十五種の邪道がこれである。仏教以外の異なった教えやその修行方法に基づく邪道である。
【111】 『涅槃経』の「大衆所聞品」にいわれている。「釈尊は常に説かれた<一切の外道は九十五種あって、みな悪道に堕ちる。>」 と。【112】 光明寺の善導も『法事讃』でいっている。「九十五種の邪道はみな世を汚す。たゞ仏の一道のみが、独り浄らかで平安である。 【113】 まことに知ることができた。悲しいかな、この非僧非俗の愚かな親鸞は、染みついて離れない愛憎煩悩の底知れぬ海に沈没し、自らを人よりも勝れた者として見せたいという、
いつまでも消えず動かぬ山の如き名利の迷いに支配されて、 この上ない正定聚という存在をそれほど喜ばず、したがって命終後のまことのさとりの世界に近づくことを快く思えない人間である。仏道を生きる者として、まことに哀れで恥ずべきことであると。
【114】 ところで『涅槃経 現病品』で云われている。「迦葉よ、世の中に救われ難い三種類の人間がいて、その病いはまことに治しがたい。その内の一つは大乗の法を謗る者たち、二つには五逆罪を犯すもの、三つには全く仏法を受け入れない
者たちである。この三つの病いはまことに極重であって声聞や縁覚や菩薩にはこの病いは治しがたい。善良な男よ、たとえば、そのままでは治らず、必ず死んでしまう病いがあったとき、すぐれた看病人と適切な治療を施す医師と薬があるようなものである。
、このような看病人とすぐれた医薬がなければ、さだめて病いが治ることはないはずだ。まさに、この病人は必ず死んでしまうことは疑いがない。善良な男よ、先に挙げた謗大乗、五逆の徒、一闡提についても同じである。仏・菩薩の教えに従って
仏法を聞き信がかたまって初めて阿耨多羅三藐三菩提、すなわち真実の覚りが発(お)こるのだ。これに対して、声聞や縁覚や菩薩が法を説いても説かなくても、それによって真実の覚りにいたることはできないのだ。」 と。(以上) |
| 【HP作成者私考】 「真の仏弟子」とは如何なる存在かを述べられた親鸞聖人は、次に「仮の仏弟子」について簡潔明快に、それは天台、真言、奈良仏教等、いわゆる自力聖道門の人々と、浄土門にあっても、念仏以外に浄土往生を確実にするための自力作善の行に励んだり、念仏に集中するのだけれども念仏の回数を気にしたり、念仏を重ねることによって、この世で仏を見ようとしたりする散善、定善の行を営む人々、これらをまとめて「仮の仏弟子」とされます。たゞ、親鸞聖人は、これら「仮の仏弟子」とされる人々を見放されているのではなく、やがて、ひとえに弥陀の無限のはたらきを信じ念仏する専修念仏の道に導かれるための方便の法門であるとみなされています。このように聖人が受取っておられるのは、ご自身が比叡山における仏道修行の中で、第十九願があらわす散善、そして第二十願があらわす定善自力の行において、いずれも生死出づべき道を与えられず、懊悩の末に法然上人の膝下に馳せ参じることによって絶対他力の第十八願専修念仏の道を知らされた、いわゆる三願転入の経緯があったことが、この短い【106】の文章の中に込められています。そしてこの後の【107】~【109】においても、これら八万を超える方便の仮門である自力の仏教は、人々の資質が異なっているためのものであるがいずれも、真実の第十八願専修念仏の法門に導くための仮の門であることには変わりはなく、この仮の法門のみにとどまるようなことがあれば無限の時間の苦行の末、やっと仮の浄土に往生し、そこで、また長時の修行の結果、ようやく、その内の、ごく少数の者が真実の法門に到達できると受けっとっておられるのが親鸞聖人です。 次に【110】において「偽の仏弟子」について言及されますといいたいですが、ここでは、仏教以外の外道である六十二見・九十五種の邪道がこれであるといわれている以上これは「偽の思想としての仏道」を指しているのでしょう。それにもう一つ問題点もあります。ここで「偽」について言及されている「偽」ということは、果たして「仏道」を指しているのか。つまり、ここで「偽」といわれているのは「偽の仏道」の事なのかどうかということです。だから、今日では「偽」ということは「偽の宗教」というところまで広げて考えねばならないことでもありますが、しかし、ここではあまり間口を広げることなく「偽の仏道」ということにしましょう。これだけでもいろいろ申し上げることはあります。すなわち「偽の仏道」ということになりますと分類上「真の仏道」と「仮の仏道」以外の「仏道」ということになります。となるとどうなるでしょうか。例えば、この世の物質的幸せのための仏道、簡単な実例として「交通安全のためにお札を売りつけたり」、「試合に勝つためにお祈りを請け負ったり」すなわちこの世の吉凶を祈ったり、請け負ったりする仏教、すなわち、この世の物質的幸せのために役立とうとする仏教は、みな「偽の仏道」ということになります。仏道とは、もはや云えないかもしれません。それはともかく、ここに至って、かえって「真の仏道」ということはどのようなことかもはっきりしてきます。「真の仏道」というのは、ほかでもない、ここにこうして生きている自分とは何者かということです。いずれ死んでいく自分、たった一度の人生、この生死について、納得できる教え、ことばが足りないかもしれませんが、このことは今後も考え続けることとして、この「自らの生死に納得できる教え」というのが「真の仏道」ではないでしょうか。親鸞聖人もこの「生死出づべき教え」を法然上人のもとで与えられたのです。ですから「六十二見」「九十五種の邪道」という古代のインドであった教えの詳細はどうでもいいのです。ここで大切なのは、現代において「真の仏道」とは何かを模索することが大切なのではないでしょうか。 次に親鸞聖人は何故かここで、自らの有りようを振り返って、深い悲しみを吐露されます。【113】に突如として出てくる、いわゆる親鸞聖人の悲嘆述懐と云われる文章です。「まことに知しんぬ、悲しきかな この文章を読みますと、私(筆者)を振り返って、まことにこの通りで、本当になさけない自分を今さら振り返り、噛み締めることになります。たゞここで 「定聚の数に入ることを喜ばす」ということばの意味について、多くの解説書では、「既に定聚の仲間に入っている自分を喜ばず」というように解説されています。すなわち「既に金剛不壊の正定聚である自分を喜べない」という意味にとられていますが はたしてそうでしょうか。金剛不壊の信心を持てた正定聚の身なのですから、喜べないはずがないと思うのですが、どうでしょうか。たゞここで、喜べない瞬間があるとしたら、どのような瞬間だろうかと考えてしまいます。そこで思うのですが、これは親鸞聖人 のような正定聚の真っ只中にあると云われている人でも、ふとある瞬間に自らの死ということに不安がはしるということではないでしょうか。そうであって、はじめて正定聚の身でありながら、そのことが喜べない瞬間があるということです。それならば、この部分の 文章が素直に胸に入ってきます。そして、更にまた思いますのは、このようなことがたとえあるとしても、金剛不壊の信心が確定している正定聚の身であることが否定されるものではないということです。何故なら親鸞聖人も云われています。「そのような 正定聚の身でありながら喜ぶべきことを喜べない者をこそ救い上げてくださるのが弥陀の本願である」と歎異抄第九条で云われているからです。 【114】 ところで『涅槃経 現病品』で云われている。「迦葉よ、世の中に救われ難い三種類の人間がいて、その病いはまことに治しがたい。その内の一つは大乗の法を謗る者たち、二つには五逆罪を犯すもの、三つには全く仏法を受け入れない者たちである。この三つの病いはまことに極重であって声聞や縁覚や菩薩にはこの病いは治しがたい。善良な男よ、たとえば、そのままでは治らず、必ず死んでしまう病いがあったとき、すぐれた看病人と適切な治療を施す医師と薬があるようなものである。 、このような看病人とすぐれた医薬がなければ、さだめて病いが治ることはないはずだ。まさに、この病人は必ず死んでしまうことは疑いがない。善良な男よ、先に挙げた謗大乗、五逆の徒、一闡提についても同じである。仏・菩薩の教えに従って仏法を聞き信がかたまって初めて阿耨多羅三藐三菩提、すなわち真実の覚りが発(お)こるのだ。これに対して、声聞や縁覚や菩薩が法を説いても説かなくても、それによって真実の覚りにいたることはできないのだ。」 と。(以上) このようなことも背景に次回以降の信巻にでてくる、悪逆非道といわれ、救われ難いと思われる古代インドはマガダ国の王 「阿闍世」の問題に進んでいきます。皆さまとともに、この問題を読み進めていきたいと思います。 今月は以上で終わります |
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『顕浄土真実教行証』信文類本文39
「はじめに」 今月から、親鸞浄土教の骨子の一つともいえる悪人正機の問題として、古代インドはマガダ国の王、阿闍世の救い という長大な物語に入ります。 仏の力なくして、そのまゝでは悪にとらわれている人間、これは全ての人間が人間であるが故に持っている 病いであります。 『涅槃経』は、この病いそのものである人間を大乗の教えを謗る者、五逆の罪を行なう者、そして成仏の資質に恵まれ ない一闡提(いっせんだい)の三つに分けて、これら三種の病いをもつ人間は、いまだ、この世に足を執られている 声聞・縁覚・菩薩によっては救われない存在であることから語りはじめ、更に、これに続いて自らの悪業の結果、地獄に おちること必然であると恐怖する阿闍世王の長大な物語がここから始まります。これは一人阿闍世王の物語というだけ ではなく、三つの病いにとらえられた私たち衆生一人ひとりの問題でもあります。 さて、この親鸞浄土教の骨子を顕すこの物語は、これを一回の画面ページの物語として扱うにはあまり にも長大ですので、今月はその前半を読むことにいたしました。皆さまご自身のご査読を願うところです。 |
| 【読下し古文】
【114】 それ 仏、 【115】 またのたまはく( またひとりの またひとりの またひとりの また またひとりの (1)大臣、名づけて月称といふ (1)富蘭那と名づく (2)蔵徳 (2)末伽梨拘賖梨子と名づく (3) (3)刪闍耶毘羅胝子と名づく (4) (4)阿耆多翅舎欽婆羅と名づく (5)大臣、名づけて吉徳といふ (5)迦羅鳩駄迦旃延 (6)無所畏 (6)尼乾陀若提子と名づく
【語釈】 |
| 【現代意訳】 【114】 たとえば仏は、仏教で度し難い人間について『涅槃経』の(現病品)で云っておられる。「わが弟子迦葉よ、世の中に三人の度し難き人間がいる。一つには大乗の教えを謗る者、二つには五逆の罪を行うような者、三つには 仏教を謗り、仏に成るといったことに背を向ける人間たちである。このような三つの仏教上の病いはこの世における極めて重い病である。仏でない声聞・縁覚・菩薩には、とてもこの病いを治すことはできない。 善き男よ、 たとえば、 不治の病いがあるとき 善き看護人と医師、そしてどのように重い病いも治せるという薬があるときは治すことができる。、もしこれら上記のような看護人と医師そして薬がなければ、定めて病いを治すことができず、この人は必ず死んでしまうに違いない。この謗大乗・五逆・一闡提の三種の人も これと同じだ。仏の教えに遇い、それによって真実に聞き信じることができれば、仏のさとりにいたる菩提心が発(おこる)のである。 これは仏にのみできるのであって、声聞・縁覚・菩薩が懸命に法と説いても、また説かなくても、そのことによって、仏のさとりにいたる 心を、これら三種の人々に発(おこ)させることはできない。 【115】 また『涅槃経 梵行品』に云われている。「古代インドの都市王舎城に阿闍世という王が居た。 その性質は悪質で人を殺すことを何とも思わない人間だった。悪口、嘘偽り、二枚舌、それでいて 正義を装うかざりたてた言葉を使い、貪(むさぼ)り、怒り、無智そのもので、荒れ狂った男であった。 さらにまた彼の取り巻きによってこの世の様々な欲望に執着した結果、父の王を無謀にも殺害してしまった。 このことによって激しい後悔の念が生じた。その為にからだ全体にできものができ、その悪臭で 人が近づくこともできなかった。このようになって王は心の中で叫ぶに「私はまさにこの身に既に報いを受けている。 いのち終れば地獄の責め苦が待っているだろう」 と。この時、母の韋提希は見かねて種々の薬を、 できものに塗ったが、それは増々酷(ひど)くなることはあっても減ることはなかった。 王はそのとき母に云った。「このようなできものは私の心の汚(きたな)さからできるもので、自然にできるものでは ない。人々の中で、治すことができるというものがあっても、それは絶対むりである」 と。 その時、月称(げっしょう)という名の大臣が居て、王のところに来て、王の傍(そば)に立って申し上げた。 「大王さま、なぜそのように憔悴(しょうすい)しておられるのですか、お顔の色もすぐれません。お体の具合でも お悪いのですか。心配なことがおありなのですか」 と。 王は答えていうに「私は今、身体も心も、どうして痛まないでおられようか。私は罪もない父に無慚にも逆害を 加えて、殺してしまった。私はある物知りに聞いたところ「世に五人の地獄行きを免れない人間がいる。そのような人間 を五逆罪を犯した人間というのだ」 と。私はすでに無数の重い罪を犯してきた。どうして心身ともに痛まないで おれようか。またどんなに良い医者でも、私のこの身心の痛みを治すことはできまい。 大臣は大王に申し上げるに「そのように愁いてくるしむことはありません」。そうして詩の文句を説いて云うに <もし常に愁い苦しめば、愁いは増々大きくなります。 人が眠りを好めば、眠気は増々増えるようなものです。 淫らなことにいそしみ、酒をがぶがぶ飲めば 増々そのようなことをしたくなるようなものです。> 上のように世の中に五逆罪を犯して地獄行きを免れない五人の人間がいる、ということですが、だれか、これを実際に 見てきた人がいて、それを王に語る人間がいるのですか。いるはずがありません。世間には多くの物知りがいて、 王さまが申されるように王さまの痛みを治せる良医などはいないなどと いう人間もいます。しかし王さま、いま私は偉大な良医がいることを申し上げます。それは富蘭那(ふらんな) という先生です。世の中の一切を知り、自在の力を持ち、究極的な清浄なる行を修め、常に数限りない衆生の ために無上涅槃の道を説いています。すなわち、もろもろの弟子のために次のように法を説いています。 「悪い行ないというものは無いから、その報いもない。善い行いというものもないから、その報いもない。つまり 善し悪しの行ないというものは無いのだから、それに対する善し悪しの報いももないのだ。行いに善・悪というものは ないのだ」 と。 この先生はは今、王舎城の中にいます。どうか王さま、まげてこの先生のところに行って下さい。 この先生に王さまの心身の痛みを治してもらいましょう。 王は「明らかにこのような罪の痛みを滅除してくれるなら 私は、その先生に従おう」といった。 また名を蔵徳という一人の大臣が居た。王のところへ往ってこのように言った。「大王さま、どうして憔悴したお顔で、 唇も乾燥しお声も元気なくか細くなっておられますが、どうなさったのですか。どのような苦しみがあって身も心も 痛むのですか」 と。 王さまは答えて云うに「私の真心はどうして痛まずにおれようか。私は何も分かろうとせず智慧の目がなかった。 多くの悪友に交わり、提婆達多という悪人の云うことに従って正しく国を治めていた父の王を無慚にも殺害した。 私はかって昔、知恵ある人が詩で説いているのを聞いた。それは《もし父母、仏、および弟子に対して、善くない心を 発し、悪業を起こしたならば、この報いは阿鼻地獄行きである》というものだ。このことを聞いて、私は恐れおののき、 私の心に大きな苦しみと悩みが生じた。しかしこの苦しみを良医によって解いてもらうことは出来ないだろう。 大臣はまたいった。「まあまあ大王さま、どうか愁えたり怖れたりしないでください。 世の成立ちの法に二種類 あり ます。一つは出家の法であり、二つには王法です。王法というのは父の王を殺害してこそ、その国土の王の 資格が あるのです。これは逆罪であるというけれども、本当は罪ではないのです。これは迦羅羅虫という虫は母虫の 腹を 破って生まれてくるのです。生まれ方がこのようなありさまなので母の身を破るといっても実に罪ではないのです。 騾馬(らば)は子を孕んで生んだのちに直ぐ死ぬといわれているのも、この事と同じです。国を治める法も法として こうあるべきです。父や兄を殺しても事実として罪があるとはいえないのです。出家のありようは蚊や蟻をころしても 罪になります。ところで王さまは「世の中で私の苦しみを癒す良医はいないだろう」といわれましたが、いま偉大な 良医がいます。末伽梨拘賖梨子という名前の人です。一切を知り尽くして衆生になさけをかけること、赤子にたいす るようなありさまです。すでに煩悩を離れていて、よく衆生の貪・瞋・痴という三毒の鋭い刺(とげ)を抜いてくれます。 この先生は今、王舎城の街にいます。ですから願わくば大王さま、そこへ行かれてお会いになれば多くの罪は 皆、消滅するでしょう。 その時、王は答えて云く「あきらかによく私の罪を滅除してくれれば、私はまさにその人に従おう」 と。 また名を実徳という大臣がいた。王のところに来て、そこで詩の文句を説いて云った。「大王さま、どうして王さまとしての 服装も脱ぎ捨て、頭の御髪も乱れて、どうしてこのようなことになったのですか。お心を痛めておられるのですか、身を 痛めておられるのですか」 と。 王は答えて云うに《私は今、身心ともに痛まずにはおれようか。 私の父の先王は民を こよなく労わる慈愛に満ちて、片時もそれを忘れることがなかった。本当に落度もない父であったのに、あるとき占い師に 人相を見てもらったところ、「あなたさまにはもうすぐ王子がおうまれになりますが、この方は 必ず父のあなたを害することになるでしょう。」と言った。しかし父はこの言葉を聞いても、なお私を大事に育ててくれた 。ところで、昔、知恵あるものが、このようなことを云っているのを聞いた。「もし人が、その母と交わったり、 比丘尼(女性の僧)を犯したり、仏教教団の持ち物を盗んだり、無上の仏道を修めている人を殺したり、父を殺したりした りすれば、このような人は必ず無限の苦しみを受けるという阿鼻地獄に堕ちる」 と。私は今、どうして心身ともに苦しまない ではいられようか》 と。 大臣はまた云った。〈まあまあ、王さま、願わくば、もっとこころを大きくして、悩まないでください。一切の衆生にはみな 過去の業の報いがまだ表れていないものもあります。そのような業縁によって人はしばしば生き死にに影響をうけます。 先王にこのような過去の報いで、まだ顕れていなかったものが、この度、顕れて王さまがその命を奪うことになったとしても、 。王さまには何の罪もありません。だから王さま、心を大きくして愁苦なさらないでください。何故このように申し上げるかと 云えば、ある詩に《もし、常に苦しみ悩み続けると、 その愁いはますます増長します。 これは人が眠りを好めば、いくらでも眠り続けるようなものです。 性欲に溺れたり、酒を飲み続けるのと同じです。》 (中略) 刪闍耶毘羅胝子〉 また一人、悉知義という名の大臣がいた。王のところに来て、ひとこと尋ねた。 王は答えて〈私は今、心身共に痛みが ないなどと、どうして云えようか。 罪もない先王に私は横暴にも逆害を加え殺してしまった。私はまた以前、知恵ある人 が次のように説いているのを聞いた。《もし父を殺害するようなことがあれば、まさに、無限の時間にわたって大きな苦悩 を受けねばならない》 と。私はもうすぐ必ず地獄に堕ちるだろう。また、良医が、この私の罪を治して救ってくれることは 無いだろう〉 と。 〈まあまあ、願わくば王さま、思い悩んで苦しむのはやめてください。 王さまはお聞きになったことは ありませんか、昔、羅摩という名の王さまがいました。この王は、父を殺し終って、はじめて王位を継ぐことができました。 跋提大王(ばっだいだいおう)・毘楼真王(びるしんおう) ・那喉沙王(なごしゃおう)・迦帝迦王(かていかおう)・毘舎佉王(びしゃかおう)・月光明王・日光明王・ 愛王・持多人王(じたにんおう)、このような王さまは、みなその父を殺害して王位を継ぐことができた のです。けれども、この中の一人として地獄に堕ちた王はいません。いま現に、毘瑠璃王(びるりおう) ・優陀邪王(うだやおう)・悪性王(あくしょうおう)・鼠王(そおう)・蓮華王など、これらの王は皆、その父を 殺害しました。しかし、ことごとく一人として、そのことで愁い苦悩した王はありませんでした。地獄・ 餓鬼・天上界というけれども、誰かこのような所を見た者はあるのでしょうか。大王さま、この世の生命には二種類あります。 一つは人間の生き方、二つには畜生の生き方です。この二つ共に因縁で生き、因縁で死ぬのではありません。 因縁に因るのでなければどうしてそのことに善悪があるのでしょうか。ありません。願わくば大王さま、愁いや怖れを懐かないで ください。なぜそのように申し上げるかというとこの二つ共に因縁で生まれ、因縁で死ぬのではありません。因縁に因るのでなければどうして そのことに善悪があるのでしょうか。ありません。先ず願わくば大王さま愁いや怖れを懐かないで ください。なぜかというと、《もし常に愁い苦しめば、愁いはますます増長します。 人というものは眠りを好めば、何時も眠くなり、 淫楽や飲酒に耽るのも、また同じように増々耽ることになります。 (中略)今、阿耆多翅舎欽婆羅という人が居ます。(中略)。 また名前が吉徳という大臣がいて王に申し上げた。「地獄というのにはどのような意味があるのでしょうか。 大臣としてまさに申し上げます。地獄の地(ぢ)は土地という意味で、獄とは破壊するという意味です。 もし地獄を破壊しても別にそれに対する報いはありません。これを地獄と名付けるのです。また 地獄の地(じ)は人のことで、獄は神々が居る天上界のことです。父を殺害することによって人間や 天上界に生まれます。この意味で婆蘇仙人(ばそせんにん)は次のように云っています。《羊を 殺して人間や天上界の安泰を得るのです。これを地獄と名付けるのです。また、地獄の地(じ)は 命(いのち)のことで、獄は長いということに名づけます。殺生をすると寿命が長くなるのです。 これを地獄と名付けるのです。大王さま、この故にまさにお知りになります。実際には地獄というのは 無いのです。大王さま麦は種(う)えて麦を得、稲を種(う)えて稲を得るようなものです。地獄を殺せば また地獄が生まれ、人を殺せば、また人が生まれます。》 大王さま、今まさに、臣である吉徳の説くところ をお聴きいただけば実に殺害というのは無いのです。もし上記のように地獄を殺せば地獄が生まれ 人を殺せば人が生まれるというように不滅の実体(有我)というものがあれば、まったく実体に変化はないの です。常住なのですから殺害ということは成立ちません壊そうとしても壊せず、縛ろうとしても縛れず、 瞋(いか)りも喜びもないということは丁度虚空のようなものです。どうして殺害の罪があるというのでしょう。 また、不滅の実体というものが無い(無我)ならば、これは無常ということですから、一瞬一瞬に壊れ 滅してしまいます。一瞬一瞬に滅するがゆえにどうして罪というものだけが残って有るということに なるのでしょうか。有るはずがありません。大王さま、火が木を焼くのに火に罪がないというように 斧が樹を切るのに斧に罪が無いようなものです。鎌が草を刈っても鎌に罪がないように、刀が人 を切って殺しても、刀は人ではありませんから刀には罪がありません。どうして刀を持っているだけ の人に罪がありましょうや。毒が人を殺しても、毒は人ではありませんから毒薬は罪人ではないような ものです。一切万物みなまたかくのごとく実に殺害というものがないわけですからどうして罪だけが あり得ましょうや。願わくば、大王さま、愁いて苦しまないでください。なぜかというと詩のことばにも あるように 《もし常に愁いて苦しむと愁いは増々増長します。 人が眠りを好めば、ますます、眠くなるようなものです。 淫乱に耽(ふけ)ったり、酒に溺れたりするのと同じです。》 いま偉大な先生がいます。迦羅鳩駄迦栴延といいます。」 またひとり無所畏という名の大臣がいた。〈いま偉大な先生がいます。尼乾陀若提子という名前です。(中略) そのときに優れた医者がいた。名前を耆婆という。王のところにきて、うやうやしく云った。〈大王さま、 安らかに眠れますか、どうですか〉 と。王は詩をもって答えて云った。 〈耆婆よ、今、私の病いは大変重い。 正しく国を治めていた父王を殺害するという悪逆を起こしてしまった。 一切の良医・優れた薬・呪術・行き届いた看病をもってしても治療することができない状態だ。 なぜかというと、わが父王は正しく国を治めていた。 まことに非の打ちどころがなかった。 その父に対して無謀にも殺害という逆害を加えてしまった。 今は魚が陸地に上がったように萎(しな)びて弱っている。 (中略) 私は以前、物知りが説いて云ったこと聞いた。 《身の行ない、口で云うこと、心で思うこと、 これが浄らかでなかったら、必ず地獄に堕ちる》 と。 私もまた、これと同じだ。どうして、これで 安らかに眠れようか。 そして、私には、また、これを治してくれる優れた医者はいない。 病いを治す 薬となる教えを説いてくれても、この私の病苦を除くことが出来ようか〉 と。 耆婆は答えて云った。「これはまことに善いことです。王さまは罪を犯したといっても、重い後悔の心が起こって 反省しておられます。大王さま、もろもろの仏さまたちは常に次のように 説いておられます。世に二つの善いことがあり、このことによってよく衆生は救われます。その内の 一つは慚であり、二つ目は愧であります。 慚はみずから罪を作らず、 愧は他人にこの事を教えて罪を作らせず、 慚はみずから、心に恥じ、 愧は、他の人に自らの罪を露(あらわ)に告白することです。 慚は人に対して羞(は)じ、 愧は点に対して羞じることです。 これを慚愧と名付けるのです。 無慚愧は人でなしです。だから畜生の行ないです。慚愧あるがゆえに、己に優った父母や師や年長者を敬う ことにもなります。また父母・兄弟・姉妹も成り立つのです。いま、王さまが強く慚愧の念を懐いて おられるのは実に善いことです。王さまは《この病いを治すものはないだろう》と云われますが、 王さま、まさにお知り下さい。迦毘羅城(かびらじょう)に浄飯王(じょうぼんおう)の子で、お名前は 瞿曇氏 悉達多(くどんし しだった=ゴータマ シッダールタ=釈迦)という方がいます。教えの師に 就かずして、自ずから目覚めて、大いなるさとりを開かれた方です。すなわち釈迦仏です。 一切の煩悩を打ち砕く金剛のように硬き智慧のある方で、よく衆生の一切の悪罪を破れさせること 、もしこれに値しないというならば、それはまったく処(ところ)を得ずというものです。(要するに一切 の悪罪を浄(きよ)める力があるということ)。大王さま、この瞿曇氏 悉達多(ゴータマ シッタルータ)、 すなわち真如より来られた如来である釈迦仏の従弟に提婆達多(だいばだった)という男が います。多くの僧伽(さんが=仏の教えを行ずる僧の集まり)を破壊し、釈迦仏に害を加えて出血 させ、このことを諫めた蓮華という名の比丘尼を殺害し、このように五逆罪の内の三つの逆罪まで 犯しました。しかし釈迦如来は種々の法を説いてその重罪を軽くしておやりになったのです。 この故に釈迦如来は偉大な良医なのです。今まで、いろいろ自説を説いてきた外道の六師などでは ないのです〉 と。(中略)<大王さま、一つの逆悪を犯せば、間違いなく、きっちりとそれに値する罪の報いを 受けます。二つの逆罪を犯せば、当然二倍の罪の報いを受けるでしょう。五逆を犯せば、きっちり五倍の 罪の報いを受けるでしょう。大王さま、いま間違いなく知ることになります。王さまの悪業はかならずその罪から 勉(まぬが)れることはできません。そこで大王さま、願わくば速やかに釈迦仏の所(みもと)に往きなさい。 世尊釈迦仏以外では他には王の苦悩を救うことはできません。私は今、あなたを気の毒に思い、救いたいと思うが 故に、このような道をお勧めするのです> と耆婆は申し上げた。その時に大王は、この言葉を聞き終わると、 心に大変な怖れを懐いて、身を捩(よじ)って戦慄し、五体が芭蕉の樹のように震えた。そして天を仰いで<天から 声が聞こえるが誰が云っているのか、姿は無く、たゞ声だけするのは> と云った。すると天からの声が云った。 <王よ私はそなたの父の頻婆娑羅である。汝は今、まさに耆婆のことばに随わねばならない。間違った見解の 六人の臣下の言(ことば)に随ってはならない> と。それを聞き終わって王は悶え苦しんで気絶してしまった。 身体にできたできものは劇的に増加して、悪臭は以前にもまして強くなった。そこで熱を冷やそうと薬を塗って できものを治療したけれども瘡は蒸せて、毒による熱は増すばかりで、下がることはなかった。」 と。 この区切りで六人の大臣の名と、その大臣が勧めた六師の名を対応して表すと。 (1) 月称という大臣は、 (1)六師の内、富蘭那を勧めた。 (2) 蔵徳という大臣は、 (2)六師の内、末伽梨拘賖梨子を勧めた。 (3) 実徳という大臣は、 (3)六師の内、刪闍耶毘羅胝子を勧めた。 (4) 悉知義という大臣は、(4) 六師の内、 阿耆多翅舎欽婆羅を勧めた。 (5) 吉徳という大臣は、 (5) 六師の内、 迦羅鳩駄迦旃延を勧めた。 (6) 無所畏という大臣は、 (6) 六師の内、 尼乾陀若提子を勧めた。 |
| 【HP作成者私考】 今月は随分長い【読下し古文】 と【現代意訳】になりました。【115】の阿闍世王をとりまく『涅槃経』の物語が長文だったためです。すなわち、自ら犯した父王殺害の罪の報いの地獄堕ちを恐怖して、 なんとかそれを免れることはできないかと模索するわけですが、その恐怖が身体にも顕れ、からだ中に できもの が出来て悪臭を発します。阿闍世王はなんとかこの地獄の報いから逃れたい、 なんとかこの状態を治す良医はいないものかと、家臣の大臣を次々と呼び寄せて、自分を地獄から抜け出せる道を聞き出そうとします。家臣は王さまに この時こそ認めてもらおうと、 それぞれが当時の名の有る6人の思想家(仏法以外の外道の思想家) の考えを紹介するとともに、それらの思想家に相談し治療をうけることを阿闍世王に勧めます。 そのありさまを語るために『涅槃経』のこの部分が、このような長文になるのですが、この長文全体の一々を説明することは省略します。何故かというと、この長文の【読下し古文】または【現代意訳】をお読み いただくとわかりますが、 どの大臣の解決法も、まったく人間性と宗教性を踏まえた解決法 として参考に値するものではないからです。『涅槃経』は仏教の立場から、この外道である六師の意見 が、阿闍世王の苦悩を解決するために、 ひどい的外れであることを強調するためにこのような表現しているのか と思うくらいです。以上がその一々のことばの解説はしなかった理由です。 たゞ、この長文の最後に外道の六師を紹介した大臣以外の、 耆婆(ぎば)という人物が登場し、阿闍世王に対して、遠慮なく、その 所業は悪業であったことを指摘し、その解決法を、こもごも述べた上で、釈尊こそ、阿闍世王の苦悩を救う ことが出来る唯一の人だと、 釈尊に会って、その教えを聴くことを勧めます。また、同時に天上から阿闍世王の父 で、阿闍世に殺された頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)の声が聞こえてきて、その声も、阿闍世が釈尊の教えを是非聴くことを親として命じます。 これは、それまでの大臣と違って、阿闍世の苦悩に対する救いへの大きな糸口となるのではないかという 気配がみてとれます。しかし、阿闍世はこの頻婆娑羅王のことばを聞き終って更におのれが罪に圧倒されて悶え苦しんで 地面に倒れこみます。病いの瘡(かさ)が体中を覆って、前にも増して強烈な悪臭を発します。以上のような経過をたどりますが、今月の阿闍世王の物語は、ここで一応切らせていただきます。 あまりにも長い凄惨な物語は、まずここまでを前半として切らせていただき、その間に、耆婆以外の大臣の勧める六師の解決法が如何に醜悪な非人間性をあからさまに顕すものであるかを皆様にお読みいただき、 吟味していただくことにし、更に釈尊は阿闍世に 対して、このあと、どのように対処されるのか、これを来月の【116】の読みに期待することとして今月の 読書会での読み進めはここまでといたします。 今月は以上で終わります。
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