仏教 こころの言葉

教行信証を読む

今月までのバックナンバー

今月の言葉(2026年1月)


『顕浄土真実教行証』行文類 本文29

はじめに

今回は前回のご自釈に始まる、われわれ衆生の目の前に展開する一乗海について、【83】に続いて【84】〜【86】に至る引文の読み進めです。どのような道筋が展開されるのでしょうか。皆様と共に読み進めていきたいと思います。

読み下し古文

【84】またのたまはく(涅槃経・師子吼品)、 ぜん男子なんし畢竟ひっきょう二種にしゅあり。
ひとつには荘厳しょうごん畢竟ひっきょうふたつには究竟くきょう畢竟ひっきょうなり。
ひとつには世間せけん畢竟ひっきょうふたつには出世間しゅっせけん畢竟ひっきょうなり。
荘厳しょうごん畢竟ひっきょうろく波羅蜜はらみつなり。
究竟くきょう畢竟ひっきょう一切いっさい衆生しゅじょうるところの 一乗いちじょうなり。
一乗いちじょうづけて仏性ぶっしょうとす。
このをもってのゆえに、われ 一切いっさい衆生しゅじょう 悉得しつう仏性ぶっしょうくなり。
一切いっさい衆生しゅじょう ことごとく一乗いちじょうあり。
無明むみょうおおへるをもってのゆえに、 ることをること あたはず、と。

【85】またのたまはく(同・師子吼品) いかんがいちとする。
一切いっさい衆生しゅじょうことごとく 一乗いちじょうなるがゆえに。
いかんが非一ひいちなる。
三乗さんじょうくがゆえに。
いかんが非一ひいち非非一ひひいちなる。
無数むしゅほうなるがゆえなり、と。(以上)

【86】「華厳経けごんきょう」(明難品みょうなんぼん晋訳しんやく)にのたまはく
文殊もんじゅほうはつねにしかなり。 法王ほうおうはただ一法いちほうなり。
一切いっさい無碍人むげにん一道いちどうより生死しょうじでたまへり。
一切いっさい諸仏しょぶつしん、 ただこれ一法身いちほっしんなり。
一心いっしん一智慧いちちえなり。 りき無畏むいもまたしかなり」 と。(以上)

現代意訳

【84】『涅槃経 師子吼品』で云われている。善良なるものよ、畢竟(さとり)に至る道は二種ある。
一つには荘厳畢竟(この世での修行によるさとり(菩薩の修行))、二つには究竟畢竟(たゞ如来のはたらきによって大般涅槃に至るさとりである。)
また、一つには世間畢竟、二つには出世間畢竟である。
具体例をあげれば荘厳畢竟には六波羅蜜などがある。すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧などの行である。
究竟畢竟は一切衆生が得るところの唯一真実の一乗の教えである。
一乗は仏性と名づけられる。故に一切衆生悉有仏性と説かれている。すべての衆生には仏性が具わっているのである。
しかし人は無明に覆われているが故に見ることができないのである。
【85】なぜ「一」と言うのか。全ての衆生に一乗(仏性)があるからである。
では、なぜ一でない場合があるのか。三乗を説くことがあるからである。
さらに、なぜ非一・非非一と言うのか。それは衆生の性質に応じて、八万四千といわれる数限りない経では一乗が説かれたり、あるいは一乗に至るための方便として三乗が説かれたりするからである。

【86】華厳経 明難品の晋時代の訳には「文殊の智慧の法ともいえる念仏の法は常にこのようである。人が救われるのは法王ともいわれるたゞ一つの教えによるものである。
一切の救われた人間というのは唯一の仏道によって生死の無明を超えることができたのだ。
一切の諸仏の身というのも、たゞこれ一つの法身である。
全てが一つの心であり、全てを見そなわす一つの智慧である。
だから、同様に、その能力も無限であり、恐れるべき何ものも無いのも同じ一乗であるからだ」と説かれている。

HP作成者感想

今回の引文も親鸞聖人のご自釈であるの【81】の一乗海釈について、古来から経文ではどのように説かれているかを示すための引文です。すなわち一乗海ということがらに対する詳述です。 書かれていることは多義にわたり、また一見難解そうな仏教用語もありますが、今回の古文と現代意訳をお読みいただけばお分かりいただけると思います。要するに我々無明の衆生が救われる道はただ一つ。 人生における千差万別、宇宙における千差万別、因縁における千差万別、したがって時間と空間における千差万別を超えた一つ。すなわち全ては宇宙の根底たる一つの大いなるいのちに今も生かされている。 そしてこの世のいのちが終われば、みなこの大いなるいのちと一体となる。生きても死んでも、この一つの大いなる事実以外に、この無明の私たちが救われる道は無いのではないでしょうか。 皆さまのご思索とご批判を待つところです。    以上、今回はこれで終わります。