今回は前回のご自釈に始まる、われわれ衆生の目の前に展開する一乗海について、【83】に続いて【84】〜【86】に至る引文の読み進めです。どのような道筋が展開されるのでしょうか。皆様と共に読み進めていきたいと思います。
【84】またのたまはく(涅槃経・師子吼品)、 善男子、
畢竟に二種あり。
一つには荘厳畢竟、
二つには究竟畢竟なり。
一つには世間畢竟、
二つには出世間畢竟なり。
荘厳畢竟は
六波羅蜜なり。
究竟畢竟は
一切衆生得るところの
一乗なり。
一乗は名づけて仏性とす。
この義をもってのゆえに、我
一切衆生
悉得仏性と説くなり。
一切衆生
ことごとく一乗あり。
無明覆へるをもってのゆえに、
見ることを得ること
能はず、と。
【85】またのたまはく(同・師子吼品) いかんが一とする。
一切衆生ことごとく
一乗なるがゆえに。
いかんが非一なる。
三乗を説くがゆえに。
いかんが非一・非非一なる。
無数の法なるがゆえなり、と。(以上)
【86】「華厳経」(明難品・晋訳)にのたまはく
「文殊の法はつねにしかなり。
法王はただ一法なり。
一切無碍人、
一道より生死を出でたまへり。
一切諸仏の身、
ただこれ一法身なり。
一心一智慧なり。
力・無畏もまたしかなり」 と。(以上)
【84】『涅槃経 師子吼品』で云われている。善良なるものよ、畢竟(さとり)に至る道は二種ある。
一つには荘厳畢竟(この世での修行によるさとり(菩薩の修行))、二つには究竟畢竟(たゞ如来のはたらきによって大般涅槃に至るさとりである。)
また、一つには世間畢竟、二つには出世間畢竟である。
具体例をあげれば荘厳畢竟には六波羅蜜などがある。すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧などの行である。
究竟畢竟は一切衆生が得るところの唯一真実の一乗の教えである。
一乗は仏性と名づけられる。故に一切衆生悉有仏性と説かれている。すべての衆生には仏性が具わっているのである。
しかし人は無明に覆われているが故に見ることができないのである。
【85】なぜ「一」と言うのか。全ての衆生に一乗(仏性)があるからである。
では、なぜ一でない場合があるのか。三乗を説くことがあるからである。
さらに、なぜ非一・非非一と言うのか。それは衆生の性質に応じて、八万四千といわれる数限りない経では一乗が説かれたり、あるいは一乗に至るための方便として三乗が説かれたりするからである。
【86】華厳経 明難品の晋時代の訳には「文殊の智慧の法ともいえる念仏の法は常にこのようである。人が救われるのは法王ともいわれるたゞ一つの教えによるものである。
一切の救われた人間というのは唯一の仏道によって生死の無明を超えることができたのだ。
一切の諸仏の身というのも、たゞこれ一つの法身である。
全てが一つの心であり、全てを見そなわす一つの智慧である。
だから、同様に、その能力も無限であり、恐れるべき何ものも無いのも同じ一乗であるからだ」と説かれている。
今回の引文も親鸞聖人のご自釈であるの【81】の一乗海釈について、古来から経文ではどのように説かれているかを示すための引文です。すなわち一乗海ということがらに対する詳述です。 書かれていることは多義にわたり、また一見難解そうな仏教用語もありますが、今回の古文と現代意訳をお読みいただけばお分かりいただけると思います。要するに我々無明の衆生が救われる道はただ一つ。 人生における千差万別、宇宙における千差万別、因縁における千差万別、したがって時間と空間における千差万別を超えた一つ。すなわち全ては宇宙の根底たる一つの大いなるいのちに今も生かされている。 そしてこの世のいのちが終われば、みなこの大いなるいのちと一体となる。生きても死んでも、この一つの大いなる事実以外に、この無明の私たちが救われる道は無いのではないでしょうか。 皆さまのご思索とご批判を待つところです。 以上、今回はこれで終わります。